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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n7

 世界には(単一ではなく)複合的(である)と見えるものが多くある。もちろん複合的でないものが存在するかもしれないが、(今)その点についてひとつの見解を持つ(立てる)必要はない。 あるものが複合的である場合、それらものは諸部分と諸部分の間の関係からなっている。(たとえば)テーブルは(数本の)足と平らな上面からなっている。 ナイフは柄と刃からなっている。事実は - (今)私が使っている言葉としての事実は - 常に、ひとつの全体のなかの諸部分の関係、あるいは、単一物の諸性質からなっている。事実とは、要するに(in a word)、完全に単純なもの(if anything もしあるとして)を除けば、存在するもの全てである。二つのものが相互に関係を持つとき、それらは一つのものとみなしてよいところの一つの複合物を形成する。 「事実」という語は、諸部分がつくる複合的な全体を言い表わす(表現する)よりも、むしろ諸部分の間の分析された関係を言い表わすのに用いる方が便利である。 文はそれが真である場合、そのような関係を言い表し、偽である場合にはそのような関係を言い表さない。 爆発的に一語を用いる場合(訳注:たとえば、「火事だ!」)は別として、二つ以上の語からなる文は全て、複合物についてのある程度の分析を具現化している(具体的に表現している)(訳注:All sentences that consist of more than one word used explosively embody の訳文は要注意)。もしいくつかの複合物がすべてひとつの共通な構成要素をもつ とすれば、そのことは、それら複合物を分析する文がすべてひとつの共通語を含むという事実によって示されるであろう。たとえば次の文をとってみよう。 「ソクラテスは賢明であった。」 「ソクラテス はアテネ市民であった。」 「ソクラテスはプラトンを愛した。」 「ソクラテスは毒人参(hemlock)を飲んだ。」  これらの文は全て「ソクラテス」という語を含み、これらの文を真にする事実は全て、ソクラテスという人間を一つの構成要素として含んでいる。  これが、これらの文がソクラテス「についての(about)」ものであると我々が言う時に、意味していることである。ソクラテスは、これらの文を真にする諸事実の中に,分析されない一つの全体(an unanalysed whole)としてはいっている。 しかし(分析されない全体と言っても)もちろん、ソクラテス自身は複合物(複合体)であったのであり、我々はこの複合性を主張する他の文を作ることができる。たとえば「ソクラテスは獅子鼻(snub-nosed)であった」とか「ソクラテスは二つの脚をもっていた」とかいう文である。これらの文(複数)は与えられた一つの全体を分析している(ものである)。ある時期に分析がどこまでなされるかは、その時の科学の状態によって決まる(注:関係する科学が進めば進むほどいろいろなことを言えるようになる)。一つの全体の諸部分が相互に関係する仕方は、その全体の「構造」を構成する。この点については、『人間の知識』(pp.267-269)から次の一節を引用しておこう。(続く)

 世界には(単一ではなく)複合的(である)と見えるものが多くある。もちろん複合的でないものが存在するかもしれないが、(今)その点についてひとつの見解を持つ(立てる)必要はない。 あるものが複合的である場合、それらものは諸部分と諸部分の間の関係からなっている。(たとえば)テーブルは(数本の)足と平らな上面からなっている。 ナイフは柄と刃からなっている。事実は - (今)私が使っている言葉としての事実は - 常に、ひとつの全体のなかの諸部分の関係、あるいは、単一物の諸性質からなっている。事実とは、要するに(in a word)、完全に単純なもの(if anything もしあるとして)を除けば、存在するもの全てである。二つのものが相互に関係を持つとき、それらは一つのものとみなしてよいところの一つの複合物を形成する。 「事実」という語は、諸部分がつくる複合的な全体を言い表わす(表現する)よりも、むしろ諸部分の間の分析された関係を言い表わすのに用いる方が便利である。 文はそれが真である場合、そのような関係を言い表し、偽である場合にはそのような関係を言い表さない。 爆発的に一語を用いる場合(訳注:たとえば、「火事だ!」)は別として、二つ以上の語からなる文は全て、複合物についてのある程度の分析を具現化している(具体的に表現している)(訳注:All sentences that consist of more than one word used explosively embody の訳文は要注意)。もしいくつかの複合物がすべてひとつの共通な構成要素をもつ とすれば、そのことは、それら複合物を分析する文がすべてひとつの共通語を含むという事実によって示されるであろう。たとえば次の文をとってみよう。 「ソクラテスは賢明であった。」 「ソクラテス はアテネ市民であった。」 「ソクラテスはプラトンを愛した。」 「ソクラテスは毒人参(hemlock)を飲んだ。」  これらの文は全て「ソクラテス」という語を含み、これらの文を真にする事実は全て、ソクラテスという人間を一つの構成要素として含んでいる。  これが、これらの文がソクラテス「についての(about)」ものであると我々が言う時に、意味していることである。ソクラテスは、これらの文を真にする諸事実の中に,分析されない一つの全体(an unanalysed whole)としてはいっている。 しかし(分析されない全体と言っても)もちろん、ソクラテス自身は複合物(複合体)であったのであり、我々はこの複合性を主張する他の文を作ることができる。たとえば「ソクラテスは獅子鼻(snub-nosed)であった」とか「ソクラテスは二つの脚をもっていた」とかいう文である。これらの文(複数)は与えられた一つの全体を分析している(ものである)。ある時期に分析がどこまでなされるかは、その時の科学の状態によって決まる(注:関係する科学が進めば進むほどいろいろなことを言えるようになる)。一つの全体の諸部分が相互に関係する仕方は、その全体の「構造」を構成する。この点については、『人間の知識』(pp.267-269)から次の一節を引用しておこう。(続く)

