残酷な行為を正当化する意見は残酷な衝動によって吹き込まれる

 残酷な行為を正当化する意見残酷な衝動によって吹き込まれる(引き起こされる),という主張(thesis 命題)を支持する事例を(さらに)たくさんあげることは容易であろう。現在では馬鹿げていると認識されている昔のいろいろな見解を再考してみると,十中八,九,それらが,苦しみを加えることを正当化するような見解であることがわかるであろう。たとえば,医療行為(診療行為)の例をとってみよう。
(注:安藤訳では medical practice を「医師の慣行」と訳している。これは「医師の行為」即ち,医療行為(診療行為)が適訳であろう)。
麻酔剤(anethetics)が発明された時,それは神の意向を妨害する試みなので邪悪である,と考えられた。また狂気悪魔がとりついたせいだと考えられ,狂人の心に住みついた悪魔は,狂人に苦痛を加えて悪魔の居心地を悪くさせることによって追い出すことができる,と信じられていた。このような見解が追求され,狂人たちは長い間引き続き(on end),組織的かつ’良心的な’残忍さをもって扱われたのである。誤った医学的治療(法)で,患者にとって不快であるよりむしろ快適だった,というような事例を,私は一つとして考えつくことができない。あるいはまた,道徳教育の例をとってみよう。次の詩によって,これまでどれだけ多くの残忍な行為が正当化されてきたかを考えてみよう。

犬や女房やクルミの樹は,
打てば打つほど良くなる

クルミの樹を鞭打つことによる道徳的効果について,私はまったく経験したことはない。しかし,文明人であるならば,この詩の妻に関するところを正当化する人は一人もいないであろう。罰による改善効果は,なかなか消えてなくならない信念であるが、その主な理由は,罰することがわれわれのサディズム的衝動を非常に満足させる,ということにある,と私は考える。

It would be easy to multiply instances in support of the thesis that opinions which justify cruelty are inspired by cruel impulses. When we pass in review the opinions of former times which are now recognized as absurd, it will be found that nine times out of ten they were such as to justify the infliction of suffering. Take, for instance, medical practice. When anesthetics were invented they were thought to be wicked as being an attempt to thwart God’s will. Insanity was thought to be due to diabolic possession, and it was believed that demons inhabiting a madman could be driven out by inflicting pain upon him, and so making them uncomfortable. In pursuit of this opinion, lunatics were treated for years on end with systematic and conscientious brutality. I cannot think of any instance of an erroneous medical treatment that was agreeable rather than disagreeable to the patient. Or again, take moral education. Consider how much brutality has been justified by the rhyme:

A dog, a wife, and a walnut tree,
The more you beat them the better they be.

I have no experience of the moral effect of flagellation on walnut trees, but no civilized person would now justify the rhyme as regards wives. The reformative effect of punishment is a belief that dies hard, chiefly I think, because it is so satisfying to our sadistic impulses.
出典:Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0861HARM-030.HTM

<寸言>
安倍一強を背景に,いかに多くの政治家や御用評論家等が自分たちが気に入らない多くの人々に迫害を行ってきたことか・・・。その心理や真理がラッセルの言葉でよくわかる。

悪しき情熱(自分が嫌いな人間や集団を迫害したいという衝動)

