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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n10

 二元性のもうひとつの形式想像と記憶とにおいて生ずる。 ある過去の時に起ったことをいま想い 出す場合いま私のうちに起りつつあることは、想い出されている出来事と同一でないこと明らかで ある。一つは現在にあり、他は過去にあるのだから。それゆえ記憶には、主観と客観の関係と名づけてよい何ものかがあるわけであり、これは慎重な解釈を必要とする。 ところでその解釈は、 「信念」 (belief) というものを導入せずに可能であるとは私には考えられない。私が想い出すとき私は何ごとか が過去に起ったと信ずるのであり、その起った何ごとかは、いま私のうちに起りつつあることによっ て、ある意味で「再現されているのである。ここでの本質的な問題は、ひとつの心像がその感覚的原型に対してもつ関係である。私は私の部屋のことを思い浮べ、それから私の部屋に入って、部屋が 私の視覚的心像と「一致する」ことを見出す。こういう経験に導かれて我々は記憶心像にある程度の信頼をおくようになる。 しかしこれは、我々が感覚に注意するときその感覚に対して持つところの絶対的な信頼とは異なる。記憶は時に誤まりに導くことがみとめられるからである。

Another form of duality arises in imagination and memory. If I remember now what happened on some past occasion, it is obvious that what is happening in me now is not identical with the events remembered, since one is in the present and one is in the past. There is, therefore, in memory something that may be called a relation of subject and object. And this will require careful interpretation. I do not think the interpretation is possible without introducing ‘belief’. When I remember, I believe that something happened in the past, and the something that happened is in some sense ‘represented’ by what is happening in me now. The essential problem here is the relation of an image to its sensational prototype. I can visualize my room, and then go into my room and find that it ‘agrees’ with my visual image. Such experiences lead us to give a certain credence to memory images, but not that absolute credence that we give to sensations which we notice, because memories are found sometimes to be misleading.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n9

 「感覚」と対置される「知覚」は、過去の経験にもとづいた習慣を含んでいる。 「知覚」と区別 して「感覚」を、経験全体のうち、過去の歴史から独立に現在の刺戟のみによって生ずるところの部分である、と言うことができる。こういう意味の感覚が、出来事全体について理論上認めなけならない核(中核)なのである。 出来事全体は常に、感覚的な核に、習慣をふくむ追加が加わって成り立ったところの ひとつの解釈なのである。 犬を見る場合、感覚的核は、それを犬と認めるに必要な付加物をすべてはぎとられた、一片の色である。その一片の色が、犬に特有な動き方をすることを我々は期待し、 それが音を出すときは吠えるか唸るかし、雄難のようにときをつくらないことをわれわれは期待す る。我々は、それが手で触れうるものであり、大気の中へ消えてなくなることはなく、未来と過 去とをもつものであることを、確信している。これらすべての期待や確信が「意識的」なものである と言っているのではないが、それらが存在することは、その期待や確信どおりに事が運ばなかったとしたとき、我々の感ずる驚愕によって、明らかに示されている。感覚を知覚に変えるのはこれらの 付加物であり、これらがまた、知覚をしてる場合には我々を誤まるものたらしめるのである。 . ウォルト・ディズニーによって我々は 「本当の」犬を見ていると思いこませられかも知れないが、その犬は 雛の鳴き声をしたり消えてしまったりして、我々を驚かす。 けれども、我々の期待は経験の結果なのであるから、それが通常起るところのこと –ただし自然の諸法則は不変であると想定して– を表現するより他ないことは明らかである。

Perception’ as opposed to ‘sensation’ involves habit based upon past experience. We may distinguish sensation as that part of our total experience which is due to the stimulus alone, independently of past history. This is a theoretical core in the total occurrence. The total occurrence is always an interpretation in which the sensational core has accretions embodying habits. When you see a dog, the sensational core is a patch of colour stripped of all the adjuncts involved in recognizing it as a dog. You expect the patch of colour to move in the way that is characteristic of dogs, you expect that if it makes a noise it will bark or growl, and not crow like a cock. You are convinced that it could be touched and that it will not vanish into thin air, but has a future and a past. I do not mean that all this is ‘conscious’, but its presence is shown by the astonishment that you would feel if things worked out otherwise. It is these accretions that turn a sensation into a perception, and it is these, also, that make perception possibly misleading. Walt Disney might lead you to suppose that you were seeing a ‘real’ dog, and it might astonish you by crowing or vanishing. Since, however, your expectations are the result of experience, it is clear that they must represent what usually happens — always assuming that the laws of nature are constant.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n8

