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ラッセル『私の哲学の発展 」第14章 普遍者、個別者、固有名 n.8

 個物(個別者)に関する上記の困難を扱う私の最初の試みは、1911年に、アリストテレス協会(訳注:英国最大の哲学会)で読みあげた論文普遍(者)と個物(個別者)との関係について」であった。その時は、ベルクソンの出席によって威厳を増していたが、彼は、 証明が必要なのは、普遍者の存在ではなく個別者の存在であると私(ラッセル)は考えているように思われると言って、驚いていた(remark with surprise)。この論文において私は一つの仮説を吟味し、しりぞけたが、 その仮説はそれ以来,私は採用してきている(訳注:In this paper I examined, but rejected, a hypothesis which I have since adopted. 前文が「examined」「rejected」と過去形になっており、後文は 「have since adopted」と現在まで続いている現在完了形になっていることに注意)。 その仮説というのは、種々の性質(quality) が内在する(inhere)主体 (subject) として個別者を立てる必要はないという仮説であり、その仮説によれば、諸性質の束が個別者の代りになることができる(というものである)。当時この説をしりぞけたのは、数的異他性 (numerical diversity) と、それが空間と時間とに対してもつ関係の問題のためであった(訳注:1911年では、一般相対性理論は発表されていなかったので、space-time ではなく、「space and time」と表現されている)。そして(1911年)当時私は、心的現象が主観と客観との関係で成り立っていると信じており、主観は針の先のような個物(個別者)の性格を持っていると信じていた(のである)。そこで、空間的=時間的位置の相対性のゆえに、感覚的世界には個物(個別者)のあることが必要だと論じた後、私は二人の人間の間の相違(違い)に関しても全く同様な議論を進め、私は次のように言った。(訳注:あくまでも、間違った思考をした例について述べていることに注意)

Chapter 14, n.8 My first attempt to deal with the above difficulties as to particulars was a paper read before the Aristotelian Society in 1911, ‘On the Relations of Universals and Particulars’. The occasion was dignified by the presence of Bergson, who remarked, with surprise, that I seemed to think it was the existence of particulars, not of universals, that needed proving. In this paper I examined, but rejected, a hypothesis which I have since adopted. According to this hypothesis, there is no need of particulars as subjects in which qualities inhere. Bundles of qualities, according to this hypothesis, can take the place of particulars. What led me to reject this view at that time was the problem of numerical diversity and its connection with space and time. I believed, at that time, that mental phenomena consist in relations between subjects and objects, and that the subjects have the character of pin-point particulars. After arguing from the relativity of spatio-temporal position to the need of particulars in the sensible world, I went on to a closely similar argument as regards the difference between two persons. I said:
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.7


 (もうひとつの)別の種類の難点があり、それは、実体(substance)という概念に対する定評のある反論(objections 異論)と関連している。 私がラテン語の小文字で示した個物(個別者)は、構文的な意味(文法的な意味)での実体でなければならないように思われた。もっとも、それらの実体は、伝統的に実体が有すると考えられてきた不滅性という特性を持つ必要はないであろう。 「これこれの特性を持つ」という陳述が常に(文として)有意義であり(意義を持ち)、かつ、決して分析的なものではないとすると、その結果として(必然的に)、x はその全ての特性の和とは異なる何ものかであり、他の個物(個別者) y とは純粋に数的にも異なるものでなければならず、二つの個物(個別者)x と y は全ての特性を共有しつつやはり2つであるということが論理的に可能でなくてはならないということになる、と私には思われた。 しかしもちろん、我々はそれらが二つであることを知ることはできないであろう。なぜなら、もし二つであると我々知ることができるならば、x と y とは異なるが、y は異ならない(訳注:x は yと異なるという特性を持つが、y は (x は y と異ならない)という特性を持たない)、ということを知りうることを含む(伴う)ことになるからである。(訳注:x は 「xはyと異なる」という特性をもつとしても、yは「xはyと異なる」という特性をもつはずはない、ということ?)このようにして、実際上、、x は、単なる不可知な基体(subsratum)、あるいは(即ち)、もろもろの特性が、農家の梁(はり)からハムのように吊るされるところの(梁からでている)かけ釘(beams)のようなものになるであろう(訳注:その釘は見えない!!)。 このような考察 は「個別」の概念を困難におとしいれ、何らかの脱出手段を求めることを促す(のである)。

