「ラッセル哲学の発展」カテゴリーアーカイブ

第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」01

 ライル教授(Gilbert Ryle, 1900-1976)の著書『心の概念』(The Concept of Mind, 1949年)は非常に独創的であり、また、もし真ならば非常に重要な説(テーゼ)を持っている(述べている)。私自身は彼の説(主張)を受け入れることはできない。以下、その理由をあげてみよう。
 けれども、ライル教授は気づいていないように思われるけれども、まず、私が彼の意見に似た意見を既に表明しているあるいくつかの点について述べてみよう。
 私が彼に同意する第一の点は、最初の章に述べられている、デカルトの二元論 -それはこの本の最初に述べられている- に対する拒絶である。私は、彼がこの点を強調しているのにはいくらか驚いた。デカルトの二元論は、マールブランシェ、ライプニッツ、パークリ、ヘーゲル、ウィリアム・ジェームズによって拒否された。 厳格な信条によって古風であることを強いられているマルクス主義者やカトリック神学者を除いて、今日名のある哲学者でデカルトの二元論を受けいれている人を私は思いつくことができない。 けれども、ライル教授は、多くの人々が言葉ではデカルト説を退けているにもかかわらず,そのデカルト説と論理的に結びついている多くの信念を保持しているという理由で、自分がその点を強調することを擁護するだろうと、私は想像している。私は、ひとつの重要な点に関して、ライル教授自身もこのこと(訳注:否定しながらも多くの古い信念を保持)はあてはまると考える。この点はまもなく論ずるであろう。
 私が彼に同意する第二の点は、「感覚所与」 (sense-data)をしりぞけるということである。 私は 一時感覚所与(センス・データ)の存在を信じていたが、1921年にそれを断固として捨てた。(ラッセル『精神の分析』p.141)
 第三の点は、かなり重要な点であるが、感覚を知識の一形態とは認めないということである。 感覚が事実に関する事柄についての我々(人間)の知識の原因の不可欠の部分であることは、彼も私も否定しない。否定されるのは感覚自体(そのもの)が知識であるということである。感覚が知識になるためには、ライル教授の「観察」 (observation) と呼ぶところのもの、そして私が「注意」 (noticing) と呼ぶところのものが追加されなければならない。(ラッセル『意味と真理の探究』p.51)
 我々(ラッセルとライル)はこれらの点においては同意見であるので、それらの点についてはもうこれ以上述べないことにしよう。

Chapter 18,n.4: What is mind?, n.1
Professor Ryle’s book The Concept of Mind has a thesis which is very original and, if true, very important. I find myself unable to accept his thesis, and I propose to give my reasons in what follows. I will begin, however, with certain points as to which I had already expressed opinions similar to his, although he does not seem to be aware of this fact. The first point as to which I agree with him is the rejection of Cartesian dualism, which he sets forth in his opening chapter. I was somewhat surprised by his emphasis upon this point. Cartesian dualism was rejected by Malebranche, Leibniz, Berkeley, Hegel and William James. I cannot think of any philosophers of repute who accept it in the present day, except Marxists and Catholic theologians, who are compelled to be old-fashioned by the rigidities of their respective creeds. I imagine, however, that Professor Ryle would defend his emphasis on the ground that many who reject Descartes’s doctrine in words nevertheless retain a number of beliefs which are logically connected with it. I think this is true of Professor Ryle himself on one important point, as I shall argue presently. A second point upon which I am in agreement with him is the rejection of sense-data. I believed in these at one time, but emphatically abandoned them in 1921 .(Analysis of Mind, page 141.) A third matter, which is one of considerable importance, is the rejection of sensation as a form of knowledge. It is not denied, either by him or by me, that sensation is an indispensable part of the causes of our knowledge as to matters of fact; what is denied is that it is itself knowledge. There must be added what Professor Ryle calls ‘observation’ and I call ‘noticing’.^ Since we agree on these points, I shall say no more about them.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-340.HTM

