第18章 権力を手懐けること n.6

 権力を手懐けるという観点から,政治(統治)の単位の最適な規模に関して非常に難しい(諸)問題が出てくる。現代の大国においては,民主主義国であってさえ,普通の一般市民は政治的な権力の意識(自分は政治的権力を持っているという意識)をほとんど持っていない。(即ち)選挙の争点は何であるべきかということを選挙民(一般市民)は決定しないし,それらの争点は多分一般市民の日常生活からはかけ離れた事柄に関わるものであり,また,ほとんど一般市民の経験の外にある事柄であり,一市民の投票などは,無視できると自分自身感じるほど,全体に対してとても小さな寄与しかしない(と彼は考える)。古代の都市国家(注:古代ギリシアなど)においては,そうした弊害はずっと少なかった。現在でも,地方政治においてはそうである(そういった弊害は少ない)。公衆というものは,国民的な(全国的な)問題よりも,地方的な問題のほうにより関心をを示すだろうと(これまで)思われてきたかも知れないが,しかし,それは事実ではない。逆に,関係する地域が広ければ広いほど,投票の労を惜しまない選挙民の比率は,よりいっそう多い(多くなる)。これは一つには重要な選挙において選挙の宣伝により多額のお金が使われるからであり,一つには選挙の争点がそれ自体(地方選挙よりも)より興奮させるものだからである。選挙の争点で最も興奮を催すものは,戦争に関係する争点及び仮想敵国に対する関係を含む争点である。1910年1月に,ある田舎者老人(an old yokel)が私に自分はこれから(英国)保守党(それは彼の経済的利害に反する政党であった)に投票しに行くと言ったのを覚えている。(自分の経済的利益に反する)保守党に投票した理由は,もし(英国)自由党が勝利すれば,一週間もしないうちに,ドイツ人が英国内に進駐してくると説得されて信じていたからである。この老人が教区会 (注:地方行政区の自治機関)の選挙において,争点について幾分理解していた可能性はあるが,しかし,彼(一般市民)が教区会の選挙で投票をしたことがあるというふうに考えてはならない。こうした争点が彼の心を動かすことができなかったのは,それらの争点が,集団ヒステリーを引きおこすようなものではなかったからか,あるいは,集団ヒステリーが餌を与えて育む神話でなかったからである。

Chapter 18: The taming of Power, n.6
From the point of view of the taming of power very difficult questions arise as to the best size of a governmental unit. In a great modern State, even when it is a democracy, the ordinary citizen has very little sense of political power; he does not decide what are to be the issues in an election, they probably concern matters remote from his daily life and almost wholly outside his experience, and his vote makes so small a contribution to the total as to seem to himself negligible. In the ancient City State these evils were much less; so they are, at present, in local government. It might have been expected that the public would take more interest in local than in national questions, but this is not the case; on the contrary, the larger the area concerned, the greater is the percentage of the electorate that takes the trouble to vote. This is partly because more money is spent on propaganda in important elections, partly because the issues are in themselves more exciting. The most exciting issues are those involving war and relations to possible enemies. I remember an old yokel in January, 1910, who told me he was going to vote Conservative (which was against his economic interests), because he had been persuaded that if the Liberals were victorious the Germans would be in the country within a week. It is not to be supposed that he ever voted in Parish Council elections, though in them he might have had some understanding of the issues; these issues failed to move him because they were not such as to generate mass hysteria or the myths upon which it feeds.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_060.HTM

第18章 権力を手懐けること n.5

 秩序(の維持)と両立しうる自由の程度についての問いは,抽象的には(in the abstract 理論上)解決できない(cannot be settled 決着できない)問いである。抽象的に(理論上)言える唯一のことは,集団的決定に対する技術的な理由がまったくない場合に,もし自由が干渉されるべきであるとするならば,公共の秩序と結びついた(関連した)何らかの強い理由が存在すべきである。エリザべス女王の治世に,ローマン・カトリックの(カトリック教会に所属する)信者たちが,女王から王位を剥奪したいと望んだ時,英国政府が彼らを冷やかな眼で見たことは,驚くべきことではない。同様に,新教徒(プロテスタント)がスペインに抵抗している低地帯諸国(注:the Low Countries 今のベルギー・オランダ・ルクセンブルクが占める地域)において,スペイン人が彼らを迫害するだろうことは,想像(予想)されること(当然のこと)であった。今日,神学上の問いには,これと同様の政治上の重要性はない。政治上の意見の相違ですら,もし意見の相違が深刻なものでなければ,(今日)迫害の理由にはまったくならない。保守党員も,自由党員も,労働党員も皆一緒に平和的に暮らしてゆくことができるのは,彼らは(皆)暴力で憲法を改正したいとは思わないからである。しかし,ファシストやコミュニスト(共産主義者)は,(彼らと比較すると)より同化が困難である。民主主義が存在しているところでは,暴力によって権力を獲得しようとする少数派の試みも,また,そのような試みへの扇動も,法律を遵守する多数者は,できるものなら平穏な生活を送る権利を持っているとする根拠に立って,(共に)禁止されるだろうことは合理的なことである。しかし,法律を破ろうとする動因を含まない全ての宣伝に対しては寛容であるべきであり,法律は,技術上の効率性と(公共の)秩序の推持と両立可能であるかぎり,寛容であるべきである。心理学という題目(head)のもとで(注:本章第4節の「心理的条件」のところで),この問題についてまたふれることにしよう。