Chapter 13: language, n.7
Many things in the world can be seen to be complex. There may be things which are not complex, but it is unnecessary to have an opinion on this point. When things are complex, they consist of parts with relations between them. A table consists of legs and a flat top. A knife consists of a handle and a blade. Facts, as I am using the word, consist always of relations between parts of a whole or qualities of single things. Facts, in a word, are whatever there is except what (if anything) is completely simple. When two things are interrelated they form together a complex which may be regarded as one thing. It is convenient to use the word ‘fact’ to express the analysed connection of the parts rather than the complex whole that they compose. Sentences express such relations when the sentences are true, and fail to express them when the sentences are false. All sentences that consist of more than one word used explosively embody some analysis of a complex. If a number of complexes all have a common constituent, this may be shown by the fact that the sentences analysing them all contain a common word. Take, for example, the following sentences: ‘Socrates was wise’; ‘Socrates was Athenian’; ‘Socrates loved Plato’; ‘Socrates drank the hemlock’. All these sentences contain the word ‘Socrates’, and all the facts that make them true contain the man Socrates as a constituent. This is what we mean when we say that the sentences are ‘about’ Socrates. Socrates enters into the facts that make these sentences true as an unanalysed whole. But Socrates was, of course, himself complex, and we can make other sentences in which this complexity is asserted, as, for example, ‘Socrates was snub-nosed’ or ‘Socrates had two legs’. Such sentences analyse a given whole. How far the analysis can be carried at any one time depends upon the state of science at that time. The manner in which the parts of a whole are interrelated constitutes the ‘structure’ of the whole. As to this, I will quote the following passage from Human Knowledge (pages 267-9):  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n6

 『数学の諸原理』(『数学原理(Principia Mathematica)』ではなく、1903年に出版した The Problems of Mathematics の方)を執筆していたときに、私は文について困惑し始めた。当時 私の関心をひいたのは、特に動詞の機能(働き)についてであった。当時重要だという印象を私に与えたのは、動詞が文に統一を与えることであった。「A は B より大である」という文は、いくつかの語を含むがゆえに複合的であり、また、仮にその文が真であるとすれば、その文を真ならしめるところの事実の中にも、文の複合性に対応する(事実の)複合性がなければならないということは、当時 ー今もそうであるが- 明らかであると私には思われた。この種の複合的な統一(性)に加えて、文はまた、真と偽の二元性(二重性)というもうひとつの性質をもっている。これら二つの理由により、 文の意義 (significance) を説明することの中に含まれる問題は、対象語の意味 (meaning) を定義することの中に含まれる問題よりも、いっそう困難かつ重要である。精神の分析』の中では、このような文の諸問題について十分に扱わなかったが、『意味と真理との探求』の中では、この領域において、十分な説明を与えようと努力した。  多くの現代哲学者が形而上学的でありすぎるとみなすところのある一定の諸前提を置くことなしには、 真と偽とに関する妥当な理論を構築(構成)することは不可能である、と私は考える(←可能であるとは考えない)。(諸)事実というものが存在し、 そうして、「真理」は事実とのある種の関係であり、他方、「虚偽」は別種の関係であると言わなければならない、と私は考える。我々(人間)は事実を知ることは決してないと偽って主張する(pretend ふりをする)控えめな不可知論は馬鹿げている(不合理である)、と私は考える。私が痛みを感じているとき、あるいは私が音を聞いたり、太陽を見たりしているときに、それらを私は知っていないなどと主張すること(偽って言うこと/ふりをすること)は、理論が現実感を全て抹殺してしまった人にとってのみ可能なことである。さらに、私が今拒否している見解に最も熱心に固執している人でさえ、文は語からなっていることを認めるであろうし、ひとつの文を口にしたり聞いたりすることがまさに彼らが不可知とする種類の事実のひとつであることを、十分な理由をもって否定することはできない。言語は歩いたり食べたり飲んだりすることと同様、身体的行動の一形式なのであ って、歩いたり食べたり飲んだりすることに関して我々が知りえないことは全て、それらはまた、言語についても我々は知ることはできない(のである)。