第18章 「批評に対する若干の返答」その3_外延的指示についてのストローソン氏の見解 08

 【ストローソンへの反論の最後の段落です。】

 細かい事はさておき、ストローソン氏の議論とそれに対する私の返答は、次のように要約してよいだろう。

 記述(の問題)自我中心性(の問題)との二つの(困難な)問題がある。ストローソン氏はこの二つを同一の問題で あると考える。(しかし)彼の議論から明らかであるが、彼は自分の議論の関係している(当然とりあげるべきはずの)多様な記述句をとりあげていない。 彼は、(上記の)二つの問題を混同し、解決が必要なのはただ自我中心性の問題であると独断的に主張し、その問題の解決(策)を提出している。そしてその解決(策)は彼には新しいものであると信じているようである。しかし、実際は、彼が論ずる以前からそれはよく知られていたものである。そうして、彼は自分が適切な記述理論を提出したと考え、その成果を驚くべき独断的な確信を持って発表している。もしかすると(Perhaps )私は彼の理論を不当に扱っているのかも知れないが、どういう点でそうなのかは、私にはわからない。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.7
Leaving detail aside, I think we may sum up Mr Strawson’s argument and my reply to it as follows:

There are two problems, that of descriptions and that of egocentricity. Mr Strawson thinks they are one and the same problem, but it is obvious from his discussion that he has not considered as many kinds of descriptive phrases as are relevant to the argument. Having confused the two problems, he asserts dogmatically that it is only the egocentric problem that needs to be solved, and he offers a solution of this problem which he seems to believe to be new, but which in fact was familiar before he wrote. He then thinks that he has offered an adequate theory of descriptions, and announces his supposed achievement with astonishing dogmatic certainty. Perhaps I am doing him an injustice, but I am unable to see in what respect this is the case.    
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-330.HTM

第18章 「批評に対する若干の返答」その3_外延的指示についてのストローソン氏の見解 07  

 語(言葉)には、不変の正しい使用法があり、いかにそれが便利であったとしても、いかなる変更も許容されるべきではない、という確信ストローソン氏が示すのは、単に固有名及び(命題の)偽に関してだけではない。ストローソン氏は、全称肯定命題(universal affirmatives),即ち、「全てのAはBである」という形式の文についても、同様の感情を示している。 伝統的には、このような文においては、「Aが存在する(存在している)」ことを含意して(含んで)いると想定されている。しかし、数学的論理学においては、この含意を捨てて、「全てのAはBである」はたとえAが存在しなくとも真であると考える方がはるかに便利である(訳注:日常言語とことなり、論理学や数学では「慣用の原理」でそう考えます。たとえば、「AまたはBどっちかをあげる」と言えば、普通の意味ではAかBの一方だけと言うことになりますが、数学や論理学では、A,Bの両方の場合も含まれます)。これも全くただ単に便宜上の問題である。いくつかの目的にはある一つの規則(convention)が便利であり、他の目的には他の規則が便利である。我々は持っている目的によって、一つの規則をより好みます。けれども、私は、日常語は正確な論理を全く持たないというストローソン氏の陳述(同書、p.52)には同意する。
 ストローソン氏は、実際非常に論理的能力をもっているにもかかわらず、論理学に対して奇妙な偏見を抱いている。同書の p.43では、人生は論理学よりも偉大であるという趣旨の言葉を突然熱狂的に述べ(a sudden dithyrambic outburst 酒神礼賛の熱狂的な言葉)、それを使って、私の学説の全く誤まった解釈を与えている(のである)。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.7 I
It is not only as to names and as to falsehood that Mr Strawson shows his conviction that there is an unalterably right way of using words and that no change is to be tolerated however convenient it may be. He shows the same feeling as regards universal affirmatives — i.e. sentences of the form ‘All A is B’. Traditionally, such sentences are supposed to imply that there are As, but it is much more convenient in mathematical logic to drop this implication and to consider that ‘All A is B’ is true if there are no As. This is wholly and solely a question of convenience. For some purposes the one convention is more convenient, and for others, the other. We shall prefer the one convention or the other according to the purpose we have in view. I agree, however, with Mr Strawson’s statement (page 52) that ordinary language has no exact logic. Mr Strawson, in spite of his very real logical competence, has a curious prejudice against logic. On page 43, he has a sudden dithyrambic outburst, to the effect that life is greater than logic, which he uses to give a quite false interpretation of my doctrines.  Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII   More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-320.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.06

