(種々の)人間の不幸(災い)は,二種類に分けることができるだろう。第一に,非人間的な環境によって被る不幸であり,第二には,他の人間によって被る不幸である。人類は知識や技術においてこれまで進歩をとげてきているので,第二の種類の不幸は,不幸(災難)全体の中で占める割合(パーセンテージ)を,絶え間なく増大させるようになっている。昔は,たとえば飢饉は自然のいろいろな原因によるものであり,それと闘うために人々は最善をつくしたが,多数の人々が飢えのために亡くなった。現在(も),世界の広大な地域が飢饉の恐れに直面しており,そのような状況は自然の諸原因によるところが大きいけれども,(飢饉の)主たる原因は人間的なものである。(過去)6年間にわたって,世界の文明諸国民は,みずからの最良のエネルギーをすべて相互殺戮に捧げた(注:第二次世界大戦のこと)。また,(現在)お互いに生かしあうことへ急に方向転換することは困難であると認めている。収穫をダメにし,農業機械類を取り壊し(注:兵器製造のための材料として?),船舶輸送の組織をこわしてしまった文明諸国民は,ある地域における農作物の不足を,他の地域における過剰作物によって救済する,ということがけっして容易でないことを認識(発見)している。もしも経済組織が,正常(通常)の機能を発揮しているとしたならば,そういった救済は容易にできたであろう。この例が示すように,人間(人類)の最悪の敵は今や(自然ではなく)人間(人類)である。たしかに,自然は,我々人間を今なお死すべき存在としている(遅から早かれ死ななければならない)。しかし,医学の進歩とともに,我々人間が天寿をまっとうするまで生きることが,ますます普通であるようになるだろう。我々は,永遠に生きることを願い,天国の終わりのない喜び -(つまり)神の奇蹟によってその単調さがけっしてうんざりするものにまでならない喜び- を期待するものだ,と想定されている。しかし,実際,もはや若くない正直な人に質問すれば,誰もが,たいてい次のように答えそうである。(即ち,これまで)この世の生活を味わってきたので,あの世で再び「新人(new boy)」として,生活を始めようとは思わない,と。従って,今後のことについては,(あの世のことではなく)人類が考慮すべきもっとも重大な害悪は,人類が自らの愚かさや悪意,あるいはその両方によって互いに他の上に生じさせる害悪であると,言ってよいであろう。
The misfortunes of human beings may be divided into two classes: First, those inflicted by the non-human environment and, second, those inflicted by other people. As mankind have progressed in knowledge and technique, the second class has become a continually increasing percentage of the total. In old times, famine, for example, was due to natural causes, and although people did their best to combat it, large numbers of them died of starvation. At the present moment large parts of the world are faced with the threat of famine, but although natural causes have contributed to the situation, the principal causes are human. For six years the civilized nations of the world devoted all their best energies to killing each other, and they find it difficult suddenly to switch over to keeping each other alive. Having destroyed harvests, dismantled agricultural machinery, and disorganized shipping, they find it no easy matter to relieve the shortage of crops in one place by means of a superabundance in another, as would easily be done if the economic system were in normal working order. As this illustration shows, it is now man that is man’s worst enemy. Nature, it is true, still sees to it that we are mortal, but with the progress in medicine it will become more and more common for people to live until they have had their fill of life. We are supposed to wish to live for ever and to look forward to the unending joys of heaven, of which, by miracle, the monotony will never grow stale. But in fact, if you question any candid person who is no longer young, he is very likely to tell you that, having tasted life in this world, he has no wish to begin again as a ‘new boy’ in another. For the future, therefore, it may be taken that much the most important evils that mankind have to consider are those which they inflict upon each other through stupidity or malevolence or both.
