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広大な風景に接することで幸福を感じるラッセル

私は広大な地平線や視界を遮るものがない日没の光景を見慣れて成長した。そのため,それ以来ずっと,その両方なしではけっして幸福に暮らすことはできなかった。

I grew accustomed to wide horizons and to an unimpeded view of the sunset. And I have never since been able to live happily without both.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-040.HTM

<寸言>
ラッセルは田舎が好きだったが,それは祖父の屋敷であるペンブローク・ロッジでの暮らしによって培われたものと思われる。ペンブローク・ロッジには11エーカに庭がついており、その西側から(現在のヒースロー空港に向けて)広大な景色が望めた。Beacon Hill School (ラッセルが一時期経営した幼児学校)からも,ラッセルが晩年に住んだ自宅(Pras Penrhyn)からも広大な景色が望めた。贅沢な望みだとも言えるが・・・。
2枚の広大な風景を臨む写真をご覧ください。

1)ラッセルが3歳から18歳まですんだ屋敷(Pembroke Lodge)の庭から西側(ヒースロー空港側)を臨む
http://russell-j.com/cool/MATU04.HTM
PHOTO04B

2)晩年に住んだ北ウェールズの自宅(Plas Penryhn)の庭から西側(ポートマドック方面)を臨む
http://russell-j.com/cool/MAKINO05.HTM
PLAS05

「この紙の裏面に述べられていることは誤りである。また,・・・」

BR-REVRS・・・。本質的にエピメニデスの矛盾と同様の矛盾は,「この紙の裏面に述べられていることは誤りである。」と書かれた紙を人に渡すことによって創り出せる。その人が今度はその紙を裏返せば,紙の裏面には,「この紙の裏面(即ちさきほどの表面)に書かれていることは正しい」と書いてあるのを発見する。
大人がそのようなとるに足らないことに時間を費やす価値はないように思われたが,しかしそれなら私は一体何をすればよかったのか。そのような矛盾が通常の(正規の)諸前提から避けられないのであるなら,何かがまちがっていたのである。つまらないものであろうとなかろうと,この問題は(私に対する)1つの挑戦であった。

A contradiction essentially similar to that of Epimenides can be created by giving a person a piece of paper on which is written: ‘The statement on the other side of this paper is false.’ The person turns the paper over, and finds on the other side: ‘The statement on the other side of this paper is true’. It seemed unworthy of a grown man to spend his time on such trivialities, but what was I to do? There was something wrong, since such contradictions were unavoidable on ordinary premisses. Trivial or not, the matter was a challenge.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-050.HTM

<寸言>
「人生は矛盾に満ちたものだ」という言い方があり,そういったことがわかって人間は大人になることができると’したり顔‘で言うことがある。心理的な矛盾や(論理的でない)ジレンマであればそういった態度もよいであろうが、論理的矛盾はそういうことでは処理できない。論理的矛盾からはいかなるものも(どんな間違ったものでも)導出することができ、論理学そのものや人間の理性が否定されてしまう
もちろん、人間が飲食し、住まいを確保し、家庭をつくっていくなど、論理学はなくてもひとつの生物として生きていくことは出きるが、間の理性に価値を見出そうとしている人間にとっては(無視できない)解決すべき大きな問題となる。