 哲学において、修正されなければならないのは、語彙よりも構文(統語法)である。我々が慣れている主語=述語論理(subject-predicate logic)が便利なのは、地球上の通常の温度では、ほぼ永続的な「物(もの)」が存在するという事実に依存している。これは、太陽のような高温の状態では真でないであろうし、また我々が慣れている温度においても,大雑把に言って正しいというだけである。(訳注:主語になることができる「物(もの)」は、地球上であれば固体のものは、かなり永続的な「物」であるが、たとえば、太陽上では一瞬のうちに燃えてカス状になってしまう、ということ)  私(ラッセル)の記述理論(theory of descriptions)は、記述を含む文を発話する人の心の状態の分析を目指したものでは決してなかった。 ストローソン氏は「フランス王は賢明である( ‘The King of France is wise’,)」という文を「S」と名づけ、私についてこういっている 「彼(ラッセル)」がこの分析にたどりついた方法は明らかに、この文を発話した人が真なる主張をしたと我々が言うであろうような状況とはどういうものであろうか,と自問するすることによってであった」。これは私のやっていたことを正しく述べたものであるとは私には思われない。仮に、ストローソン氏が --そんなことは断じてないであろうが( which god forbid )-- 軽率にも(rash 性急にも)自分が雇っている雑役婦(charlady = charwoman)に対して盗みをしたと責めた,と仮定してみよう。彼女は憤然として 「私は誰にも全く害を与えていない!」 (I don’t never done no harm to no one)。(この場合)彼女は美徳の鏡(典型)のような人物であると想定すると、彼女は真なる主張をしていたと私なら言うであろうけれども、ストローソン氏が彼自身の話し言葉において採用している構文(統語法)規則に従えば、彼女の言ったことは「私が全人類を害しつつあった時が少なくとも一度はあった」を意味したはずである。(訳注:「フランス王は賢明である」という場合、常識的に考えれば、「現在のフランス王は賢明である」と言っているはずであり、フランスに王制がひかれてからこれまでのフランス王は賢明である」などと言うはずはないが、ストローソン氏は同じような拡大解釈をせよと主張するようなものである、といったところでしょうか?)「ストローソン氏も(は)これが彼女の主張しようとしたことだったとは考えなかったであろうけれども、彼ならば同じ気持ち(センチメント)を言い表わすのに 彼女の使った語を使わなかったであろう。同様に、私は、大部分の人がたいていの時にもっているいくらか混乱した考えに代るべき、もっと分析された考えを見出そうと努めたのである。  ストローソン氏は、「フランス王は賢明である」という文は、もしフランス王が(そう発言した時に)存在していなければ偽であると私が言ったことに反対する。彼はこの文が有意義であり(significant )かつ真でないことを認める。けれども、彼はそれが偽であることを認めない。(訳注:歴代のフランス王のなかには賢明だった者もいる可能性がある、という気持ちでしょうか?)しかし、これは言語上の便宜の問題にすぎない。彼は「偽」という語が不変な意味を持ち,それ(その意味)を加減することは罪であると考えている。 しかしその意味(「偽」の意味)が何であるかを、慎重にも、語らない。 私はと言えば、意義あるすべての文はが真か偽か(のどちらか)であるように「偽」という語を定義することの方がより好都合だと考える。これは純粋に言葉の問題であり、私は日常的使用法の支持を主張するつもりは全くないが、彼もそれを主張することができるとは思わない。たとえば、どこかの国に、「宇宙の支配者は賢明である」ということを偽と考える人が公職に就くこと(hold public office )を禁ずるような法律があるとしよう。 公然と無神者を名乗る者が、ストローソン氏の説を利用して、自分は上の命題を偽とは考えないなどと言うならば、そういう人間はあまり信用できない人物とみなされるであろう、と私は思う。(訳注:「現在宇宙を支配している者がいる」ことを偽と主張する者は公職につけないとしたら・・・。)。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.6
In philosophy, it is syntax, even more than vocabulary, that needs to be corrected. The subject-predicate logic to which we are accustomed depends for its convenience upon the fact that at the usual temperatures of the earth there are approximately permanent ‘things’. This would not be true at the temperature of the sun, and is only roughly true at the temperatures to which we are accustomed. My theory of descriptions was never intended as an analysis of the state of mind of those who utter sentences containing descriptions. Mr Strawson gives the name ‘S’ to the sentence ‘The King of France is wise’, and he says of me ‘The way in which he arrived at the analysis was clearly by asking himself what would be the circumstances in which we would say that anyone who uttered the sentence ‘S’ had made a true assertion’. This does not seem to me a correct account of what I was doing. Suppose (which God forbid) Mr Strawson were so rash as to accuse his charlady of thieving: she would reply indignantly, ‘I ain’t never done no harm to no one’. Assuming her a pattern of virtue, I should say that she was making a true assertion, although, according to the rules of syntax which Mr Strawson would adopt in his own speech, what she said should have meant: ‘there was at least one moment when I was injuring the whole human race’. Mr Strawson would not have supposed that this was what she meant to assert, although he would not have used her words to express the same sentiment. Similarly, I was concerned to find a more accurate and analysed thought to replace the somewhat confused thoughts which most people at most times have in their heads. Mr Strawson objects to my saying that ‘the King of France is wise’ is false if there is no King of France. He admits that the sentence is significant and not true, but not that it is false. This is a mere question of verbal convenience. He considers that the word ‘false’ has an unalterable meaning which it would be sinful to regard as adjustable, though he prudently avoids telling us what this meaning is. For my part, I find it more convenient to define the word ‘false’ so that every significant sentence is either true or false. This is a purely verbal question; and although I have no wish to claim the support of common usage, I do not think that he can claim it either. Suppose, for example, that in some country there was a law that no person could hold public office if he considered it false that the Ruler of the Universe is wise. I think an avowed atheist who took advantage of Mr Strawson’s doctrine to say that he did not hold this proposition false, would be regarded as a somewhat shifty character.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-310.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.05