「そうなると、水たまりを見ることと、自分が水たまりを見ていると知ることとは、別のことになる。ところで、「知ること』は、『適切に行動すること』と定義されるかも知れない。これは、犬が(自分につけられた)自分の名(注:ポチ)を知るとか、伝書鳩が帰り道を知るという場合の、 『知る』という語の意味である。 この意味において、私が水たまりを知ることは、私が横によけることであった。 しかし、これは不明確(な言い方)である。というのは、他のものが私を脇によけさせたのかも知れないからであり、また「適切に」と いう語は自分の諸欲求という観点で(in terms of)のみ定義されうる話だからでもある。もし私が自分に多額の保険金をかけた直後であって、自分が肺炎で死ねば好都合だと考えていたとすると、私は水にぬれるほうを望んでいたかも知れない。そうだとすると、私が脇によけたということは、私が水たまりを見なかったと いうことの証拠になるはずである。それだけでなく、もしそういうわけで欲求というものを考慮外とすること にすれば、ある刺戟に対する適切な反応は、科学的器具によっても示されることになる。 しかし、寒暖計が寒さを『知る』とは誰も主張しないであろう。 「我々が経験を知るために、経験に対して何がなされなければならないか。いろいろなことが可能 ある。言葉を用いて経験を記述することがあり、経験を語または心像において想起することがあり、 また経験に『注意する』 (notice) だけの場合もある。ところで『注意すること』は種々な程度を許す事柄であり、定義することは大変むずかしい。それは主として、感覚しうる環境からあるものを分離することであるように思われる。たとえば、ひとつの楽曲に聞き入るとき、チェロの音だけにわざと注意をむけることができる。この場合ほかの部分は、よく言われるように、『無意識に』聞かれ ているのである。 しかし『無意識』という語は何か明確な意味をもたせようとしてもだめな語である。ある意味では、現在の経験が我々のうちに何らかの情緒をいかに弱くとも起すとき、我々は現在の経験を『知る』と言うことができる。たとえば、経験が我々にとって楽しいものであるか不愉快なものであるか、我々の興味をそそるか退屈させるか、我々を驚かすかまたは期待したとおりのものであるか、というような場合である。 「我々の現在の感覚の場にある何ものかを、我々が知ることが「できる」ということの、ひと つの重要な意味がある。『あなたはいま黄色を見ているか』とか『音が聞こえるか』とか誰かが言うとき、たとえ問いかけられるまでは黄色や音を注意していなかったとしても、我々は完全な確信を持って 答えることができる。そして多くの場合、そのものに我々が注意を引かれる前にすでにそのものはそこにあったのだと確信することができるのである。 「してみると、我々の経験する最も直接な知り方は、現在(現在存在)する感覚 (sensible presence) に何 ものかが加わって起こる、と思われる。しかし、加わる必要のあるところのこの何ものかを非常に正確に定義しようとすれば、その正確さそのものによって誤まりにおちいることに多分なるであろう。というのは事柄自体が不明確でいろいろな程度を持つのだからである。その必要なものは「注目」 (attention)と呼んでよいであろう。これは必要な感覚器官を緊張させることであり、またひとつ の情緒的反応でもある。突然聞こえた大きな音は注意を引くことほとんど間違いがないが、非常にかすかな音でも情緒的意味を持つならやはり注意を引くのである。 「すべての経験的命題は、ひとつまたはそれ以上の感覚的な出来事が、それらの起こると同時に注意されるか、あいは起こった直後、それらがまだその心理的現在の一部をなしている間に注意されるかする場合、そういう感覚的な出来事に基礎をおいているのである。そういう出来事は、それらが注目されるとき「知られる』のだ、と言うことにしよう。 『知る』という語は多くの意味をもち、これはそのひとつにすぎないが、我々の研究の目的にとってはこの意味が基礎的な意味なのである。」(pp.49-51)

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.8
‘We are to say, then, that it is one thing to see a puddle, and another to know that I see a puddle. “Knowing” may be defined as “acting appropriately”; this is the sense in which we say that a dog knows his name, or that a carrier pigeon knows the way home. In this sense, my knowing of the puddle consisted of my stepping aside. But this is vague, both because other things might have made me step aside, and because “appropriate” can only be defined in terms of my desires. I might have wished to get wet, because I had just insured my life for a large sum, and thought death from pneumonia would be convenient; in that case, my stepping aside would be evidence that I did not see the puddle. Moreover, if desire is excluded, appropriate reaction to certain stimuli is shown by scientific instruments, but no one would say that the thermometer “knows” when it is cold. ‘What must be done with an experience in order that we may know it? Various things are possible. We may use words describing it, we may remember it either in words or in images, or we may merely “notice” it. But “noticing” is a matter of degree, and very hard to define; it seems to consist mainly in isolating from the sensible environment. You may, for instance, in listening to a piece of music, deliberately notice only the part of the cello. You hear the rest, as is said, “unconsciously” ? but this is a word to which it would be hopeless to attempt to attach any definite meaning. In one sense, it may be said that you “know” a present experience if it rouses in you any emotion, however faint ? if it pleases or displeases you, or interests or bores you, or surprises you or is just what you were expecting. ‘There is an important sense in which you can know anything that is in your present sensible field. If somebody says to you “are you now seeing yellow?” or “do you hear a noise?” you can answer with perfect confidence, even if, until you were asked, you were not noticing the yellow or the noise. And often you can be sure that it was already there before your attention was called to it. ‘It seems, then, that the most immediate knowing of which we have experience involves sensible presence plus something more, but that any very exact definition of the more that is needed is likely to mislead by its very exactness, since the matter is essentially vague and one of degree. What is wanted may be called “attention”; this is partly a sharpening of the appropriate sense-organs, partly an emotional reaction. A sudden loud noise is almost sure to command attention, but so does a very faint sound that has emotional significance. ‘Every empirical proposition is based upon one or more sensible occurrences that were noticed when they occurred, or immediately after, while they still formed part of the specious present. Such occurrences, we shall say, are “known” when they are noticed. The word “know” has many meanings, and this is only one of them; but for the purposes of our inquiry it is fundamental’ (pages 49-51).
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章  意識と経験 n7