 人間が相互に加える害悪,そしてそれがはね返ることによって,自分自身に加える害悪の,主要な源泉は,思想あるいは信念にあるというよりは,むしろいろいろな悪しき情熱にある,と私は考える。しかし,害をなす(有害であるような)思想や原理は,常にではないが,概して,悪しき情熱の仮面(口実)である。端者たち公衆の面前で焼かれた(火あぶりの刑に処せられた)頃のリスボンでは,時々,異端者のうちで,特に人を啓発するような変説(異端信仰撤回)をしたものには,炎の中に入れられる前に絞め殺すという恩恵が認められる事態が起こった。しかしこのことは,観衆を非常に激怒させ,そのため当局者たちは,懺悔した者(異端者)に観衆が私刑(リンチ)を加えるのを妨止し,当局者側で(規定通りの)焚刑(ふんけい)をおこなうのに非常に苦労したのである。犠牲者がもだえ苦しむのを眺めることが,事実,民衆の主な楽しみの一つだったのであり,それによって,彼等はいくらか単調な暮らしを活気づけることを期待したのである。こういった楽しみが,異端者を焚殺の刑に処するのは正しい行為であるという一般的な信念に,多大の寄与をしたことを,私は疑うことができない。
同じようなことが,戦争についても当てはまる。精力にあふれた残忍な人々は,しばしば戦争を楽しめるものだと考える。ただし,それは,勝利した戦争であり,レイプ(婦女暴行)や掠奪にあまり邪魔が入らないという条件付きである。戦争は正しい(正義のためだ),ということを人々に納得させるに当って,このことは多大の助けとなっている。
『トム・ブラウンの学校時代』の主人公であり,(英国の)パブリック・スクールの改革者だと賞讃されたアーノルド博士は,少年(生徒)を鞭で打つ罰は誤まっているという意見を持つ変人(cranks)に出あうが,その意見に対して怒りを爆発させているアーノルド博士のことを読めば,誰もが,博士は鞭打ちの刑を楽しんでいたのであり,その楽しみを奪われたくないと考えていたのだ,と結論を下さざるえないであろう。
I think that the evils that men inflict on each other, and by reflection upon themselves, have their main source in evil passions rather than in ideas or beliefs. But ideas and principles that do harm are, as a rule, though not always, cloaks for evil passions. In Lisbon when heretics were publicly burnt, it sometimes happened that one of them, by a particularly edifying recantation, would be granted the boon of being strangled before being put into the flames. This would make the spectators so furious that the authorities had great difficulty in preventing them from lynching the penitent and burning him on their own account. The spectacle of the writhing torments of the victims was, in fact, one of the principal pleasures to which the populace looked forward to enliven a somewhat drab existence. I cannot doubt that this pleasure greatly contributed to the general belief that the burning of heretics was a righteous act. The same sort of thing applies to war. People who are vigorous and brutal often find war enjoyable, provided that it is a victorious war and that there is not too much interference with rape and plunder. This is a great help in persuading people that wars are righteous. Dr Arnold, the hero of Tom Brown’s Schooldays, and the admired reformer of Public Schools, came across some cranks who thought it a mistake to flog boys. Anyone reading his outburst of furious indignation against this opinion will be forced to the conclusion that he enjoyed inflicting floggings, and did not wish to be deprived of this pleasure.
出典:Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0861HARM-020.HTM

<寸言>
自分が嫌いな人間や集団を迫害したいという衝動。そういった悪しき衝動を権力者がもっていればどういうことになるか・・・。「権力者は腐敗する、絶対的権力者は絶対的に腐敗する」というアクトン卿の言葉は、今でも生きている。

人間(人類)の最悪の敵は今や(自然ではなく)人間(人類)

