独りっ子に公平(正義)を教えることは,不可能ではないにせよ,大変むずかしい。
おとなの権利や欲求は,子供たちの権利や欲求とはかなり異なっているので,子供たちの想像力に訴えるところがない。(即ち,両者の間には)まったく同じ喜びを求めて直接競いあう機会も,ほとんどない。そのうえ,おとなは,自分の要求に従うように強要できる立場にあるため,自分が裁かれる場合にも裁判官になるほかなく,公正な裁きの結果を子供に提示することはできない。
もちろん,おとなは,明確な教訓をたれて,大人にとって都合の良いふるまいを教えこむことはできる。たとえば,母親が洗濯物を数えているときにはじゃまをしてはいけない,父親が忙しくしているときには大声を出してはいけない,お客がいるときには自分の関心事を無理強いしてはいけない,とかである。
しかし,これらは,(子供に)理解させがたい要求であり,確かに,子供は日ごろ(そういう特別な状況でない場合には)優しく扱われていれば快く従いはするものの,子供の道理の感覚に訴えるわけではない。
子供にこういった規則に従わせることは正しい。なぜなら,子供は,暴君にならせてはいけないし,また,他の人たちが求めているものがどんなに奇妙であったとしても,その人たちにとっては重要なのだということを子供に理解させなければならないからである。しかし,そういう方法では,せいぜい,外面的に良いふるまいをさせる以上のものは得られない。
公平(正義)を教える真の教育は,他の子供のいるところではじめて可能になる。これは,なぜ子供を長いこと独りのままにしておいてはいけないかという多くの理由のなかの一つである。運悪く子供がひとりしかいない親は,できるだけ努力して子供のために仲間を見つけてあげなければならない。ほかに方法をとることができない場合には,長い間家を離れさせるという犠牲さえも払わなければならない。独りっ子は,押えつけられているか,それとも,わがままになっているかのどちらかである。おそらく,かわるがわるその両方になっているかもしれない。行儀のよい独りっ子は痛ましく,行儀の悪い独りっ子はやっかいものである。
It is difficult, if not impossible, to teach justice to a solitary child. The rights and desires of grown-up people are so different from those of children that they make no imaginative appeal ; there is hardly ever direct competition for exactly the same pleasure. Moreover, as the grown-up people are in a position to exact obedience to their own demands, they have to be judges in their own case, and do not produce upon the child the effect of an impartial tribunal. They can, of course, give definite precepts inculcating this or that form of convenient behaviour : not to interrupt when their mother is counting the wash, not to shout when their father is busy, not to obtrude their concerns when there are visitors. But these are inexplicable requirements, to which, it is true, the child submits willingly enough if otherwise kindly treated, but which make no appeal to his own sense of what is reasonable. It is right that the child should be made to obey such rules, because he must not be allowed to be a tyrant, and because he must understand that other people attach importance to their own pursuits, however odd those pursuits may be. But not much more than external good behaviour is to be got by such methods; the real education in justice can only come where there are other children. This is one of many reasons why no child should long be solitary. Parents who have the misfortune to have an only child should do all that they can to secure companionship for it, even at the cost of a good deal of separation from home, if no other way is possible. A solitary child must be either suppressed or selfish–perhaps both by turns. A well-behaved only child is pathetic, and an ill-behaved one is a nuisance.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-020.HTM
[寸言]
義務教育の小学校、特に貧富の差がなく誰でも入学できる「公立の」小学校は、様々な家庭環境の子どもが入学してくるので、「公平」とか「正義」という観念を教えるのに最適な環境であろう。しかし、「裕福な子弟が通う」「私立の」小学校の場合は、自分は他の貧しい子どもとは違うのだという意識や先入観を与えがちである。
そのような意味で、慶応の幼稚舎のような、小さい時から「選民意識」を与えるような学校に自分の子どもを入学させることは、小さい時に「公平」とか「正義」とかいう観念を体得させる重要性から考えると、あまり賢明なこととは思われない。
将来、そういったエリート意識をもった人間が政治家になった場合には、口では「国民のため」、「国益のため」とかいう言葉を常套句にように連発しても、頭の中だけの表面的な理解であり、心からそのようなことを思っておらず、国民に災難をもたらす可能性が大きい。
現代の日本の国会議員は二世あるいは三世の議員だらけであり、憂うべき状況にある。2012年の自由民主党総裁選挙(注:安部氏を総裁に選出)においては、5人の総裁候補(安部、石橋、石原、町村、林)が立候補したが、全員が世襲議員であった。「自由」と「民主」を看板にする「自民党」の他の国会議員や自民党の支持者はその状況を見て、危機感を抱いた人はほとんどいなかったのだろうか!?(「民主」の部分は実態とあわないし、「自由」も一般国民のための自由ではなく、支配層のための「自由」となっている。従って、「保守党」に名称変を更されたし。)