子供が知りたがっていることを無知にしておくことの弊害

 少年はみな汽車(注:今なら電車 or SL)に興味を持っている。(たとえば)汽車に興味を持つことは悪い(不道徳な)ことであると少年に言ったとしてみよう。(あるいは)少年が汽車に乗っているときや,駅にいるときにはいつもその少年の目に包帯をしておくと仮定してみよう。彼のいる前では,「汽車」という言葉を口にすることが許されず,彼がある場所から他の場所に運ばれる手段に関しては、計り知れない神秘のままに保たれる,と仮定しておこう。その結果は,少年が汽車に興味を失うということにはならないであろう。逆に,彼はより興味を持つことになるであろうが,病的な罪の意識を持つようになるであろう。なぜなら,この興味は,彼には不道徳(不適切)なものとされてきたからである。活発な知性を持つ少年なら,大なり小なり,この方法によって神経衰弱になりうることであろう。これがまさしく,性の問題ににおいてなされたことなのである。しかし,性は汽車よりも興味があることなので,結果はもっと悪い。キリスト教社会(在住)の大部分の大人(成人)が,彼らが若かった時に,性の知識がタブーとなっていた結果として,多かれ少なかれ(現在)神経を病んでいる(注:あくまで,このエッセイが発表された1930年代の欧米の状況です)。そして,そのようにして,人為的に植えつけられた罪の意識は,その後における(大人になってからの)残酷さ,臆病さ,愚かさ,の原因の一つである性の問題であれ,その他の問題であれ,子供が知りたがっていることを無知にしておくことには,いかなる種類の合理的な根拠もない。この事実(真実)が初等教育で認められるまで,健全な住民を決しては得られないであろうが,教会が教育政策を支配できるかぎり,それは不可能である。

Every boy is interested in trains. Suppose we told him that an interest in trains is wicked; suppose we kept his eyes bandaged whenever he was in a train or on a railway station; suppose we never allowed the word “train” to be mentioned in his presence and preserved an impenetrable mystery as to the means by which he is transported from one place to another. The result would not be that he would cease to be interested in trains; on the contrary, he would become more interested than ever but would have a morbid sense of sin, because this interest had been represented to him as improper. Every boy of active intelligence could by this means be rendered in a greater or less degree neurasthenic. This is precisely what is done in the matter of sex; but, as sex is more interesting than trains, the results are worse. Almost every adult in a Christian community is more or less diseased nervously as a result of the taboo on sex knowledge when he or she was young. And the sense of sin which is thus artificially implanted is one of the causes of cruelty, timidity, and stupidity in later life. There is no rational ground of any sort or kind in keeping a child ignorant of anything that he may wish to know, whether on sex or on any other matter. And we shall never get a sane population until this fact is recognized in early education, which is impossible so long as the churches are able to control educational politics.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-040.HTM

<寸言>
体制にとって、大人にとって、◯◯にとって,「不都合なことは知らせないでおこう(隠しておこう)という態度。
【古今の為政者の態度:(由(よ)らしむべし知(し)らしむべからず 《「論語」泰伯から》人民を為政者の施政に従わせることはできるが、その道理を理解させることはむずかしい。】

真実を知られたら社会が安定しないなどという考え方や思い込みは,支配する側にとってはそれほど悪いことではないと思われるかも知れないが、それを知った時の人間(国民、子供、その他支配される側)にとっては最悪とも言えること。真実が明らかになった時の反動のほうが悲惨なことになるかも知れない。

青年に「罪の意識」を与えることの愚かさ

 キリスト教徒の態度人間の福祉(幸福)にとって危険であるのは,性行為に関してだけでなく,性の問題に関する知識にも関してもそうである。偏見のない精神でこの問題を研究しようと骨を折った人なら,誰でも正統派のキリスト教徒が青年に強用しようとする性に関する作為的な無知は,道徳的及び肉体的健康に極めて危険であり,大抵の子供たちがそうするように,「不適切な(下劣な)」会話によって知識を拾う者に,性とはそれ自体わいせつかつ馬鹿げたものであるという態度をとらせることになるのである。知識は望ましいものではないという見方に弁護の余地はない,と私は考える。いかなる人がいかなる年齢に知識を得ようとしても,障害をもうけるべきではない。しかし,性の知識という特殊な場合には,大部分の他の知識の場合よりも,障害をもいけるべきではないということに対するはるかに重みのある賛成論がある。知識を授けられている場合よりも無知な場合の方が,人はより愚かな行為をする(賢明な行為をいっそうしそうにない)ものであり,青年が重要な問題について自然な好奇心を持つからといって,青年に罪の意識を与えるということは馬鹿げている。

