「ラッセル哲学の発展」カテゴリーアーカイブ

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _08

       プラトンのイデア(人間は洞窟の中にいる囚人?)

普遍者は存在するか」という問いは多用な解釈が可能である。第一に、存在記号の意味に解釈可能である(訳注:存在記号、existential quantifier とは、数理論理学、特に述語論理において、少なくとも1つのメンバーが述語の特性や関係を満たすことを表す記号)。我々は次のように言うことができる。(即ち)「二つの固有名と一つの関係語(注:関係を表す言葉)とを含む文があり、そういう文がなければ、我々が知っていると信じる(ところの)事実の主張の多くは不可能になるであろう」。そしてさらに進んでこう言うことができる、(即ち)そういう文の中の名前(固有名)が、言語外の何ものかを指示する(point to)のと全く同様に、関係語もまた言語外のなにものかを指示しなければならない、と。アレ クサンダー大王がカエサル(シーザー)に先行したことはひとつの事実であり、この事実は単にアレクサンダー大王とカエサル(シーザー)とからのみなるとは言えない(訳注:この一文はこの二人は何らかの関係があると主張している)。関係語は、それなくしては述べることが不可能であるような事実を主張可能にする、という目的を果すことは明らかである。ここまでのとこは、我々は強固な地盤の上にあると、私は考える。しかし、(そこから)いかなる意味においても、「先行する」(preceding)と名付けられるひとつの(何らかの)「もの(thing)」がするということにはならない(I do not think it follows that)、と私は考える。関係語は、その関係項(relata)がすでに与えられているときにのみ、正しく使用されるのである。(訳注:”relata” : relatumの複数形)  このことは述語(predicates)についても等しくあてはまる。 クワイン (Willard van Orman Quine、1908-2000:米国の著名な哲学者)は、述語または関係語が見かけ上の変項(訳注:apparent variables/野田氏は「束縛変項 bound variable」と訳しているが誤訳ではないか? )として現れる場合に、特別な困難があることを見出している。たとえば、「ナポレオンは偉大な将軍としてのあらゆる性質をもっていた」という陳述をとってみよう。これは次のように解釈されなければならないであろう。 (即ち)全ての f について、もし「x は偉大な将軍であった」が、全ての xについて、fx(xはfである)を意味するならは(含意するならば)、f ナポレオン)である。これは、f に -できることならば避けたいところの- 実体性を与えることを意味しているように思われる(たとえば、ナポレオンという普遍で変化のない実体)。私はその困難を実感しており、その答えがわからない。我々は、もちろん、述語や関係語を表わす変項(variables)なしですますことはできない。しかし、私の感じ(my feeling)では、一方固有名の意味するものと、他方述語や関係語の意味するものとの間の存在論的地位の相違を維持できるような技術的な工夫が可能であろう

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_8
The question ‘Are there universals.?’ can be interpreted in various ways. In the first place, it can be interpreted in the sense of the existential quantifier. We cay say: ‘There are sentences containing two names and a relation-word, and without such sentences many assertions of facts which we believe ourselves to know would be impossible.’ We can go on to say that, just as the names in such sentences point to objects, so the relation-words must point to something extra-linguistic. It is a fact that Alexander preceded Caesar, and this fact does not consist merely of Alexander and Caesar. Relation-words, it is clear, serve a purpose in enabling us to assert facts which would otherwise be unstatable. So far, I think, we are on firm ground. But I do not think it follows that there is, in any sense whatever, a ‘thing’ called ‘preceding’. A relation-word is only used correctly when relata are supplied. This applies equally to predicates. Quine finds a special difficulty when predicates or relation-words appear as apparent variables. Take, for example, the statement ‘Napoleon had all the qualities of a great general’. This will have to be interpreted as follows: ‘whatever f may be, if “x was a great general” implies fx, whatever x may be, then f (Napoleon)’. This seems to imply giving a substantiality to f which we should like to avoid if we could. I think the difficulty real, and I do not know the answer. We certainly cannot do without variables that represent predicates or relation-words, but my feeling is that a technical device should be possible which would preserve the differences of ontological status between what is meant by names on the one hand, and predicates and relation-words on the other.   
 Source: Bertrand Russell : Power, a new social analysis, 1938
  More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-240.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _07