法律を破らないと「共犯の罪」を犯すことになるかもしれないような事態

とにかく,アメリカにおいて,(米国の)体制(側)の権力を例証するとても興味深い事件は,クロウド・イーザリー(Claude Eatherly, 1918-1978)の事件である。彼は,広島に爆弾を投下するための信号を送った。彼の事件は,また,現代世界においては,法律を破ることによってのみ兇暴な罪を犯すことを免れることができるという事態が,しばしば起こることを例証している。彼は,その爆弾がどのような効果をもたらすか告げられていなかった。そうして,彼の行為の結果がわかった時,彼は全く恐れおののいた。
彼は,核兵器の残酷さに注意を喚起するために,また,もし彼がそうしなかったら,彼を押しつぶしてしまうであろう罪を償うために,長年に渡り,多様な市民的不服従運動に献身した。米当局(政府・国防省その他)は,彼は気が狂った者として考えられるべきだと決定し,また,著しく政府(権力)に従順な精神病学者たちのグループが,その公式見解を裏書した(支持した)
イーザリーは,後悔したために,精神に異常があると証明された。(これに対し),トルーマン(大統領)は後悔しなかったので,精神に異常があるとは証明されなかった。私は,彼の動機を説明するかなり多数のイーザリーの声明文を読んできた。これらの声明文は,全く正常なものである。しかし,私自身を含めて,ほとんどすべての者が彼は気が狂ってしまったと信じたほど,虚偽の宣伝の力は大きかった。
Eatherly por Miguel Brieva
An extraordinarily interesting case which illustrates the power of the Establishment, at any rate in America, is that of Claude Eatherly, who gave the signal for the dropping of the bomb at Hiroshima. His case also illustrates that in the modern world it often happens that only by breaking the law can a man escape from committing atrocious crimes. He was not told what the bomb would do and was utterly horrified when he discovered the consequences of his act. He devoted himself throughout many years to various kinds of civil disobedience with a view to calling attention to the atrocity of nuclear weapons and to expiating the sense of guilt which, if he did not act, would weigh him down. The Authorities decided that he was to be considered mad, and a board of remarkably conformist psychiatrists endorsed that official view. Eatherly was repentant and certified; Truman was unrepentant and uncertified. I have seen a number of Eatherly’s statements explaining his motives. These statements are entirely sane. But such is the power of mendacious publicity that almost everyone, including myself, believed that he had become a lunatic.
出典: Has Man a Future? (1961),chap.4.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/58T-0401.HTM

<寸言> (再掲)
国家を支配する権力は強大である。一般人が言ったことであれば無視されたり、訴えられたりすることも、大統領や首相になれば無視できず、反論を押さえつけることができる。
トランプ次期大統領Twitter で自分の言いたいことを言い、企業や国家を自分の思う方向に誘導しようとすれば、通常は訴えられてしかるべきである。つまり法の下の平等があるはずであるが、実際はそうはなっていない。確かに訴えることはできるが、大統領を訴えて勝訴するためには、非常にたくさんの支援者と莫大な訴訟関連費用が必要となる。普通の人間にそんなことはできない。
そのことは、かなり影響力の程度は下がるとしても日本の首相に対してもも当てはまる。

愚かな指導者(政治家など)と追従する者(国民など)-その末路は?

onajiahonara-odoranya-sonson_ahoren ファーブル(Jean Henri Fabre, 1823-1915.フランスの昆虫学者)は,自分たちのリーダーのあとを追う習性のある一群の昆虫のことを描写している。ファーブルは,それが円形であることを知らないリーダの昆虫とともに,それらの一群の昆虫を円盤の上に置いた。(その結果)彼らは円盤状をぐるぐる何度も回り,ついに疲労で死んでしまった。現代の政治家とその信奉者たちは,これと同等で非常に似通った愚行を犯している。
Fabre_konchukiFabre describes a collection of insects which had the habit of following their leader. He placed them on a circular disc which their leader did not know to be circular. They marched round and round until they dropped dead of fatigue. Modern statesmen and their admirers are guilty of equal and very similar folly.
From: Fact and Fiction, 1961, part VI, chap.1.
http://russell-j.com/cool/57T_PT2-0101.HTM

<寸言> (再掲)
昆虫のリーダー(注:本国で権力に慣れている人々/現代の政治家)の代わりにトランプ、プーチン、キム・ジョンウン、安倍晋三、その他好きな人物を代入してください
そのリーダに従う人たち(追従者)にも、「安倍チルドレン」や「◯△□・・凸凹」など、好きな日和見集団を代入してみましょう。
 でも、追従者が一部であればそれほど問題ありませんが、それが過半数の国民だったとしたら・・・!?
下記の息絶えるまで止まらない軍隊アリのデススパイラルの動画は気持ち悪い。
https://www.youtube.com/watch?v=j3R6kzLOrYQ

「御用学者、御用!御用!」

goyogakusha_fueruwake 本物の科学者に対しては,私は最高度の尊敬を抱いている。本物の科学者は,現代世界において,真に建設的であると同時に,心底から革命的な一つの力である。科学者は,一般の人たちと同様に持っている偏見に関係ない専門的な問題を扱っている場合は,他の誰よりもずっと正しい判断を下す傾向にある。だが,残念ながら,個人的に強い感情を抱いている問題に取り組む場合に,公平無私な立場を維持できる科学者がほとんどいない。