 知識の理論の見地から見ると、このことは、「経験の証拠」 (empirical evidence) がいったい何を 意味するかということに関して、きわめて困難な問題を生み出す。『意味と真理の探求』は主とし この問題を扱ったのであるが、その中で私は、それまで採っていた 「熟知」 (acquaintance) の代 りに「注意」 (noticing) をおき、これを、定義されない用語として受け入れた。 次の引用がこの点を明らかにするであろう。 「雨の日に外を歩いていて、水たまりを見てそれを避ける、と仮定しよう。その時、我々は心の中で次のように言うことはなさそうである。『水たまりがある。 それに踏み込まないほうが望ましい』。しかし、誰かが『なぜあなたは急に横へ寄ったのか』と言えば、『あの水たまりに踏み込みたくなかったからです』と答えるであろう。我々は、自分が視覚による知覚をもったのであり、それに適切に反応したのであることを、後から回顧的に(振り返って)知るのである。そして上記の例の場合には、その知識を言語で表現して いるのである。しかし、もし我々の注意が質問者によってその方に向けられることがなかったなら ば、我々は水たまりを避けたときに何を知っていたのであろうか? またいかなる意味で知っていたのであろうか? 「質問された時(には)その出来事はもう終っていたのであり、我々は記憶によって答えた のである。しかし、前に知らなかったことを思い出すことができるだろうか(想起できるだろうか)?。しかし、これは『知る』という語の意味に依存する。 「『知る』という語(言葉)はとても曖昧な語(言葉)である。『知る』という語(を使う時)の大部分の場合の意味は、ひとつの事象(event 出来事)を知ることは、知られる事象(event 出来事)とは異なるひとつの出来事(occurrence)である。 し かし『知ること』の意味には、我々がひとつの経験を持つとき、その経験と、それを持つと知る ことが、別のことではないという場合がある。我々は我々の現在の経験を常に知っている、と主張されることがあるが、これは、もし知ることが経験することとは別のことであるなら、真ではあ りえない。なぜならば、もしひとつの経験と、それを知ることとが別のことであるのなら、経験が現に起っている時我々は必ずそれを知っているのだという想定は、一々の出来事を無限に多様なものにすることになる。 私が熱いと感ずる。これはひとつの出来事である。私は私が熱いと感じ ていることを知る。これは第二の出来事である。私は私が熱いと感ずることを知ることを知る。これは第三の出来事である。かくして無限に進むことになるが、これは不合理である。それゆえ、私の現在の経験と私がその現在している経験を知ることとは区別不可能な同一のことであると言うか、あるいはまた、原則として我々は我々の現在の経験を知らないのだと言うか、しなければならない。 全体として言えば私は、『知る』という語を、知ることが知られるものとは異なっているという意味に 用いるほうがよいと思う。そして、原則として我々は我々の現在の経験を知らないとい う結論(帰結)を受けいれるほうがよいと思う。
Chapter 12: Consciousness and Experience , n.7
From the point of view of theory of knowledge, this raises very difficult questions as to what is meant by ‘empirical evidence’. In the Inquiry into Meaning and Truth, which is largely concerned with this problem, I replaced ‘acquaintance’ by ‘noticing’, which I accepted as an undefined term. A quotation will make this point clear; ‘Suppose you are out walking on a wet day, and you see a puddle and avoid it. You are not likely to say to yourself: “there is a puddle; it will be advisable not to step into it”. But if somebody said “why did you suddenly step aside?” you would answer “because I didn’t wish to step into that puddle”. You know, retrospectively, that you had a visual perception, to which you reacted appropriately; and in the case supposed, you express this knowledge in words. But what would you have known, and in what sense, if your attention had not been called to the matter by your questioner? “When you were questioned, the incident was over, and you answered by memory. Can one remember what one never knew? That depends upon the meaning of the word “know”. ‘The word “know” is highly ambiguous. In most senses of the word, “knowing” an event is a different occurrence from the event which is known; but there is a sense of “knowing” in which, when you have an experience, there is no difference between the experience and knowing that you have it. It might be maintained that we always know our present experiences; but this cannot be the case if the knowing is something different from the experience. For, if an experience is one thing and knowing it is another, the supposition that we always know an experience when it is happening involves an infinite multiplication of every event. I feel hot; this is one event. I know that I feel hot; this is a second event. I know that I know that I feel hot; this is a third event. And so on ad infinitum y which is absurd. We must therefore say either that my present experience is indistinguishable from my knowing it while it is present, or that, as a rule, we do not know our present experiences. On the whole, I prefer to use the word “know” in a sense which implies that the knowing is different from what is known, and to accept the consequence that, as a rule, we do not know our present experiences.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章  意識と経験 n6

