自尊心の他に(besides ~に加えて)、それ以外の情熱も過ちの一般的な源泉(common sources ありふれた源泉)である。それらのなかで恐らく最も重要なのは恐怖心であろう(注:perhaps を使っているので断定まではしていない)。恐怖心は、時には、戦時に大惨事の噂を捏造(ねつぞう)したり、あるいは、恐怖の対象、たとえば幽霊、を想像したりすることによって、直接的に作用する。また時には、なにか慰めになるもの、たとえば不老不死の霊薬(elixir of life)といったものへの信仰とか、我々自身のための天国や我々の敵のための地獄への信仰を創り出すことによって、恐怖心、は間接的に作用する。恐怖心には多様な形態がある。死に対する恐怖(心)、暗闇に対する恐怖(心)、未知なものに対する恐怖(心)、群衆に対する恐怖(心)、及び、もっと具体的で明確な恐怖(specific terrors)から自ら隠している(目を隠している)人達に訪れる漠然とした一般的な恐怖心である。自分自身へのその人固有の恐怖(心)を自分で認めるまでは、また、そうして、それらの恐怖(心)の持つ神話造りの力に対して、困難な意志の努力によって自分自身を守るまでは、非常に重要な多くの事柄、特に、宗教的信念に関係するような事柄について、 真に考えることを期待することはできない。恐怖心は迷信の主要な源泉であり、また残酷さの主要な源泉の一つである。恐怖心を克服することは知慧の始まりである。それは、真理の探究においてもそうであるし、また価値ある人生態度をとろうとつとめる場合においても同様である。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.52
Other passions besides self-esteem are common sources of error; of these perhaps the most important is fear. Fear sometimes operates directly, by inventing rumors of disaster in war-time, or by imagining objects of terror, such as ghosts; sometimes it operates indirectly, by creating belief in something comforting, such as the elixir of life, or heaven for ourselves and hell for our enemies. Fear has many forms — fear of death, fear of the dark, fear of the unknown, fear of the herd, and that vague generalized fear that comes to those who conceal from themselves their more specific terrors. Until you have admitted your own fears to yourself, and have guarded yourself by a difficult effort of will against their mythmaking power, you cannot hope to think truly about many matters of great importance, especially those with which religious beliefs are concerned. Fear is the main source of superstition and one of the main sources of cruelty. To conquer fear is the beginning of wisdom, in the pursuit of truth as in the endeavor after a worthy manner of life.
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あなたの自尊心に媚びへつらう(お世辞をいう)意見にはくれぐれも用心(警戒)しよう(be wary of)。 男女とも、十中八九、自分自身の性のほうが(自分と異なる性よりも)優れていると堅く信じている。両方(両性)の側に証拠は豊富にある。もし、あなたが男性であれば、大部分の詩人や科学者は男性であると指摘することができる。もし、あなたが女性であれば大部分の犯罪者は男性であるとやり返すことができる。 これは本質的に解決不能な問題である。自尊心が(は)このこと(事実)を大部分の人々に気づかせない(conceal 隠す)。私達は皆、世界のどの部分(地域)からやってきたにせよ、自国民が他の全ての国民よりも優れていると信じている。各々の国民がそれぞれ特有の長所と短所( its characteristic merits and demerits)を持つことから(seeing that)、私達は、自分達の価値基準を調整し、自国民が持つ長所は真に重要なものであり、一方、その短所は比較的とるにたらないものであるとする(make out みせかける、ふりをする)。ここで再び理性的な人間は(なら)これは明白な正解のない問題だということを認めるであろう。人間が人間としての自尊心(self esteem)を扱うことはなおいっそう困難である。 なぜなら我々は何らかの人間でない精神(例:地球外の高等生命の精神/知性)でこの問題を徹底的に論じることができないからである。この一般的な人間のうぬぼれを扱う方法で私の知っている唯一のものは、人間(に関すること)は、宇宙の片隅の小さな惑星の生命における一つの短いエピソードにすぎないこと、そうして、詳しいことはわからないが(for aught we know)、宇宙の他の部分には、私達がクラゲよりもすぐれているのと同様に、私達よりも優れた存在(注:彼らからみれば人類はクラゲ程度)を含んでいるかもしれない(可能性がある)ということを自分に言い聞かせる(remind ourselves)ことである。