(種々の)人間の不幸(災い)は,二種類に分けることができるだろう。第一に,非人間的な環境によって被る不幸であり,第二には,他の人間によって被る不幸である。 人類は知識や技術においてこれまで進歩をとげてきているので,第二の種類の不幸は,不幸(災難)全体の中で占める割合(パーセンテージ)を,絶え間なく増大させるようになっている。
昔は,たとえば飢饉は自然のいろいろな原因によるものであり,それと闘うために人々は最善をつくしたが,多数の人々が飢えのために亡くなった。現在(も),世界の広大な地域が飢饉の恐れに直面しており,そのような状況は自然の諸原因によるところが大きいけれども,(飢饉の)主たる原因は人間的なものである。(過去)6年間にわたって,世界の文明諸国民は,みずからの最良のエネルギーをすべて相互殺戮に捧げた(注:第二次世界大戦のこと)。また,(現在)お互いに生かしあうことへ急に方向転換することは困難であると認めている。収穫をダメにし,農業機械類を取り壊し(注:兵器製造のための材料として?),船舶輸送の組織をこわしてしまった文明諸国民は,ある地域における農作物の不足を,他の地域における過剰作物によって救済する,ということがけっして容易でないことを認識(発見)している。もしも経済組織が,正常(通常)の機能を発揮しているとしたならば,そういった救済は容易にできたであろう。
この例が示すように,人間(人類)の最悪の敵は今や(自然ではなく)人間(人類)である。たしかに,自然は,我々人間を今なお死すべき存在としている(遅から早かれ死ななければならない)。しかし,医学の進歩とともに,我々人間が天寿をまっとうするまで生きることが,ますます普通であるようになるだろう。我々は,永遠に生きることを願い,天国の終わりのない喜び -(つまり)神の奇蹟によってその単調さがけっしてうんざりするものにまでならない喜び- を期待するものだ,と想定されている。しかし,実際,もはや若くない正直な人に質問すれば,誰もが,たいてい次のように答えそうである。(即ち,これまで)この世の生活を味わってきたたので,あの世で再び「新人(new boy)」として,生活を始めようとは思わない,と。従って,今後のことについては,(あの世のことではなく)人類が考慮すべきもっとも重大な害悪は,人類が自らの愚かさや悪意,あるいはその両方によって互いに他の上に生じさせる害悪であると,言ってよいであろう。

The misfortunes of human beings may be divided into two classes: First, those inflicted by the non-human environment and, second, those inflicted by other people. As mankind have progressed in knowledge and technique, the second class has become a continually increasing percentage of the total. In old times, famine, for example, was due to natural causes, and although people did their best to combat it, large numbers of them died of starvation. At the present moment large parts of the world are faced with the threat of famine, but although natural causes have contributed to the situation, the principal causes are human. For six years the civilized nations of the world devoted all their best energies to killing each other, and they find it difficult suddenly to switch over to keeping each other alive. Having destroyed harvests, dismantled agricultural machinery, and disorganized shipping, they find it no easy matter to relieve the shortage of crops in one place by means of a superabundance in another, as would easily be done if the economic system were in normal working order. As this illustration shows, it is now man that is man’s worst enemy. Nature, it is true, still sees to it that we are mortal, but with the progress in medicine it will become more and more common for people to live until they have had their fill of life. We are supposed to wish to live for ever and to look forward to the unending joys of heaven, of which, by miracle, the monotony will never grow stale. But in fact, if you question any candid person who is no longer young, he is very likely to tell you that, having tasted life in this world, he has no wish to begin again as a ‘new boy’ in another. For the future, therefore, it may be taken that much the most important evils that mankind have to consider are those which they inflict upon each other through stupidity or malevolence or both.
出典:Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0861HARM-010.HTM

<寸言>
自分や自分の家族を幸福にするよりも,自分が憎む敵(例:敵国)をこらしめたいという欲求の方が強い人間がけっこういる。群集心理の影響で、短期間であっても、多くの国民がそのように感じれば、戦争になってしまう危険性もある。

その気になれば創れる世界-阻むものは恐怖心と愛(情)の不足

【『ラッセル教育論』の最後の部分です。 全文訳(対訳)を閲覧したい方は,次のページを御覧ください。
http://russell-j.com/beginner/OE-CONT.HTM 】