 感覚が本質的に関係的なものか否かという問いによって影響を受ける最も重要な争点(論点)の一つは、「中性的一元論(中立的一元論)」 (Neutral Monism)といわれる理論(学説)に関するものである。 「主観(主体なるもの)」を保持している限り、物質的世界の何ものにも類似していない(類似物がまったくない)ところの「心的」存在があった。しかし、感覚がその本質においては関係的でないところの出来事であるとするならば、心的出来事と物的出来事とを根本的に異なったものと見なす必要性はなくなる。一つの精神(心)と一片の物質とをいずれも、ひどく異なるものではなく、時には実際上同じものであるところの素材(materials)から形作られた論理的構成物であると見なすことが可能になる。生理学者が脳の中にある物質として見なしているものは、実際上、思考(thoughts)や感情(feelings)から成っており、また精神と物質との相違は単に配列の仕方の相違(整理の仕方)にすぎない、と考えることが可能になる。このことを、私は郵便局の住所録に例えた。住所録はアルファベット順と地域別 の2つのやり方で分類している。 第一の配列においては、ある人の隣人とは、アルファベット順においてその人に近い人々のことである。第二の配列においては、その人の隣りに住んでいる人々ということになる。同様に、一つの感覚は記憶の連鎖によって他の多くの出来事とグループ化することができる(一纏めにすることができる)。そしてその場合は、感覚は精神の一部となる。 しかし、(一つの)感覚はまた、その感覚のいくつか因果的な先行者とグループ化することが可能であり、その場合は、感覚は物的世界の一部として現われる。こういう見解は非常な単純化をもたらす。「主観」(主体)の放棄により、こういう単純化を受けいれることができ、精神と物質の関係という伝統的な問題が決定的に解決されたと考えることができるのを知ったとき、私は大変喜んだ。  けれども、この新たな見解の結果がそれほど好都合でない点も(いくつか)あった。単なる身体的行動において示されるような知識を除くと、他のいかなる知識の形態においても欠くことのできない二元性(duality)が存在している。我々は何ものかについて意識するのであり、また、何ものかについての記憶をもつのであり、一般的に言って、知ることとと知られることとは別のことである。この二元性は、感覚からは追い払われたが、 再び何らかの仕方で(somehow)導入されなければならない。この問題が現われる最初の形態は、「知覚(perception)」に関する問題である(注:感覚と知覚の区別!)。この点について、感覚(の種類)が異なると問題の現われ方も異なる。嗅覚や味覚や、身体感覚 – 頭痛や腹痛は- 視覚や触覚や聴覚ほどには、この二元性を強く示さない。 さて 我々が反省する前には、我々が見たり聞いたり触れたりするものを我々の外部にあると見なすのであり、「見られるもの」と対立するところの「見ること」に注意を向けることは、特別な努力によってのみ可能である。 犬が兎を見るとき、犬が「多分外的原因をもつところのひとつの視覚を私はいま持ちつつある」と自ら考えるとは思えない。しかし、W.ジェイムズやマッハの説が正しいとすると、犬が「兎を見る」時に犬において起こること[感覚]は、兎に対してただ間接的かつ因果的な関係を持つにすぎないのである。こういう見方はいかにも奇妙に思われ、この奇妙さのゆえに私もなかなかこの見方を探るにはいたらなかったのであった。しかし、やはり、感動の原因-そのある部分は物的であり、ある部分は生理学的である- についての理論の全体は、我々が「知覚」を一見そう思われるよりもはるかに直接性の少ない事柄であると認めることを避けがたいものにする、と私は考える

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.6
One of the most important issues affected by the question (whether sensation is essentially relational is as to the theory which is called ‘Neutral Monism’. So long as the ‘subject’ was retained there was a ‘mental’ entity to which there was nothing analogous in the material world, but, if sensations are occurrences which are not essentially relational, there is not the same need to regard mental and physical occurrences as fundamentally different. It becomes possible to regard both a mind and a piece of matter as logical constructions formed out of materials not differing vitally and sometimes actually identical. It became possible to think that what the physiologist regards as matter in the brain is actually composed of thoughts and feelings, and that the difference between mind and matter is merely one of arrangement. I illustrated this by the analogy of the Post Office Directory, which classifies people in two ways, alphabetical and geographical. In the first arrangement, a man’s neighbours are those who come near him in the alphabet; in the other, they are those who live next door. In like manner, a sensation may be grouped with a number of other occurrences by a memory-chain, in which case it becomes part of a mind ; or it may be grouped with its causal antecedents, in which case it appears as part of the physical world. This view affords an immense simplification. I was glad when I realized that abandonment of the ‘subject’ made it possible to accept this simplification and to regard the traditional problem of the relation of mind and matter as definitively solved. There were, however, other respects in which the consequences of the new view were less convenient. There is a duality which is essential in any form of knowledge except that which is shown in mere bodily behaviour. We are aware of something, we have a recollection of something, and, generally, knowing is distinct from that which is known. This duality, after it has been banished from sensation, has to be somehow re-introduced. The first form in which the problem arises is as to ‘perception’. In this respect there is a difference between different sensations. Smells and tastes and bodily feelings such as headache or stomach-ache do not suggest this duality as forcibly as sight and touch and hearing. Before we begin to reflect, we think of the things that we see and hear and touch as external to ourselves, and it is only by an effort that we can turn our attention to seeing as opposed to what is seen. When a dog sees a rabbit, we can hardly suppose that it says to itself, ‘I am having a visual sensation which probably has an external cause*. But if the view of James and Mach is right, what occurs in the dog when it ‘sees a rabbit’ has only an indirect and causal relation to the rabbit. This view strikes one as odd, and it is on account of the oddity that I was so slow in adopting it. I think, however, that the whole theory as to the causes of sensation, which are partly physical and partly physiological, makes it unavoidable that we should regard ‘perception’ as something much less direct than it seems to be.  
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『『私の哲学の発展』第12章 意識と経験n5