Chapter 18: The taming of Power, n.5 The question of the degree of liberty that is compatible with order is one that cannot be settled in the abstract. The only thing that can be said in the abstract is that, where there is no technical reason for a collective decision, there should be some strong reason connected with public order if freedom is to be interfered with. In the reign of Elizabeth, when Roman Catholics wished to deprive her of the throne, it is not surprising that the government viewed them with disfavour. Similarly in the Low Countries, where Protestants were in revolt against Spain, it was to be expected that the Spaniards would persecute them. Now-a-days theological questions have not the same political importance. Even political differences, if they do not go too deep, are no reason for persecution. Conservatives, Liberals, and Labour people can all live peaceably side by side, because they do not wish to alter the Constitution by force ; but Fascists and Communists are more difficult to assimilate. Where there is democracy, attempts of a minority to seize power by force, and incitements to such attempts, may reasonably be forbidden, on the ground that a law-abiding majority has a right to a quiet life if it can secure it. But there should be toleration of all propaganda not involving incitement to break the law, and the law should be as tolerant as is compatible with technical efficiency and the maintenance of order. I shall return to this subject under the head of psychology.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_050.HTM

第18章 権力を手懐けること n.4

 けれども,民主主義は,必要なものではあるが,権力を手懐けるために必要な唯一の政治的条件では決してない。民主主義国において,多数派は少数派に対し,冷酷かつ全く不要な暴政をふるうことがありうる(訳注:in a democracy: 可算名詞としての democracy は「民主主義国」)。1885年から1922年までの期間,大英帝国政府は(女性を対象から除外したことを別にすれば)民主的であったが,しかし、アイルランドの抑圧を妨げなかった(=アイルランドに対する抑圧を継続した)。一国家の中の少数派(注:日本で言えばアイヌ)だけでなく,宗教的あるいは政治的な少数派も,迫害される可能性がある。少数派の保護は,秩序ある政治と両立できるものである限り,権力を手なづけておくことの必須の部分である。  これには,社会が(一つの)全体として行動しなければならない問題や画一性(画一であること)が不要な問題についての考慮が必要である。集団的決定(注:a collective decision: 集団行動をするために必要な意思決定)が欠かせない最も明白な問題は,本質的に,地理的な問題である。(即ち)道路,鉄道,下水道,ガス管等は,一つの進路をとらなければならず,別の進路をとるわけにいかない。衛生上の予防(措置),たとえば疫病や狂犬病に対する予防(措置)は,やはり地理的な問題である。クリスチャン・サイエンティストたち(注:Christian Scientist: 信仰療法を特色とするキリスト教の一派で,19 世紀中ごろに米国に起こった)が,自分たちは(信仰上の理由で)感染症に対する予防措置はとらないと世間に公告することはしないであろう。なぜなら,そうした人たちは自分たち以外の人々に病気を感染させる可能性があるからである。戦争もまた,内乱ででもないかぎりは,地理的な現象であり,たとえ内乱であっても,まもなく,甲の地域は一方の側に支配され,乙の地域は他方の側に支配されるということが起こる(ものである)。  たとえば1922年以前のアイルランド人のように,地理的に集中して少数派が存在している場合には,権限委譲(devolution)によって多くの問題を解決することが可能である。(注:1922年,イギリスはロイド=ジョージ内閣の時,北アイルランドを除きアイルランド自治国の成立を認めた。ちなみに、みすず書房版の東宮訳では devolution を「移送」と訳しており、東宮氏は意味を理解していたかどうか疑われる。) しかし,少数派が当該地域において散らばっている時には,このやり方はほとんど適用できない。キリスト教徒やモハメッド教徒が並んで生活しているところでは,確かに結婚に関する法律は別々のものを持っているとしても,しかし,宗教に関係するものを除いて,彼らは皆一つの政府に従わなければならない。神学上の一律性は国家にとって必要なものではなく,新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)も一つの政府のもとで平和に暮らしていけるということが,今日,徐々に発見されてきた。しかし,これは,宗教改革以後の最初の130年間は,事実ではなかった。