There was another class of difficulty which was connected with the well-established objections to the notion of substance. It seemed as if the particulars which I had denoted by small Latin letters would have to be substances in a syntactical sense, though they would not need to have the property of indestructibility which substances were traditionally supposed to possess. If the statement that x has such and such a property is always significant, and never analytic, it seems to follow that x is something different from the sum of all its properties, and that it must differ from another particular, y, purely numerically, so that it should be logically possible for the two particulars, x and y, to share all their properties and yet be two. We could not, of course, know that they were two, for that would involve knowing that x differs from y, which y does not do: x, in fact, would become a mere unknowable substratum, or an invisible peg from which properties would hang like hams from the beams of a farmhouse. Such considerations make the concept of ‘particulars’ difficult, and invite a search for some way of escape.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.5

 当時の私の見解は、昼の仕事(労働)と暑さとによって失われる一種の朝の無邪気さ(morning innocence)を備えていた。当時私は、もし(一つの)語が(一つの)文の意味に寄与するなら、その語の意味する何物かが存在しなければならないと考えていた。この点については、『数学の原理』の第47節を引用しよう。

「哲学は、多少とも等価(同等)の何組かの区別に精通している(親しみがある → 区別をよく行う)。即ち、主語と述語実体と形容詞的規定「これ(このもの (this) )」と 「何(何であるか) (what) 」、の区別である。これらの同語源語(cognate 源が同じ言葉)の区別に関して真であると私に思われる事柄についてここに簡単に示しておきたい。それは重要な問題である。というのは、(1)一元論と単子論(ライプニッツの monadism)、(2)観念論と経験論、また、(3)あらゆる真理は、存在するものに関わる(関係している)と主張する人々とそれを否定する人々の間にある、それらの論争点は全て、全体的あるいは部分的に、上の問題(訳注:「主語と述語の区別の問題ほか)に関して我々がて採用する理論に依存するからである。しかしこの問題(訳注: the subject と”the”がついているので、少し前にでてくる subject 「主語」ではないことに注意)をここで論ずるのは、ただそれが数の理論や変項の性質についての理論のいかなるものにとっても不可欠だからである。この問題が哲学一般に対して持つ関係は、重要 はあるが、ここではまったく考慮の外におくことにする。
 思考の対象となりうるものは何であれ、また、真または偽なる任意の命題の中に現われうるものは何であれ、また、「一」として数えられるものは何であれ、私は「項」 (term) と呼ぶ。その場合(then)、これは、哲学用語の中で最広義の語であることになる。私はそれと同じ意味に、単位 (unit) とか,個体・個物 (individual) とか,存在者 (entity)とかいう語を用いるであろう。これらの語のうち最初の2つ、即ち、「単位」と「個体」は、全ての項が 「一」であることを強調しており、三番目の「存在者」(という語)は全ての項が「存在」 (being) を持つ、言いかえれば、何らかの意味で「存在する(is)」という事実に由来している。人間、瞬間、数、集合、関係、化け物(キメイラ)、その他、言葉で呼びうるいかなるものも、それぞれ確かに一つの「項」である。(従って)これこれのものが項であることを否定することは、常に偽でなければならない。
 このように極度に一般的な意味をもつ語は大して役には立たせることができないと考えられるかもしれない。けれども、そういった見方は、広く行われている哲学説のおかげで、誤まりであろう。実際、 一つの項は、普通に実体や実体詞(substantives〕 が持つ認められている特性の全てを備えている(is possessed of)。第一に、全ての項は論理的主語である。たとえば、それは、「項自体は一なるものである(itself is one)」という命題の主語である。さらに、いかなる項も不変であり、不滅である。一つの項は何かというと存在であり(?)(What a term is, it is)、それについて考えられうるいかなる変化もそれの同一性を破壊しそれを別の項にしてしまうであろう。項が持つもう一つの(別の)特徴は、自己自身との数的同一性、及び他の全ての項に対する数的多様性である。数的同一性と数的多様性とは、単一性と多数性の源泉である。そうして、そのように多数の項の存在を認めることは、一元論を破壊することである。そうして、いかなる命題のいかなる構成要素も「一」として数えられうるものであり、かつ、いかなる命題も少なくとも二つの構成要素を含んでいるということは否定できないと思われる。それゆえ「項」は有用な語である。なぜなら、我々は多くの命題において「任意の」 項とか「ある」項とかについて語る必要があるとともに、また、「項」なる語は様々な哲学に対する我々の異論を特徴づけるからである。