Chapter 13: language, n.6
I began to be puzzled about sentences when I was writing The Principles of Mathematics, and it was at that time particularly the function of verbs that interested me. What struck me as important then was that the verb confers unity upon the sentence. The sentence ‘A is greater than B’ is complex since it contains several words, and it seemed plain to me, as it still does, that there must be a corresponding complexity in the fact which makes the sentence true, if it is true. In addition to this kind of complex unity, a sentence has another property which is the duality of truth and falsehood. For these two reasons, the problems involved in explaining the significance of sentences are both more difficult and more important than those involved in defining the meaning of object-words. In The Analysis of Mind I did not deal at all fully with these problems, but in An Inquiry into Meaning and Truth I endeavoured to offer adequate explanations in this region. I do not think it is possible to construct a tenable theory of truth and falsehood without certain presuppositions which many modern philosophers consider unduly metaphysical. I think one must say that there are facts and that ‘truth’ consists in one sort of relation to facts while ‘falsehood’ consists in another sort of relation. I think the kind of modest agnosticism which pretends that we never know facts is absurd. To pretend that I do not know when I am feeling pain, or when I hear a noise, or see the sun, is the kind of thing that is only possible for those in whom theory has killed all sense of reality. Moreover, even the most passionate adherents of the view that I am rejecting will admit that sentences consist of words, and cannot well deny that uttering or hearing a sentence is a fact of just the kind that they regard as unknowable. Language is a form of bodily behaviour like walking or eating or drinking, and whatever we cannot know about walking or eating or drinking we also cannot know about language.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n5

精神の分析』において、私は心的出来事の「素材(材料/要素)」(stuff)は全て感覚と心像(images 心/脳の中のイメージ)のみからなるというテーゼ(命題)を主張した(argued)。 このテーゼ(主張)が十分妥当なものであるかどうかわからないが、私は今でも、言語の使用の多くが心像(images)を導入することなしには説明できない(inexplicable わけがわからない)と固く信じている。行動主義者達は、心像が外部から観察できないものであるという理由から、心像の存在を認めることを拒否する。しかし,それは、記憶や想像を説明しようとする時、彼らに多くの困難をもたらす。『精神の分析』を書いた時には、私は欲求(欲望)を行動主義的に説明することが可能であると思っていたが、今ではそれについては大きな疑いを抱いているい。けれども、感覚に現前していないものに関する言語使用を説明するためには心像(を想定すること)が必要であるということについて『精神の分析』で述べたことに、私はいまでも支持している(adhere to 信念を固く守る)。  私はひとつの対象語の理解を成り立たせるものは何か(について)、以下の6つの見出しのもとに要約した。 (1) 適切な状況において 適切な機会(場合)に、適切に語を使用すること。 (2) その話を聞いたときに適切に行動すること (3) その語を、行動に対する適切な効果をもつところの他の語(たとえば異なる言語における,対応する語)と結びつけること。 (4) その語を学ぶ際に、その語が「意味する」 ひとつあるいは複数の対象とその語を結びつけること (5) ある記憶心像(memory-image)を記述あるいは想起する(思い出す)ためにその語を使用すること (6) ある想像心像を記述あるいは作り出すためにその語をもちいること  私はこれら6つの要点語一般に適用される(当てはまる)かのように述べたが、実際は、非対称語に対しては修正を加えなければ適用されない(当てはまらない)。けれども、我々が、文と、文の部分としてしか使用できないような語との考察に進むや否や、新たな問題が現れる。我々は「火事(だ)!」「きつね(だ)!」とかいうような語を、文の中に入れないで、感嘆口調で使用することが可能である。しかし、そのように孤立して使用できな言葉が非常に多く存在している。(たとえば)「地球は月よりも大きい The earth is greater thin the moon.」という一文をとりあげてみよう。この文で “the” ,”is”,”than”という語は、文の一部である場合にのみ意味を獲得する。 もっとも “greater(一層大きい」という語についてはそのことを疑う人がいるかも知れない。 最初に馬を見ていて急に象を見るとすれば、我々は「もっと大きい!」 と叫ぶかもしれない。しかし、皆これはひとつの省略した言い方であると認めるだろう、と私は考える。 文を前提とする語が存在するという事実は、最初に文を考察することなしには、あるいはともかくも、文によってどのような心的出来事が表現されているかを考察することなしには、意味の分析をそれ以上進めることは不可能となる(のである)。