 この問題が解けたと仮定すると、我々には(次のような)存在論的問題が残される。(即ち)もし語が意味をもち、文が意義を持つべきとしたならば、一方では語や文との間に、他方で語と事実との間に、いかなる関係が存在(存立)しなければならないか?
 第一に(まず)、我々は、我々の語彙(ヴォキャボラリー)から言語的定義を持つあらゆる語を排除することができる。なぜなら、我々は常にその語の代りにその語の定義を代入することができるからである。細かな点は無視して言うと (omitting niceties)、 時には、語の対象に対する関係(ある語がある対象にどのような関係があるか)はかなりはっきりしている。(たとえば)「ドワイト・D・アイゼンハウアー(第34代アメリカ合衆国大統領)」という名(名前)で指示される対象を我々は知っている。、我々は色の名の意味することを知っている、等々。しかし、もっと困難が感じるような語も存在している。(たとえば)「アレキサンダー大王はカエサル(シーザー)に先行した」と言うとき、アレキサンダーやカエサルは固体である(solid 形状が一定)と感じる(これはもしかすると誤まっているかも知れない)。しかし「先行した(preceded)」という語はどうだろうか? 苦境に陥って(”at a pinch” = “in a pinch”)我々はアレキサンダーだけ、 またはカエサルだけ、あるいはこの二人だけからなる宇宙を想像することができる(訳注:想像だけならどんな宇宙も思い描くことが可能/我々は想像の上だけなら、自分しか存在しない宇宙を思い浮かべることもできる)しかし、「先行した」(という語)だけからなる宇宙を想像することはできない。こういったことが、実体の存在への信念と、普遍(者)についての疑いへと導いてきたのである(訳注:個物の存在は信じるが、普遍の実在は信じられないこと)。ここでもまた、言語上の必要性は明らかであるが(訳注:)、これらの必要性の形而上学的な意味合いは不明である。即ち、我々は「先行する」というような語をなしですますことはできないが、このような語が、固有名のような仕方で宇宙をつくっている煉瓦の一つを指示しているとは思われない。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_7
Presuming this problem solved, we are left with the ontological problem: what relations must subsist between our words and sentences, on the one hand, and fact, on the other, if our words are to have meaning and our sentences are to be significant.? We can, to begin with, exclude from our vocabulary all words that have a verbal definition, since we can always substitute the definition for the words. Sometimes (omitting niceties) the relation of a word to an object is fairly clear: we know the object indicated by the name ‘Dwight D. Eisenhower’; we know what we mean by the names of colours; and so on. But there are other words about which we feel more difficulty: if we say ‘Alexander preceded Caesar’, we feel (perhaps mistakenly) that Alexander and Caesar are solid. But what about the word ‘preceded’.? We could, at a pinch, imagine a universe consisting only of Alexander or only of Caesar or only of the pair of them. But we cannot imagine a universe consisting only of ‘preceded’. It is this sort of thing that has led to belief in substance and to doubt about universals. Here, again, the needs of language are clear, but the metaphysical implications of these needs are obscure. We cannot do without such words as ‘precede’, but such words do not seem to point at one of the bricks of the universe in the kind of way in which proper names can do.  Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-230.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _06