Chapter 14: , n.5
My views at that time had a kind of morning innocence which they lost in the labour and heat of the day. I imagined that, if a word contributes to the meaning of a sentence, there must be something that the word means. In this connection I will quote §47 of The Principles of Mathematics: Philosophy is familiar with a certain set of distinctions, all more or less equivalent: I mean, the distinction of subject and predicate, substance and adjective, this and what. I wish now to point out briefly what appears to me to be the truth concerning these cognate distinctions. The subject is important, since the issues between monism and monadism, between idealism and empiricism, and between those who maintain and those who deny that all truth is concerned with what exists, all depend, in whole or in part, upon the theory we adopt in regard to the present question. But the subject is treated here only because it is essential to any doctrine of number or of the nature of the variable. Its bearings on general philosophy, important as they are, will be left wholly out of account. Whatever may be an object of thought, or may occur in any true or false proposition, or can be counted as one, I call a term. This, then, is the widest word in the philosophical vocabulary. I shall use as synonymous with it the words unit, individual, and entity. The first two emphasize the fact that every term is one, while the third is derived from the fact that every term has being, i.e. is in some sense. A man, a moment, a number, a class, a relation, a chimaera, or anything else that can be mentioned, is sure to be a term: and to deny that such and such a thing is a term must always be false. It might perhaps be thought that a word of such extreme generality could not be of any great use. Such a view, however, owing to certain widespread philosophical doctrines, would be erroneous. A term is, in fact, possessed of all the properties commonly assigned to substances or substantives. Every term, to begin with, is a logical subject: it is, for example, the subject of the proposition that itself is one. Again every term is immutable and indestructible. What a term is, it is, and no change can be conceived in it which would not destroy its identity and make it another term. Another mark which belongs to terms is numerical identity with themselves and numerical diversity from all other terms. Numerical identity and diversity are the source of unity and plurality; and thus the admission of many terms destroys monism. And it seems undeniable that every constituent of every proposition can be counted as one, and that no proposition contains less than two constituents. Term is, therefore, a useful word, since it marks dissent from various philosophies, as well as because, in many statements, we wish to speak of any term or some term.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル 私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.4

 私の論理記号法に関係している形而上的な信念を述べようとする最初の試みは、『数学の諸原理』(The Principles of Mathematics)の第四章に「固有名、形容詞及び動詞」という見出しのもとに、記載されている。おおざっぱに言えば、当時私が考えたことは、変項(注:数学で言えば変数)に代入できる(割り当てることができる)値に関することであった。私がラテン語の小文字で示した変項(変数)は、その可能な値として、特性または関係を有する存在者(entities)をもつべきであった。ギリシャ文字は一つの特性、 あるいはその特質をもつものの集合を指示すべきであった。ラテン語の大文字は関係を指示すべきであった。その当時の私の考えでは、ラテン語の小文字に値を与えることは、変項に一つの固有名を代入することであった。たとえば、xが何であろうとも、もし、x が人間ならばxは死すべきものであるということを知っている場合、我々は「x」に「ソクラテス」を代入することができる。同様に、ギリシャ文字には、 一つの特性を代入することができる;ラテン語の大文字には、一つの関係を代入することができる。このように、変項に常項(注:数学でいえば定数=常数)を代入することは、論理(学)を適用する手続きである。この手続きは、論理(学)の領域外にあるものである。なぜなら、論理学者は、それ自体としては(as such)、ソクラテスの存在について、また、その 他の何ものの存在についても、知らないからである。

Chapter 14: , n.4
My first attempt to state the metaphysical beliefs involved in my logical symbolism was set forth in Chapter IV of the Principles of Mathematics, entitled ‘Proper Names, Adjectives and Verbs’. Roughly speaking, what I thought then had to do with the values that could be assigned to variables. The variables for which I used small Latin letters were to have as their possible values entities which have properties or relations. A Greek letter was to denote a property or the class of things having that property. Capital Latin letters were to denote relations. I thought, at that time that the assigning of a value to a small Latin letter consisted in substituting a proper name for the variable — for example, if we know that whatever x may be, if x is a man x is mortal, we can substitute the name ‘Socrates’ for ‘x’. Similarly, for a Greek letter, we can substitute a property; and, for a capital Latin letter, we can substitute a relation, This substitution of a constant for a variable is the process of applying logic. It is a process which lies outside logic, for the logician, as such, does not know of the existence of Socrates or of anything else.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル 私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.3