Chapter 13: language, n.5 In The Analysis of Mind I argued the thesis that the ‘stuff’ of mental occurrences consists entirely of sensations and images. I do not know whether this thesis was sound, but I am still quite convinced that many uses of language are inexplicable except by introducing images. Behaviourists refuse to admit images because they cannot be observed from without, but this causes them difficulties when they attempt to explain either memory or imagination. I thought when I wrote The Analysis of Mind that it was possible to give a behaviouristic account of desire, but as to this I now feel very doubtful. I still, however, adhere to all that I said in that book about the necessity of images for explaining the use of words in regard to things not sensibly present. I summed up what constitutes the understanding of an object-word under six heads: (1) Using tlie word properly in suitable circumstances on suitable occasions; (2) Acting appropriately when you hear it ; (3) associating the word with another word (say, in a different language) which has the appropriate effect on behaviour; (4) in learning the word, associating it with an object or objects which is or are what it ‘means’ ; (5) using the word to describe or recall a memory-image; (6) using the word to describe or create an imagination-image. I stated these six points as if they applied to words in general, but, in fact, they do not apply without modification to words which are not object-words. New problems, however, arise as soon as we pass to the consideration of sentences and of words which can only be used significantly as parts of sentences. You can use such words as ‘fire’ or ‘fox’ in an exclamatory manner without the need of putting them into sentences, but there are a great many words which cannot be thus used in isolation. Take such a sentence as ‘the earth is greater than the moon’. ‘The’, ‘is’, and ‘than’ only acquire significance when they are parts of sentences. One might have doubts about the word ‘greater’. If you had been looking at horses and suddenly saw an elephant, you might exclaim ‘Greater!’ But I think everyone would recognize this as an ellipsis. The fact that some words presuppose sentences makes it impossible to carry the analysis of meaning any further without first considering sentences or at any rate what mental occurrences are expressed by means of sentences.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n4

 哲学者や本好きな人(読書の好きな人)は、通例(一般的に)言葉によって支配される生活を送りがちであり、通例非言語的であるところの事実と何らかの繋がり(結合)を持つことが言葉の本質的な機能であるということを 忘れることさえありがちである。現代の哲学者のなかには、言葉は決して事実と向かい合わせる(突き合わせる)べきではなく、 言葉は純粋に自律的な世界に生きるべきものであり、ただ他の言葉と比較されるべきであるとさえ言う者がいる。(即ち/例えば)「猫は肉食動物である」と言うとき、それは、実際に肉を食うということを意味しているのではなく、動物学の本では猫というものは肉食動物の中に分類されるということを意味しているにすぎない(というしだいである)。これらの著者達は、言語と事実とをつき合せる試みは「形而上学」(注:感覚ないし経験を超越した世界を真なる実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野/対立する言葉は「唯物論」)であり、それゆえに非難されなければならない、と我々に告げる。 これは、非常に馬鹿げた見解(の一つ)であり、ひょっとして非常に学問のある者のみが採用できる見解かもしれない(注:could possibly ひょっとして~かもしれない)。その見解を特に馬鹿げたものにしているのは、 事実の世界における言語の地位に盲目であることである。。食べたり歩いたりすることと全く同様に、言語は感覚的な現象からなっており、もし仮に我々が事実について一切知りえないのならば、 我々は他人の言うことを知りえないはずであり、また、我々自身(自分自身)が何を言っているかさえ知りえないはずである。言語は、(後天的に)獲得された他の行動様式と同様、有用な習慣からなっており、 しばしばそれにまといついている神秘(性)を何ももっていない。言語についての迷信的な見解には新しい点はまったく存在しておらず、それは有史以前の時代から我々に伝えられてきたものである。 「我々が歴史的記録を有する最古の時代以来、言葉は送信的な畏怖の対象であった。敵の名を知る者は、それにより敵を支配する魔力を手に入れることができた。そして今でも我々は「法の名において」というような句を用いている。 「はじめに言葉ありき」という主張に同意することは容易である。この見解は、プラトンやカルナップおよびその間に出た大多数の形而上学者達の哲学の根底をなしている。」)ラッセル著『意味と真理の研究』p.23)

Chapter 13: language, n.4
Philosophers and bookish people generally tend to live a life dominated by words, and even to forget that it is the essential function of words to have a connection of one sort or another with facts, which are in general non-linguistic. Some modern philosophers have gone so far as to say that words should never be confronted with facts but should live in a pure, autonomous world where they are compared only with other words. When you say, ‘the cat is a carnivorous animal’, you do not mean that actual cats eat actual meat, but only that in zoology books the cat is classified among carnivora. These authors tell us that the attempt to confront language with fact is ‘metaphysics’ and is on this ground to be condemned. This is one of those views which are so absurd that only very learned men could possibly adopt them. What makes it peculiarly absurd is its blindness to the position of language in the world of fact. Language consists of sensible phenomena just as much as eating or walking, and if we can know nothing about facts we cannot know what other people say or even what we are saying ourselves. Language, like other acquired ways of behaving, consists of useful habits and has none of the mystery with which it is often surrounded. There is nothing new in the superstitious view of language, which has come down to us from pre-historic ages: ‘Words from the earliest times of which we have historical records, have been objects of superstitious awe. The man who knew his enemy’s name could, by means of it, acquire magic powers over him. We still use such phrases as “in the name of the Law”. It is easy to assent to the statement “in the beginning was the Word”. This view underlies the philosophies of Plato and Carnap and of most of the intermediate metaphysicians’ [An Inquiry into Meaning and Truth, page ’23 ).
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n3