It is not only in regard to sexual behaviour but also in regard to knowledge on sex subjects that the attitude of Christians is dangerous to human welfare. Every person who has taken the trouble to study the question in an unbiased spirit knows that the artificial ignorance on sex subjects which orthodox Christians attempt to enforce upon the young is extremely dangerous to mental and physical health, and causes in those who pick up their knowledge by the way of “improper” talk, as most children do, an attitude that sex is in itself indecent and ridiculous. I do not think there can be any defense for the view that knowledge is ever undesirable. I should not put barriers in the way of the acquisition of knowledge by anybody at any age. But in the particular case of sex knowledge there are much weightier arguments in its favor than in the case of most other knowledge. A person is much less likely to act wisely when he is ignorant than when he is instructed, and it is ridiculous to give young people a sense of sin because they have a natural curiosity about an important matter.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-030.HTM

<寸言>
知性を軽視する宗教あるいは宗教家は益よりも害を与えやすい。

「原罪」の概念(観念)は人間の加虐趣味にはけ口や口実を与える

 キリスト教倫理に結びついている原罪の概念(観念)は,驚くべき量の害悪をなすものである。なぜなら,原罪の概念(注:人間は罪を背負って生まれてくるという考え方) は,人々に,自分たちは正当であり,高邁であるとさえ信じるところの,彼らの加虐趣味(サディズム)のためのはけ口を与えるからである。たとえば,梅毒の予防の問題を取り上げてみよう。前もって用心さえすれば,この病気に感染する危険は無視できるほどのものにすることができることが知られている。しかし,キリスト教徒はこの事実についての知識の普及に反対している,なぜなら,彼らは罪人(注:たとえば,婚外性交をするような者)が罰せられることは善いことだと考えるからである。彼らは罪人を罰することは非常に善いことだと思いこんでいるために,その罰が罪人の妻や子供に及ぶことを望むことさえ望んでいるのである(注:このエッセイを執筆した1930年頃の状況を言っています。)。現在この世には,もしキリスト教徒が罪人は罰せられるべきであるとの欲求を持っていなければ,決して生まれなかったであろう,先天的に梅毒にかかっている何千という子供がいるのである。このような我々を悪魔的な残酷さに導く教義が,どうして道徳に良い影響を与えるなどと考えることができるのか,私には理解できない。

The conception of Sin which is bound up with Christian ethics is one that does an extraordinary amount of harm, since it affords people an outlet for their sadism which they believe to be legitimate, and even noble. Take, for example, the question of the prevention of syphilis. It is known that, by precautions taken in advance, the danger of contracting this disease can be made negligible. Christians, however, object to the dissemination of knowledge of this fact, since they hold it good that sinners should be punished. They hold this so good that they are even willing that punishment should extend to the wives and children of sinners. There are in the world at the present moment many thousands of children suffering from congenital syphilis who would never have been born but for the desire of Christians to see sinners punished. I cannot understand how doctrines leading us to this fiendish cruelty can be considered to have any good effects upon morals.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-030.HTM