 私自身のことを言えば (For my part)、(この問題については)2つの方向に導かれた。一つの方向へはライプニッツの研究によってであり、もうひとつの方向へは次の事実によってである。その事実というのは、数学の基礎概念(基本概念)の多くが非対称的関係(asymmetrical relations)を必要とし、非対称的関はその関係項のもつ述語や,関係項が構成する全体の持つ述語に還元できないという事実である。このように関係の「実在性」を信ずるようになった私は、主語-述語論理を受けいれることはできなかったし、また個物(個別者)のみが存在するという経験論の見解を受けいれることができなかった。  一元論を捨てて以来の私の哲学の発展の全体を通して、見解がいろいろな変化したけれども、私はある一定の根本的な信念を保持し続けた。その信念は、私にはどのようにして実証すればよいかわからないけれども、どうしても疑えないものである。それらの信念の第一は、私には非常に明らかに思われることであるが、それに正反対の意見が主張され続けているという状況がなければ(but for)、わざわざ言及するのは恥かしい(blush 赤面する)ほどのものである。それは、「真理」は「事実」へのある種の関係に依存するという信念である。第二は、世界は相互に関係する(しあう)多くのものからなっているという信念である。第三は、構文(構文論、統語論) 、即ち、文の構造は、事実の構造に何らかの関係を持たなければならず、、少なくとも、どのような文にも不可欠であってあれこれの言語に特有ではないところの構文の側面に関してはそういった関係を持たなければならないという信念である。最後の信念として(第四に)、上の3つほどには確かではないと感じるが、何か非常に強力な考慮事項(considerationsが私を強いるのでなければどこまでも維持し続けたい一つの原理・原則がある。それは、ひとつの複合物について言うことができること(は全て)、その複合物に言及することなく、その諸部分と部分相互の関係とを説明する(明記する)ことによって、言い表すことができるという原理である。  これらの前提(仮定)は『数学原理』の記号法において暗黙の了解であった(含意であった)。『数学原理』の記号法は、「もの」(things) があり、それらのものはいろいろな特性 (properties) をもち、かつ他の「もの」に対する関係(relations) をもっているということを想定していた。私は、当初、2つの基本的な種類の構文論的記号法を用いた。 第一は、ひとつの「もの」がひとつの集合のひとつの要素(メンバー)であることを述べるものであり、第二は、ある「もの」が他の「もの」と一定の関係をもつことを述べるものである。私は「もの」を示すにラテン語の小文字を用い、集合を示すのにギリシャ字の小文字を用い、関係を示すのにラテン語の大文字を用いた。しかしながら、「集合」は次第に「特性」によっておきかえられ、ついには、記号法上の一便宜手段として以外には姿を消した。

Chapter 14: , n.3
For my part, I was led in two directions: on the one hand, by the study of Leibniz; and, on the other hand, by the fact that many of the fundamental concepts of mathematics demand asymmetrical relations, which cannot be reduced to predicates of the related terms or of the whole which the terms compose. Having become firmly convinced of the ‘reality’ of relations, I could not accept either the subject-predicate logic or the empiricist view that there are only particulars. Throughout my philosophical development since abandoning monism, I have retained, in spite of changes, certain fundamental beliefs, which I do not know how to demonstrate, but which I cannot bring myself to doubt. The first of these, which seems so obvious that I should blush to mention it but for the circumstance that the contrary opinion has been maintained, is that ‘truth’ depends upon some kind of relation to ‘fact’. The second is that the world consists of many interrelated things. The third is that syntax — i.e. the structure of sentences — must have some relation to the structure of facts, at any rate in those aspects of syntax which are unavoidable and not peculiar to this or that language. Lastly, there is a principle of which I feel less certain, but which I wish to adhere to except where very powerful considerations compel me to depart from it. This is the principle that what can be said about a complex can be said without mentioning it by setting forth its parts and their mutual relations. These assumptions were implicit in the symbolism of Principia Mathematica. This symbolism assumed that there are ‘things’ which have properties and have, also, relations to other ‘things’. I employed, at first, two fundamental kinds of syntactical symbolism, the first stating that a ‘thing’ is a member of a class, the second stating that one ‘thing’ has such and such a relation to another ‘thing’. I employed small Latin letters for ‘things’, small Greek letters for classes, and capital Latin letters for relations. Classes, however, were gradually more and more replaced by properties, and in the end disappeared except as a symbolic convenience. Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_14-030.HTM

