
以下は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の幸福論(The Conquest of Happiness)に出てくる英文と、DeepL、Google 翻訳、及び、私による日本語訳(合計3種類)です。
このなかで、「Fear for others」を、DeepL、Google 翻訳も、「他者への恐怖」と日本語訳していますが、これは誤訳と思われます。「Fear for others」は「他人に対し恐怖心を抱いている」のではなく、「他人について心配している」あるいは「他人に対して不安を抱いている」というのであり、従って、「他人を心配する(こと)」(注:fear 心配する)と訳すべきだと考えますが、どうでしょうか?
つまり、「fear of A」は「Aの恐れ」「Aを恐れること」(ここでは fear は名詞 noun)であるのに対し、「fear for A」は「Aを心配する」(ここでは fear は動詞verb)ということではないでしょうか?
大学受験予備校の英語の講師の立場で、わかりやすく説明してください。
<ラッセルの英文>
Fear for others is only a shade better than fear for ourselves. Moreover it is very often a camouflage for possessiveness. It is hoped that by rousing their fears a more complete empire over them can be obtained. This, of course, is one of the reasons why men have liked timid women, since by protecting them they came to own them.
<<DeepLによる日本語訳>>
他者への恐怖は、自分への恐怖に比べれば、ほんの少しましです。しかもそれは、独占欲のカモフラージュであることが非常に多い。恐怖心を煽ることで、より完全な支配を得ようとするのである。もちろん、これは男性が臆病な女性を好む理由の一つであり、彼女たちを守ることによって、彼女たちを所有するようになったからである。
<<Google 翻訳による日本語訳>>
他人への恐怖は、自分自身への恐怖よりもわずかに優れています。 さらに、それは独占欲をカモフラージュする場合が非常に多いです。 彼らの恐怖を呼び起こすことによって、彼らに対するより完全な帝国が得られることが期待されています。 もちろん、これが、男性が気弱な女性を好きになる理由の 1 つです。なぜなら、女性を守ることで彼女を自分のものにするようになるからです。
<<私の日本語訳>>
他人に対する心配(他人のために心配すること)は、自分自身について心配するよりも、ほんの少しだけ(only a shade)ましなだけである。さらに、それ(他人に対する心配)は、しばしば、所有欲のカムフラージュになっている。(即ち)他人の不安をかき立てることによって、他人をもっと完璧に支配する力を得られると期待されるからである。これは、これまで男性が臆病な女性を好んできた理由のひとつであることは言うまでもない。なぜなら、男性は女性を保護する(守る)ことによって女性を所有するに至ったからである。
<ChatGPTの回答>
「Fear for others」という表現は、「他人に対して心配や不安を抱く」という意味です。日本語で「恐怖」と訳されることがありますが、正確には「恐怖」ではなく、「心配」や「不安」といった感情です。
「Fear of A」という表現は、「Aを恐れること」と訳されます。ここでの「fear」は名詞として使われています。例えば、「fear of heights(高所恐怖症)」のように使われます。
一方、「fear for A」は、「Aを心配する」と訳されます。ここでの「fear」は動詞として使われています。例えば、「I fear for his safety(彼の安全を心配している)」のように使われます。
したがって、Bertrand Russellの文で言及されている「Fear for others」は、「他人について心配している」という意味です。これは「他人への恐怖」と訳されることがありますが、正確には誤解を招く表現です。
その文脈では、他人を心配することが自己の独占欲を隠すためのカムフラージュであると述べられています。また、男性が臆病な女性を好む理由の一つは、女性を守ることで彼女たちを所有するようになるからだとも述べられています。