(ひとつの)対象語の理解における本質的なことは、その語が,その語の意味するところのものと,いくつかの特性(properties)を共有しているということである。真夜中に「火事だ!」という叫び声によって目を覚ます時、我々は何か物のこげる臭いを(実際に)かいだ時と大体同じ仕方で行動するであろう。もちろん、語とその意味との間には相違がある。「火事だ!」という語は我々を熱くしたり死なせたりすることはできない。しかし、意味を定義する場合に関わるのは、因果的類似性であって、因果的相違ではない。  上記の(先にあげて)「意味」の定義は、今のところ(so far as it goes)正しいとは考えるが、決して意味の問題(主題)の全体を尽くすものではない。一つには、その定義は対象語についてのみあてはまるものだからである。子供を動物園に連れて行き、子供がその野獣を見ている時に「虎だ!」と言ってあげることはできる。しかし「より(以上)」 (than) という言葉の意味を子供に見せてやれるような動物園は存在しない(注:”than” は対象語ではない)。また上記の説(理論/学説)に はもう一つの限界がある。(即ち)上記の説が語の指示的あるいは感嘆的な使用(注意:何かを指示するか感嘆表現する場合)にのみ十分なものになると いうことである。上記の説は、何か補足を加えなければ、語り(物語)や想像や欲求(欲望)や命令における語の使用を説明しない。 認識論(知識論)においては言語の指示的使用が特に重要ではあるが、他の使用も他の領域では同様に重要である。この点については(in this connection)、私は『人間の知識』から引用をしておこう(p.85)。 「言葉の基本的な使用は指示的使用(指示文)と命令的使用(命令文)と疑問的使用(疑問文)とに分けることができる、と私は考える。 子供は母親の来るのを見れば、『ママ!』と言う時があるが、これは指示的使用である。母親が必要なとき子供は『ママ!(来て!)』と呼ぶであろう。これが命令的使用である。母親が魔女の衣装をまとい、 子供がその変装を見抜きはじめる時、子供はは『ママ?』と言うかも知れない。これは疑問的使用である。言語の習得において最初にこなければいけないのは、語の指示的使用である。なぜなら語とそれによって意味される対象との連合は、両者が同時に存在(共在)することによってのみ創り出されるからである。しかし命令的使用がすぐそれに続く。これは、ある対象について考えるとはどういうことかを考察する場合に関連している(重要である)。母親を呼ぶことができるようになったばかりの子供は、以前に彼(彼女)が度々置かれた一つの状態に対する言語的表現を発見したのであり、その状態は以前に母親と結びつけられていたが今やまた 『母』という語とも結合するにいたったということは、明らかである。まだ言語を習得する前は、 子供の状態はただ部分的にしか伝達できないものであった。大人は子供が泣くのを聞くと、何かを欲しているのだということは知ることができたが、何を欲しているのかは推測しなければならなかった。しかし、『ママ!!』という語が子供の状態を表現するという事実から明らかなことは、言語を獲得する以前にも、子供の状態はその母親とある関係、即ち、「~について考える」』という関係を持っていたことを示している。この関係は言語によって創り出されたものではなく、言語に先立って存在している。言語の役割はそれを伝達可能なものにすることである。」  