Chapter 18: The taming of Power, n.4
Democracy, however, though necessary, is by no means the only political condition required for the taming of power. It is possible, in a democracy, for the majority to exercise a brutal and wholly unnecessary tyranny over a minority. In the period from 1885 to 1922, the government of the United Kingdom was (except for the exclusion of women) democratic, but that did not prevent the oppression of Ireland. Not only a national, but a religious or political minority may be persecuted. The safe-guarding of minorities, so far as is compatible with orderly government, is an essential part of the taming of power. This requires a consideration of the matters as to which the community must act as a whole, and those as to which uniformity is unnecessary. The most obvious questions as to which a collective decision is imperative are those that are essentially geographical. Roads, railways, sewers, gas mains, and so on, must take one course and not another. Sanitary precautions, say against plague or rabies, are geographical : it would not do for Christian Scientists to announce that they will take no precautions against infection, because they might infect others. War is a geographical phenomenon, unless it is civil war, and even then it soon happens that one area is dominated by one side, and another by the other. Where there is a geographically concentrated minority, such as the Irish before 1922, it is possible to solve a great many problems by devolution. But when the minority is distributed throughout the area concerned, this method is largely inapplicable. Where Christian and Mohammedan populations live side by side, they have, it is true, different marriage laws, but except where religion is concerned they all have to submit to one government. It has been gradually discovered that theological uniformity is not necessary to a State, and that Protestants and Catholics can live peaceably together under one government. But this was not the case during the first 130 years after the Reformation.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_040.HTM

第18章 権力を手懐けること n.4

 けれども,民主主義は,必要なものではあるが,権力を手懐けるために必要な唯一の政治的条件では決してない。民主主義国において,多数派は少数派に対し,冷酷かつ全く不要な暴政をふるうことがありうる(訳注:in a democracy: 可算名詞としての democracy は「民主主義国」)。1885年から1922年までの期間,大英帝国政府は(女性を対象から除外したことを別にすれば)民主的であったが,しかし、アイルランドの抑圧を妨げなかった(=アイルランドに対する抑圧を継続した)。一国家の中の少数派(注:日本で言えばアイヌ)だけでなく,宗教的あるいは政治的な少数派も,迫害される可能性がある。少数派の保護は,秩序ある政治と両立できるものである限り,権力を手なづけておくことの必須の部分である。  これには,社会が(一つの)全体として行動しなければならない問題や画一性(画一であること)が不要な問題についての考慮が必要である。集団的決定(注:a collective decision: 集団行動をするために必要な意思決定)が欠かせない最も明白な問題は,本質的に,地理的な問題である。(即ち)道路,鉄道,下水道,ガス管等は,一つの進路をとらなければならず,別の進路をとるわけにいかない。衛生上の予防(措置),たとえば疫病や狂犬病に対する予防(措置)は,やはり地理的な問題である。クリスチャン・サイエンティストたち(注:Christian Scientist: 信仰療法を特色とするキリスト教の一派で,19 世紀中ごろに米国に起こった)が,自分たちは(信仰上の理由で)感染症に対する予防措置はとらないと世間に公告することはしないであろう。なぜなら,そうした人たちは自分たち以外の人々に病気を感染させる可能性があるからである。戦争もまた,内乱ででもないかぎりは,地理的な現象であり,たとえ内乱であっても,まもなく,甲の地域は一方の側に支配され,乙の地域は他方の側に支配されるということが起こる(ものである)。  たとえば1922年以前のアイルランド人のように,地理的に集中して少数派が存在している場合には,権限委譲(devolution)によって多くの問題を解決することが可能である。(注:1922年,イギリスはロイド=ジョージ内閣の時,北アイルランドを除きアイルランド自治国の成立を認めた。ちなみに、みすず書房版の東宮訳では devolution を「移送」と訳しており、東宮氏は意味を理解していたかどうか疑われる。) しかし,少数派が当該地域において散らばっている時には,このやり方はほとんど適用できない。キリスト教徒やモハメッド教徒が並んで生活しているところでは,確かに結婚に関する法律は別々のものを持っているとしても,しかし,宗教に関係するものを除いて,彼らは皆一つの政府に従わなければならない。神学上の一律性は国家にとって必要なものではなく,新教徒(プロテスタント)と旧教徒(カトリック)も一つの政府のもとで平和に暮らしていけるということが,今日,徐々に発見されてきた。しかし,これは,宗教改革以後の最初の130年間は,事実ではなかった。