したがって、「Fear for others」は、「他人を心配する(こと)」と訳すのが適切です。
以下は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)が親しい米国人女性(初婚相手の妻の友人)の Lucy Donnelly に出した手紙の一節(英文)と、DeepL、Google 翻訳、みんなの自動翻訳、及び私による日本語訳(合計4種類)です。
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「自然」および「自然的」なものへの信念(信仰)は多くの間違いの源泉である。 それは、医学(医術)において、かつては常に強力に作用しており、ある程度はいまだに作用している。人体は、何もしないでも、自らの病気を治す一定の力(自然治癒力)をもっている。 小さい切傷は通常(なにもしなくても)治り、風邪はどこかにいってしまい(治り)、重い病気さえ、時折、治療せずに消えてしまう(治る)ことがある。しかしこれらの場合でさえ、自然(の治癒力)を支援することは大変望ましい(ことである)。 消毒しなければ敗血症(septic)になるかも知れないし、風邪は肺炎(pneumonia)になるかもしれず、また重い病気も、僻地の探検家や旅行者によって手当てもなしに放っておかれるだけで、彼らに他に選択肢はまったくない(彼らはどうしようもない)。「自然である」 と思われるようになった多くの慣行(行為)、たとえば、衣服を着ることや洗濯することは、当初は、「不自然もの」であった。人間は、服を着るようになる前、寒い気候のなかで生きることは不可能だと気づいたに違いない。ほんの少しの(a modicum of )清潔さもないところでは、人々(住民)はチフスなど様々な病気に苦しむが、西欧諸国民は(今では)それらの病気を免れている(exempt 免除されて)。ワクチン接種(種痘)は、「不自然」だとして反対された(現在でも一部の人々によって反対されている)。しかし、そのような反対はまったく首尾一貫したものではない。というのは、折れた骨は「自然な」振る舞いによって元通りにすることができるとは誰も思わないからである。料理された食物を食べることは「不自然」である。家を暖房することもそうである。(古代)中国の哲学者の老子は、ほぼ紀元前六百年頃の人と言い伝えられているが、彼は(人口の)道路、橋および舟を「不自然な」ものとして反対した。そうして、そのような人間の造った機械的なものを嫌悪して(in his disgust)中国をさり、西方の未開人のなかで暮らした。あらゆる文明の進歩は、それが新しいものであるうちは、、不自然なものとして非難されてきた(のである)。
運の良い日と運の悪い日についての迷信はほとんどどこにもみられる(universal)。古代においては、それらの迷信が将軍達(generals)の行動を支配した。(現代の)我々の間でも、金曜日と13という数に対する偏見は非常に強い。(たとえば)、船乗りは金曜日には船に乗りたがらない、多くのホテルには13階がない。金曜日と13についての迷信はかつて、賢いと評判の人達によって信じられたが、現在ではそのような賢い人達は、それらの迷信を無害で愚かなもの(harmless follies)とみなす。しかし、今から 二千年もたてば、我々の時代の賢い人達がもっている多くの信念も、恐らく、愚かなものに思われるようになるであろう。人間は信じやすい動物(a credulous animal,)であり、何かを信じていなければならない。(つまり)信念に対する十分な根拠がない場合には、人間は不十分な根拠で満足するであろう。
アリストテレスはその名声(評判)にもかかわらず、不合理(な発言)に満ちている。彼は、子供は冬、風が北から吹く時に授かるべきだ(妊娠すべきだ)とか、人々があまり若くして結婚すると女の子が生まれるだろう、と述べている。彼はまた、次のように語っている。即ち、女性の血液は男性の血液よりも黒い;豚はハシカにかかりやすい唯一の動物である;不眠症にかかっている象はその肩を塩やオリーブ油やお湯でこするべきである;、女性は男性よりも歯の本数が少ない、等々を我々に教える。それにもかかわらず、アリストテレスは大多数の哲学者によって知慧の典型だと考えられている(のである)。