 こうあってほしい世界ではなく、あるがままの世界を理解することが重要

 論理学の存在論に対する関係は、実際、非常に複雑である。 この問題の言語的側面を、(論理学の)存在論に関係をもつ側面から、ある程度分離することは可能である。 言語的問題は、少なくとも理論上は、正確に解決することができるが、存在論的問題ははるかに不明瞭である(はっきりしない)。けれども、純粋に言語的な問題は、いくらか漠然としたものであるが、存在論的背景をもっている。 は(いくつかの)語で構成されており、事実を主張できるものであるならば、それらの語のいくつかは「意味」と呼ばれるもの、即ち、語以外の何ものかに対するある種の関係をもっていなければならない。レストランのウェイターが「大変よい新鮮なアスパラガスがございます」と我々に言っておきながら、後になって彼が、自分の言葉は単に言語上のものあったのであって、現実のアスパラガスへの指示をまったく含んでいなかった(など)と言い訳をするなら、私は大いに腹を立てるのは正当であろう(justly)。存在論へのこの程度の関与は、日常の話し言葉の全てに含まれている。しかし、語が語以外の対象に対してもつ関係は、 関係する語の種類によって変化し、そうして、それは品詞論の論理的形態を生み出している(訳注 “the doctrine of parts of speech” 品詞論:文法の一部門で、ある言語にはどのような品詞を区別すべきか、諸言語に共通する品詞があるか、などを研究)。 ある文が意義(significance)を持つべきなら、その文が純粋な論理学の文でないなら、その文の含む語のいくつかは何ものかを指示しなければならないが、その他の語(は必ずしも)何ものかを指示する必要はない(訳注:無意味な文以外は、文は意義 significance を持ち、単語は意味 meaning を持つ)。「イギリスの女王(the Queen of England)」 という句を含む文は、世界の中に「女王」および「イギリス」という語によって指示されるものが全くなければ有意義ではありえないが、「定冠詞 (the)」 や「の (of) 」という語が指示する何ものかが存在する必要はない存在論に対する数理論理学の関係の大部分は、我々が理解できると感じる陳述を理解するために必要な対象の数を減らすことにある。こういった削り取っていくプロセス(をとること)の唯一の理由は、軽率かつ根拠のない思い込み(unwarranted assumptions)を避けるためである。通常の経験的陳述が有意義なものであるべきならば(それが言語そのものについての陳述でないとすると/言語上のものでないとすると)、それらの陳述は、語以外の何ものかを指示しなければならない。そうして 次の純粋に技術的な問いが生ずる。)(即ち)「我々が事実であると信ずることを主張することを可能にする(のに必要な)最小語彙は何であるか(最小限必要な語彙は何であるか?)。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_6 The relation of logic to ontology is, in fact, very complex. We can in some degree separate linguistic aspects of this problem from those that have a bearing on ontology. The linguistic problems are capable, at least in theory, of a precise solution, but the ontological problems remain much more obscure. The purely linguistic problems, however, have an ontological background, though a somewhat vague one. Sentences are composed of words, and, if they are to be able to assert facts, some, at least, of the words must have that kind of relation to something else which is called ‘meaning’. If a waiter in a restaurant tells me, ‘We have some very nice fresh asparagus’, I shall be justly incensed if he explains that his remark was purely linguistic and bore no reference to any actual asparagus. This degree of ontological commitment is involved in all ordinary speech. But the relation of words to objects other than words varies according to the kind of word concerned, and this gives rise to a logical form of the doctrine of parts of speech. If a sentence is to have significance, unless it is a sentence of pure logic, some of its words must point to something, but others need not. A sentence could not significantly contain the phrase ‘The Queen of England’ unless there were something in the world that was pointed to by the word ‘Queen’ and by the word ‘England’, but there need not be anything pointed to by the word ‘the’ or the word ‘of’. A large part of the bearing of mathematical logic upon ontology consists in diminishing the number of objects required in order to make sense of statements which we feel to be intelligible. The only reason for this process of whittling away is to avoid rash and unwarranted assumptions. If our ordinary empirical statements are to be significant, they must (if they are not linguistic) point to something outside words. The purely technical question thus arises: what is the smallest vocabulary which will enable us to assert what we believe to be fact?
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-220.HTM

 ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _05

 ここで、私は「存在」 という特有の問題に行きつく。「存在」という語(言葉)は、通常の用法では、 文法上(構文上)の混乱を生じさせるものであり、これまで多くの形而上学的混乱の源となってきたと私は主張するとともに、この事実をはっきり認めることは混乱を避けるために非常に重要なことであると私は考える。たとえば、次のような推論をとってみよう。 「私の現在の感覚は存在する(my present sensation exists)。これは私の現在の感覚である(this is my present sensation;)。ゆえにこれは存在する(therefore this exists)。」 この推論において、二つの前提は真であるかも知れないが、結論は無意味である、と私は主張する。このこと(主張/内容)を日常語によって明確にすることは不可能である。そしてそれ(日常語で明らかにすること)が不可能だということが、日常語(を分析に使うこと)に反対する一つの論拠である。私 はこのことに関係する唯一の妥当な概念は、ヨ(存在記号)の概念である、と主張する。この概念は次のように定義することができるであろう。 変数 x を含み、(その)変数に値が代入されると命題となる式 fx が与えられたとき、式 (∃x). fx (訳注:現在では、「.」を省略して (∃x)fx と表記)は、fx が真となる x の値が少なくとも 1 つ存在することを意味する(と我々は言う)。 私自身は、これを「~がある」の定義とみなしたいが、しかし、そうすると、私の考えを理解してもらえない(自分の言いたいことを伝えることができない)( I could not make myself understood.)。
 我々が「~がある」と言うとき、我々のこの陳述が真であるということから、この陳述で 「ある」といわれている当のものが、-わざと曖昧な表現を使うと(to use a deliberately vague phrase)- 世界を成り立たせる備品(道具建て)の一部(part of the furniture of the world)であることには(必ずしも)ならない。数理論理学「数がある」という陳述を許容しており、メタ論理学(metalogic メタ論理学/数学基礎論) は 「数は論理的虚構あるいは記号法上の便宜である」という陳述を許容する。 数は集合の集合であり、集合は記号法上の便宜手段である(訳注:たとえば、「2」という数は、「2つのものの集合」の集合)。 存在記号ヨを日常語に翻訳しようとする試みは、ひとを困惑に陥らせる運命にある。なぜなら、伝えられるべき観念は通常の話し言葉を組み立ててきた人々には知られていないものだったからである。数がある(存在する)」という陳述は、相当手の込んだやり方で解釈されなければならない。我々は、まずある命題関数、たとえば fxから出発して、次に「f という属性をもつ物の数」 (the number of things having the property f)を定義し、続いて「何らかの特性(some property or other)をもつ物の数であるところの任意のもの」 (whatever is the number of things having some property or other) として「数」を定義しなければな らない(訳注:同上:「n」という数は、「n個のものの集合」の集合)。このようにして、我々は「n は数である」という命題関数の定義を得るのであり、この n に、(既に)「1」として定義したものを代入すれば、我々は真なる陳述を得る(のである)。 これが「少なくともひとつの数が存在する」と言うことによって意味されていることである。しかし、我々は、数の実在性についてプラトン的な主張をしているのではないことを、日常言語によって明ら かにすることは、きわめて困難である。(訳注:プラトンは、抽象的なものはこの世には存在せず、あの世=天国にのみ存在する、たとえば、三角形そのものは現実世界には存在せず、天国にイデア=観念としてのみ存在する、と主張。)