Chapter 18: The taming of Power, n.4 Democracy, however, though necessary, is by no means the only political condition required for the taming of power. It is possible, in a democracy, for the majority to exercise a brutal and wholly unnecessary tyranny over a minority. In the period from 1885 to 1922, the government of the United Kingdom was (except for the exclusion of women) democratic, but that did not prevent the oppression of Ireland. Not only a national, but a religious or political minority may be persecuted. The safe-guarding of minorities, so far as is compatible with orderly government, is an essential part of the taming of power. This requires a consideration of the matters as to which the community must act as a whole, and those as to which uniformity is unnecessary. The most obvious questions as to which a collective decision is imperative are those that are essentially geographical. Roads, railways, sewers, gas mains, and so on, must take one course and not another. Sanitary precautions, say against plague or rabies, are geographical : it would not do for Christian Scientists to announce that they will take no precautions against infection, because they might infect others. War is a geographical phenomenon, unless it is civil war, and even then it soon happens that one area is dominated by one side, and another by the other. Where there is a geographically concentrated minority, such as the Irish before 1922, it is possible to solve a great many problems by devolution. But when the minority is distributed throughout the area concerned, this method is largely inapplicable. Where Christian and Mohammedan populations live side by side, they have, it is true, different marriage laws, but except where religion is concerned they all have to submit to one government. It has been gradually discovered that theological uniformity is not necessary to a State, and that Protestants and Catholics can live peaceably together under one government. But this was not the case during the first 130 years after the Reformation.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_040.HTM

第18章 権力を手懐けること n.3

 以前のいかなる時代と同様に強いもの(傾向)として,寡頭政治(少数独裁政治)は「善良」な人々で成っているのであれば称賛できるものだと考える傾向がある。ローマ帝国の政治は,コンスタンティヌス帝までは「悪い」ものであり(あったが),その後「善い」ものになった(と考えられている)。『列王記』(注:旧約聖書に収められた古代ユダヤの歴史書の一つ)には,(ユダヤの)神の視点からみて(in the sight of the Lord)正しいことをした者たちと,悪いことをした者たちの話が載っている。(注:みすず書房版の東宮訳では「主イエスの眼からみて正しい・・・」と訳されている。旧約聖書の『列王記』がイエス・キリストの視点で書かれているはずはないではないか!?) 子供に教えられている英国史において(は),「善い」王様と「悪い」王様が出てくる。(同様に)(ドイツ史では)ユダヤ人の寡頭政治(少数独裁政治)は「悪い」が,ナチスの寡頭政治は「善い」(と教え),(ロシア史では)ロシア皇帝時代の貴族による寡頭政治は「悪い」ものであったが,共産党による(現在の)寡頭政治は「善い」(と教える)(注:最初の英国史以外、ドイツ史とも、ロシア史とも書かれていないが、「歴史教育においては,自国の体制側に都合の悪いことは子供にほとんど教えない」という趣旨であることは,文脈から明らか)。  このような態度は大人に対してはふさわしくない。子供は,言われたことに従えば「善良(善い子)」であり,従わなければ「(悪い子)」である。こんな子が大人になって政治的指導者になると,彼(彼女)は子供部屋で培った考えを保持し続け(注:the nursery 子供部屋),(指導者である)自分の命令に従う者は「善良」,無視する者は「悪い」と定義する。その結果,(自分が指導者である)自党は「善良」な者から成り,反対政党は「悪」人から成っている(ということになる)。(また)「善い」政治とは自分たちのグループによる政治であり、「悪い」政治とは他のグループによる政治ということになる。(また,たとえば,ロメオとジュリエットの)モンタギュ一家は「善く」,キャピュレット家は「悪い」か,あるいはその逆(キャピュレット家は「善く」,モンタギュ一家は「悪い」),ということになる。  このような見かたは,もし真面目に採用されるとしたら,社会生活は不可能になる。(もし)どちらのグループが「善く」またどちらのグループが「悪い」かを決定することができるのは強制力だけであり,そうしてその(善悪の)決定がなされる時,その決定はいついかなる時に暴動によってひっくり返されるかも知れない。どちらのグループも,権力を握れば,反乱を引き起こす恐れによって制御・抑制される場合は別として,他のグループの利益に対して配慮することはしない。社会生活は,それが暴政よりましなものであるべきであるとしたら,ある種の不偏不党を必要とする。しかし,多くの問題において,集団的行動は必要であることから,そういった(グループによって利益が異なる)問題において,不偏不党の唯一の実行可能な形態は,多数者による支配である。