 このことは、私をさらに別の論点に導く(This brings me to a further point.)。(即ち、)「赤」は通常はひとつの述語とみなされ、ひとつの普遍者を指示するものとみなされる。(しかし、)私は哲学的分析のためには「赤」がひとつの主語(a subject)であるような言語の方を好む。 そして、赤を普遍者と呼ぶことは明確な誤まり(a positive error)であるとは言わないものの(while)、そう呼ぶことは混乱を招くとは言いたい。このことはストローソン氏が私の(ラッセルの)「論理的に悲惨な結果を生む固有名理論」と言うところのものと関係している( 「マインド」誌の1956年10月号, p.39)。この理論をなぜ「論理的に悲惨な結果を生む」ものと考えるのかその理由を彼は示そうとしない(does not deign to mention)。将来なにかの機会に、この点について、私を啓発してくださることを期待する(注:皮肉)。  このことは、ストローソン氏が全体として意見が一致しているように見える多くの哲学者と私(自身)との間にある根本的な(意見の)相違(a fundamental divergence )へと(私を)導く。彼ら(ストローソン氏の同調者達)は、日常の話し言葉(common speech 日常言語)が日常生活にとってだけでなく、哲学にとっても十分である(十分役に立つ)と信じている。私は、逆に、日常言語は不明瞭かつ不正確に満ちており、精密(precise)で正確(accurate)であろうとすればどうしても日常言語の修正が、その語彙についてだけでなく、その構文(文法)についても要求される(必要である)と信じている。物理学や化学や医学がそれぞれ、日常生活のための言語でない(ところの)言語を必要とすることは誰もが認める。哲学だけがどうして同様な精密さと正確さを求める同様のアプローチ(接近の仕方)が禁止されるのか、私には理由がわからない。例として、日常の言葉で最も普通な語を一つとってみよう。それは 「日(day)」という語である。この語の最も威厳のある用法(august use)は旧約創世記の第一章と十戒とに見られる。神聖な安息「日」(Sabbath ‘day’ )を守りたいとする欲求は、正統派のユダヤ教徒をして、「日」という語に、日常言語(一般的な話し言葉)においては与えられていない精密さ(precision)を与えるように導いた。彼ら「日」を(ある)日没から次の日没までの期間と定義した(のである)。天文学者は、また別の理由で精密さを求め、(もう)3種類の日を定めた。真正太陽日(the true solar day)、平均太陽日(the mean solar day;)、恒星日(the sidereal day)の3種類である。これらはそれぞれちがった用途を持っている。 真太陽日は、点燈時間を考える時に適切である(訳注:夏あるいは冬は1日何時間電気をつける必要があるか)。平均太陽日は、罰金が納められずに14日間の禁錮刑を宣告された場合に適切である。恒星日は、(月の)潮汐が地球の自転速度を減ずる程度を見積る場合に適切である。こ れら4種類の日戒律上の日、真太陽日、平均太陽日、恒星日は全て「日」という語の目常的使用法より精密である。最近の一部の哲学者達が明らかに好んでいるように見える(ところの)精密さの禁止ということに、天文学者達が従わなければならないとしたなら、天文学全体が不可能となるであろう。  専門的(学術的)用途のために、日常生活のための言語とは異なる、専門的(学術的)言語は不可欠である。言語の新規性(linguistic noveltie)に反対する人々は、もし百五十年前に生きていたならば、フィートやオンスを固執し、センチメートルやグラムにはギロチンの香(かおり)がすると主張したであろう(訳注:そんなことをしたらギロチンの刑にあってしまう)。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.5
This brings me to a further point. ‘Red’ is usually regarded as a predicate and as designating a universal. I prefer for purposes of philosophical analysis a language in which ‘red’ is a subject, and, while I should not say that it is a positive error to call it a universal, I should say that calling it so invites confusion. This is connected with what Mr Strawson calls my ‘logicallly disastrous theory of names’ (page 39). He does not deign to mention why he considers this theory ‘logically disastrous’. I hope that on some future occasion he will enlighten me on this point. This brings me to a fundamental divergence between myself and many philosophers with whom Mr Strawson appears to be in general agreement. They are persuaded that common speech is good enough, not only for daily life, but also for philosophy. I, on the contrary, am persuaded that common speech is full of vagueness and inaccuracy, and that any attempt to be precise and accurate requires modification of common speech both as regards vocabulary and as regards syntax. Everybody admits that physics and chemistry and medicine each require a language which is not that of everyday life. I fail to see why philosophy, alone, should be forbidden to make a similar approach towards precision and accuracy. Let us take, in illustration, one of the commonest words of everyday speech: namely, the word “day’. The most august use of this word is in the first chapter of Genesis and in the Ten Commandments. The desire to keep holy the Sabbath ‘day’ has led orthodox Jews to give a precision to the word ‘day’ which it does not have in common speech; they have defined it as the period from one sunset to the next. Astronomers, with other reasons for seeking precision, have three sorts of day: the true solar day; the mean solar day; and the sidereal day. These have different uses; the true solar day is relevant if you are considering lighting-up time; the mean solar day is relevant if you are sentenced to fourteen days without the option; and the sidereal day is relevant if you are trying to estimate the influence of the tides in retarding the earth’s rotation. All these four kinds of day — decalogical, true, mean, and sidereal — are more precise than the common use of the word ‘day’. If astronomers were subject to the prohibition of precision which some recent philosophers apparently favour, the whole science of astronomy would be impossible. For technical purposes, technical languages differing from those of daily life are indispensable. I feel that those who object to linguistic novelties, If they had lived a hundred and fifty years ago, would have stuck to feet and ounces, and would have maintained that centimetres and grammes savour of the guillotine.  Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII   More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-300.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.04