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_5
I come now to the particular question of ‘existence’. I maintain — and I think that this has great importance in avoiding muddles — that the word ‘existence’ as ordinarily used gives rise to syntactical confusion and has been a source of a great deal of metaphysical confusion. Take, for example, the following piece of reasoning: ‘my present sensation exists; this is my present sensation; therefore this exists’. I maintain that the two premisses may be true, but the conclusion is nonsense. It is impossible to make this clear in common language. This is an argument against common language. I maintain that the only legitimate concept involved is that of ∃. This concept may be defined as follows: given an expression fx containing a variable, x, and becoming a proposition when a value is assigned to the variable, we say that the expression (∃x).fx is to mean that there is at least one value of x for which fx is true. I should prefer, myself, to regard this as a definition of ‘there is’, but, if I did, I could not make myself understood. When we say ‘there is’ or ‘there are’, it does not follow from the truth of our statement that what we say there is or there are is part of the furniture of the world, to use a deliberately vague phrase. Mathematical logic admits the statement ‘there are numbers’ and metalogic admits the statement ‘numbers are logical fictions or symbolic conveniences’. Numbers are classes of classes, and classes are symbolic conveniences. An attempt to translate ∃ into ordinary language is bound to land one in trouble, because the notion to be conveyed is one which has been unknown to those who have framed ordinary speech. The statement ‘there are numbers’ has to be interpreted by a rather elaborate process. We have first to start with some propositional function, say fx, then to define ‘the number of things having the property f’, then to define ‘number’ as ‘whatever is the number of things having some property or other’. In this way we get a definition of the propositional function ‘n is a number’, and we find that if we substitute for n what we have defined as ‘1’, we have a true statement. This is the sort of thing that is meant by saying there is at least one number, but it is very difficult, in common language, to make clear that we are not making a platonic assertion of the reality of numbers.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-210.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _04

 ウォーノック氏は、自分が取り扱う(論ずる)と公言している問題を明らかにするために(これまで)論理学者達のしてきたことを全て、故意かつ意識的に(deliberately and consciously),無視している。彼は「ヴァルハラは神話的である」という陳述をもて遊んでいる(make play with)。ヴァルハラ(注:北欧神話で戦死者の住む天国の宮殿のこと)に関するものと思われる陳述は(実は)「ヴァルハラ」(という語)についての陳述であるといういくらか慎重な理論(学説)に彼は言及しない。この理論は正しいかも知れないし、正しくないかも知れない。しかし、そういう理論は全く存在しないようなふりをすることの正当化は理解できない(正当化はできない),と私は考える。彼は自分の論文の冒頭で、自分が関心を持っている中心的な問題(問い)は抽象的な実体は存在するか?」であると述べている。次に、彼は「(・・・が)ある(存在する)」という語に対する論理学者による解釈に異議を唱え(proceeds to object to)、そうして、それを理由にして (少なくとも私は彼の論文においてこれ以外の理由を見出しえない) この中心的な問題に答えないままにしてしまう。そして明らかに彼の見解ではその問題に答えることはできない。彼は、「あるもの(something)」という語の使用は(使用したからと言って)、日常会話(ordinary speech)では、そのものが存在することを意味しない,と指摘しているのは全くその通りである。彼は「あるもの(something)は素数である」という陳述の例をあげ、この陳述は「奇妙で、人を惑わすもの(不可解)である」と言う。しかし、数理論理学(数学的論理学)の言語が正確さにおいても、一般性においても、日常言語に優っていることを彼は思いつかない。もし、我々が十二の「もの」と十二の「名」をもつとしたなら、日常会話では、その十二の「名」を十二の「もの」に適用するようなことが容易に起りうるであろう。日常の言葉は二つの反対の欠点を持っている。即ち、日常の言葉には、しばしば、多くの意味をもつ一つの語と、ひとつの意味を もつ多くの語がある。 前者(第一の欠点)は次の文章によって示されるであろう。「ロムルスが存在したかどうかは疑わしい。なぜなら、ローマの存在の最初の世紀についての、現に存在する伝説の信憑性を疑うべき理由が存在するから(Whether Romulus existed is doubtful, since reasons exist for questioning the reliability of existing legends as to the first century of Rome’s existence)」。(左記の文で「存在(exist)」という語が4回とも違った意味で使用されている)  同じ意味を表すのに多くの言い方があるという反対の欠点は、「素数がある」とか,「ライオンは今でもアフリカに存在する」とか,「月に影がある」とか,我々が言う場合についてのウォーノック氏の議論によって示されている。 上の最後の文の「月に影がある」 (There are shadows on the moon)は「影が存在する」 (shadows exist) ということを意味しないと彼は考えるらしい。「影が存在する」という言い方をたいていの人はそうは言わないというただそれだけの理由で、彼はしりぞけてしまうのである。論理学者は、ひとつのものに対してひとつの名をもつような言語が望ましいと考える。 ここで「望ましい」と言うのは、日常使用にとって望ましいと言うのではなく、世界について正確な陳述をしようと試みる場合に望ましいと言うのである