For the genuine man of science I have the highest possible respect. He is the one force in the modern world at once genuinely constructive and profoundly revolutionary. When the man of science is dealing with technical matters that do not touch upon the prejudices which he shares with the average man, he is more likely to be right than anyone else. But unfortunately very few men of science are able to retain their impartiality when they come to matters about which they feel strongly.
出典: Are men of science scientific? (written in Feb. 24, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/KAGAKSHA.HTM

<寸言>
科学のあらゆる分野において専門化がますます進んでいます。科学の発展のためには必要なことではありますが,弊害も少なくありません。そこで境界領域的な,また広域的な科学も多く生まれてきましたが,十分とは言えません。科学者にもいろいろなタイプがいて,専門以外のことには口を余りはさまないようにしている謙虚な人もいれば,あらゆることに意見を述べようとする「識者」もいます。専門バカも謙虚さを失った科学者も不用であり,真の意味で「科学的な」科学者が増えてもらいたいものです

経済体制(富の問題)以上に「権力の問題」が重要と指摘

tpj-p 私は(自著『権力論』の中で),富よりもむしろ権力(注:政治的権力だけでなく広い意味での権力)が社会理論における基本的な概念であるべきであり,社会正義は,実際に可能な最大限まで権力を平等化することにあると論じた。続いて,もし国家が民主的でないならば,(社会主義国におけるような)土地と資本の国有(化)はまったく前進とは言えず,また国家が仮に民主的であるとしても,役人(官僚)の権力を抑制する方法がとられた時にのみ前進と言える,と主張した。私の主題の一部は,バーナム「経営者革命」(注:Burnham’s Managerial Revolution)の中にとりあげられ,普及した。しかし,それがなければ,この本はむしろ失敗に終わっていたと言ったほうがよいだろう。けれども,私は,もし全体主義の害悪が回避さるべきものとすれば,-特に社会主義政権下においては- 『権力』における私の主張はきわめて重要性を持っている,という考えを今なお抱いている。

russell-power_burnhams-managerial-revolutionI argued that power, rather than wealth, should be the basic concept in social theory, and that social justice should consist in equalization of power to the greatest practicable degree. It followed that State ownership of land and capital was no advance unless the State was democratic, and even then only if methods were devised for curbing the power of officials. A part of my thesis was taken up and popularized in Burnham’s Managerial Revolution, but otherwise the book fell rather flat. I still hold, however, that what it has to say is of very great importance if the evils of totalitarianism are to be avoided, particularly under a Socialist regime.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB25-060.HTM

<寸言>
abe_japan's-media_quailing 資本主義国は、社会主義においては自由がなくて人間を不幸にすると主張し,社会主義国は、資本主義国においては一部の人間だけが富み他の人間をみな貧しくなると主張する。しかし、実際は、資本主義国だけでなく、社会主義国でも貧富の格差は進んでいるとともに、体制にかかわりなく、大国は中小国を支配あるいは搾取しようとする。
ラッセルは早い時期から、体制の問題を問わず、国家間においても、国内においても、権力をできるだけ(関係する組織や関係者相互で)抑制しあえるように平等化する必要があると主張した。
現実は、効率化のために、また科学技術の進展により、より大きな力を国家が行使できるようになり、国家権力は増大し続けている。

『ロシア共産主義の理論と実際』(1920年)出版の決意

mailboatleavingsaigonforfrance1920 私たち(ラッセルとドーラ)は,’ポルト(Portos)’という名前のフランス汽船に乗って,マルセイユから中国まで船旅をした(注:絵葉書,当時、フランスと中国の間を運航した郵便船)。(しかし)ロンドンを離れる直前になって,同船で伝染病(ペスト)が発生したために,出航が3週間延期されるということがわかった。だが私たちは,お別れの言葉を二度言うようなことはしたくなかったのでパリに行き,そこで3週間を過ごした
このパリ滞在中に私は,ロシアに関する著書(The Practice and Theory of Bolshevism)を書き終えた。そうして,大変躊躇した後,その本の出版を決意した。ボルシェヴィズム(ロシア共産主義)への反対意見を述べることは,当然のことながら,ロシア革命に反対する者(反動側)を利することであり,私の友人たちの大部分は,ロシアについてはロシア(革命)に好意的なものでない限り自分の考えを言ってはならない,という見方をしていた。けれども私は,第一次世界大戦期間中,愛国者たちからの同様の議論(注:自国がたとえ間違っていても,自国の誤りを指摘することは敵国を利することになる。大英帝国万歳!)に耐えた(という経験がある)し,長い目で見ると,沈黙を守ることによってはいかなる良い目的も達成されないだろうと,私には思われた。私とドーラとの個人的関係の問題は,当然のことながら,事態をいっそう複雑にしていた。ある暑い夏の夜,彼女が寝てしまってから私は起き上がり,ホテルの部屋のバルコニーに坐り,夜空の星を凝視した。私は,熱した党派的感情から離れて,冷静に問題を理解しようと努めた。そして,カシオペア座と語りあっている自分を想像した。私には,ボルシェヴィズム(ロシア共産主義)について私が考えていることを発表しないよりは発表する方がずっと星との調和を保てるだろうと思われた。そこで私は,執筆を続け,私たちがマルセイユに向かって出発する前夜にその本を書き終えた