心理的想像力が十分ある人にとっては、自分と異なるバイアス(偏見/先入見)を持つ人との議論を想像することは良い案(plan)である。これは、論敵と実際に会話することと比較して、一つの、また、唯一の利点がある。(つまり)この一つの利点というのは、この方法は相手と時と場所とを同一にしなければならないという制限に服しなくてもよいということである。 マハトマ・ガンジーは鉄道や蒸気船や機械を嘆いている。(即ち)彼は(可能であれば)産業革命全体を御破算にしたい(なかったことにしたい/産業革命以前にもどりたい)のである。あなたはこのような意見を抱く人間にはまったく実際に会う機会を決してないかも知れない。なぜなら、西欧の国々ではたいていの人々は 近代技術を当たり前のここととして活用しているからからである。しかし、もしあなたがこの支配的な意見に同意するのが正しいかどうか確かめたいのであれば、あなたの心にうかんでくる論拠(arguments)を、ガンジーがそれらの論拠に反発していったかもしれない(可能性のある)ことを考慮してみることによって、テストするのが一つの良案であると気づくであろう。私はこの種の想像上の対話の結果として、実際に、自分の考えを変えさせられたことが時々あった。そして、そうでなくとも(short of this)、私は仮想の論敵が持っている可能性がある道理(reasonableness 合理性)を理解することによって、しだいにより独断的でなくなり、また過度な確信を持つことがより少なくなっていく自分を発見した(自分に気づいた)ことがしばしばあった(のである)。
けれども、外国の慣習を知るようになることは、 常に有益な効果(effect 結果/影響)をもつとは限らない。 17世紀に満州人(the Manchus)が中国を征服した時、] 中国人の間では女性が小さな足をもつこと(纏足 てんそく)が、また満州人の間では男性が辮髪(べんぱつ)にすること(wear pigtails)が慣習となっていた。各々がそれぞれの愚かな慣習をたちきるかわりに、お互いに相手の愚かな慣習をとりいれ、中国人は、1911年の革命において満洲人の支配をふりきるまで、 辮髪を続けた(のである)。
国民性についての一般化は、女性についての一般化とまったく同様によくあることであり、また、まったく同様に、根拠のないものである(unwarranted)。1870年まで、ドイツ人は眼鏡をかけた学者先生の(ような)国民であり、あらゆるものを自分達の内なる意識から発展させ、外部の世界(外界)についてはほとんど知らない国民である、と考えられていた(訳注:観念的な国民であり、頭でっかちということ)。しかし、、1870年より以降(訳注:1871年以後/1871年にプロイセンを中心としたドイツ帝国成立)はこの概念(考え)はきわめて急角度に修正さなければならなかった。フランス人は大部分の米国人から、絶えず好色な不義密通にふけっていると思われているようである。(たとえば)ウォルト・ホイットマン(Walter Whitman, 1819-1892:米国の民衆詩人で詩集『草の葉』は有名)は、彼のカタログの一つのなかで、「密かに(on the sly)長椅子(settee)で姦通するフランス人カップル」のことをのべている。
ほとんど皆、男女とも、女性の問題に関して何らかの全く正当化できない一般化を自分自身に許している(allows himself or herself)。既婚の男は、この問題にかんして一般化する際、自分の妻によって判断する。女性は自分自身によって判断する。男性の女性観の歴史を執筆することは面白いことだろう。古代においては、男性の(女性に対する)優位が疑問とされず、キリスト教倫理がまだ知られていなかった時には、女性は害がないものであるがかなり愚かである[とされ〕、女性についてまじめに考える男はいくらか軽蔑された。プラトンは、劇作家が女性の役を創作する際に、女性を模倣(マネ)なければならないのは、演劇に対する重大な異議(a grave objection)であると考えている。キリスト教の到来とともに女性は一つの新しい役割を得た。それは誘惑する女(the temptress)という役割である。しかし同時に、女性はまた聖人にもなることもできることを発見した(自己発見)。ビクトリア朝時代には、女性は、誘惑する女性としてよりも、聖人としての方が、ずっと強調された(訳注:ビクトリア女王が国王だったことが影響したか?)。ビクトリア朝時代の男は自分は誘惑されやすいなどと認めることはできなかった。女性の(男性よりも)優れた美徳は、女性を(汚い)政治から遠ざけておく理由の一つにされた。政治の世界は高尚な美徳は不可能であると考えられたのである。しかし、初期のフェミニスト達(女権拡張論者達)はこの論法をひっくり返し(逆にして)、女性の政治参加は政治を高尚なものにするだろうと主張した。それが幻想であることがわかってからは、女性の優れた美徳のことはあまり話題にされなくなったが、いまだなお、、女は誘惑するものだという、修道僧的な女性観に固執している男性が多数存在している。女性達自身は、大部分、自らを分別ある性(sensible sex)であると考え、 男達の衝動的な愚行から生じる害を取り除くことが自分達の役割だと考えている。私としては、 女性についてあらゆるの一般化を、それが女性に対して好意あるものであろうとなかろうと、また男性の側からのものであろうと女性の側からのものであろうと、あるいは昔のものであろうと現代のものであろうと、いずれも信頼しない。いず 不足からするものな のであろうと、いずれも信頼しない。これらはすべて同様に、経験不足から生じるものだと言うべきだあろう。