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_4 Mr Warnock deliberately and consciously ignores all that logicians have done to clarify the problems with which he professes to deal. He makes play with the statement ‘Valhalla is mythological’. He does not mention the somewhat careful theory according to which statements that seem to be about Valhalla are really about ‘Valhalla’. This theory may be right or wrong, but I cannot see the justification for pretending that there is no such theory. He tells us at the beginning of his article that the central question with which he is concerned is: are there abstract entities? He then proceeds to object to the logician’s interpretation of the words ‘there are’, and on this ground (at least, I can find no other in his article) he leaves his central question unanswered and, apparently, in his view unanswerable. He points out, quite truly, that the use of the word ‘something’ does not, in ordinary speech, imply that there is such a thing. He instances the statement ‘something is a prime number’, which, as he says, ‘is odd and mystifying’. It does not occur to him that the language of mathematical logic surpasses common language both in precision and in generality. If you have twelve things and twelve names, it may easily happen that common speech applies all twelve names to all twelve things. Common speech has two opposite defects: it has often one word with many meanings and many words with one meaning. The former defect may be illustrated by the following sentence: ‘Whether Romulus existed is doubtful, since reasons exist for questioning the reliability of existing legends as to the first century of Rome’s existence.’ The opposite defect of having several expressions for the same meaning is illustrated by Mr Wamock’s discussion of when we should say ‘There are primes’, ‘Lions still exist in Africa’, ‘There are shadows on the moon’ — which last, he seems to think, does not imply that shadows exist, a phrase which he rejects solely on the ground that most people would not use it. The logician thinks that a language is preferable in which there is one name for one thing. And when I say ‘preferable’, I do not mean ‘preferable’ for everyday use, but ‘preferable’ in an attempt to make precise statements about the world.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-200.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _03

 

存在記号と全称記号(”Existential quantifier” and “Universal quantifier”)

この寓話はウォーノック氏の存在記号(注:∃)についての議論についてのパロディでは決してない(注:存在記号とは、数理論理学(特に述語論理)において、少なくとも1つのメンバーが述語の特性や関係を満たすことを表す記号。この記号は1897年にジュゼッペ・ペアノによって導入された。 これとは対照的に全称記号は、何かが常に真であることを示す記号)。「存在記号(∃)」は 「魚」に類似した一般概念である。それを名前に適用すると「ひめはや(minnow)」に類似し、述語に適用すると「ます(trout)」に類似し、関係(概念)に適用すると「すずき(perch)」に類似し、以下同様である。論理学者が「存在記号」を使う時に、日常会話では異なる機会に異なる語を用いるという事実は、論理学を学んだことのない人々が存在記号∃によって表される一般観念にまだ到達していない -あたかも寓話のアイシディアンが「魚」という一般観念に到達していなかったように― という事実から生ずる。ウォーノック氏は、日常の話し言葉が区別するところを存在記号は混乱させる(区別をつかなくする)と言う。これはちょうど、アイシディアンが魚という語を用いる者は「ひめはや」と「すずき」との区別をつかなくすると苦情を言ったのと同じである。ウォーノック氏は「日常の話し言葉のかけがえのない非単純性」について語っている。論理学ではなされない区別が日常の言葉にはあることを私も否定しない。日常の言葉には我々自身の感情の表現も込められている。 「何某は全くの悪党だ」と言うのと、「不幸にも何某は必ずしも常に道徳的法則にかなった行動をしなかった」と言うのとでは、二つの陳述における事実の要素は同じであるが、その同一の事実に対する我々の感情的態度は異なっている。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_3
This fable is scarcely a parody of Mr Warnock’s argument about the existential quantifier. ‘Existential quantifier’ is a general concept analogous to ‘fish’. Applied to names, it is analogous to minnows; applied to predicates, it is analogous to trout; applied to relations, it is analogous to perch; and so on. The fact that in ordinary talk people use different words for different occasions when the logician uses the existential quantifier is due to the fact that people who have not studied logic have not. arrived at the very general idea represented by ∃, just as the Isidians in the fable had not arrived at the general idea ‘fish’. Mr Warnock says that the existential quantifier confuses things that common speech distinguishes. This is exactly as if the Isidians had complained that a man who uses the word ‘fish’ confuses minnows with pike. Mr Wamock speaks of the ‘invaluable non-simplicity of ordinary speech’. I do not deny that there are distinctions in ordinary speech which are not made in logic. In ordinary speech we include the expression of our own emotions. If we say that So-and-so is an unmitigated scoundrel, or that unfortunately So-and-so has not invariably acted in accordance with the moral law, the element of fact in the two statements is the same, but our emotional attitude towards the one fact is different in the two cases.  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-190.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _02