 私はこれまで,現在私たちに開かれている素晴らしい可能性を,読者の前に提示しようと努めてきた。この可能性が何を意味するか,考えてみてほしい。健康,自由,幸福,親切,知性,これらが,ほぼ全て世界に行き渡っている(姿である)。もしも,その気があるならば,私たちは,この黄金時代を一世代のうちに生み出すこともできないわけではない。
しかし,これらはどれ一つとして,なしに生み出すことはできない。知識は,すでに存在している。愛が不足しているために,知識を適用(応用)することが妨げられているのである。
子供たちへの愛の不足を見るとき,私はときとして,ほとんど絶望を感じることがある。たとえば,現代のほぼすべての高名な道徳的指導者たちが,子供が性病をもった状態で生まれるのを防ぐために,何らかの手を打つことをしぶっているのを発見するような時である。それにもかかわらず,紛れもなく私たちの自然な衝動の一つである子供への愛情は,しだいに解放されつつある。長年の狂暴な時代が,普通の男女の気質の中にある生まれつきの優しさの上に覆いかぶさって,それを隠してきた(のである)。洗礼を受けていない幼児は地獄に落ちるということを教会が教えるのをやめたのは,ごく最近になってからのことである。
人間性の泉を枯らしてしまうもう一つの教義は,国家主義である。戦争中,私たちは,ほとんどすべてのドイツの子供たちをくる病(rickets)にかからせてしまった。私たちは,私たちが生まれつき持っている思いやり(人間的優しさ)を解放しなければならない。もしも,ある教義が子供たちに不幸をもたらすことを要求するならば,どれだけ大きな代価を払ったとしても(However dear it may be to us),そのような教義は拒否しよう。残酷な教義を説く心理的源泉(原因)は,ほとんどすべてと言ってよいほど,恐怖(心)である。幼年期の恐怖をなくしてあげることを私があれほど強調した理由の一つは,ここにある。我々の心の暗部に潜むいろいろな恐怖(心)を根絶しよう。
近代の教育によって開かれた幸福な世界(実現)の可能性は,いくらかの個人的な危険を犯すだけの価値は十分ある。たとえその危険が,いま以上に,もっと現実的であったとしてもである。
恐怖(心)や心理的抑制及び反逆的あるいは抑圧された本能から解放された若い人びとを創りあげたとき,私たちは,知識の世界を,自由に,完全に,暗い隠された片隅のない形で,彼らの前に開いてあげることができるだろう。そして,もし知育が賢明に与えられるならば,それは受け手にとって負担となるよりも,むしろ,喜びとなるだろう。
現在,専門職についている階層(階級)の子供が通常教えられている以上に授業の量を増やすことは,重要なことではない重要なのは,冒険と自由の精神, 即ち,発見の航海(旅)に乗り出しつつあるという感覚である。もし,正規の教育がこのような精神のもとに与えられるならば,ますます多くの知的な生徒は皆,正規教育(で足りないところ)をみずからの努力で補っていくだろう。それに対し,あらゆる機会を用意してあげなければならない。知識は,自然の力と破壊的な情熱の支配する帝国からの解放者である。知識なしには,我々が希望する世界を建設することはできない。恐怖(心)のない自由の中で教育された世代は,私たち(大人)には望めない,より幅広くかつ大胆な希望を持つことだろう。(それに対し)私たち(大人)は,意識下で我々を待ちうけているいろいろな迷信的な恐怖(心)といまだに闘わなければならない。私たちではなく,私たちが創りあげる自由な男女は,最初は希望として,そして,ついには輝きにみちた現実として,新しい世界を見るにちがいない。
道は,はっきりしている。我々は,その道をとろうとするほど十分に我が子を愛しているだろうか? それとも,我々が苦しんできたように,我が子も(親同様に)苦しませるのだろうか? 我々は,幼いころに,わが子をゆがめ,正気を失わせ,怖がらせ,後に,怯えきった彼らの知性では防ぐことのできない無益な戦争で,彼らを殺してしまうのだろうか? 古くからの無数の恐怖が,幸福と自由への道を遮断している。しかし,愛情は,恐怖(心)を克服できる。だから,もしも,わが子を愛しているのであれば,私たちが与えることのできる偉大な贈り物を,差し控えさせることができるものは何ひとつないはずである。