 私は、固有名の問題に関するストローソン氏の立場をどう理解したらよいか迷っている(at a loss 途方に暮れる)。彼が私について述べている時には、「論理的な固有名なるものは存在せず、また(この意味における)記述というものも存在しない」(p.26)と言う。しかし、「マインド」誌の1956年10月号でクワイン(注:(Willard van Orman Quine、1908- 2000)について述べている時には、彼はは全く異なった路線をとっている。クワインは、固有名は不要であり、それは常に記述によって代置できるという理論を唱えている(立てている)。この理論はいくつかの理由でストローソン氏に衝撃を与えたが、それらの理由は、私には、不明瞭に思われる。けれども、私はクワインの弁護はクワイン自身にまかせることにする。彼は自分を守ることが十分できる人物である。私の目的にとって重要なのは、ストローソン氏が括弧 に入れた「この意味における(‘in this sense’)」という語の意味を解明することである。文脈(前後の続き工合)から私が 発見しうる限り(では)、ストローソン氏が反対するのは、意味する何ものかがあるからこそ意味のある言葉が存在するのであり、それがなければ言葉ではなく、空っぽの雑音であるという信念である(彼はこの信念に反対する)。私自身は、もし言語(language)が事実に対して何らかの関係を持つためには、そういう語(words)が存在しなければならない、と考える。 そういう語が必要であることは、明示的定義(ostensive definition 実例を示して言葉の意味を伝える定義方法のひとつ)の手続きによって明瞭にされる。(たとえば)「赤」とか「青」とかいう語によって何が意味されるかを我々はいかにして知るだろうか? もし我々が赤や青を(生まれてから一度も)見たことがなければ、我々はこれらの語の意味を知ることはできない。我々の経験中に赤や青も存在しないとしても(if = even if)、もしかすると、「赤」や「青」という語に代置できるような何か手の込んだ記述を創案する(invent)ことができるかも知れない。たとえば、もし仮に、盲人を相手にする場合、赤く焼けた火ばし(a red-hot poker)を熱を感ぜられるほど盲人に近づけ、赤とはもし彼(その盲人)が見ることができるなら彼に見えるであろうところのものだと告げることができるであろう。しかし、もちろん、この場合「見る」という語に対してもまた、手の込んだ記述を代置させなえればならないであろう。盲人が理解しうるあらゆる記述は、彼が過去に現実にもったことのある経験を表現する語句(in terms of words)によってなされる記述でなければならないであろう。個人の語彙における基本語(fundamental words)がこういう直接な関係を事実に対して有するのでなければ、言語一般は事実への関係をもたないことになるであろう。ストローソン氏が「赤」という語にそれの指示する何ものかが存在しない場合でもその普通の意味を与えうることに(もしそうであれば)、私は反対する。