 昔々、とても遠い昔のことですが、ある川のほとりにある部族が住んでいました。ある人によれば、その川は「アイシス」 (The Isis) 、そのそばに住む人々は「アイシディアン」(The Isidians’)と呼ばれていたそうです。しかし、もしかすると、それは後になってもとの伝説に付加されたことかもしれません。その種族の言語には、「ひめはや(minnnow)」 「ます(trout)」「すずき(perch)」 「かわかます(pike)」 という語を含んでいましたが、「魚(fish)」という語(言葉)は含まれていませんでした。 イシディアンの一行があるときいつもよりも下流まで下り、我々(注:英国人)が「さけ」と呼ぶものを捕えました(ピーコックの小説 Crotchet Castle の第4章参照)。 するとたちまち喧々諤々の議論が起こりました。 ある人々はそれは「かわかます」の一種だと主張し、 他の人々はそれは不潔で厭うべきものものであり、その名を口にする者は部族から追放されるべきだと主張しました。そんな折(at this juncture この時点で)、一人の見知らぬ人がもうひとつの川の岸からやってきました。その川は流れがのろいという理由で軽蔑されていました。彼は言いました。
私達の部族では、『魚』という語(言葉)があり、それは ひめはやにも、ますにも、すずきにも、かわかますにも、また、非常に大きな議論を引き起こしているこの生き物にも、ひとしく適用できます(あてはまります)」。
 アインディアンは(これを聞いて)大いに腹を立てました。彼らは言いました。
「そういう妙な新語(such new-fangled words)の用法は何か。我々がこの川から捕るものは何であっても我々の言語で名付けることができます。 なぜなら、それは常に、ひめますか、ますか、すずきか、かわかますだからです。この見解に反対して あなたは、わが聖なる流れの下流におけるこの最近の出来事をもち出すかも知れないが、我々はこの出来事について語るべからずという法律をつくることを、言語の経済(節約)であると考えます。従って、我々はあなたの用いる『魚』という語(言葉)を、無用な衒学(学者ぶる態度)の一例であると考えます(みなします)」。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_2
Once upon a time, a very long while ago, there was a tribe which lived upon the banks of a river. Some say that the river was called ‘The Isis’, and those who lived beside it, ‘The Isidians’, but perhaps this is a later accretion to the original legend. The language of the tribe contained the words ‘minnow’, ‘trout’, ‘perch’ and ‘pike’, but did not contain the word ‘fish’. A party of Isidians, proceeding down the river rather further than usual, caught what we call a salmon.(See Crotchet Castle, Chapter IV. ) Immediately, a furious debate broke out: one party maintained that the creature was a sort of pike ; the other party maintained that it was obscene and horrible, and that anybody who mentioned it should be banished from the tribe. At this juncture, a stranger arrived from the banks of another stream which was despised because it went footing slow. ‘In our tribe’, he said, ‘we have the word “fish” which applies equally to minnows, trout, perch and pike, and also to this creature which is causing so much debate.’ The Isidians were indignant. ‘What is the use’, they said, ‘of such new-fangled words. ‘Whatever we get out of the river can be named in our language, since it is always a minnow or a trout or a perch or a pike. You may advance against this view the supposed recent occurrence in the lower reaches of our sacred stream, but we think it a linguistic economy to make a law that this occurrence shall not be mentioned. We therefore regard your word “fish” as a piece of useless pedantry.’
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-180.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _01

