破壊のほうが容易なので,子供の遊びは,通常,破壊で始まり,少し大きくなってはじめて建設へと移っていく。
手おけ(バケツ)を持って砂場(or砂浜)で砂遊びをしている子供は,おとなに砂まんじゅうを作ってもらい,スコップでそれをたたきこわすのが好きである。しかし,砂まんじゅうを自分で作れるようになると,すぐに喜んでそれを作り,他人がそれをたたきこわすのを許さないだろう。子供が初めて積み木を手にしたときも,年上の人が作ってくれた積み木の塔をこわすのを好む。しかし,自分で塔が作れるようになると,自分がなし遂げたことをひどく誇りに思い,苦労して作りあげた建造物がこわされてがらくたの山になるのを見て耐えることができなくなる。
子供にこの遊び(ゲーム)を楽しませる衝動は,(建設と破壊という)二つの段階でまったく同じであるが,新しい技術(幼児が新しく獲得した技術)が同じ衝動から生まれた活動を一変させたのである。
Destruction being easier, a child’s games usually begin with it, and only pass on to construction at a later stage. A child on the sand with a pail likes grown-up people to make sand-puddings, and then knock them down with its spade. But as soon as it can make sand-puddings itself, it delights in doing so, and will not permit them to be knocked down. When a child first has bricks, it likes to destroy towers built by its elders. But when it has learnt to build for itself, it becomes inordinately proud of its performances, and cannot bear to see its architectural efforts reduced to a heap of ruins. The impulse which makes the child enjoy the game is exactly the same at both stages, but new skill has changed the activity resulting from the impulse.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-020.HTM
[寸言]
幼児の場合には,「建設」は難しいので「破壊」から始まることは,大人はみな理解する。しかし、大人は,他人のことはわかっても,自分自身のことはわかならい人が少なくないようである。即ち,大人は「破壊」よりも「建設」のほうが重要なことをわかっているはずであるが、「建設のためには破壊が必要だ!」といって「破壊」しておしまいの人が、特に政治家の間には,けっこう見られる。
「破壊」は腕力(権力)さえあれば誰でもできるが,「建設」には知力(頭)や人望が必要である。「知性」を蔑視,あるいは二の次にするような政治家にとっては、新しいものを「建設」(創造)することは不得手である。
従って、そういった政治家は、自分の気に入らないものは「破壊」するとともに、後は自分たちの特権を守るために心血を注ぐ(保守に徹する)ということになる。そうして、発言は幼児性を帯び、「自分を見て!」といった幼児性にあふれたパフォーマンスが大好きである。たとえば,・・・。