Chapter 18,n.4: Mr Strawson on referring, n.4 I am at a loss to understand Mr Strawson’s position on the subject of names. When he is writing about me, he says: ‘There are no logically proper names and there are no descriptions (in this sense)’ (page 26). But when he is writing about Quine, in Mind, October 1956, he takes a quite different line. Quine has a theory that names are unnecessary and can always be replaced by descriptions. This theory shocks Mr Strawson for reasons which, to me, remain obscure. However, I will leave the defence of Quine to Quine, who is quite capable of looking after himself. What is important for my purpose is to elucidate the meaning of the words ‘in this sense’ which Mr Strawson puts in brackets. So far as I can discover from the context, what he objects to is the belief that there are words which are only significant because there is something that they mean, and if there were not this something, they would be empty noises, not words. For my part, I think that there must be such words if language is to have any relation to fact. The necessity for such words is made obvious by the process of ostensive definition. How do we know what is meant by such words as ‘red’ and ‘blue’?  We cannot know what these words mean unless we have seen red and seen blue. If there were no red and no blue in our experience, we might, perhaps, invent some elaborate description which we could substitute for the word ‘red’ or for the word ‘blue’. For example, if you were dealing with a blind man, you could hold a red-hot poker near enough for him to feel the heat, and you could tell him that red is what he would see if he could see — but of course for the word ‘see’ you would have to substitute another elaborate description. Any description which the blind man could understand would have to be in terms of words expressing experiences which he had had. Unless fundamental words in the individual’s vocabulary had this kind of direct relation to fact, language in general would have no such relation. I defy Mr Strawson to give the usual meaning to the word ‘red’ unless there is something which the word designates.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-290.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.03

 私はまた、(同書p.101以下で)私が論じている事例 - その事例では、私は暗い夜にある友人と一緒に歩いている - にも言及しなければならない。 私と友とはお互い相手を見失い(lose touch with)、友は「君はどこにいるの?」と私を呼び、私は「ここにいるよ!」と答える。 一つの主張における自己中心的な要素を最小限にすることは、世界の科学的説明の本質であるが、この試みにおける成功は程度問題であり、また、経験的素材(empiriccal material)に関する場合は、それは決して完全なものではありえない。これは、あらゆる経験語の意味は、究極的には、明示的定義(訳注:ostensive definition 実例を示して言葉の意味を伝える定義法) に依存し、明示的定義は経験に依存し、経験は自我中心的であるからである。けれども、自我中心的語を使って、自我中心的でない何ものかを記述することはできる。このことが、我々が共通の言語(a common language)を用いることを可能にするのである。(訳注:我々が皆その人独特の言葉しか使えないのであれば、コミュニケーションが成り立たないが、共通の言語を持てればコミュニケーションは可能となる、ということ)  これら全て(の主張)は正しいかも知れないし、正しくないかも知れない。しかし、いずれにせよ、ストローソン氏はそれを自身の発明した理論であるかのように述べるべきではない。それに反して、- もしかすると彼は私の言ったことの主旨(purport)を理解しなかったのかも知れないが- 実際は、私は彼がこの論文を執筆する前に既にそれについて述べているのである。私が既にあげた理由により、ストローソン氏が自我中心性を記述の問題とを結びつけるは全くの誤まっていると考えるので、私はこれ以上、自我中心性については述べないことにしよう

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.3
I must refer, also, to the case that I discuss (page 101 ff.) in which I am walking with a friend on a dark night. We lose touch with each other and he calls ‘Where are you?’ and I reply ‘Here I am !’ It is of the essence of a scientific account of the world to reduce to a minimum the egocentric element in an assertion, but success in this attempt is a matter of degree, and is never complete where empirical material is concerned. This is due to the fact that the meanings of all empirical words depend ultimately upon ostensive definitions, that ostensive definitions depend upon experience, and that experience is egocentric. We can, however, by means of egocentric words, describe something which is not egocentric; it is this that enables us to use a common language. All this may be right or wrong, but, whichever it is, Mr Strawson should not expound it as if it were a theory that he had invented, whereas, in fact, I had set it forth before he wrote, though perhaps he did not grasp the purport of what I said. I shall say no more about egocentricity since, for the reasons I have already given, I think Mr Strawson completely mistaken in connecting it with the problem of descriptions.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-280.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.02