 この論文における私の目的は、まずウォーノック (G. F. Warnock) の論文「論理学における形而上学」 (アントニー・フルー教授(編)『概念的分析論集』 Essays in Conceptual Analysis, ed. Antony Flew 所収) を論じ、次に、同じ問題について、自分自身のために(on my own account)、私自身の主張を少し述べることである。 まず、一般的な所見を二、三、 述べることにしよう。ウォーノック氏は「苦労なしの哲学」派 ― 哲学をこれまでよりもはるかに容易なものにするのでそう名づけられている― に属している。有能な哲学者となるにはファウラーの『近代英語法』 (Fowler, Modern English Usage) を研究するだけでよく、大学院学生ともなれば 『キングズ・イングリッシュ』 (The King’s English) に進んでよいが、この本は、その表題の示すように いくらか古風であるので注意して使用する必要がある。ウォーノック氏は、「我々は、論理学のきちんとした単純な言い方を、(日常の)言語の面倒で複雑さに押し付けてはならない」と述べている。彼は「存在記号 (existential quantifier) を議論することに関心を持ち、論理学者がというただひとつの記号で示すところの多数の主張は(訳注:a number of assertions/野田氏は「いくつかの」と訳出しているが不適切)、日常会話では様々な句(フレーズ)によって表されるということを指摘することが重要だと考え、そうして、これを根拠にして、∃(記号)によって表される一般概念は重要でないかあるいは偽りのもの(spurious)であると決めてかかる。これは、私には、全く馬 鹿げた推論だと思われる。私は、その馬鹿らしさを、恐らく(以下の)ひとつの寓話で示すことができるであろう。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_1 My purpose in this article is first to discuss G. F. Warnock’s ‘Metaphysics in Logic’, published in Essays in Conceptual Analysis, edited by Professor Antony Flew, and then to say what little I have to say on my own account on the same subject. I will begin with a few general remarks. Mr Warnock belongs to the ‘Philosophy-Without-Tears’ School, so named because it makes philosophy very much easier than it has ever been before: in order to be a competent philosopher, it is only necessary to study Fowler’s Modern English Usage; post-graduates may advance to The King’s English, but this book is to be used with caution for, as its title shows, it is somewhat archaic. Mr Warnock states that we should not ‘impose the neat simplicities of logic upon the troublesome complexities of language’. He is concerned to discuss the existential quantifier, and thinks it important to point out that a number of assertions, which the logician would represent by the one symbol ∃, would be represented in common speech by a variety of phrases, and on this ground he assumes that the general concept represented by ∃ is unimportant or spurious. This seems to me a totally absurd inference. Perhaps I can illustrate the absurdity by means of a fable.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-170.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その1_14

                   哲学の木 

 私は分析の重要性を強く感ずるが、それは私が新しい哲学(注:オックスフォード学派の哲学)に対する異議(異論)の最も深刻なものではない。私の異議の最も深刻なものは、哲学がこれまで各時代を通じて追求してきた厳粛かつ重要な任務を、(これといった)理由なく、新しい哲学は放棄してしまっていると、私には思われることである。タレス以来、哲学者達は世界を理解しようと努めて来た。彼らの大多数は、自らの(哲学上の)成功について、あまりに楽観的でありすぎた。しかし、彼らは(思索に)失敗した時でさえ、彼らな後継者達に(考えるための)材料(material)を 与え、新たな努力への刺激となった。私は新しい哲学この伝統を引き継いでいるとは感じない(carry on)。自身(新しい哲学)に関心を持ち、世界(そのもの)や世界に対する我々の関係に関心を持たず、ただ愚かな人々が愚かなことを言う様々なやり方についてのみ関心を持っているように見える(訳注:新しい哲学の信奉者が「愚かな人々」である言っているのではなく、愚かな人々が言いそうなことを取り上げているということ)。もしこれが哲学が提供する全てであるならば、哲学が研究対象として価値がある(a worthy subject of study)とは私には考えられない。哲学をそのようなつまらない仕事に限定することに対する,私の想像しうる,唯一の理由は、哲学を経験科学から鋭く(はっきりと)分離しようとする欲求である。私はそういう分離が有益になすことができるとは思わない。哲学が何らかの価値をもつべきならば、それは、特に(明確に)哲学的ではない知識の、広いしっかりした土台の上に構築しなければならない。そういう知識こそ、哲学の木(the tree of philosophy = Tree of knowledge)がその活力を得る土壌なのである。この土壌から養分を吸わない哲学はすぐにしぼみ、成長をやめるであろう。そしてこれこそ、アームソン氏が、よりよい大義にふさわしい能力を持って擁護につとめている(champion)ところの(新しい)哲学の運命であろう、と私は考える。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.1_14
Although I feel strongly about the importance of analysis, this is not the most serious of my objections to the new philosophy. The most serious of my objections is that the new philosophy seems to me to have abandoned, without necessity, that grave and important task which philosophy throughout the ages has hitherto pursued. Philosophers from Thales onwards have tried to understand the world. Most of them have been unduly optimistic as regards their own successes. But even when they have failed, they have supplied material to their successors and an incentive to new effort. I cannot feel that the new philosophy is carrying on this tradition. It seems to concern itself, not with the world and our relation to it, but only with the different ways in which silly people can say silly things. If this is all that philosophy has to offer, I cannot think that it is a worthy subject of study. The only reason that I can imagine for the restriction of philosophy to such triviality is the desire to separate it sharply from empirical science. I do not think such a separation can be usefully made. A philosophy which is to have any value should be built upon a wide and firm foundation of knowledge that is not specifically philosophical. Such knowledge is the soil from which the tree of philosophy derives its vigour. Philosophy which does not draw nourishment from this soil will soon wither and cease to grow, and this, I think, will be the fate of the philosophy that Mr Urmson champions with an ability worthy of a better cause.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-160.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その1_13