Chapter 13: language, n.3
The essential thing in the understanding of an object-word is that the word shares some of the properties of what the word means. If you are waked in the middle of the night by a cry of ‘Fire!’ you will behave in much the same way as you would if you smell burning. There are, of course, differences between a word and what it means. The word ‘fire’ cannot make you hot or cause you to die, but it is the causal similarities, not the causal differences, that are involved in defining meaning. The above definition of ‘meaning’, though I think it correct so far as it goes, in no degree exhausts the subject of meaning. For one thing, it is only applicable to object-words. You can take a child to the zoo and say ‘tiger’ while he is looking at this beast, but there is no zoo where you can show him the meaning of the word ‘than’. There is another limitation to the above theory, which is that it is only adequate in regard to the indicative or exclamatory use of words. It does not explain, until it is supplemented, the use of words in narrative or imagination or desire or command. In theory of knowledge it is especially the indicative use of language that is relevant, but its other uses are equally important in other spheres. In this connection, I will quote from Human Knowledge (page 85): ‘I think the elementary uses of a word may be distinguished as indicative, imperative, and interrogative. When a child sees his mother coming, he may say “mother”; this is the indicative use. When he wants her, he calls “mother!”; this is the imperative use. When she dresses up as a witch and he begins to pierce the disguise, he may say “mother?”; this is the interrogative use. The indicative use must come first in the acquisition of language, since the association of word and object signified can only be created by the simultaneous presence of both. But the imperative use very quickly follows. This is relevant in considering what we mean by “thinking of” an object. It is obvious that the child who has just learnt to call his mother has found verbal expression for a state in which he had often been previously, that the state was associated with his mother, and that it has now become associated with the word “mother”. Before language, his state was only partially communicable; an adult, hearing him cry, could know that he wanted something, but had to guess what it was. But the fact that the word “mother!” expresses his state shows that, even before the acquisition of language, his state had a relation to his mother, namely the relation called “thinking of”. This relation is not created by language, but ante-dates it. What language does is to make it communicable.’
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n2

 「意味」の定義を探し求めるにあたって、私は他の場合と同様(as elsewhere)、行動主義者の原理・原則は究極においては不十分であることが明らかになるであろうと期待する一方、この原理・原則に従って可能な限り進んでみるという計画を追求した。子供は「犬」という語を適切な場合(時/機会)に使用する習慣を、他のいかなる習慣の(獲得の)場合と全く同様の仕方で獲得する、ということは明らかである。 テレスコーピング(伸縮現象)の通常の過程によって、犬がやってきて(それを見た)少年に「犬(だ)」という言葉を発したい衝動を与え、また、(2)「犬(だ)」という発話を聞くと少年は犬(がいること/orやってくること)を期待したり、探したりする。【訳注:この部分の英文は次の通りで、野田氏は以下のように訳しています。 By the ordinary process of telescoping, a dog comes in time to give him an impulse to say ‘dog’, and hearing the word ‘dog’ makes him expect or look for a dog. 野田氏の訳文:子供はその注意が犬に集中されている時に「犬」という語が発言されるのをたびたび聞く。ところで、事件が重複して起こるのは世の常であるから、やがて犬が現れて子供に「犬」という語を発する衝動を起こさせる。  → 訳文の「内容(主張)」自体は間違っていないと思われますが、原文の訳になっていないのではないでしょうか? | “telescoping”:テレスコーピング(伸縮)現象(社会学・心理学・認知科学):テレスコープ(Telescope・望遠鏡)から派生した言葉で主に伸縮を表す。即ち、長期記憶において、実際の様々な出来事や事象の時系列と、自身の思う時系列の食い違いがあり、その事象の衝撃度や印象度や個人的な思考や嗜好から、新鮮な印象と古い印象のものに別れた結果、経過した時間に比べ時間の短縮や時間の伸びが感じられ、実際の時系列と食い違うことをいう。】 この二つの習慣が獲得されると、子供は 「犬」という語の意味を理解していると言って良いだろう。(ただし)それ(二つの習慣の獲得)は、その子供が「犬」という語の定義で成り立っているような精神状態を持っていることを意味していない。(即ち、)子供は二つの行動様式をもち、一つは(一方は)(目の前に見える)犬から「犬」という語の一例(注:発話されたものは1回限りの唯一のもの!)へと導き、もう一つ(他方)はその語の一例から犬種の動物の一例へと導くということを意味するだけである(普遍的な犬などは存在していない!)。これら二つの習慣を身につけてしまうと、子供は正しく話せることになる。 「犬」という語に関する限り、その子供は、辞書編纂者にならないのであれば、もうそれ以上何も必要としない。 「対象語(object-words)」と呼ばれるものに関しては、「意味」の定義のためにこれ以上何も必要はない。 「犬」という語が(現実の)犬を意味するということは、上の二つの習慣が獲得されたと言っているにすぎない。 これら二つの習慣は、それぞれ、その語の能動的理解(active understanding)および受動的理解(passive understanding)と呼ぶことができる。能動的理解は犬を前にして「犬」という語を発することから成り、受動的理解は「犬」という語を聞いた ときに犬(の登場を)期待したりまたは探したりすることから成っている。 受動的理解は能動的理解よりも先行し(先行するが)、人間のみに限定されない。 犬や馬もある一定数の語の受動的理解を持つ。 他方、鸚鵡(おうむ)は語を発することができるがその語の意味するところを理解しているといういかなる印も示さない。 ひとつの語を「正しく」用いるということの意味について私は次のような定義を与えた。『精神の分析』 p.198) 「語は、(聴覚機能が)普通の聞き手がその語によって、意図された方向に影響を受ける場合、「正しく」使用されている。 これは「正しさ」の心理学的定義であって、文学的定義ではない。 文字的定義ならば、普通の聞き手の代りに、遠い過去の時代に生きた高い教養をもつ人を置くであろう。 こういう定義の目的は、正しく語り書くことを困難にすることである。 「一つの語とその意味との関係は、我々の語の使用とその語が用いられたのを聞いたときの我々の行動を支配する(ところの)一つの因果的法則の性質を帯びている(is of the nature)。 一つの語を正しく使用する人が、その語の意味を言うことができなければならないという理由はない。それは、(あたかも)正しく動いている一つの惑星がゲブラーの法則を知らなければならないという理由はないのと同様である。」