tp-ptbWe travelled to China from Marseilles in a French boat called Portos. Just before we left London, we learned that, owing to a case of plague on board, the sailing would be delayed for three weeks. We did not feel, however, that we could go through all the business of saying goodbye a second time, so we went to Paris and spent the three weeks there. During this time I finished my book on Russia, and decided, after much hesitation, that I would publish it. To say anything against Bolshevism was, of course, to play into the hands of reaction, and most of my friends took the view that one ought not to say what one thought about Russia unless what one thought was favourable. I had, however, been impervious to similar arguments from patriots during the War, and it seemed to me that in the long run no good purpose would be served by holding one’s tongue. The matter was, of course, much complicated for me by the question of my personal relations with Dora. One hot summer night, after she had gone to sleep, I got up and sat on the balcony of our room and contemplated the stars. I tried to see the question without the heat of party passion and imagined myself holding a conversation with Cassiopeia. It seemed to me that I should be more in harmony with the stars if I published what I thought about Bolshevism than if I did not. So I went on with the work and finished the book on the night before we started for Marseilles.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-010.HTM

<寸言>  (★再録です。)
民主主義国であれ、社会主義国(あるいは共産主義国)であれ、理念がどんなに素晴らしくても、権力を握った集団は、必ず、その理念に反する強権政治や情報統制を行うようになる。
tp-p ラッセルには有名な権力に関する本(Power, 1938)があるが、ラッセルは早くから権力の問題の重要性を指摘(権力は常に監視しなければならない、権力はできるだけ分散させなければならない、権力には必ずチェック機構が必要だとの主張)をしてきた。

共産主義国であろうが、民主主義国であろうが、「民主主義の手続き」(麻生元副総理が推奨した「ナチスの手口」)によって、しだいに独裁へと進んでしまう。特定秘密保護法、教育基本法、憲法の解釈変更に続いて、テロ対策のための非常事態措置法、憲法への非常事態対処のための国民の権利の制限へと進んでいく危険性があるが、気がついた時にはもう遅いということにならないか!?

『社会再建の原理』(1916年)の出版で多額の収入を得る

tp-psr その本(1916年,ラッセルが44歳の時に出版した『社会再建の原理』)の中に,私は,人間生活の形成において,意識的な目的よりも衝動の方がより影響力をもつという信条に基づいた政治哲学を提示した。私は,衝動を,所有的衝動と創造的衝動の,2つのグループに分け,最善の生活は大部分創造的衝動の上に築かれると考えた。私は,所有的衝動が具現化された実例として,国家,戦争,貧困をあげ,創造的衝動の実例として,教育,結婚,宗教をあげた。創造性の解放(発揮)が,改革の原理であるべきであると,私は確信していた。私は,当初,この本を(数回の)講演用として献じたが,後になって出版した。驚いたことに,たちどころに成功をおさめた。私は,読まれるだろうという期待はまったくなしで,ただ信条の告白として,本書を執筆した。しかし,この本は,私に大金をもたらし,その後の私の所得の基礎をおいた

In it (= The Principles of Social Reconstructio, 1916) I suggested a philosophy of politics based upon the belief that impulse has more effect than conscious purpose in moulding men’s lives. I divided impulses into two groups, the possessive and the creative, considering the best life that which is most built on creative impulses. I took, as examples of embodiments of the possessive impulses, the State, war and poverty; and of the creative impulses, education, marriage and religion. Liberation of creativeness, I was convinced, should be the principle of reform. I first gave the book as lectures, and then published it. To my surprise, it had an immediate success. I had written it with no expectation of its being read, merely as a profession of faith, but it brought me in a great deal of money, and laid the foundation for all my future earnings.
出典:The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-090.HTM