I have tried to bring before the reader the wonderful possibilities which are now open to us. Think what it would mean : health, freedom, happiness, kindness, intelligence, all nearly universal. In one generation. if we chose, we could bring the millennium.
But none of this can come about without love. The knowledge exists ; lack of love prevents it from being applied. Sometimes the lack of love towards children brings me near to despair–for example, when I find almost all our recognized moral leaders unwilling that anything should be done to prevent the birth of children with venereal disease. Nevertheless, there is a gradual liberation of love of children, which surely is one of our natural impulses. Ages of fierceness have overlaid what is naturally kindly in the dispositions of ordinary men and women. It is only lately that the Church has ceased to teach the damnation of unbaptized infants. Nationalism is another doctrine which dries up the springs of humanity ; during the war, we caused almost all German children to suffer from rickets. We must let loose our natural kindliness ; if a doctrine demands that we should inflict misery upon children, let us reject it, however dear it may be to us. In almost all cases, the psychological source of cruel doctrines is fear ; that is one reason why I have laid so much stress upon the elimination of fear in childhood. Let us root out the fears that lurk in the dark places of our own minds. The possibilities of a happy world that are opened up by modern education make it well worth while to run some personal risk, even if the risk were more real than it is.
When we have created young people freed from fear and inhibitions and rebellious or thwarted instincts, we shall be able to open to them the world of knowledge, freely and completely, without dark hidden corners ; and if instruction is wisely given, it will be a joy rather than a task to those who receive it. It is not important to increase the amount of what is learnt above that now usually taught to the children of the professional classes. What is important is the spirit of adventure and liberty, the sense of setting out upon a voyage of discovery. If formal education is given in this spirit, all the more intelligent pupils will supplement it by their own efforts, for which every opportunity should be provided. Knowledge is the liberator from the empire of natural forces and destructive passions ; without knowledge, the world of our hopes cannot be built. A generation educated in fearless freedom will have wider and bolder hopes than possible to us, who still have to struggle with superstitious fears that lie in wait for us below the level of consciousness. Not we, but the free men and women whom we shall create, must see the new world, first in their hopes, and then at last in the full splendour of reality.
The way is clear. Do we love our children enough to take it ? Or shall we let them suffer as we have suffered ? Shall we let them be twisted and stunted and terrified in youth, to be killed afterwards in futile wars which their intelligence was too cowed to prevent ? A thousand ancient fears obstruct the road to happiness and freedom. But love can conquer fear, and if we love our children nothing can make us withhold the great gift which it is in our power to bestow.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE19-020.HTM

<寸言>
ラッセルには『教育論』(1926年)執筆時に子供が二人(長男と長女)いた。そうして,近くに良い幼児学校がなかったために、妻ドーラとともに、幼児学校 Beacon Hill School を設立し,本書で書かれている考え方をもとに,幼児教育に乗り出していった。

本能は抑圧しないで訓練するべき

 本能という素材は,大部分の点で,望ましい行動に導くことも,また,望ましくない行動に導くこともありうる。過去においては,本能を訓練することを理解していなかった。そうして,それゆえ,抑圧に頼るほかなかった。(過去において)処罰と恐怖は,いわゆる美徳への大きな刺激(剤)となった。現在,私たちは,抑圧がまずい方法だと知っており,その理由は,ひとつには現実にうまくいったことはまったくないためであり,また,ひとつには精神障害を引き起こすためである。本能を訓練することは,まったく異なった方法であり,まったく異なった技術を必要とする。習慣と熟練技能は,いわば,本能のための一つの水路となり,本能はその水路の方向に従って,こちらへ,あるいはあちらへと流れていく。そこで,適切な習慣と適切な熟練技能とを創りあげることによって,私たちは,子供の本能がおのずと望ましい行動を促すようにさせる(のである)。(そこには)誘惑に抵抗する必要がないので,緊張感はまったく存在しない。(そこには)意志を妨げられることがないので,子供は,拘束がな,く自発的にやれるという感じを持つ。私はこれらのことを絶対的な意味で言っているのではない。即ち,常に,思いがけない事件が起こることはありえることであり,古い方法が必要になるかもしれない。しかし,児童心理学という学問が完全になればなるほど,また,私たちが保育園で多くの経験を積めば積むほど,ますます完全に,新しい方法を採用することができるのである。