 ストローソン氏の論文には、私がかつて自己中心的語について考察したことを示すような言葉は一語も見当らない。また(still less いわんや)彼が自己中心的語について主張(擁護)する理論が、既に私が非常に長々とかつて相当詳しく述べた理論そのものであることを示す言葉は一語も見当らない(ラッセルの以下の著作を参照のこと:An Inquiry into Meaning and Truth, Chapter VII, and Human Knowledge, Part II. Chapter IV)。
 彼がそのような語(自己中心的語)について言うところの要点はそれらの語の指示するもの(言及するもの)が、それらの語が用いられる時と場所に依存するという,全く正しい陳述である。このことについては(ラッセル著)『人間の知識』(p.107) から一段落を引用するだけで足りる(であろう)。


「これ」(this) という語は、この語が用いられるその瞬間において、(当該人物の)注意の中心を占めている(occupy 専有している)いかなるものであっても、指示する(denote 指し示す)。自己中心的ではない語に関しては、一定なものは指示された対象における何ものかであるが、「これ(this)」はそれが用いられる機会ごとに異なった対象を指示する(指し示す)。(つまり、)この場合(自己中心的語の場合)一定なものは、指示される対象ではなく、その対象とその語の特定の使用との関係である。「これ」という語が用いられるときはいつでも、それを用いる人が何ものかに注意を向けており、その何ものかをその語は指示する(言及する)のである。(これに対し)自我中心的でない語の場合には、その語の用いられるそれぞれ異なった機会というものを区別する必要はない(のである)。しかし、自己中心的語についてはそれを区別しなければならない。というのは、自我中心的語の指示するものはその語の特定の使用に対して一定の関係をもつところのあるもの(なんらかのもの)だからである。」

