「自己犠牲」の心理(真理にあらず!)と論理-「美徳」ではなく「嘘」

self-sacrifice 自己犠牲を教える場合の考え方は,完全に(自己犠牲が)実行されることはないだろうから,実際の結果はほぼ妥当なものになるだろう,というものであるように思われる。しかし,実際のところは,人びとは,この教訓を学びそこなうか,単なる公平を要求するときに後ろめたい気持ちを感じるか,あるいは,ばかばかしいほど極端な自己犠牲をするか、いずれかである。最後の場合には,自制をしなければならない相手に対し漠然とした恨みをいだき,おそらくは,感謝の要求という裏口から,わがままが立ち戻るのを許すことになるであろう。
いずれにせよ,自己犠牲は,普遍的になりえないので,真の教義にはなりえない。また,美徳への手段として嘘を教えることは,嘘が見破られれば,美徳は消え失せるので,最も望ましくないものである。一方,公平は,普遍的なものにすることができる。したがって,公平こそ,私たちが子供の思考と習慣の中に埋め込まなければならない概念である。

sekf-sacrifice_bernard_shawWhen self-sacrifice is taught, the idea seems to be that it will not be fully practised, and that the practical result will be about right. But in fact people either fail to learn the lesson, or feel sinful when they demand mere justice, or carry self-sacrifice to ridiculous extremes. In the last case, they feel an obscure resentment against the people to whom they make renunciations, and probably allow selfishness to return by the backdoor of a demand for gratitude. In any case, self-sacrifice cannot be true doctrine, because it cannot be universal ; and it is most undesirable to teach falsehood as a means to virtue, because when the falsehood is perceived the virtue evaporates. Justice, on the contrary, can be universal. Therefore justice is the conception that we ought to try to instil into the child’s thoughts and habits.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-010.HTM

[寸言]
子どもに教えないといけないのは「公平」(の観念)であり「自己犠牲」の観念(や信念)ではない。
人間は生まれつき「善くも悪くもない」が,自己犠牲の精神を子どもに教えたいと思っている者は、「人間は生まれつき悪に走りやすい」という人間観を持っているのであろう。 また、「国家(社会)のために尽くす」,「国民の命を守るために自分の命をかける」,「一億総活躍を!」といったスローガンは,為政者には都合がよいが、権力や圧政の犠牲者にとっては,一人では抗しきれない言論抑圧の一種であり、集団で抵抗しないと、いつの間にか人間の自由も個人の基本的人権もないがしろになってしまうであろう。