 刺戟に対する反応は、それ自体は生命体の特質ではない検流計(galvanometer)は電流に反応するし、寒暖計は温度に反応する。 動物の特質、特に高等動物の特質は、「学習」と呼ばれるものであり、それは、習慣の獲得の結果として、所与の刺戟に対する反応を変化させるということである。有用な習慣を獲得する能力において、高等動物と下等動物との間には大きな差がある。蠅は(枠で分割された1枚の a pane of)窓ガラスを突きぬけようという努力をいつまでも続けるが、猫や犬はそれが不可能であることをすぐに学習する。 他の動物に対する人間の優越性の大きな部分は、人間が多数の複雑な習慣を獲得するより大きな能力を持っているという点にある。  この原理は「経験から得られる(た)知識」という言葉の意味するものの全体を尽くす(カバーする)だろうか?  私自身はまったくそう考えたことはないが、この原理は人々が普通に考えるよりもより広い範囲にわたって根拠となるであろうと考える。 犬を見て「犬」と言い、猫を見て「猫」と言う場合、それは 猫と犬との相違を理解している」ことの証拠になると考えられるであろう。 しかし、そういうことができるような機械をつくることができるのは明らかであり、そういうが何ごとかをあなたは「知っていた」と言うとすれば、それは(あなたは)比喩的に(比喩として)言っているのだと考えられよう。行動主義に心酔している哲学者を除くすべての人は、 いかなる機械の中にも起らないことが我々の中には起ると確信している。 歯が痛む,時、我々は自分が痛みを感じていることを知っている。唸り声を出し,「痛くて我慢できない」という言葉を発するような機械を作ることはできるだろうが、それでも、歯痛を感ずる時に我々が経験することを その機械も経験しているとは、我々は信じないであろう。

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.5
Response to stimulus is not, in itself, a characteristic of living matter. A galvanometer responds to an electric current and a thermometer responds to temperature. What is characteristic of animals, and especially of the higher animals, is what may be called ‘learning’, which consists in changing the response to a given stimulus as the result of the acquisition of a habit. There is a great difference between higher and lower animals in the capacity of acquiring habits that arc useful. A fly will continue indefinitely to try to get through a pane of glass, whereas a cat or a dog very soon learns that this is impossible. A large part of the superiority of human beings to other animals consists in their greater capacity for acquiring numerous and complex habits. Will this principle cover the whole of what is meant by ‘knowledge derived from experience’? I have never myself thought that it will, but I think it may cover more of the ground than one might naturally suppose. If, when you see a dog you say ‘dog’, and when you see a cat you say ‘cat’, that will be taken as evidence that you ‘know’ the difference between a cat and a dog. But it is clear that you could make a machine that would do this, and if you said that the machine ‘knew’ anything you would be thought to be speaking metaphorically. Everybody who is not a philosopher addicted to Behaviourism is persuaded that things happen in us which do not happen in any machine. If you have a toothache, you know that you are feeling pain. You could make a machine which would groan and even say, ‘This is unendurable’, but you would still not believe that the machine was undergoing what you undergo when you feel toothache.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n.4

 しかし、『精神の分析』を書いた時(1921年)には、私は常識が言うところの「感覚の証拠」を再解釈する必要性について十分気づいていなかった。  その問題の一部は、行動主義の方法によって扱うことができる。 生命のない物質(dead matter)と生命体との相違の一つは、度々くりかえして与えられる刺戟に対する生命体の反応刺戟の繰り返しとともに変化するのに対し、生命のない物質の反応は一般に的に言って、そういう変化を示さないということである。これは「火傷した子供は火を怖がる」という諺に具体的に表現されている。自動機械は、どんなに繰り返し(however often)銅貨(1ペニー)の挿入に対して反応してきたとしても、銅貨をただ見ただけで反応するということを学習することはない(訳注:ただし、AIマシーンは反応させることができる)。習慣は、-生命体の、特に高等な生命体の、最も基本的な特質であるが- 本質的に「条件反射」で成り立っている。 「条件反射」の本質は次のようなものである。即ち、ある動物が刺激Aに対しる一定の行動によって反応するとし、かつ刺激Aが度々 他の刺激Bとともに与えられと、やがてその動物は前に刺激Aに対してなしたと同じ反応を刺激Bに対してするようになる(ということである)。パブロフ(1849-1936: 1904年にノーベル生理学・医学賞)は犬について多数の実験をおこない、 犬があるものを他のものの「記号」 (sign) と見るにいたり、犬もある意味で「知識」を持つことを示すような仕方で行動するにいたることを示した(明らかにした)。 たとえば、二つの戸があり、一つのドアには楕円(ellips)が描かれ、もう一つのドアには円(circle)が書かれていた。そして犬は円の描いてあるドアを選ぶと、うまい食物にありつけ、楕円の描いてあるドアを選ぶと電気ショックを受けた。そして一定数の試行を行った後には、大は間違いなく円が描かれたドアの方を選んだ。 けれども、円と楕円とを区別する能力の程度において、犬はケプラーに劣っていた。パブロフが楕円を徐々に円に近づけていったところ、犬はついに両者を区別することができなくなり、 神経衰弱に陥った。しかし、ほぼ同じようなことは、小学校の生徒が「9かける6は?」とか「8かける7は?」とか問われる場合にも起る。彼らは答が 54 や56であることは直きに覚えるが、これら2つの数の一つを正しく選びうるようになるまでに 長い時間がかかるかも知れない。犬や小学生に対するこのような実験は、純粋に行動主義的な方法によって、即ち、身体的刺戟に対する身体的反応を調べることによって行うことができるのであり、その際 我々は大あるいは小学生が「考える」かどうかを問題にする必要はない。