The crude material of instinct is, in most respects, equally capable of leading to desirable and to undesirable actions. In the past, men did not understand the training of instinct, and therefore were compelled to resort to repression. Punishment and fear were the great incentives to what was called virtue. We now know that repression is a bad method, both because it is never really successful, and because it produces mental disorders. The training of instincts is a totally different method, involving a totally different technique. Habits and skill make, as it were, a channel for instinct, leading it flow one way or another according to the direction of the channel. By creating the right habits and the right skill, we cause the child’s instincts themselves to prompt desirable actions. There is no sense of strain, because there is no need to resist temptation. There is no thwarting, and the child has a sense of unfettered spontaneity. I do not mean these statements to be taken in an absolute sense ; there will always be unforeseen contingencies in which older methods may become necessary. But the more the science of child psychology is perfected, and the more experience we acquire in nursery schools, the more perfectly the new methods can be applied.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE19-010.HTM

<寸言>
抑圧でも放縦でもなく,本能に従っても、他人を傷つけることなく、お互いが幸せになれるように、若い時に訓練することが重要。

私心のない探求(研究)は貴重

 また,知識の探求ですら,もし功利主義的なもの(実利主義的なもの)であれば,自律できない。(注:「直接的な」利益を生むと思われるものしか研究しないために,自律的なものでなくなる。)功利主義的な知識も,私心のない探求(研究),すなわち,世界をよりよく理解しようという願望以外の動機を持たない探求(研究)によって,実りあるものにする必要がある。
偉大な進歩は全て,最初は純粋に理論的なものであり,のちになってはじめて,実際に応用可能であることがわかる。また,一部の素晴らしい理論はまったく実際の役に立たないものであっても,依然としてそれ自体で価値がある。なぜなら,世界を理解することは,究極的な善の一つであるからである。
もし科学(研究)と組織化によって,身体の要求の満足及び残酷さと戦争の廃絶に成功すれば,あとは,知識と美の探求が,私たちの精力的な創造への愛を働かせてくれ続けるだろう。私は,詩人や画家や作曲家や数学者が,自分たちの活動が現実世界にもたらす遠い(未来への)影響に心を奪われることを望まない。彼らは,むしろ,幻想の追求に,すなわち,最初はほんの一瞬ぼんやりと見えただけであるが,その後もずっと,それに比べればこの世の喜びも色あせてしまうほど熱烈に愛してきたものをつかまえて,それに永遠性を与える仕事に従事すべきである。
 あらゆる偉大な芸術及びあらゆる偉大な科学は,最初は実体のない幻影,つまり,人びとを招いて,安全と安楽から栄光にみちた苦悩へと誘惑する美を具現化したいという情熱的な欲求から湧き出るものである。の情熱を持った人は,実利主義的(功利主義的な)哲学の足かせに拘束されてはならない。なぜなら,私たちは,人間を偉大にするすべてのものを、彼らの熱情に負っているからである。

And even the pursuit of knowledge, if it is utilitarian, is not self-sustaining. Utilitarian knowledge needs to be fructified by disinterested investigation, which has no motive beyond the desire to understand the world better. All the great advances are at first purely theoretical, and are only afterwards found to be capable of practical applications. And even if some splendid theory never has any practical use, it remains of value on its own account ; for the understanding of the world is one of the ultimate goods. If science and organization had succeeded in satisfying the needs of the body and in abolishing cruelty and war, the pursuit of knowledge and beauty would remain to exercise our love of strenuous creation. I should not wish the poet, the painter, the composer, or the mathematician to be preoccupied with some remote effect of his activities in the world of practice. He should be occupied, rather, in the pursuit of a vision, in capturing and giving permanence to something which he has first seen dimly for a moment which’ he has loved with such ardour that the joys of this world have grown pale by comparison. All great art and all great science springs from the passionate desire to embody what was at first an unsubstantial phantom, a beckoning beauty luring men away from safety and ease to a glorious torment. The men in whom this passion exists must not be fettered by the shackles of a utilitarian philosophy, for to their ardour we owe all that makes man great.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE18-080.HTM

<寸言>
短期的な成果ばかりを求める精神は偉大なことを達成しない。
どこの国家や政府も成果をあせって,長期的な視点にほとんどたたず、短期的な成果をあげられない学問(哲学等の人文科学系のもの)をできるだけ減らそうとしてしまう。日本の政府も同様に・・・。