<寸言>
加虐の対象が自分に向かえば自虐となる。加虐も自虐もどちらもさけるべき害悪であり,そのような感情を抱いた場合はよくよくその原因を考える必要がある。

宗教においては,多くの場合,女性は「誘惑者」とされたが・・・

 けれども,キリスト教の最悪の特徴は,性に対する態度である-それはあまりにも病的かつあまりにも不自然であり,ローマ帝国が衰退しつつあった時代の文明世界の病いと関連させることによってのみ理解することができる。我々は,時々,キリスト教が女性の地位を改善(向上)させたという趣旨の話を聞くことがある。これは,なしうる限りの,最もひどい歴史の曲解の一つである。女性が極めて厳格な道徳律(倫理規則)を犯してはならないということはこの上もなく重大であると考えられている社会においては,女性は我慢できる地位を享受することができない。修道士たちは,本来女性は誘惑者であると常に見なしてきた。即ち,彼らは,女性は主として不純な情欲をあおる者だと考えてきた。教会の教えは,童貞であること(virginity)は最善であるが,それが不可能な人々には結婚が許されるというのであったし,今なおそうである。
(注:大竹勝訳では,「処女は最善であり・・・」となっているが,前後関係からわかるようにここでは男性の修道士のことを言っており,あきらかに「童貞であること」を指している。「ヴァージン=女性」という思い込みがあるためであろう。大竹氏はシラキュース大学卒で日本翻訳家協会会長をされていたが・・・?)
聖パウロが粗野に表現しているように,「(情欲で)焼き焦がれるよりは,結婚したほうがよい」(という趣旨である)。結婚を解消できないものとし(注:カトリックの教義では離婚を認めていない。),性愛の技術(ars amandi)についてのすべての知識を根絶することによって,教会が認めた唯一の性の形 -快楽はほとんどなく,苦痛は大きくなければならないもの- を確保することに,教会は全力を尽くしたのである。事実,産児制限への反対も同じ動機を持っている。(即ち,)たとえ,女性(婦人)が,疲れきって死ぬまで,一年に一人(have a child a year …)子供をもつ(産む)としても(注:if = even if),結婚生活から多くの喜びを引き出すことを想定するべきではない。それゆえ,産児制限には反対しなければならない(とカトリック教会は考えるのである)(注:荒地出版社刊の大竹訳『宗教は必要か』では,「もし女性が一年間,疲労して死ぬくらいなら,結婚生活からたいした悦びを得られないであろう。それだから,産児制限は奨励されてはならないというのである。」と,文法を無視した,論理的に意味不明の訳をしている。産児制限をしないで毎年子供を産めばどういうことになるか,常識的に想像がつきそうなものである。)

The worst feature of the Christian religion, however, is its attitude toward sex — an attitude so morbid and so unnatural that it can be understood only when taken in relation to the sickness of the civilized world at the time the Roman Empire was decaying. We sometimes hear talk to the effect that Christianity improved the status of women. This is one of the grossest perversions of history that it is possible to make. Women cannot enjoy a tolerable position in society where it is considered of the utmost importance that they should not infringe a very rigid moral code. Monks have always regarded Woman primarily as the temptress; they have thought of her mainly as the inspirer of impure lusts. The teaching of the church has been, and still is, that virginity is best, but that for those who find this impossible marriage is permissible. “It is better to marry than to burn,” as St. Paul brutally puts it. By making marriage indissoluble, and by stamping out all knowledge of the ars amandi, the church did what it could to secure that the only form of sex which it permitted should involve very little pleasure and a great deal of pain. The opposition to birth control has, in fact, the same motive: if a woman has a child a year until she dies worn out, it is not to be supposed that she will derive much pleasure from her married life; therefore birth control must be discouraged.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-030.HTM

<寸言>
宗教の開祖や教会の責任者(例:法王)のほとんどは男性だからね。女性の開祖がだいぶぶんだったら、男性が誘惑者にされたかも・・・。

宗教や教会の有害性は歴史が証明している - 歴史に学ばない人類

 教会とその開祖との間のこの相違は,決して偶然のことではない。ある特定の人物が言ったこと絶対的な真理が含まれているということになると(想定されると),その人物が言ったことを解釈する一団の専門家たちが出現し,それらの専門家たちは,必ず権力を獲得する。なぜなら,彼らは真理への鍵を保持している(とされる)からである。他の特権階級と同様に,彼らはその権力を自分たちの利益のために使用するのである。けれども,一つの点(面)において,彼らは他の特権階級よりも悪質である。なぜなら(神によって/啓示によって)きっぱりと完璧に明らかにされた不変の真理を説くというのが彼らの仕事であるので,必然的にあらゆる知的かつ道徳的進歩の敵となるからである。教会(キリスト教会)は,ガリレオとダーウィンに反対した。そうして、我々の時代においては,フロイドに反対している。キリスト教会が最も勢力を持っていた時代においては,さらに進んで知的生活への反対まで行ったのである。グレゴリー大教皇はある司教に出した手紙を,次の言葉で始めている。