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.4
But at the time when I wrote the Analysis of Mind I was not fully aware of the need for re-interpreting what common sense calls ‘the evidence of the senses’. A part of the problem can be dealt with by behaviourist methods. One of the differences between dead matter and a living body is that the response of the living body to a frequently applied stimulus changes with repetitions of the stimulus, whereas the response of dead matter in general shows no such change. This is embodied in the proverb, ‘a burnt child dreads the fire’. An automatic machine, however often it has responded to the insertion of a penny, never learns to respond to the mere sight of a penny. Habit, which is one of the most fundamental characteristics of living matter, and especially of the higher forms of life, consists essentially in the ‘conditioned reflex’. The essence of the ‘conditioned reflex’ is this: Given that an animal responds to a stimulus A by a certain action and that the stimulus A is frequently presented to it along with another stimulus B, the animal tends in time to react to B as it formerly reacted to A. Pavlov carried out a large number of experiments on dogs showing how they learnt to view one thing as a ‘sign’ of another and to behave in a manner which showed that in one sense of the word they had ‘knowledge’. For instance, there were two doors, on one of which an ellipse was painted and on the other a circle. If the dog chose the door that had a circle, it got a good dinner, but if it chose the door that had an ellipse it got an electric shock. After a certain number of trials, the dog invariably chose the circle. The dog, however, was inferior to Kepler in the capacity of distinguishing ellipses from circles. Pavlov made the ellipse gradually more nearly circular until at last the dog was unable to make the distinction and suffered a nervous breakdown. Much the same thing happens to schoolboys when they are asked, ‘What is six times nine?’ or ‘What is seven times eight.?’ They soon get to know that the answer is either fifty-four or fifty-six, but it may be a long time before they can choose between these two numbers. Such experiments with dogs and schoolboys can be conducted in a purely behaviourist manner – that is to say, we are investigating a bodily response to a bodily stimulus, and we do not have to ask ourselves whether the dog or the schoolboy ‘thinks’.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12         
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n.3

 しかし、「感覚所与(センス・データ」を放棄した結果として、最初十分気づいていなかった新しい問題が生じた「意識」とか「直接知(直知)」とか「経験」というような語を再定義しなければならなくなった。そうして、それは決して容易な仕事ではなかった『意味と真理の研究』の冒頭で 私はその問題を次のように述べた。「もし、哲学を学んだことのない人に『あなたは私が二つの眼を持っていることを どのようにして知るか」と問えば、彼らはこう答えるだろう。『何って馬鹿な質問だ! 見ればわかるよ』と。我々の探求が終っても、我々はこの非哲学的な立場と根本的に異なる何らかの見解に到達したと考えるべきではない。(探求の結果として)起こるであろうことは以下のようなことであるだろう。我々は、当初全て単純であると思っていたところに、複雑な構造を認めるにいたるであろうし、 疑いをまったく起こさない事態(situations)にも不確実性の陰影がとり囲んでいることに気づくであろうし、はじめに思ったよりもずっ と多くの場合に疑いが正当な根拠をもつことを見出すであろうし、最も真実らしく見える前提も 真実らしくない数々の結論を生みだすことができることが明らかになるであろう。 探求の正味の結果は、不明瞭な確信の代りに明瞭な躊躇を得ることである。 こういう結果が何らかの価値をもつものかどうかという問題については、私は考察しないであろう。」(同書p.11)

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.3
But new problems, of which at first I was not fully conscious, arose as a consequence of the abandonment of ‘sense-data*. Such words as ‘awareness’, ‘acquaintance*, and ‘experience* had to be re-defined, and this was by no means an easy task. At the beginning of An Inquiry into Meaning and Truth, I stated the problem as follows: ‘If you say to a person untrained in philosophy, “How do you know I have two eyes?” he or she will reply, “What a silly question! I can see you have”. It is not to be supposed that, when our inquiry is finished, we shall have arrived at anything radically different from this unphilosophical position. What will have happened will be that we shall have come to see a complicate structure where we thought everything was simple, that we shall have become aware of the penumbra of uncertainty surrounding the situations which inspire no doubt, that we shall find doubt more frequently justified than we supposed, and that even the most plausible premisses will have shown themselves capable of yielding implausible conclusions. The net result is to substitute articulate hesitation for inarticulate certainty. Whether this result has any value is a question which I shall not consider’ (page 11 ).
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n.2