Chapter 18: The taming of Power, n.3 I There is a tendency, as strong now as at any former time, to suppose that an oligarchy is admirable if it consists of “good” men. The government of the Roman Empire was “bad” until Constantine, and then it became “good.” In the Book of Kings, there were those who did right in the sight of the Lord, and those who did evil. In English history as taught to children, there are “good” kings and “bad” kings. An oligarchy of Jews is “bad,” but one of Nazis is “good.” The oligarchy of Tsarist aristocrats was “bad,” but that of the Communist Party is “good.” This attitude is unworthy of grown-up people. A child is “good” when it obeys orders, and “naughty” when it does not. When it grows up and becomes a political leader, it retains the ideas of the nursery, and defines the “good” as those who obey its orders and the “bad” as those who defy it. Consequently our own political party consists of “good” men, and the opposite party consists of “bad” men. “Good” government is government by our group, “bad” government that by the other group. The Montagues are “good,” the Capulets “bad,” or vice versa. Such a point of view, if taken seriously, makes social life impossible. Only force can decide which group is “good” and which “bad,” and the decision, when made, may at any moment be upset by an insurrection. Neither group, if it attains power, will care for the interests of the other, except in so far as it is controlled by the fear of rousing rebellion. Social life, if it is to be anything better than tyranny, demands a certain impartiality. But since, in many matters, collective action is necessary, the only practicable form of impartiality, in such matters, is the rule of the majority.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_030.HTM

第18章 権力を手懐けること n.2

 民主主義の長所は消極的なものである(注:negative ぱっとしないものである/控えめなものである)。民主主義は良い政治を保証しない(民主主義体制下であっても良い政治が確実になるというわけではない)。しかし,一定の害悪は防止する。女性が政治問題に関与し始めるまで、既婚女性は自分の財産に対して、あるいは,自分の所得(稼いだお金)に対してさえも、まったく何の支配権も持っていなかった。(即ち)酔っぱらいの夫をもった雑役婦の妻(charwoman)は、彼女が自分の子供の扶養のために自分の賃金を使うのを夫がもしも妨げたなら,彼女はどうしようもなかった。十八世紀と十九世紀初頭における少数独裁制(寡頭制)の議会は、その立法権を、農村と都市の両方の労働条件を落とす(悪くする)ことによって金持の富を増やすために用いた。民主主義(体制)によって初めて(民主主義になって初めて)、法律によって労働組合主義を不可能にすることを防いできた。民主主義がなかったとしたならば、アメリカ西部も、オーストラリアも、ニュージーランドも、少数の白人貴族政治によって支配される半奴隷的な黄色人種の住民の居住地となったであろう。奴隷制度や農奴制の害悪については、我々はよく知っているが、少数派が政治的権力の独占を確保している場合には、多数派は、遅かれ早かれ、奴隷状態あるいは農奴状態へと沈んで行きがちである。全ての歴史は、想像がつくように(注:as might be expected 当然予想されるように)、少数派が多数派の利益にために配慮をするということを信用できない(配慮しないだろう)ということを示している。

Chapter 18: The taming of Power, n.2 The merits of democracy are negative : it does not insure good government, but it prevents certain evils. Until women began to take part in political affairs, married women had no control over their own property, or even over their own earnings; a charwoman with a drunken husband had no redress if he prevented her from using her wages for support of her children. The oligarchical Parliament of the eighteenth and early nineteenth centuries used its legislative power to increase the wealth of the rich by depressing the condition of both rural and urban labour. Only democracy has prevented the law from making trade unionism impossible.But for democracy, Western America, Australia, and New Zealand would be inhabited by a semi-servile yellow population governed by a small white aristocracy. The evils of slavery and serfdom are familiar, and wherever a minority has a secure monopoly of political power, the majority is likely to sink, sooner or later, into either slavery or serfdom. All history shows that, as might be expected, minorities cannot be trusted to care for the interests of majorities.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_020.HTM