<寸言>
rainichi ラッセルは The Principles of Social Reconstructio, 1916 (『社会再建の原理』)の出版前に,9冊の単行本をだしていましたが,The Problems of Philosophy, 1912 (『哲学の諸問題(通称『哲学入門』)』)がそこそこ売れた他は,いわゆるベストセラーものはありませんでした。しかし,『社会再建の原理』がかなり売れたことにより、一般大衆向けの本(ラッセルが言う popular books)の著者としても自信をもつようになりました
この本は,第一次世界大戦時に書かれたため、世界的な影響を与え、ラッセルは偉大な哲学者というだけでなく、平和主義者として世界的に知られるようになりました。また、ラッセルは大正時代の日本の知識人の多くに強い影響を与え、ラッセルが大正10年夏に2週間訪日した際には、一大ラッセル・ブームが起こり、数紙の全国紙がラッセルの一挙手一投足を連日報道しました
(なお,ラッセルの日本訪問は、当時の進歩的な雑誌『改造』を出していた改造社の働きかけによって実現したものですが、その翌年のアインシュタインの訪日は、山本社長が当時の代表的な偉人は誰か,ラッセルの次に日本に呼ぶとしたら誰がよいか質問したところ、その一人にアインシュタインをあげたことを受けたものです。)

1907年に Wimbledon 選挙区より,婦人参政権,自由貿易論を主張し立候補

br1923_election_jphn この後,私は,自由貿易連合(Free Trade Union)のために自由貿易擁護の演説を始めた。私は以前一度も公開演説を試みたことがなく,最初の時は,自分を全く無能者にしてしまうほど,内気で神経質であった。けれども,しだいに私は,神経質でなくなっていった
1906年の選挙が終わり,保護貿易の問題が一時下火になると,私は婦人参政権のための活動に着手した。平和主義者としての立場から,私は主戦論者(好戦的な人間)を嫌い,いつも立憲主義的政党とともに活動した。1907年に私は,国会議員補欠選挙の時,女性の選挙権を擁護して,立候補さえもした。(注:ラッセルは,1907年に,ロンドン郊外の Wimbledon 選挙区より,婦人参政権,自由貿易論を主張し,全国婦人参政権協会連合会の推薦を受け,下院議員補欠選挙に自由党から立候補したが落選した。対立候補は保守党の大物 H. Chaplinであった。/写真は1907年ではなく,貴族であるラッセルが1923年に労働党の候補として立候補した時の写真で,抱いているのは長男ジョン。) ウィンブルドン地区における選挙戦は,(選挙戦)期間が短く,また困難なものであった。
rat2 いまの若い人々にとって,男女平等に対する当時の反対の激しさを想像することはほとんど不可能であろう。のちに,私は第一次世界大戦反対の運動をおこなったが,その時の一般大衆の抵抗は,1907年に婦人参政権論者が受けた一般大衆の抵抗の激しさに比べれば,比較にならないほど,より穏やかなものであった婦人参政権に関する全ての問題は,大多数の民衆からは,単なる’お祭り騒ぎ’のための話題として扱われていた。群衆は,婦人(大人の女性)に向かっては,「家ヘ帰って赤ん坊の世話をしなさい!」と,また,男性に向かっては,その年齢に関係なく,「君がこうして外に出ていることを,お母さんは知っているかい?」というように,嘲笑的な言葉を大声で叫んだものである。腐った卵が私をねらって投げつけられ,それが妻に命中した。私が参加した最初の集会の時,女性たちを驚かせるため鼠が放たれ,そうしてその謀略に加わっていた女性たちは,自分たちの’性’を辱めるために,故意に恐怖をよそおって叫び声をあげた。

<寸言> !
aikoku-onna_seijikatachi 「女性の敵は女性である」とよく言われますが、次のように、『ラッセル自伝』によれば、夫婦が仲睦まじかったことで有名なビクトリア女王が男女同権に反対していたそうです。
自民党の右翼的な女性政治家連中はその見本です。
http://russell-j.com/beginner/AB16-180.HTM