 この問題は、当初、見かけ上そう思われた以上に重要なものであった。我々は経験によって学習するということは明らかであり、しかも少なくとも私には、学習が単にある種の行動の仕方を獲得することだけで成り立っているだけでなく、また「知識」と呼ぶことのできる何かを生みだすことで成り立っていることは明らかであると思われた。そしてこのことは、私が感覚は関係的事実であるとする説(関係説)に固執している間は困 難を生じなかった。この説によれば、あらゆる感覚(感覚するもの全ては、それ自身一つの認識であり、それは私が 「感覚所与(sense-datum センス・データ)」と呼んだものの意識(ものを意識すること)で成り立っていた。(しかし)『精神の分析』(1921年) において、私は「感覚所与(センス・データ)」という考えを明示的に捨てた。私はこう述べた、「感覚は、明らかに、我々自身の身体を含めて、世界についての我々の知識の源である。(従って)感覚はそれ自身一つの認識であると見なすことは当然であると思われ、私も、最近まではそう考えていた。(たとえば)知人が街で私に近づいてくるのを見る時、あたかも単に見ることそれ自体が知識であるかのように思われる。もちろん、知識は見ることを通して得られることは否定できない。しかし私は、単に見ることそれ自体を直ちに知識であると考えるのは誤まりだと考える。もし仮に、見ることが直ちに知ることであると考えるならば、我々は見ること(もの)を見られること(もの)とを区別しなければならない。 たとえば、我々がある形した一片の色を見る場合、その一片の色と、我々がそれを見ることは、別々のことであると言わなければならない。けれども、この見解(見方)はさきに(『精神の分析』の)第1項で論じた意味における『主観』(主体)ないしは『作用』を認めることを要求する(注:The Analysis of Mind は、1919年と1920年にロンドンで公開講義がなされている)。そしてもし仮に主観(主体)があるとするならば、主観(主体)はその色の一片に対して一つのの関係すなわち意識(awareness)と読んでよいような一つの関係を持つことが可能である。この場合、ひとつの心的事象(event)としての感覚は、色の意識で成りたっており、一方、色そのものは全く物理的なものであって、これを感覚と区別するために、感覚所与と呼んでよいであろう。けれども、主観(主体)は、数学的な点や瞬間と同様に、一つの論理的虚構であると思われるのである。 主観なるもの(論理的虚構)が導入されるのは、観察がそれ(その存在)を明らかに示すからではなく、そうすることが言語上便利であり、明らかに文法上必要とされるからである。こういう名目的な存在は、現実に存在するかも知れずまた存在しないかも知れないが、それが存在すると想定すべき十分な理由はない。そういう名目的存在が果たすと見える機能は、集合や系列(series)やその他の論理的構成物によって常に果たすことが可能であり、これらは(主観などの)名目的存在ほど疑わしくないもので成り立っている。我々が全く無根拠な想定(perfectly gratuitous assumption)をすることを避けるべきであるとしたら、我々は世界の実際の構成要素の一つとしての主観をなしですまさなければならない。 しかしそれをやめると、感覚を感覚所与から区別する可能性もまた消え去る。少なくとも、私はその区別を保存する方法を知らない。従って、我々が一片の色を単純に見るときにもつ感覚は、その一片の色そのものであり、物理的世界の現実的要素であり、物理学がとり扱うものの一部である。 一片の色は確かに知識ではなく、それゆえ、我々は単なる感覚が認識的であると言うことはできない。感覚は それの生み出す心理的効果(結果)により、認識の原因となる。 それは、或る場合にはひとつの感覚がそれに関連する他のものの記号となることによってであり(たとえば視覚は触覚と関連する)、またある場合にはその感覚が消えた後に心像(イメージ)や記憶を生じさせることによってである。 だが、単なる感覚はそれ自身では認識ではないのである。」(pp.141-142) 