Source: Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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そういった信仰が、冷徹な科学によってすっかり置き換えられてしまえば、恐らく世界は、その興味のいくつかと多様性を失うことであろう(Pehaps + would)。もしかすると(Pehaps)、私達は、アブセダリアンズ(Abecedarians)のことを喜ぶことを自分自身に許してしまうかも知れない。彼らは、あらゆる冒涜的な(profane 神聖を汚す)学習を拒否し、ABCを学ぶのは邪悪であると考えたために、そう呼ばれたのである。そうして、私達は、ナマケモノがノアの洪水以後どうやってアララト山からペルーまでの旅 -大洪水以降、旅行は、移動の極度の遅延によってほとんど信じられないほどになった(はずである)- ができたのか疑問に思ったイエズス会士の当惑を楽しむかも知れない。
私は特に1820年頃、ニューヨーク州北部の湖畔に住んでいたある女予言者を称賛している。彼女は無数の信者達に向かって、自分は水の上を歩く力をもっていると宣言し、そうして、ある朝の11時に水の上を歩くことにしようと提案した(proposed to)。決められた時刻になると、信者達が何千人も湖畔に集まった。女予言者は信者達に話しかけ、次のように言った。「皆さんは、私が水の上を歩くことができると、本当に信じていますか?」。彼らは一斉に「はい、信じています」と答えた。「それなら」・・・「私が水の上を歩く必要はありません」と彼女は宣言した。そうして、彼らは皆大いに啓発されて帰宅した(とのことである)。
しかし、(話が)真面目になり過ぎつつある(ようである)。 迷信は、常に暗くて残忍なものであるわけではない。 迷信はしばしばが人生に陽気さをつけ加える(add to)。 私はかつて、(自称)オシリス神(注:the god Osiris 古代エジプトの死と復活の神で冥界の支配者)から連絡(a communication)を受けたことがあり、彼の電話番号が書かれていた。彼は当時ボストンの郊外に住んでいた。私は彼の崇拝者仲間に加わらなかったが(enroll myself)、彼の手紙は私に喜びを与えてくれた。私はしばしば自分はメシア(救世主)だと名乗る人達から手紙を受け取ってきているが、彼らはこの重要な事実(救世主であること)を私の講演のなかで言い忘れないようにと促していた。(米国で)禁酒法が施行されていた期間、聖餐式(the communion service)はブドウ酒(ワイン)ではなくウィスキーで祝福されるべきだと主張する一派(セクト)があった。この教義(tenet)は彼らに強い酒をふるまう法的権利を与え(注:信仰の自由!!)、この宗派は急速に成長した。イングランド(英国のイングランド)には英国人は(イスラエルの)失われた十支族だと主張する一派があり、またそれよりももっと厳格な宗派があり、彼らは英国人(の源流)はエフライム族とマナセ族にすぎないと主張する。これらのどちらかの派に属する人に出会うたびに、私は他方の信奉者のふりをする(profess myself)。すると、多くの面白い議論が生まれる。私はまた、大ピラミッドの神秘的な伝承を解読しようとして(deciphering its mystical lore)、大ピラミッドを研究する人達も好きである。この問題については 大著が多数執筆され、そのうちの何冊かは著者から私に贈呈されている(贈呈していただいている)。当該書籍は、大ピラミッドが常にその本が出版された日までの世界の歴史を正確に予言しているが、その本の出版以後(の世界の歴史)について)信頼性が低くなるというのは、特異な事実( a singular fact)である(訳注:著者は、その本の出版日までに起こったことは大ピラミッドの伝承とつじつまのある解釈を施すが、出版以後はそれがかなわなくなるという皮肉か?)。以後は信頼度が低くなる。 一般的に言って、(大ピラミッド本の)著者は、(大ピラミッドが建設されて)すぐに、エジプトに戦争が起こり、それに続いてアルマゲドン(注:新約聖書「ヨハネの黙示録」16章16節に記述された、終末に行われる善と悪の最終決戦)と反キリストの到来が続くと予想するが、この頃までに非常に多くの人々が反キリスト者として認識されてしまっているため、読者は不本意ながら懐疑主義に駆り立てられる(のである)。
集団的な恐怖(心)は群れの本能(群衆本能)を刺激する。そして、その群れの一員とみなされない人々に対する凶暴性(残忍さ)を生み出す傾向がある。フランス市民革命においても同様であり、革命時、外国の軍隊に対する恐怖(心)は、恐怖政治を生み出した(のである)。ソビエト政府は、(政権樹立後の)始めの数年間にあれほどの敵意に会わなければ、狂暴さはよりすくなっていたであろう。
強い恐怖(心)の影響下では、ほとんどの人が迷信的になる。ヨナ(注:旧約聖書なかの予言書の一つであるヨナ書の主人公/ここでは「ヨナ書」そのもの)を船外に投棄した船員達は、ヨナの存在が嵐の原因であり、自分達の船を難破させようとしていると想像した(のである)。これと同様の精神状態で、日本人は東京の震災(注:関東大震災)の時、朝鮮人と自由主義者(例:大杉栄)を虐殺をした。ローマ人がポエニ戦争(注:紀元前264年から146年の間に、三次にわたって行われた、ローマとカルタゴの戦い)で勝利した時、カルタゴ人は、自分達の不運は、モロク崇拝(注:Molochは、古代の中東地域で崇拝されたとされる神格で、主にカナン人やその周辺の民族によって崇拝され、子供の生け贄を捧げる儀式を行っていた)に忍び込んだある種のだらしなさ(laxity)によるものだ、と確信するにいたった。 モロクは子供を犠牲として捧げられることを好み、貴族の子供をより好んだ。しかし、カルタゴの貴族の家族は、自分達の子供のかわりに平民の子供を使うという慣行を採用した。これが神の不興を買った(機嫌を損ねた)と考えられたのである。そうして、最悪の瞬間においては、最も高位の貴族の子供達でさえ、火のなかで適切に(duly)焼かれてしまった。 不思議なことに、ローマ人は敵側におけるこのような民主的改革にもかかわらず勝利したのである。