教育のないメイドを雇ったことのある文筆家はみな知っていることであるが,主人の原稿を燃やして暖炉に火をつけたいというメイドの情熱を抑えることは困難である(抑えることができなければよいのに,と読者は望むかもしれないが)。文筆家仲間なら,たとえねたみ深い敵であっても,そんなことをしようとは思わないだろう。原稿というものの価値を,経験からよく理解しているからである。
同様に,庭(の持ち分)を持っている子供は,他人の花壇を踏み荒らすようなことはしないだろうし,ペットを飼っている子供には,動物の生命を尊重することを教えることができる。
我が子を苦労して育てたことのある人の心には,おそらく,人命を尊重する気持ちがあるであろう。わが子のことで苦労すればするほど,より強い親としての愛情が湧いてくるのである。こうした苦労を避けている親の場合,親の本能は多少とも萎縮してきて,ただ(親としての)責任感として残っているにすぎない。しかし,建設的な衝動が十分に発達している親ならば,おそらくよりいっそう子供の面倒を見ることだろう。そこで,こういう理由からしても,教育のこの面に注意を払うことは大いに望ましい。
Every author who has had uneducated housemaids knows that it is difficult (the public may wish it were impossible) to restrain their passion for lighting the fire with his manuscripts. A fellow-author, even if he were a jealous enemy, would not think of doing such a thing, because experience has taught him the value of manuscripts. Similarly the boy who has a garden will not trample on other people’s flower-beds, and the boy who has pets can be taught to respect animal life. Respect for human life is likely to exist in any one who has taken trouble over his or her own children. It is the trouble we take over our children that elicits the stronger forms of parental affection; in those who avoid this trouble the parental instinct becomes more or less atrophied, and remains only as a sense of responsibility. But parents are far more likely to take trouble over their children if their constructive impulses have been fully developed ; thus for this reason also it is very desirable to pay attention to this aspect of education.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-050.HTM
[寸言]
親が子どもをうまく躾れば,自分を尊重してもらうためには他人も尊重する必要があることに気づく。しかし、我儘ほうだいに育つとその必要がないので他人を尊重する気持ちが育たない。
安倍総理はおじいちゃん(故・岸総理)に甘やかされて育ったので、同じ二世や三世議員(特に麻生総理のようにおじいちゃんのいる政治家)の気持ちはよくわかるが、一般庶民の気持ちなど、頭で理解しようとしても実感できないので、すぐに忘れてしまい(=健忘症)、180度考えを変えても「新しい判断」(or「新しい決断」)をしたと言えば、それで世間で通ると思っている。それを許している国民も馬鹿だが・・・。