第18章 権力を手懐けること, n.1

「孔子が泰山の側(そば)を通りかかった時,墓前ではげしく泣いている婦人に出会った。孔子は載っている車(馬車?)を推し進め,彼女の近くにすばやく近づいた。そうして子路(注:孔門十哲の一人)に婦人が泣いている理由を尋ねさせた。彼は聞いた。「あなたの嘆きをお聞きすると,度重なるご不幸がおありのようですね」 彼女は応えた。「舅,夫,子供が虎に襲われて死んでしまいました。」 孔子が「なぜ(虎に襲われる危険な土地を)去らないのか」と尋ねたところ,婦人は「ここには圧政を行う政府がありません(よその土地に移って,ひどい政治に苦しむよりはましです)」と答えた。 孔子は言った。「このことを覚えておきなさい。圧政的な政府は虎よりももっと恐ろしいということを」 (注:『苛政猛於虎也』。英文訳は原文(漢文)のニュアンスと異なっているようですが、引用された英文をそのまま邦訳しました。)  本章の主題は,政治を(誰もが恐れる)虎よりも恐ろしくないものになることを保証(確保)するという問題である。  権力を手なずけて穏やかなものにする問題は,右の(上記の)引用が示しているように,非常に古くからある問題である。道教の信者(たち)(Taoists 道士)は,これを解決不能と考え,無政府主義を唱道した。儒者(たち)は,ある種の倫理的及び政治的な(統治的な)訓練に頼り,それによって(この訓練によって)権力の保持者を,節度と慈愛を備えた聖人に変えるということであった。同じ頃,ギリシアでは,民主政治と寡頭政治と借主政治とが覇権を求めて闘っていた。(そうして)民主主義は,権力の濫用をチェックしようとしていたが,しかし,幾人かの煽動政治家の一時的な人気の餌食となって絶えず挫折(defeat itself)していた。プラトンも,孔子と同様に,知恵において訓練を受けた者(哲人)による政治(統治)に解決を求めた。これと同じ見解はシドニー・ウエッブ夫妻によって復活され,彼らは「指導者としての天職」を持った人々のみに権力が限定された寡頭政治を讃えている。プラトンからウエッブ夫妻に至るまでの期間に,世界は,軍事独裁政治,神権政治,世襲的君主政治,寡頭政治,民主政治、及び「聖人統治(支配)」を試みてきた。これらの最後のもの(聖人統治)は,クロムウェルの実験が失敗した後,今日,レーニン及びヒットラーによって復活させられている。全て,このことは,我々が提起した問題はいまだ解決していないことを示している。  歴史あるいは人間性について研究しているいかなる人にとっても,民主主義は,完全な解決(法)ではないにしても,この問題を解決するための必須の部分だということは,明らかに違いない。完全な解決(法)は,(解決のための条件を)政治的な条件だけに限ったのでは発見することはできない。我々は、経済や,宣伝や,我々をとりまく状況や教育から影響を受けるものとしての(人間の)心理もまた考慮に入れなくてはならない。このようにして,我々の主題は,(次の)四つ(の条件下)に分割される。 (一)政治的条件 (二)経済的条件 (三)宣伝に関する条件 (四)心理的及び教育的条件  これらについて,順次論じていこう。

Chapter 18: The taming of Power, n.1 “In passing by the side of Mount Thai, Confucius came on a woman who was weeping bitterly by a grave. The Master pressed forward and drove quickly to her; then he sent Tze-lu to question her. ‘Your wailing,’ said he, ‘is that of one who has suffered sorrow on sorrow.’ She replied, ‘that is so. Once my husband’s father was killed here by a tiger. My husband was also killed, and now my son has died in the same way’. The Master said, ‘why do you not leave the place?’ The answer was, ‘there is no oppressive government here.’ The Master then said, ‘Remember this, my children : oppressive government is more terrible than tigers.” The subject of the present chapter is the problem of insuring that government shall be less terrible than tigers. The problem of the taming of power is, as the above quotation shows, a very ancient one. The Taoists thought it insoluble, and advocated anarchism; the Confucians trusted to a certain ethical and governmental training which should turn the holders of power into sages endowed with moderation and benevolence. At the same period, in Greece, democracy, oligarchy, and tyranny were contending for mastery; democracy was intended to check abuses of power, but was perpetually defeating itself by falling a victim to the temporary popularity of some demagogue. Plato, like Confucius, sought the solution in a government of men trained to wisdom. This view has been revived by Mr. and Mrs. Sidney Webb, who admire an oligarchy in which power is confined to those who have the “vocation of leadership.” In the interval between Plato and the Webbs, the world has tried military autocracy, theocracy, hereditary monarchy, oligarchy, democracy, and the Rule of the Saints – the last of these, after the failure of Cromwell’s experiment, having been revived in our day by Lenin and Hitler. All this suggests that our problem has not yet been solved. To anyone who studies history or human nature, it must be evident that democracy, while not a complete solution, is an essential part of the solution. The complete solution is not to be found by confining ourselves to political conditions; we must take account also of economics, of propaganda, and of psychology as affected by circumstances and education. Our subject thus divides itself into four parts : (I) political conditions, (II) economic conditions, (Ill) propaganda conditions, and (IV) psychological and educational conditions. Let us take these in succession.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_010.HTM