「頼を赤らめずして口にすることができないような報告が我々のもとに届きました。そなたは(汝は)友人たちに文法(学)について詳しく説いたとの報告です。」
その司教は,教皇権によって,この悪しき行為をやめるように強いられ,ラテン語使用(Latinity)は,ルネッサンスまで復活しなかった。宗教が有害なのは、知的に有害であるばかりでなく,道徳的にも有害である。これによって,私が言おうとしているのは,宗教は人間の幸福に資することがない倫理規則(道徳律)を教える,ということである。数年前,ドイツにおいて,退位後の王室が,なおも私有財産を持つことが許さるべきか否かについての国民投票が行なわれたとき,ドイツの諸教会は王室からそれを剥奪することはキリスト教の教えにそむくと宣言したのである。誰も知っているように,教会は立ち向かえる限りできるだけ長い間奴隷制度の廃止に反対したし,今日,賢明なごく少数の例外はあるが,教会はあらゆる経済的正義に反対している。教皇(法王)は公式に社会主義を非難したのである。

There is nothing accidental about this difference between a church and its founder. As soon as absolute truth is supposed to be contained in the sayings of a certain man, there is a body of experts to interpret his sayings, and these experts infallibly acquire power, since they hold the key to truth. Like any other privileged caste, they use their power for their own advantage. They are, however, in one respect worse than any other privileged caste, since it is their business to expound an unchanging truth, revealed once for all in utter perfection, so that they become necessarily opponents of all intellectual and moral progress. The church opposed Galileo and Darwin; in our own day it opposes Freud. In the days of its greatest power it went further in its opposition to the intellectual life. Pope Gregory the Great wrote to a certain bishop a letter beginning:
“A report has reached us which we cannot mention without a blush, that thou expoundest grammar to certain friends.”
The bishop was compelled by pontifical authority to desist from this wicked labor, and Latinity did not recover until the Renaissance. It is not only intellectually but also morally that religion is pernicious. I mean by this that it teaches ethical codes which are not conducive to human happiness. When, a few years ago, a plebiscite was taken in Germany as to whether the deposed royal houses should still be allowed to enjoy their private property, the churches in Germany officially stated that it would be contrary to the teaching of Christianity to deprive them of it. The churches, as everyone knows, opposed the abolition of slavery as long as they dared, and with a few well-advertised exceptions they oppose at the present day every movement toward economic justice. The Pope has officially condemned Socialism.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-020.HTM

<寸言>
宗教にはもちろん良い面がある。しかし,歴史をよく学べば有害な面のほうがずっと多いことに気づくはず。ところが、多くの人は自分の信じている宗教の有害性(歴史上の事実)については無知あるいは「寛容」であり、他宗教は邪教であり有害だと思う人が少なくない

宗教は恐怖(心)から生まれた病気 - 教会・教団栄えて宗教心滅ぶ

 宗教についての私自身の意見は,ルクレティウス(注:Lucretius)の意見(と同じ)である。私は,宗教を恐怖(心)から生まれた病気として,また人類への計り知れない惨めさの根源であると考えている。けれども,宗教がある程度文明に貢献したことは否定できない。宗教は,(宗教が起こった)初期の時代にあっては,暦を定着させる助けをし,エジプトの僧侶たちに,日食月食を極めて注意深く記録させたので,後に,彼らは日食月食を予言することができるようになった。私はこれらの二つの功績(two services)をいつでも認める用意があるが,その他の功績については,私は知らない。

