以前のいかなる時代と同様に強いもの(傾向)として,寡頭政治(少数独裁政治)は「善良」な人々で成っているのであれば称賛できるものだと考える傾向がある。ローマ帝国の政治は,コンスタンティヌス帝までは「悪い」ものであり(あったが),その後「善い」ものになった(と考えられている)。『列王記』(注:旧約聖書に収められた古代ユダヤの歴史書の一つ)には,(ユダヤの)神の視点からみて(in the sight of the Lord)正しいことをした者たちと,悪いことをした者たちの話が載っている。(注:みすず書房版の東宮訳では「主イエスの眼からみて正しい・・・」と訳されている。旧約聖書の『列王記』がイエス・キリストの視点で書かれているはずはないではないか!?) 子供に教えられている英国史において(は),「善い」王様と「悪い」王様が出てくる。(同様に)(ドイツ史では)ユダヤ人の寡頭政治(少数独裁政治)は「悪い」が,ナチスの寡頭政治は「善い」(と教え),(ロシア史では)ロシア皇帝時代の貴族による寡頭政治は「悪い」ものであったが,共産党による(現在の)寡頭政治は「善い」(と教える)(注:最初の英国史以外、ドイツ史とも、ロシア史とも書かれていないが、「歴史教育においては,自国の体制側に都合の悪いことは子供にほとんど教えない」という趣旨であることは,文脈から明らか)。 このような態度は大人に対してはふさわしくない。子供は,言われたことに従えば「善良(善い子)」であり,従わなければ「(悪い子)」である。こんな子が大人になって政治的指導者になると,彼(彼女)は子供部屋で培った考えを保持し続け(注:the nursery 子供部屋),(指導者である)自分の命令に従う者は「善良」,無視する者は「悪い」と定義する。その結果,(自分が指導者である)自党は「善良」な者から成り,反対政党は「悪」人から成っている(ということになる)。(また)「善い」政治とは自分たちのグループによる政治であり、「悪い」政治とは他のグループによる政治ということになる。(また,たとえば,ロメオとジュリエットの)モンタギュ一家は「善く」,キャピュレット家は「悪い」か,あるいはその逆(キャピュレット家は「善く」,モンタギュ一家は「悪い」),ということになる。 このような見かたは,もし真面目に採用されるとしたら,社会生活は不可能になる。(もし)どちらのグループが「善く」またどちらのグループが「悪い」かを決定することができるのは強制力だけであり,そうしてその(善悪の)決定がなされる時,その決定はいついかなる時に暴動によってひっくり返されるかも知れない。どちらのグループも,権力を握れば,反乱を引き起こす恐れによって制御・抑制される場合は別として,他のグループの利益に対して配慮することはしない。社会生活は,それが暴政よりましなものであるべきであるとしたら,ある種の不偏不党を必要とする。しかし,多くの問題において,集団的行動は必要であることから,そういった(グループによって利益が異なる)問題において,不偏不党の唯一の実行可能な形態は,多数者による支配である。
Chapter 18: The taming of Power, n.3 I There is a tendency, as strong now as at any former time, to suppose that an oligarchy is admirable if it consists of “good” men. The government of the Roman Empire was “bad” until Constantine, and then it became “good.” In the Book of Kings, there were those who did right in the sight of the Lord, and those who did evil. In English history as taught to children, there are “good” kings and “bad” kings. An oligarchy of Jews is “bad,” but one of Nazis is “good.” The oligarchy of Tsarist aristocrats was “bad,” but that of the Communist Party is “good.” This attitude is unworthy of grown-up people. A child is “good” when it obeys orders, and “naughty” when it does not. When it grows up and becomes a political leader, it retains the ideas of the nursery, and defines the “good” as those who obey its orders and the “bad” as those who defy it. Consequently our own political party consists of “good” men, and the opposite party consists of “bad” men. “Good” government is government by our group, “bad” government that by the other group. The Montagues are “good,” the Capulets “bad,” or vice versa. Such a point of view, if taken seriously, makes social life impossible. Only force can decide which group is “good” and which “bad,” and the decision, when made, may at any moment be upset by an insurrection. Neither group, if it attains power, will care for the interests of the other, except in so far as it is controlled by the fear of rousing rebellion. Social life, if it is to be anything better than tyranny, demands a certain impartiality. But since, in many matters, collective action is necessary, the only practicable form of impartiality, in such matters, is the rule of the majority.
出典: Power, 1938.
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