ラッセル 私の哲学の発展 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.2

 私は、これらの伝統的な見解のいくつかを寓話の形で雑誌 「ポレミック」 (Polemic) に記述した (1946年,第2号, pp.24-25)。) 「かつて(昔々),様々な学派の哲学者達の一行がヨーロッパ大陸の辺鄙な地方を旅行していました。彼らはつつましやかな(質素)な宿屋を見つけ 食事を注文しました。宿屋の亭主は牛肉の骨付き肉(a joint of beef)を出しますと約束しました。しかし、出てきた骨付き肉はいかにもまずそうでした(食欲をそそられないものでした)。ヒュームの信奉者で旅行の経験を積んでいたひとりの哲学者が、亭主(mine host) を呼んでこう言ました。 「これは 牛肉ではない、馬肉だ!」  彼はその宿屋の亭主が、昔はもっと盛んに商売をしていたが、哲学に凝ったために仕事を疎かにして落ちぶれた人だということを知りませんでした。それで亭主が次のように返事した時には驚きました。 「意味不明のことをあなたが言われるので、私は驚いています。あなたがた(哲学者の方々)の御意見によれば、「牛肉」や「馬肉」とはどちらも単なる言葉に過ぎず、非言語的世界における何ものも指示しません(そのようにあなた方は言っています。) 従って、牛肉であるか馬肉であるかの争いは、ただ言葉(上)の争いに過ぎないことになります(なるはずです)。 もしあなたが「馬肉」という言葉を好むのであればそれで結構です。 しかし、私としては牛肉という言葉の方がを有利である(profitable そう言ったほうが儲かる)と思っている(発見した)次第でございます。」(訳注:言葉は実体を反映しないのであるのなら、「牛肉」と言ったほうが宿屋の主人としては儲けになる、との屁理屈)  この返事を聞いて全ての哲学者達(いろんな学派の哲学者達)がいっせいに話しはじめた。ロスケリヌス(Roscelin = Roscellinus ロスケリヌス、1050年頃-1125:フランスの哲学者・神学者で唯名論の創始者)の信奉者は言った、「亭主の言うことはもっともだ。 「牛肉」や「馬肉」は人間の息の発した音に過ぎず、いずれの言葉もこの忌むべき固い肉片を指示することはできない」。 プラトン主義者は次のように言い返した。「ナンセンスだ! この骨付き肉は、生きてた時には天上の永遠の馬のひとつの写しであった動物のものだ。天上の永遠の牛の写しだった動物のものではない」。(次に)アウグスティヌス主義者はこう言った、「「牛肉」や「馬肉」は神の精神における一つの観念(イデア)である。また、 私は、牛肉についての神の観念(イデア)はこの(亭主が出した)骨付き肉とは非常に異なったものである確信している」。  哲学者たちの意見が一致しているものがたった一つだけあった。それは、そのようなひどいものを「牛肉」の名のもとに売った人間はいかなる者も詐欺罪で告訴されるべきであるということであった。このことを聞いて亭主は、その地方の治安判事が哲学者ではないことを知っていたので、大いに恐れをなし、別の肉を出し、それは全ての哲学者に満足を与えた。  この寓話のただひとつの要点は、「普遍(者)」の問題はただ単に言葉の問題ではなく、事実を述べようとする試みから生ずる問題であるということである。

Chapter 14: , n.1
There was once a company of philosophers of various schools travelling in an out-of-the-way region on the Continent. They found an unpretentious inn and ordered dinner; the innkeeper promised them a joint of beef. But the joint, when it came, was unappetizing. One of the philosophers, a disciple of Hume and an experienced traveller, summoned mine host and said: ‘This is not beef, it is horse.’ He did not know that the innkeeper had seen better days, but had neglected his affairs and come down in the world through devotion to philosophy; he was therefore amazed when the innkeeper replied: ‘Sir, I am surprised to hear you saying something which you believe to be devoid of meaning. “Beef” and “horse”, according to you, are only words, and do not denote anything in the non-linguistic world. The dispute is therefore only about words. If you prefer the word “horse”, well and good; but I find the word “beef” more profitable.’ This reply set all the philosophers talking at once. ‘The innkeeper is right,’ said a disciple of Roscelin, ‘ “beef” and “horse” are only sounds uttered by human breath, and neither can denote this abominable piece of very tough meat.’ ‘Nonsense,’ retorted a Platonist, ‘this joint comes from an animal which, when alive, was a copy of the eternal horse in heaven, and not of the eternal ox.’ An Augustinian remarked: ‘ “Beef” and “horse” are ideas in the mind of God, and I am sure the divine idea of beef is something very different from this.’ There was only one point on which they were all agreed, and that was, that any person who sold such nasty stuff’ under the name of ‘beef’ deserved to be prosecuted for fraud. At tlhs the innkeeper, who knew the local magistrate to be no philosopher, became frightened, and produced another joint, which gave universal satisfaction. The sole point of this parable is that the question of ‘universals’ is not merely one of words, but one which arises through the attempt to state facts. Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_14-010.HTM

ラッセル 『私の哲学の発展』 第14章 普遍者、個別者、固有名 n.1

 普遍(者)と個別(者)に関する諸問題及びそれと密接に関係する固有名の諸問題は、一元論の論理(一元論の立場の論理学)を放棄して以来、ずっと私の思索のなかで非常に大きな部分を占めてきた。 それら(の問題)は古い(古くからの)問題であり、事実、少なくともアリストテレスにまで遡るほど古い問題である。(また)それらの問題は、中世のスコラ哲学者達の思索の大きな部分を占めいてた。これら問題に関する彼らの著作は現在でも真剣な考慮に値いする(ものである)。17,18世紀において、普遍(者)の心理学上及び形而上学上の地位についての(意見の)相違は、(ヨーロッパ)大陸の哲学者達とイギリスの経験論者達との間の最も重要な論争点であった。 私は、これらの伝統的な見解のいくつかを寓話の形で雑誌 「ポレミック」 (Polemic) に記述した (1946年,第2号, pp.24-25)。