第17章 権力の倫理学 n.14

 我々は,今や権力の倫理学という問題について,一定の結論に到達することが可能であろう。  権力を保有している人々(我々もまた皆ある程度の権力を持っている)の究極の目的は,社会的協力を促進することであるべきであり,それは他の集団に対立するものとしての一つの集団における社会的協力ではなく,全体としての人類における社会的協力の促進であるべきである。現在において,この目的に対する主な障害は,非友好的な感情及び人(他人)よりも優位に立ちたいという欲求(欲望)(の存在)である。そのような感情は,宗教や道徳によって直接減少させることが可能であり,あるいは,現在そうした感情を刺激している政治的及び経済的状況 -特に国家間の権力闘争やそれに関係ある全国的な大産業間における富を求めての競争- を除去することによって間接的に減少させることが可能である。両方のやり方が必要である。この2つの方法は選択肢(どちらか一つを選ぺばよいというもの)ではなく,両者は相互に補完し合うものである。  大戦(第一次世界大戦)及び(戦時)独裁政体の後遺症(aftermath 余波)は,多くの人に,軍事力と政府の支配力以外の全ての形態の権力を過小評価させるに至った。これ(過小評価)は近視眼的なあるいは非歴史的な見かたである。もし仮にこれまでに最も権力をもった4人を選ばないといけないとしたら,私は仏陀とキリストとピタゴラスとガリレオ(の4人)を挙げるであろう。彼らは皆国家の援助を受けずに,自分の宣伝で大きな成功を納めた(のである)。4人の誰も,自分の生涯において大きな成功をしたものはいなかった。もし彼らの第一の目的が権力(の獲得)にあったとするならば,彼らがなしたような大きな影響を人間の生活に及ぼすことはなかったであろう。彼らの求めた権力は他者(人々)を奴隷化するもの(権力)でなく,人々を解放するもの(権力)であった (4人の内の)初めの二人(キリストとピタゴラス)の場合は闘争へと導く欲求を支配するやり方を示し,それによって隷属と屈従とを覆えす方法を示すことによって,後者の二人(ピタゴラスとガリレオ)の場合は自然力の制御に通ずる道を指摘することによって,人々を自由にしたのである。人々を服させるものは,究極において暴力(力による脅かし)ではなく,人類共通の欲求,すなわち幸福,精神内外の平和,われわれの生きてゆくべき(これはどうすることもできない)このせ界についての理解及びこうしたものに対する人類共通の欲求に訴える人々の知恵である。

Chapter 17: The Ethics of Power, n.14
The ultimate aim of those who have power (and we all have some) should be to promote social cooperation, not in one group as against another, but in the whole human race. The chief obstacle to this end at present is the existence of feelings of unfriendliness and desire for superiority. Such feelings can be diminished either directly by religion and morality, or indirectly by removing the political and economic circumstances which at present stimulate them — notably the competition for power between States and the connected competition for wealth between large national industries. Both methods are needed: they are not alternatives, but supplement each other. The Great War, and its aftermath of dictatorships, has caused many to underestimate all forms of power except military and governmental force. This is a short-sighted and unhistorical view. If I had to select four men who have had more power than any others, I should mention Buddha and Christ, Pythagoras and Galileo. No one of these four had the support of the State until after his propaganda had achieved a great measure of success. No one of the four had much success in his own lifetime. No one of the four would have affected human life as he has done if power had been his primary object. No one of the four sought the kind of power that enslaves others, but the kind that sets them free — in the case of the first two, by showing how to master the desires that lead to strife, and thence to defeat slavery and subjection; in the case of the second two, by pointing the way towards control of natural forces. It is not ultimately by violence that men are ruled, but by the wisdom of those who appeal to the common desires of mankind, for happiness, for inward and outward peace, and for the understanding of the world in which, by no choice of our own, we have to live.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER17_140.HTM

第17章 権力の倫理学 n.13

 論理的に(考えると),欲求(欲望)の対象には,全ての人々が享受できるものがある一方,その性質上,社会(共同体)の一部に限定されなければならないものがある。少し合理的な協力が伴えば,全ての人々がそこそこ裕福であること(注:well off 裕福な/良い生活を送る)は可能であるであろうが,しかし、全ての人々が自分の隣人よりも金持であることの喜びを持つことは不可能である。全ての人々は,ある程度,自分で方向づけをすることができるが(注:self-direction 自ら方向を決定すること),しかし全ての人々が,他人に対して独裁者になることは不可能である。もしかすると(Perhhaps)いずれ,(ある地域の)全住民(population)の誰もがそこそこ知的であることがあるかもしれないが,しかし,例外的に知的な人たちに与えられる報酬を全ての人々が確保することは不可能である(注:知的というのは相対的な概念にすぎず,富も無限にあるわけではないため)、等々。  社会的な協力は,万人(共通)のものになりうる善きものに関しては,可能である。(その善きものというのは)たとえば,十分な物質的福祉(well-being 満足な生活状態),健康,知性,及び,他人より優れていることに依らない(依存しない)あらゆる形態の幸福である。しかし,競争における勝利に依存する(から成り立つ)幸福の種々の形態は,普遍的なもの(万人のもの)になりえない。前者の幸福は,友好的な感情によって促進され,後者(及びそれに相関する不幸)は,非友好的な感情によって促進される。非友好的な感情は,幸福の合理的な追求を完全に阻害する可能性がある。そのような事態は,現在,国家間の経済関係に関わることにおいて,生じている。ここに友好的感情が優勢である(一定地域の)住民(全住民)があるとすれば(Given 存在していると仮定すると),個人同士の利害や集団同士の利害の間にはまったく衝突はないであろう。(即ち)現在見られる衝突は,非友好的な感情によって引き起されているものであり,衝突は(次の)衝突を激しくさせている。イングランドとスコットランドは,お互い,何世紀も戦った。ついに,相続という偶然の出来事によって,同じ王(国王)を戴く身となり,そうして,戦いは終わった。誰もがその(戦いの終焉)でより幸福であった。その結果は,ジョンソン博士でさえより幸福であった。ジョンソン博士は自分の冗談によって,戦いに勝ってえられるよりもより大きな喜びを得られた(与えられた)ことに疑いはない。