「女性に対する支配権を失うことに脅威を感じた男性の野蛮性(脅威を感じた男性がそのような騒動をひきおこしたこと)については理解できるものであった。しかし,女性蔑視(女としての性の蔑視)を長びかせようという多数の女性(婦人)たちの決意(態度)は,奇妙であった。自分たちの解放に対し抵抗し乱暴な煽動を行った黒人やロシア人農奴の例を,私は思い出すことができない。女性への政治上の諸権利を与えることに対する最も有名な反対者は,ヴィクトリア女王(Alexandra Victoria Wettin, 1819-1901/在位:1837年6月20日-1901年1月22日)であった。・・・。」

効率懇話会という食事/談話会で初めて H. G. Wells と会う

leo_amery_1917 この時期(注:1902~1910)を通して,私は,毎年冬の期間,主として政治問題に専念していた。ジョセフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain,1836-1914:英国の政治家)が保護貿易(制度)を擁護しはじめた時,私は熱烈な自由貿易論者になっていた。(また)ヘウィンズ(William Albert Samuel Hewins,1865-1931)が私を帝国主義と帝国主義的関税同盟の方向に向かわせた影響(力)は,私を平和主義者に転向させた1901年の危機(ラッセルの回心)の時期’の間に消え去っていた。
それにもかかわらず,私は,1902年に,政治問題を多かれ少なかれ帝国主義者の見地から検討することを目的にシドニー・ウェッブによって創設された’効率懇話会(Coefficients)という名の小さな食事会のメンバーになった。私が初めてH.G.ウェルズと知り合いになったのは,この会においてであり,その時まで一度も彼のことについて聞いたことはなかった。
inada_kokumin-minna-jieitai-keiken 彼の物の見方は,他の会員の誰よりも,私の共鳴できるもの(気に入るもの)であった。事実,会員の(意見の)大部分が,私に強いショックを与えた。私は,アメリー(L. S. Amery, 1873-1955)が,「成人男子国民全員,武装させるべきである」と狂喜しつつ言った時,アメリカとの戦争を思い,’流血の欲望‘で,彼の眼が爛々と輝いていたのを記憶している。 ある晩(の食事会の席で),エドワード・グレイ卿(当時まだ公職についていなかった)は,協商政策--この政策は政府によってまだ採用されていなかった--を擁護する演説を行なった(松下注:Tripple Entente 1891~1907年に,英国,フランス,ロシアが相互に締結した協定にもとづく三国の協力関係で,1917年のロシア革命まで存続)。私は,協商政策に対する反対意見をきわめて強く主張し,その政策を採用することによって戦争にいたる可能性があると指摘したが,誰も私に賛成するものがいなかった。そこで私は,その会から脱退した。このことから,可能な限り最も早い時期に,私が第一次世界大戦に反対し始めたことがわかるであろう

Throughout this period my winters were largely occupied with political questions. When Joseph Chamberlain began to advocate Protection, I found myself to be a passionate Free Trader. The influence which Hewins had exerted upon me in the direction of Imperialism and Imperialistic Zollverein had evaporated during the moments of crisis in 1901 which turned me into a Pacifist. Nevertheless in 1902 I became a member of a small dining club called ‘The Coefficients’, got up by Sidney Webb for the purpose of considering political questions from a more or less Imperialist point of view. It was in this club that I first became acquainted with H. G. Wells, of whom I had never heard until then. His point of view was more sympathetic to me than that of any other member. Most of the members, in fact, shocked me profoundly. I remember Amery’s eyes gleaming with blood-lust at the thought of a war with America, in which, as he said with exultation, we should have to arm the whole adult male population. One evening Sir Edward Grey (not then in office) made a speech advocating the policy of the Entente, which had not yet been adopted by the Government. I stated my objections to the policy very forcibly, and pointed out the likelihood of its leading to war, but no one agreed with me, so I resigned from the club. It will be seen that I began my opposition to the first war at the earliest possible moment.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-160.HTM

<寸言>
世界史で習う「三国協商政策」。ラッセルは三国協商政策は世界大戦を導くと主張し反対。
 第一次世界大戦は、サラエボ事件(オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の世継であるフランツ・フェルディアンド大公がセルビア人の民族主義者によって暗殺された事件)によって始まったと世界史の教科書に書かれているが、もちろんそれはきっかけにすぎない。
敵対的な「軍事同盟」は戦争に導くという教訓。