Chapter 14: , n.1 The problems connected with universals and particulars and with the closely related matter of proper names have occupied a great deal of my thought ever since I abandoned the monistic logic. The problems are old, in fact at least as old as Aristotle. They occupied much of the speculation of the mediaeval Schoolmen, whose work in this connection still deserves serious consideration. In the seventeenth and eighteenth centuries, differences as to the psychological and metaphysical status of universals were among the most important points of controversy between Continental philosophers and British empiricists. I set forth some of these traditional views in Polemic in the form of a fable (No. 2 , 194 ( 5 , pages 24 – 5 ):
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n10

 信念(というもの)は明確な概念ではない。なぜなら、最下等の動物と人間(注:高等動物)との間に連続性が存在するからである。(即ち、人間以外の)動物は(も)、何らかの信念を伴うと解釈可能な(様々な)行動様式を示す。このことは心に留めておかないといけない一方(while)、我々が関心をもっているのは(with which we are concerned)、特に、我々自身の経験において自ら知るところの人間の信念である。(ところで)語の使用なしに可能な信念は、比較的単純な種類の信念のみである。我々は皆、円周の円の直径に対する比率(円周率)は、近似的に3.14159であると信じているが、この信念が言語なくして存在できるかは私にはわからない(つまり、語=言葉を使用するからこそ理解可能となる)。けれども、多くの信念が明らかに言語使用以前のものである(Many beliefs, however, clearly ante-date language. 言語が使用される前から信念は存在している)。我々が犬を見ると、我々は「犬」と言い、そうして我々の信念に言語的表現を与える。 (しかし)猫は犬を見ると、その信念を我々人間とは異なった仕方で表現する。猫は毛を逆立たせ、背を弓なりに曲げ、シューシューと音を立てる。 これは(猫がシューという音を出すのも)我々人間が「犬(だ!)」という語を用いるのとちょうど同じような信念の表現である。同様のことが、記憶について(も)当てはまる。もしあなたが大きな雷鳴を聞いた直後に – もし我々が語を使用するなら- 「今しがた大きな雷鳴があった」という文で表現されるような状態にいるのである。 しかし、この時、たとえまったく語が心(頭)に浮かばないとしても、この文が表現することをあなたは信じているのである(信念をもっているのである)。「私がその用語(の意味)として理解している信念とは(A belief, as I understand the term)、身体または精神あるいはその両者の、ある一定の状態である。 冗長さを避けるために、私それをひとつ有機体(organism)の一定の状態と呼ぶことにして、身体的因子と心的因子との区別を無視することになる」(ラッセル『人間の知識』p.161) 私は(『人間の知識』のなかで)次のように続けて述べている。「何かを信じていることで成り立っている有機体のいかなる状態も、理論的には、そのあることに言及することなく完全に記述することが可能である。(たとえば)『一台の車がやって来る』と我々が信ずる時、我々の信念は、(我々の)筋肉や感覚器官や情緒がある一定の状態にあり、多分視覚を伴っている状態で、成り立っているであろう。これら全て及び我々の信念を形成する可能性のあるものが何であれ、 心理学者と生理学者が協力することにより、我々の精神と身体の外部にあるものについて語ることなしに、理論上は、十分記述することが可能だろう。」 適切な文の発話は、その信念を構成する心身の状態の一つにすぎない。言葉による表現(言語的表現)の重要性は、同じ信念を表現するいかなる非言語的状態よりも、伝達可能であること及びより正確でありうることに、由来している。

Chapter 13: language, n.10
Belief is not a precise concept, because of the continuity between the lowest animals and man. Animals show ways of behaviour which might be interpreted as involving this or that belief. But, while this should be borne in mind, it is especially human beliefs as we know them in our own experience with which we are concerned. It is only the simpler kinds of belief that are possible without the use of words. We all believe that the ratio of the circumference of the circle to the diameter is approximately 3.14159, but I do not see how this belief could exist in the absence of language. Many beliefs, however, clearly ante-date language. When you see a dog, you may say ‘dog’ and thus give verbal expression to your belief. A cat, seeing a dog, expresses its belief differently: its hairs stand on end, it arches its back, and hisses. This is an expression of belief, just as much as your use of the word ‘dog’. The same sort of thing applies to memory. If you have just heard a loud clap of thunder, you are in a state which, if you used words, would be expressed in the sentence, ‘there has just been a loud clap of thunder’. But you are believing what this sentence expresses even if no words come into your mind. ‘A belief, as I understand the term, is a certain state of body or mind or both. To avoid verbiage, I shall call it a state of an organism, and ignore the distinction of bodily and mental factors’ ( Human Knowledge, page 161 ). I go on to say, ‘Any state of an organism which consists in believing something can, theoretically, be fully described without mentioning the something. When you believe “a car is coming” your belief consists in a certain state of the muscles, sense-organs, and emotions, together perhaps with certain visual images. All this, and whatever else may go to make up your belief, could, in theory, be fully described by a psychologist and physiologist working together, without their ever having to mention anything outside your mind and body’. The utterance of an appropriate sentence is only one of the states of mind and body which constitute the belief. The verbal expression derives its importance through being communicable and through being capable of more precision than any non-verbal state embodying the same belief.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n9)