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.2
The issue was more important than might at first be apparent. It is obvious that we learn by experience and it at least seemed obvious to me that learning does not consist merely in acquiring certain ways of behaving but also in the generation of something that may be called ‘knowledge’. So long as I adhered to the relational theory of sensation, this offered little difficulty. Every sensation, according to this view, was itself a cognition which consisted in awareness of what I called the ‘sense-datum’. In the Analysis of Mind (1921) I explicitly abandoned ‘sense-data’. I said: ‘Sensations are obviously the source of our knowledge of the world, including our own body. It might seem natural to regard a sensation as itself a cognition, and until lately I did so regard it. When, say, I see a person I know coming towards me in the street, it seems as though the mere seeing were knowledge. It is of course undeniable that knowledge comes through the seeing, but I think it is a mistake to regard the mere seeing itself as knowledge. If we are so to regard it, we must distinguish the seeing from what is seen: we must say that, when we see a patch of colour of a certain shape, the patch of colour is one thing and our seeing of it is another. This view, however, demands the admission of the subject, or act, in the sense discussed in our first lecture. If there is a subject, it can have a relation to the patch of colour, namely, the sort of relation which we might call awareness. In that case the sensation, as a mental event, will consist of awareness of the colour, while the colour itself will remain wholly physical, and may be called the sense-datum, to distinguish it from the sensation. The subject, however, appears to be a logical fiction, like mathematical points and instants. It is introduced, not because observation reveals it, but because it is linguistically convenient and apparently demanded by grammar. Nominal entities of this sort may or may not exist, but there is no good ground for assuming that they do. The functions that they appear to perform can always be performed by classes or series or other logical constructions, consisting of less dubious entities. If we are to avoid a perfectly gratuitous assumption, we must dispense with the subject as one of the actual ingredients of the world. But when we do this, the possibility of distinguishing the sensation from the sense-datum vanishes; at least I see no way of preserving the distinction. Accordingly the sensation that we have when we see a patch of colour simply is that patch of colour, an actual constituent of the physical world, and part of what physics is concerned with. A patch of colour is certainly not knowledge, and therefore we cannot say that pure sensation is cognitive. Through its psychological effects, it is the cause of cognitions, partly by being itself a sign of things that are correlated with it, as e.g. sensations of sight and touch are correlated, and partly by giving rise to images and memories after the sensation is faded. But in itself the pure sensation is not cognitive’ (pages 141-142)
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n.1

 1918年心的事象(events)に関する私の見解は、大変重要な変化を受けた。当初は、私はブレンターノの見解を受けいれていた。即ち、感覚には三つの要素があり、それは作用(act)と内容(content)と対象(object)である(という見解である)。(後に)私は内容と対象との区別は不要であると考えるようになったが、それでもなお、感覚は根本において関係的な出来事(occurrence)であって、それにおいて一つの主観が一つの対象(object)を「意識する」(be aware of)と考えていた。私は主観(主体)と対象(object 客観)とのこの関係を言い表わすに「意識」(awareness)または「直知」(acquaintance)の概念を用い、これを経験的知識の理論における基礎的な(基本的な)概念とみなしていた。しかし、私は、心的出来事のこの関係的性格について、次第に疑いを抱くようになった。論理的原子論についての私の講義でこの疑いを表明したが、(1918年に)この講義をしてからすぐに、かつてウィリヤム・ジェイムズが感覚の関係的性格を否定したのは正しかったと確信するにいたった。1914年,雑誌「モニスト」に発表した長い論文「直知(直接知)の本質的性格について」において、私はジェイムズの見解を批評し、斥けていた。その議論はマーシ(編)の私の論文集である『論理と知識』のp.139 以下に再録されている。(また)私が採るにいたったその反対の見解はアリストテレス協会で読み上げた論文「命題について-毎題とは何であり、また命題はおのようにして意味をもつか」において1919年に始めて発表された。この論文もまたマーシュ氏編纂の(私の)論文集にも再録されており、関係する一節(passage)は p.305以下に出てくる。W. ジェイムズの見解は「意識は存在するか?」と題する論文(小論文)の中で始めて述べられた(ものであった)。 この論文で彼は、いわゆる主観なるものは「一つの非存在者(実体のないもの)の名」であると論じ、さらに次のように言っ ている。「いまだ主観なるものに固執している人々は、単なる反響(echo いづれ消えゆくもの)に執着しているのであり、消えゆく「霊魂」が哲学の大気に残したかすかなざわめき(rumour 噂/騒音=信用できないもの)になお固執しているのである。」この論文は1904年に発表されたが、私がジェイムズの見解が正しいことを確信するにいたったのは、それから14年経った後のことであった(注:つまり、1918年のこと)。

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.1
During 1918 my view as to mental events underwent a very important change. I had originally accepted Brentano’s view that in sensation there are three elements: act, content and object. I had come to think that the distinction of content and object is unnecessary, but I still thought that sensation is a fundamentally relational occurrence in which a subject is ‘aware’ of an object. I had used the concept ‘awareness’ or ‘acquaintance’ to express this relation of subject and object, and had regarded it as fundamental in the theory of empirical knowledge, but I became gradually more doubtful as to this relational character of mental occurrences. In my lectures on logical Atomism I expressed this doubt, but soon after I gave those lectures I became convinced that William James had been right in denying the relational character of sensations. In a long paper ‘On the Nature of Acquaintance’ published in The Monist in 1914, I criticized James’s view and rejected it. The argument is reprinted in Logic and Knowledge, edited by Robert C. Marsh, page 139 ff. The contrary view which I came to adopt was first published in 1919 in a paper read before the Aristotelian Society called ‘On Propositions: What they are and how they mean’. This article is also reprinted in Mr Marsh’s collection, and the relevant passage occurs on page 305 ff. James’s view was first set forth in an essay called ‘Does “Consciousness” Exist?’ In this essay he contended that the supposed subject is ‘the name of a nonentity’. He goes on to say: ‘Those who still cling to it are clinging to a mere echo, the faint rumour left behind by the disappearing “soul” upon the air of philosophy.’ This essay was published in 1904, but it was not until fourteen years later that I became persuaded of its rightness.
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
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