Chapter 13: language, n.2 In seeking the definition of ‘meaning’, I pursued, as elsewhere, the plan of proceeding as far as possible on behaviourist principles while expecting these principles to prove ultimately inadequate. It is obvious that a child acquires the habit of using the word ‘dog’ on appropriate occasions exactly as he acquires any other habit. He frequently hears the word ‘dog’ uttered while his attention is fixed upon a dog. By the ordinary process of telescoping, a dog comes in time to give him an impulse to say ‘dog’, and hearing the word ‘dog’ makes him expect or look for a dog. When these two habits have been acquired the child may be said to know the meaning of the word ‘dog’. This does not mean that the child has a state of mind consisting in a definition of the word ‘dog’; it means only that he has two modes of behaviour, one leading from a dog to an instance of the word ‘dog’, and the other, from an instance of the word to an instance of the canine species. When he has acquired these two habits, he can speak correctly. So far as the word ‘dog’ is concerned, he needs nothing more until he becomes a lexicographer. In regard to what may be called ‘object-words’, nothing more is needed for the definition of ‘meaning’. To say that the word ‘dog’ means dog is only to say that these two habits have been acquired. The two habits may be called, respectively, active and passive understanding of the word. Active understanding consists of uttering the word in the presence of a dog, and passive understanding consists of expecting or looking for a dog when you hear the word ‘dog’. Passive understanding comes earlier than active understanding and is not confined to human beings. Dogs and horses learn the passive understanding of a certain number of words. Parrots, on the other hand, can utter words, but show no sign of knowing what they mean. I gave the following definition of what is meant by using a word ‘correctly’ (loc. cit., p.198): ‘A word is used “correctly” when the average hearer will be affected by it in the way intended. This is a psychological, not a literary, definition of “correctness”. The literary definition would substitute, for the average hearer, a person of high education living a long time ago ; the purpose of this definition is to make it difficult to speak or write correctly. ‘The relation of a word to its meaning is of the nature of a causal law governing our use of the word and our actions when we hear it used. There is no more reason why a person who uses a word correctly should be able to tell what it means than there is why a planet which is moving correctly should know Kepler’s laws.’
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n1

 以前言及したように、(言葉の)「意味」の定義や言語と事実との関係に興味・関心を持ち始めるようになったの1918年のことであった。それまで私は言語を「透過的」なものと見なしており、何が言語と非言語的世界とを関係付けるのか(何が言語と非言語世界との関係を作るのか)について吟味したことは全くなかった。 この問題(主題)について私が最初に考えたことは 『精神の分析』の第十講(第10章)に現れている。(訳注:『精神の分析』は、第3章を除いて、ロンドンと北京において、14回の講義として行われ、1921年に単行本として出版された。)  私を驚かせた最初の事柄は、極めて明白なことであるが、この問題(主題)をそれ以前に論じた全ての著者(人々)によって不当に無視されてきている、と思われた。それは(その明白だと思われることは)、ひとつの語はひとつの普遍者(普遍的な存在)であり、 その諸事例(instances)は、その語の一例が語られたり聞かれたり書かれたり読まれたりする特定の出来事(occasiopns)である、ということである。 普遍者について思索した人々は、多くの個々の犬が存在ているゆえに、大(という存在)はひとつの普遍者(普遍的な存在)であるということを認識・理解したが、彼らは「犬」という語( the word ‘dog’ )もまた全く同様の意味で、ひとつの普遍者(普遍的な存在)であることに気づけなかった。 普遍者の存在を否定した人々は、全ての諸事例に適用される一つの語が存在するかのように常に語った。 しかしそれ全く事実に反する。 無数の犬が存在し、無数の「犬」という語の事例が存在している。その(犬という)語の事例の各々が四足獣の事例の各々と一定の関係を持っている。しかし、その語(犬)自体は、天上に横たわっているプラトン的な犬が持つ形而上学的な地位 - それが何であれ - のみを持っているのである。この事実は、語というものをそれ(語)の「意味する」対象と,それまで考えられてきたほどには,違わないものとするがゆえに、重要である。 また「意味」なるものが、 ひとつの語の個別的事例とその語の意味するものの個別的事例との間の関係でなければならない、ということも明らかとなる。言い換えると(即ち)、「犬」という語の意味を明らかにしたいと思うなら、この語の個別的な発声を吟味しなければならず、またそれら個々の発声が犬種の個別的動物にいかに関係しているかを吟味(考察)しなければならないのである。
Chapter 13: language, n.1
It was in 1918, as I remarked before, that I first became interested in the definition of ‘meaning’ and in the relation of language to fact. Until then I had regarded language as ‘transparent’ and had never examined what makes its relation to the non-linguistic world. The first result of my thinking on this subject appeared in Lecture X of The Analysis of Mind, The first thing that struck me was exceedingly obvious but seemed to have been unduly ignored by all previous writers on the subject. This was that a word is a universal of which the instances are the occasions on which an instance of the word is spoken or heard or written or read. Those who philosophized about universals realized that dog is a universal because there are many dogs, but they failed to notice that the word ‘dog’ is a universal in exactly the same sense. Those who denied universals always spoke as though there were one word which applied to all the instances. This is quite contrary to the fact. There are innumerable dogs and innumerable instances of the word ‘dog’. Each of the instances of the word has a certain relation to each of the instances of the quadruped. But the word itself has only that metaphysical status (whatever this may be) that belongs to the Platonic dog laid up in heaven. This fact is important since it makes words much less different than they had been thought to be from the objects that they ‘mean’. It also becomes obvious that ‘meaning’ must be a relation between an individual instance of a word and an individual instance of what the word means. That is to say, if you want to explain the meaning of the word ‘dog’ you have to examine particular utterances of this word and consider how they are related to particular members of the canine species.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n12