 直接法の文が発話される可能性があるのは、話し手(話者)がそれ(その文の内容)を信じているからであるか、あるいは、話し手(話者)がその文は聞き手の中に何らかの行動あるいは情緒を引き起こすだろうと期待するからである(ウィキペディアの説明:直説法 indicativeとは、インド・ヨーロッパ語族に属する言語で用いられる法のひとつで、話者が事実をそのまま語る場合に用いられる動詞の活用をいう。基本的に、条件法や接続法、仮定法や命令法以外の動詞の活用をいう)。私が指摘したように、ある俳優が「私はデンマークのハムレットだ!(Hamlet the Dane)」と言うとき、誰も彼がハムレットであるとは信じていないが、彼が嘘をついているとも考えない(注:嘘をついているのではなく「気が狂っている」と思っている)。これで明らかになることは、真理や虚偽は、信念 (belief) を表現する文または信念を生ぜしめようと意図された文にのみ属する性質であるということである(訳注:発話者が嘘をついていると信じていなくてもよいということ)。真理と虚偽関しては、文は信念を伝えるもの(乗り物)としてのみ重要である。信念は、それが複雑なものでなければ、語の使用なしに存在できることは明らかである(訳注:何も言わなくても、怒っていることだけは確かだ、とか・・・)。こうして(Thus )、我々は、言語の領域の外に連れ出され、まず言語化されていない信念を考察し、次に、そういう信念とその信念を表現できる文との間の関係を考察せざるを得なくなる(のである)(訳注:相手が怒っているのは電話をしなかったからか? とか)。

Chapter 13: language, n.9
A sentence in the indicative may be uttered because the speaker believes it, or because he hopes that it will arouse some action or emotion in the hearer. As I pointed out, when an actor says, ‘This is I, Hamlet the Dane’, nobody believes him, but nobody thinks he is lying. This makes it clear that truth and falsehood belong only to sentences expressing belief or intended to cause belief. In regard to truth and falsehood, a sentence is only important as a vehicle of belief. It is clear that beliefs, if they are not complicated, can exist without the use of words. We are thus taken outside the linguistic sphere and are compelled to consider, first, unverbalized beliefs, and then the relation of such beliefs to the sentences in which they can be expressed.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n8)