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.01

 ストローソン氏 (Peter Frederick Strawson、1919- 2006:オックスフォード大学モードリン・コレッジ教授) は,1950年の「マインド」誌に、「(外的)指示について」 (On Referring) と名付けられた論文を発表した。この論文はアントニー・フルー教授の『概念的分析論集』 に再録されている。以下は、この再録本への参照(言及)である。
 この論文の主な目的は私(ラッセル)の記述理論を論駁することである。 私の尊敬する哲学者の中には、ストローソン氏の論文がその目的をよく果たしていると考えているということを私は発見している(見つけている)ので、ストローソン氏のこの論文に対する論争的な答弁が求められていると私は考えるにいたった(訳注:みすず書房版の野田訳では「私(ラッセル)の尊敬する何人かの哲学者たちは私の記述理論がその目的を果たしていると考えている」と訳出している。しかし、「it has achieved its purpose successfully」の”it”は「ストローソン氏の論文」であり、だからこそ「反駁が必要であると考えた」ととるのが常識的です。つまり、野田訳は誤訳と思われます)。 まず、ストローソン氏の議論のいかなる点においても、私は全く妥当性を認めることができないと言ってよいであろう。この無能力(妥当性がわからないこと)が私の老衰によるのか、何か他の原因によるのかは、読者の判断に委ねなければならない。
 ストローソン氏の議論の要点(gist 主旨)は、私が全く別のものとみなしている二つの問題 -- 即ち、記述の問題と自我中心性(egocentricity)の問題-- とを同一視することにある。 私はこれら二つの問題をそれぞれかなり詳細に論じてきたが、二つは別の問題であると考えてきたので、一方を考察している時には他方を扱ってこなかった。このためにストローソン氏は、私が自我中心性の問題を見落としている見せかけ(pretend 装うこと、ふりをすること)を可能とする(のである)。  彼のこの見せかけは、慎重に素材(material 材料)を選ぶことによって助けられている。 私が最初に記述理論を発表した論文の中で、私は特に2つの例を論じた。(即ち)「フランスの現在の王は禿頭である」(訳注:フランスは、当時、王政をひいていなかったことに注意)と 「スコットは『ウェイヴァリー』(という小説の)の著者である」(の2つの例である)。後者の例はストローソン氏を満足させない(does not suit)。従って、彼はまったくおざなりに言及しただけでほとんど無視する(のである)。「フランスの現在の王」については、彼は自我中心的語である「現在の(present)」という語に固執している。もし 私が「現在の」という語の代りに(時期を特定して)「1905年における」という語を代わりに置いたなら、彼の議論の全体が崩壊したであろうことが、彼には理解できないようである。  あるいは、もしかすると、-- ストローソン氏が書く前に私が(既に)述べていた理由か-- 彼の議論の全体とまでは言えないかも知れない(not quite the whole)。けれども、自我中心性が全く含まれていないような記述句の使用例を他に挙げることは難しくはない。(たとえば)次のような文にストローソン氏が自分の説を適用するのを見てみたい。(即ち)「-1の平方根は、-4の平方根の二分の一である。」、あるいは、「3の三乗は2番めの完全数の直前の自然数である。」(訳注:2番めの完全数=28/自然数nで自分より小さい正の約数の和がnに等しいとき,nを完全数という。 例えば,28の約数は28,14,7,4,2,1で28を除いた約数の和(14+7+4+2+1)は28となるので 28 は完全数) この二つの文のいずれにも自我中心的語は存在いが、記述句を解釈するという問題は自我中心的語が存在する場合と全く同じである。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.1
Mr P. F. Strawson published in Mind of 1950 an article called ‘On Referring’. This article is reprinted in Essays in Conceptual Analysis, selected and edited by Professor Antony Flew. The references that follow are to this reprint. The main purpose of the article is to refute my theory of descriptions. As I find that some philosophers whom I respect consider that it has achieved its purpose successfully, I have come to the conclusion that a polemical reply is called for. I may say, to begin with, that I am totally unable to see any validity whatever in any of Mr Strawson’s arguments. Whether this inability is due to senility on my part or to some other cause, I must leave readers to judge. The gist of Mr Strawson’s argument consists in identifying two problems which I have regarded as quite distinct — namely, the problem of descriptions and the problem of egocentricity. I have dealt with both these problems at considerable length, but as I have considered them to be different problems, I have not dealt with the one when I was considering the other. This enables Mr Strawson to pretend that I have overlooked the problem of egocentricity. He is helped in this pretence by a careful selection of material. In the article in which I first set forth the theory of descriptions, I dealt specially with two examples: ‘The present King of France is bald’ and ‘Scott is the author of Waverley’. ‘The latter example does not suit Mr Strawson, and he therefore entirely ignores it except for one quite perfunctory reference. As regards ‘the present King of France’, he fastens upon the egocentric word ‘present’ and does not seem able to grasp that, if for the word ‘present’ I had substituted the words ‘in 1905’, the whole of his argument would have collapsed. Or perhaps not quite the whole, for reasons which I had set forth before Mr Strawson wrote. It is, however, not difficult to give other examples of the use of descriptive phrases from which egocentricity is wholly absent. I should like to see him apply his doctrine to such sentences as the following: ‘the square-root of minus one is half the square-root of minus four’, or ‘the cube of three is the integer immediately preceding the second perfect number’. There are no egocentric words in either of these two sentences, but the problem of interpreting the descriptive phrases is exactly the same as if there were.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-260.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _09

 数理論理学(記号論理学)がなすことは、存在論的地位が疑わしい可能性があるようなところで存在論を確立することではなく、 むしろ、ひとつの対象を指示するという直截的な意味をもつところの語の数を減らすことであ る。すべての自然数が何らかの存在者であるということは、以前には普通な考えであった。そしてす べての自然数がそうだとまで言わない人でも、一という数がひとつの存在者であることは信じていた。 われわれはといえば、それが真でないという証明はできないけれども、数学がそういう考えの証拠を 何も与えないということを証明することはできるのである。  最後に、「普遍者は存在するか」という問いは多義的である。或る解釈では、たしかに「然り」と答 えることができる。他の解釈では、現在のところ決定的な答は可能でないように見える。私が普遍者 の存在論的地位について主張しうることは、『意味と真理との研究』の最終章に述べてある。(終)

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_9
What mathematical logic does is not to establish ontological status where it might be doubted, but rather to diminish the number of words which have the straightforward meaning of pointing to an object. It used to be a common view that all the integers were entities, and those who would not go so far as this were at least persuaded that the number 1 is an entity. We cannot prove that this is not the case, but we can prove that mathematics affords no evidence for it. Finally, the question ‘Are there universals?’ is ambiguous. In some interpretations, the answer is certainly ‘yes’ ; in others no decisive answer seems possible at present. What I have to say about the ontological status of universals is contained in the last chapter of An Inquiry into Meaning and Truth.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-250.HTM