この後,私は,自由貿易連合(Free Trade Union)のために自由貿易擁護の演説を始めた。私は以前一度も公開演説を試みたことがなく,最初の時は,自分を全く無能者にしてしまうほど,内気で神経質であった。けれども,しだいに私は,神経質でなくなっていった。
1906年の選挙が終わり,保護貿易の問題が一時下火になると,私は婦人参政権のための活動に着手した。平和主義者としての立場から,私は主戦論者(好戦的な人間)を嫌い,いつも立憲主義的政党とともに活動した。1907年に私は,国会議員補欠選挙の時,女性の選挙権を擁護して,立候補さえもした。(注:ラッセルは,1907年に,ロンドン郊外の Wimbledon 選挙区より,婦人参政権,自由貿易論を主張し,全国婦人参政権協会連合会の推薦を受け,下院議員補欠選挙に自由党から立候補したが落選した。対立候補は保守党の大物 H. Chaplinであった。/写真は1907年ではなく,貴族であるラッセルが1923年に労働党の候補として立候補した時の写真で,抱いているのは長男ジョン。) ウィンブルドン地区における選挙戦は,(選挙戦)期間が短く,また困難なものであった。
いまの若い人々にとって,男女平等に対する当時の反対の激しさを想像することはほとんど不可能であろう。のちに,私は第一次世界大戦反対の運動をおこなったが,その時の一般大衆の抵抗は,1907年に婦人参政権論者が受けた一般大衆の抵抗の激しさに比べれば,比較にならないほど,より穏やかなものであった。婦人参政権に関する全ての問題は,大多数の民衆からは,単なる’お祭り騒ぎ’のための話題として扱われていた。群衆は,婦人(大人の女性)に向かっては,「家ヘ帰って赤ん坊の世話をしなさい!」と,また,男性に向かっては,その年齢に関係なく,「君がこうして外に出ていることを,お母さんは知っているかい?」というように,嘲笑的な言葉を大声で叫んだものである。腐った卵が私をねらって投げつけられ,それが妻に命中した。私が参加した最初の集会の時,女性たちを驚かせるため鼠が放たれ,そうしてその謀略に加わっていた女性たちは,自分たちの’性’を辱めるために,故意に恐怖をよそおって叫び声をあげた。
<寸言> !
「女性の敵は女性である」とよく言われますが、次のように、『ラッセル自伝』によれば、夫婦が仲睦まじかったことで有名なビクトリア女王が男女同権に反対していたそうです。
自民党の右翼的な女性政治家連中はその見本です。
http://russell-j.com/beginner/AB16-180.HTM
「女性に対する支配権を失うことに脅威を感じた男性の野蛮性(脅威を感じた男性がそのような騒動をひきおこしたこと)については理解できるものであった。しかし,女性蔑視(女としての性の蔑視)を長びかせようという多数の女性(婦人)たちの決意(態度)は,奇妙であった。自分たちの解放に対し抵抗し乱暴な煽動を行った黒人やロシア人農奴の例を,私は思い出すことができない。女性への政治上の諸権利を与えることに対する最も有名な反対者は,ヴィクトリア女王(Alexandra Victoria Wettin, 1819-1901/在位:1837年6月20日-1901年1月22日)であった。・・・。」