 結論として、アームソン氏が主張する視点について言っておいたほうがよい一般的な見解をいくつかある(ので述べておく)(some general observations to be made)。(哲学における手法としての)分析に反対する人々はこれまで常に存在していた。彼らは、あらゆる科学的進歩に反対した人々と同種類の人々であった。人々が土と空気と火と水とが(世界を構成する)四つの元素であるという信念を疑いはじめた時代に,アームソン氏がもし生きていたと仮定すると、彼は、物質の一層正しい分析への科学的研究の企てを、全て常識と慣習とに反すると言って、非推奨としたであろう(咎めたであろう)。現代物理学のあらゆる進歩は、物質的世界をよりいっそう微細に分析することで成り立ってきている。原子は、当初、ほとんど信ぜられないくらいに小さいものと見られていたが、現代物理学者にとって、各々一つの原子は太陽系のように複雑なひとつの世界である。科学者ならば、分析が適切な手段であることを疑うことなど夢にも思わないであろう。 最近出版されたばかりのある本の第一章のまさに冒頭に次の一文が見られる。「あらゆる物質を作っている単純な煉瓦のもとになっている第一の材料の本質は何だろうか?」(ジョウンズ、ロトプラット、ウィトロウ共著 『原子とこの宇宙』:Atoms and the Universe, by G. O. Jones, J. Rotblat, G. J. Whitrow. London. Eyre & Spottiswoode. 1956.) 分析が理解への道であるのは単に物質についてのみではない。音楽の訓練(トレーニング)を受けていない人は、交響曲を聴くと、一つの全体についての漠然とした一般的な印象を得るが、指揮者は、彼の身ぶりからわかるように、みずからが細かくいくつかのパート(h注:ギターのパート、チェロのパート、ピアノのパート、・・・)に分析するところの全体を聴いている分析の長所は、分析しなければ得られないような知識(nowledge not otherwise obtainable.)を与えるところにある。水が二つの水素と一つの酸素から成ることを学ぶとき、以前に水について知っていた何らかのことを知らなくなる(知識が減る)わけではなく、非分析的な観察によっては学ぶことができなかった多くのことを知る力を、我々は獲得する(のである)。もし、アームソン氏が子供の時から漢字を使用するように育てられていたならば、彼はアルファベットの発明を生んだところの音韻分析にははげ しく反対したことであろう。(もちろん)哲学的分析を擁護してこのようなことを考察するのは、もちろん、 誰か特定の哲学者は正しい分析をしてきたと言っているのではない。そういう哲学者が分析を試みたことは正しかったと言っているだけである。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.1_13 In conclusion, there are some general observations to be made about the point of view which Mr Urmson advocates. There have always been those who objected to analysis. They have been the same people as those who opposed every scientific advance. If Mr Urmson had lived when people were beginning to question the belief that earth, air, fire and water are the four elements, he would have deprecated, as contrary to common sense and common usage, every scientific approach to a more adequate analysis of matter. All the advances of modern physics have consisted in a more and more minute analysis of the material world. Atoms at first were considered almost unbelievably small, but to the modern physicist each atom is a complicated world like the solar system. No man of science would dream of questioning the propriety of analysis. At the very beginning of the first chapter of a book just published, I find the sentence: ‘What is the nature of the prime materials of the simple bricks of which all matter is built?’ (Atoms and the Universe, by G. O. Jones, J. Rotblat, G. J. Whitrow. London. Eyre & Spottiswoode. 1956. It is not only in relation to matter that analysis is the road to understanding. A person without musical training, if he hears a symphony, acquires a vague general impression of a whole, whereas the conductor, as you may see from his gestures, is hearing a total which he minutely analyses into its several parts. The merit of analysis is that it gives knowledge not otherwise obtainable. When you learn that water consists of two parts of hydrogen to one of oxygen, you do not cease to know anything that you knew before about water, but you do acquire the power to know many things that an un-analytic observation could not teach you. If Mr Urmson had been brought up to use Chinese ideograms, he would have vehemently opposed the phonetic analysis which led to the invention of the alphabet. To advance such considerations in defence of philosophical analysis is not, of course, to say that this or that philosopher has analysed rightly. It is only to say that he was right to attempt an analysis.  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-150.HTM