 観念論哲学者の影響によって、「経験」というものの重要性がひどく大げさに主張されて来た、と 私には思われる。 経験されないもの、経験でないものは何も存在しえないとまで考えられるにいたっている。こういう意見に何らかの根拠があるとは私にはみとめられない。またさらに、我々の 知りえないものが存在することを我々は知りえないという見解に対しても、私は何の根拠も認めない。もし人々が「経験」なる語はどういう意味を持ちうるかを明らかにしようとつとめさえ経していたなら、私がここに攻撃しているような意見が盛んにおこなわれるようになりえたとは思われないのである

Under the influence of Idealist philosophers the importance of ‘experience* has, it seems to me, been enormously exaggerated. It has even come to be thought that there can be nothing which is not experienced or experience. I cannot see that there is any ground whatever for this opinion, nor even for the view that we cannot know that there are things we do not know. I do not think that the opinion which I am combating could have flourished if people had taken the trouble to find out what the word ‘experience’ is capable of meaning. Chapter 12: Consciousness and Experience
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n11

 哲学が非常にしばしば使用してきた二つの語がある。それは「意識」 (consciousness) と 「経験」 (experience) である。これら二つの語は定義し直されなければならない。 いなむしろ、はじめて定義されねばならない。というのは、たいていの場合、それらの意味は明白であるかのごとく、定義 なして用いられているからである。  人間または動物は「意識をもつ」が石は意識をもたないと言うとき、我々はいったい何を意味しているのか。そのとき意味されていると思われる二つの異なる事柄があり、その二つのうち第一 のものは外的観察の対象となりうるが第二のものはそうでない第一のものは、人間または動物が、もし問題になっている事象(the event in question)が過去に起らなかったとした場合とはちがった仕方で、 未来において行動する ということである。しかしこれはむしろ「経験」の定義とするほうがよいかも知れない。意識の定義 の第二のものは、「注意」 (noticing) という関係から導き出されるであろう。何かが私に起るとき私はそれに注意するかも知れないし、注意しないかも知れない。注意する場合、私はそれを「意識する」と言 ってよいのである。この定義によれば、「意識」とはあることが私に起りつつある、あるいは起ってしま った、という知識なのである。しかしこの定義において「知識」とは何を意味するかは、なお研究す べき残された問題である。

There are two words which have been very frequently employed by philosophers. They are the words ‘consciousness’ and ‘experience*. Both will need to be re-defined ? or, rather, to be defined, for in general they are employed as if their meaning were obvious. What can we mean when we say that a man or an animal is ‘conscious’ but a stone is not? There are two different things that may be meant, of which the first, but not the second, is open to external observation. The first is that the man or the animal behaves in future in a way in which he would not behave if the event in question had not happened. This might perhaps be better taken as the definition of ‘experience’. The second definition of ‘consciousness’ will be derived from the relation of ‘noticing’. When anything happens to me, I may or may not notice it. If I notice it, I may be said to be ‘conscious* of it. According to this definition, ‘consciousness’ consists in the knowledge that something is happening to me or has happened to me. What is meant by ‘knowledge’ in this definition remains to be investigated.