【この点については、『人間の知識』(pp.267-269)から次の一節を引用しておこう。】

ひとつの対象の構造を示すことは、その対象の諸部分について、また、諸部分が相互に関係する仕方について、言及することである(たとえば)我々が解剖学を学んでいるとすると、我々はまず様々な骨の名前と形とを学び、 その後、各々(それぞれ)の骨が骨格のどの部分に属するかを教えられるかもしれない(might 可能性がある)。その時は、我々は、解剖学が骨格について言うことを有している限り(範囲)において、骨格を知ることになるであろう。しかし、骨格の構造(structure in relation to the skelton)について言うことができることの全てを尽くしたことにはならないであろう。 骨は細胞からなっており、細胞は分子 からなっており、分子は化学が研究するところの原子構造をもっている(訳注:ただし、科学は一つ一つの原子の構造については言及しない)。原子は、今度は、物理学が研究するような構造をもっている(訳注:原子核+電子 → 素粒子)。現在一般に認められている科学(注:1959年の時点!)は、この点(point 度合い/段階)で分析を中止している。しかし、さらに進んだ分析が不可能であると想定すべき理由は全くない。我々は(本書の)後の方で、物理的存在を事象(出来事)からなる構造にまで分析することについて述べる(提案する)機会を持つであろうし、事象(出来事)すら、後に私が示そうと試みるように、構造を持つものであtp考えるのが得策である。(with advantage 利点がある)」 「次に、幾分ちがった構造の例、即ち、文(の構造)について考えてみよう。文は語(単語など)の系列(語がいくつかつらなったもの)であり、文が話される場合には時間的前後の関係による順序に配列されており、書かれた文であれば、左から右へ(訳注:アルファベットの場合!)の関係による順序に配列されてい。しかし、これらの関係は、実は、語と語の間の関係ではなく、 語の個別的事例 (instances) (同士)の間の関係である(訳注:。ひとつの語とは、類似する音(noises)の集合であり、それらはすべて同じ意味またはほとんど同じ意味をもっている(話を単純化するために、私は書かれた文字ではなく話された言葉に限定しよう)。 ひとつの文もまた音(noises :不快で非音楽的な音)の集合である。なぜなら多くの人が同じ文を発話できるからである(訳注:たとえば、「ポチ」という語がありますが、その場に3人の人がいて、3人が「ポチ」という語を発声すれば、「ポチ」という語の3つの発話例 instances が生じることになります)。 そこで、文とは語(words)の時間的系列であると言うべきではなく、それは音(noise)の集合であり、しかもそれら音(noise)はおのおのまた、迅速な時系列の音(noise)からなり、しかもまた、この音(noise)各々の語(word)の個別的事例であるようなものである(これは一つの文の必要な特質であって十分な特質でない。 十分でないというのは(なぜならば)、語の系列の中には有意義でないものもありうるからである)。さて私は様々な品詞(different parts of speech)の区別に長居することなく(これ以上詳しく論ずることはやめて)、統語論(syntax 構文)には属せず、音韻論に属するところの、次の分析の段階に進もう。一つの語(a wordの各事例(each instance)は複合的な音(sound)であり、それらの諸部分は個々の文字(separate letters)である(ただし 文字は音標文字 phonetic alphabet を仮定する)。このような音韻分析の彼方(behind 後に/先に)に、さらに次の分析の段階がある。それは一つひとつの文字を発音したり聞いたりする、複雑な(人間の)生理過程の分析の第かいがある。 生理学的分析の彼方(先)には、物理学の分析があり、さらにこの点から先へ分析は進むが、それは骨について考えたのと同じである。 ・・・・・・」 「後になってそれ自身複合的であるとわかるような単位(units)から出発して構造を説明することには何の誤りはない。たとえば、点は事象(出来事)の集合として定義されうるが、だからといって、点を単純なもの(simple 構造をもたないもの)として扱った伝統的な幾何学(訳注:ユークリッド幾何学のこと)が誤まっていたということにはならない。構造についての説明は、全てある単位に相対的なものであり、その単位は、当面は、あたかも構造をもたないものであるかのごとく扱われる。 しかし、それらの単位が、別の文脈(コンテキスト)においては構造をもち、それを認めることが重要でありうることを、否定してはならないのである。」

Chapter 13: language, n.8 (As to this, I will quote the following passage from Human Knowledge (pages 267-9):) To exhibit the structure of an object is to mention its parts and the ways in which they are interrelated. If you were learning anatomy, you might first learn the names and shapes of the various bones, and then be taught where each bone belongs in the skeleton. You would then know the structure of the skeleton in so far as anatomy has anything to say about it. But you would not have come to an end of what can be said about structure in relation to the skeleton. Bones are composed of cells, and cells of molecules, and each molecule has an atomic structure which it is the business of chemistry to study. Atoms, in turn, have a structure which is studied in physics. At this point orthodox science ceases its analysis, but there is no reason to suppose that further analysis is impossible. We shall have occasion to suggest the analysis of physical entities into structures of events, and even events, as I shall try to show, may be regarded with advantage as having a structure. ‘Let us consider next a somewhat different example of structure, namely sentences. A sentence is a series of words, arranged in order by the relation of earlier and later if the sentence is spoken, and of left to right if it is written. But these relations are not really between words; they are between instances of words. A word is a class of similar noises, all having the same meaning or nearly the same meaning. (For simplicity I shall confine myself to speech as opposed to writing.) A sentence also is a class of noises, since many people can utter the same sentence. We must say, then, not that a sentence is a temporal series of words, but that a sentence is a class of noises, each consisting of a series of noises in quick temporal succession, each of these latter noises being an instance of a word. (This is a necessary but not a sufficient characteristic of a sentence; it is not sufficient because some series of words are not significant.) I will not linger on the distinction between different parts of speech, but will go on to the next stage in analysis, which belongs no longer to syntax, but to phonetics. Each instance of a word is a complex sound, the parts being the separate letters (assuming a phonetic alphabet). Behind the phonetic analysis there is a further stage: the analysis of the complex physiological process of uttering or hearing a single letter. Behind the physiological analysis is the analysis of physics, and from this point onward analysis proceeds as in the case of the bones. . . . ‘There is nothing erroneous in an account of structure which starts from units that are afterwards found to be themselves complex. For example, points may be defined as classes of events, but that does not falsify anything in traditional geometry, which treated points as simples. Every account of structure is relative to certain units which are, for the time being, treated as if they were devoid of structure, but it must never be assumed that these units will not, in another context, have a structure which it is important to recognize.’    
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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