Chapter 17: The Ethics of Power, n.13 Some objects of desire are such as can, logically, be enjoyed by all, while others must, by their very nature, be confined to a portion of the community. All might — with a little rational co-operation — be fairly well off, but it is impossible for all to enjoy the pleasure of being richer than their neighbours. All can enjoy a certain degree of self-direction, but it is impossible for all to be dictators over others. Perhaps in time there will be a population in which everybody is fairly intelligent, but it is not possible for all to secure the rewards bestowed on exceptional intelligence. And so on. Social co-operation is possible in regard to the good things that are capable of being universal — adequate material well-being, health, intelligence, and every form of happiness which does not consist in superiority to others. But the forms of happiness which consist of victory in a competition cannot be universal. The former kind of happiness is promoted by friendly feeling, the latter (and its correlative unhappiness) by unfriendly feeling. Unfriendly feeling can wholly inhibit the rational pursuit of happiness; it does so at present in what concerns the economic relations of nations. Given a population in which friendly feelings preponderate, there will be no clash between the interests of different individuals or different groups ; the clashes which at present exist are caused by unfriendly feeling, which they in turn intensify. England and Scotland fought each other for centuries; at last, by an accident of inheritance, they came to have the same king, and the wars ceased. Everybody was happier in consequence, even Dr. Johnson, whose jests doubtless afforded him more pleasure than he would have derived from victorious battles.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER17_130.HTM

第17章 権力の倫理学 n.12

 私としては,善悪は個々人のなかに具体的に表現されるものであって,主として社会の中に表現されるものではない,と考える。組合国家(注:corporative State: ファシズム体制下のイタリアで,ムッソリーニがつくった国家のこと。労働の資本への隷属をはかるため個人と国家との間に官製組合を組織したのでこのように呼称される。)を支持するために用いることができる若干の哲学 -特にヘーゲルの哲学- は,倫理的特質を(個人ではなく)社会そのものにありとし(帰し),そうして,その市民の大部分が(肉体的及び精神的に)哀れであっても国家は称賛すべきものであるとする(attribute 帰する/ありとする)。そのような哲学は権力の保有者の特権を正当化するためのトリック(策略/ごまかし)であり,また,我々の「政治」がどのようなものであろうと,非民主的な「倫理」を支持する妥当な(合理的な)論拠はまったくありえない,と私は考える。私の言う非民主的倫理というのは,人類の一部を選び出し,「これらの人々は良きものを楽しむべきであり,他の人々はただ彼らに奉仕すべきである(minisiter to 役に立つべき)」と言うような倫理のことである。私は,いかなる場合においてもそのような倫理を拒否するが,しかし,前章で見たように,そのような倫理は,自己反駁的な不利な点(立場)をもっている。というのは,実際においては,超人たちのために貴族主義的な理論家が想像しているような種類の生活を超人たちが暮らすこと(送ること)はできるだろうということはとてもありそうもないからである。

Chapter 17: The Ethics of Power, n.121 For my part, I consider that whatever is good or bad is embodied in individuals, not primarily in communities. Some philosophies which could be used to support the corporative State – notably the philosophy of Hegel – attribute ethical qualities to communities as such, so that a State may be admirable though most of its citizens are wretched. I think that such philosophies are tricks for justifying the privileges of the holders of power, and that, whatever our politics may be, there can be no valid argument for an undemocratic ethic. I mean by an undemocratic ethic one which singles out a certain portion of mankind and says “these men are to enjoy the good things, and the rest are merely to minister to them.” I should reject such an ethic in any case, but it has, as we saw in the last chapter, the disadvantage of being self-refuting, since it is very unlikely that, in practice, the supermen will be able to live the kind of life that the aristocratic theorist imagines for them.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER17_120.HTM