大雑把に言えば、罰(を与えること)は正気で行われる犯罪を防ぐことはできそうであるが、何らかの心理的異常から生じる犯罪を防ぐことはできそうにない。このことは現在では部分的には認識されている。 (即ち)我々は、合理的な私利私益(自己利益)と言ってよいものから生じる単純な窃盗と、何らかの気が変なことの印である窃盗症とを区別する。また殺人狂(homicidal maniacs)は通常の殺人のように扱うことはできない。 しかし 性的逸脱(sexual aberrations)は非常に多くの嫌悪感をかきたてるために、懲罰的に扱うよりも医学的に扱うことは、いまだ(依然として)、不可能である。(侮辱・不当な扱い・不正などに対する)憤慨(indignation)は、概して、有用な社会的な力(の一つ)であるが、医療技術のみが治すことができる病気(maladies)の犠牲者に対してそれ(憤慨)がむけられる場合には有害なものとなる。
「先進的な思想家」のなかには、従来の意見と異なる者なら誰でも正しいに違いないという考えの人もいる。これは妄想である。 もしそうでない(妄想でない)としたら、真理は現実よりももっと容易に手にいることだろう。誤りをおかす可能性は無限にあり、また、流行遅れの真理(unfashionable truths)よりも流行遅れの誤りをとりあげる変人(注:crank つむじ曲がりの人)のほうがより多い(more ~ than に注意)。 私はかつて一人の電気技師にあったことがあるが、彼が最初に私に言ったのは次の言葉であっ た。「今日は! 信仰療法(faith-healing)には二つの方法がありましてね、一つはキリストによって行われたもので、もう一つは大部分のクリスチャンサイエンスの信者によって行われたものです。私はキリストによって行われた方法をやります(注:つまり、大多数の人たちがやらないもののほうがより正しいとその電気技師は考えていたようだ、ということ)」。 間もなくして、彼は不正な貸借対照表(fraudulent balance-sheets)を作成した罪で刑務所に入れられた。法律は、信仰が会計の領域に侵入するのを親切に見てくれない(のである)。私はまた、哲学に傾倒して一つの新しい論理学を教えた、ある著名な精神科医(ドクター)を知っていたが、彼はその論理学を自分の精神病の患者から学んだと、率直に告白した。彼が亡くなった時、彼はその新しい科学的方法を教えるための教授職(講座)を創設したいという遺言(will)を遺したが、不幸なことに、財産をまったく遺さなかった(no assets)。算術は精神錯乱者の論理学に反抗的であることがわかった(のである)。ある時、一人の男がやってきて、自分は哲学に興味をもっているので、私の書いた本のなかから何冊かを推薦んしてくれと求めた。私は何冊かを推せんしてあげた。しかし、彼は、翌日やってきて、推薦された本のうち一冊を読んだが理解できる陳述はたった一つしかないということがわかった、また、その一つは、自分には間違いのように思われる、と言った。私はそれは何かと尋ねると、それはジュリアス・シーザーは死んだという陳述だと言った。どうしてそれに同意できないのかと聞くと、彼はきっとなって言った。「それは、私がジュリアス・シーザーだからです」。これらの例は、風がわり(eccentric)であることでそれが正しいことの確認はできない、ということを十分示しているであろう。
科学的に人間を操ることができることを、及び、政府は自らの思い通りに大衆をあっちへ向けたりこっちへ向けたりすることができるということを、発見したことは、我々の不幸の原因の一つである。精神的に自由な市民の集団と、現代的な宣伝手法によって型づくられた共同体(社会)と間には非常な相違があるが、それは 原料資材の集積物と(それで出来上がった)戦艦(軍艦)との間にある大きな違いと同様である。当初は、全ての人々が読み書きできるようにするために一般化(義務化)された教育が、全く異なる目的に奉仕することが可能だということが発見された。ナンセンスな事柄を(国民に)注入することによって、教育は国民を統合し、集団的な熱狂を生みだす。もし全ての政府が同様のナンセンスを教えるのであれば その害はそれほど大きくはないであろう。不幸なことに、各々の国がそれ自身の商標をもっており、この商標の多様性が異なる信条の熱狂的な信者達の間に敵意が生まれるのを助ける(のである)。もしこの世界に、 いつか平和がありうるとすれば、諸政府がいかなる独断的教条をも教えないことに意見が一致するか、 あるいは、全ての同一の教条を教えることに意見が一致するか、のいずれかであるだろう。前者はユートピア的な理想であるという心配はあるが、ひょっとすると、諸政府は一団となって、全ての公民はいずこにあっても完全に美徳をそなえ、完全に賢明であると教えることに意見を一致させることができるかも知れない。もしかすると、次の戦争の後になって、生き残った政治家達は、なにかそのようなプログラムにもとづいて結合するのが分別あることだと知るかもしれない。