 宗教という言葉は,今日では極めて不正確な(散漫な)意味で使われている。極端なプロテスタンティズム(新教)の影響のもとに,この言葉は,道徳に関する真面目な個人的確信,あるいは,宇宙の本質に関する確信,を示すために使用する者もいる。宗教という言葉のこういった使い方は非歴史的なものである。宗教は,本来(主として)一つの社会現象である。教会(注:キリスト教会)はその起源を強い個人的確信を持った宣教師/説教師(teachers)に帰さなければならないかもしれないが,これらの宣教師/説教師は滅多に自分たちが創建した教会に勢力を持たなかった。しかるに,教会はその上に栄えたところの共同社会に多大の影響を与えた。西欧文明のメンバー(一員)にとって最も興味深いケースを取り上げてみよう。福音書に現れているキリストの教えは,キリスト教徒の倫理とは,驚くほど無関係である。キリスト教について,社会的,歴史的な見地から,最も重要なものは,キリストではなくて,教会である。そこで,一つの社会勢力としてのキリスト教を我々が判断しようとするならば,我々の資料としては,福音書に求めてはならない。キリストは,人は自分の財産を貧しい者に与えるべきである,争ってはいけない,教会に行くべきではない(注:無教会主義),不貞(姦通)を罰してはいけない,と教えた。これらの教えのうちいずれについても,カトリックもプロテスタント(新教徒)も,キリストの教えに従うという強い欲求をこれまで示してはいない。確かに,フラシスコ修道会の僧侶のうちには,使徒的な貧しさの教義を教えようとした者もあるけれども,ローマ法王は,彼らを有罪だと非難し,彼らの教義は異端であると宣言した。あるいは,また「裁くことなかれ,汝らもまた裁かるべければなり」というようなテクストを考察して,そのようなテクストがいかなる影響を異端審問所(宗教裁判所)やクー・クラックス・クランに与えたかということを自問してみるとよい。

キリスト教について真理であることは,仏教においてもひとしく真理である。仏陀は気立てが優しく,悟っていた。臨終の床において,仏陀は,(弟子たちが)自分(=仏陀)を不滅であると想像したことについて,弟子たちを笑った。しかし坊主(Buddhist priest 仏教徒僧)は-たとえば,チベットに存在しているように-,反啓蒙主義者であり,専制的で,これ以上ないほど残酷であった。

My own view on religion is that of Lucretius. I regard it as a disease born of fear and as a source of untold misery to the human race. I cannot, however, deny that it has made some contributions to civilization. It helped in early days to fix the calendar, and it caused Egyptian priests to chronicle eclipses with such care that in time they became able to predict them. These two services I am prepared to acknowledge, but I do not know of any others.
The word religion is used nowadays in a very loose sense. Some people, under the influence of extreme Protestantism, employ the word to denote any serious personal convictions as to morals or the nature of the universe. This use of the word is quite unhistorical. Religion is primarily a social phenomenon. Churches may owe their origin to teachers with strong individual convictions, but these teachers have seldom had much influence upon the churches that they have founded, whereas churches have had enormous influence upon the communities in which they flourished. To take the case that is of most interest to members of Western civilization: the teaching of Christ, as it appears in the Gospels, has had extraordinarily little to do with the ethics of Christians. The most important thing about Christianity, from a social and historical point of view, is not Christ but the church, and if we are to judge of Christianity as a social force we must not go to the Gospels for our material. Christ taught that you should give your goods to the poor, that you should not fight, that you should not go to church, and that you should not punish adultery. Neither Catholics nor Protestants have shown any strong desire to follow His teaching in any of these respects. Some of the Franciscans, it is true, attempted to teach the doctrine of apostolic poverty, but the Pope condemned them, and their doctrine was declared heretical. Or, again, consider such a text as “Judge not, that ye be not judged,” and ask yourself what influence such a text has had upon the Inquisition and the Ku Klux Klan.
What is true of Christianity is equally true of Buddhism. The Buddha was amiable and enlightened; on his deathbed he laughed at his disciples for supposing that he was immortal. But the Buddhist priesthood — as it exists, for example, in Tibet — has been obscurantist, tyrannous, and cruel in the highest degree.
ostered by known methods of education.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-010.HTM

<寸言>
古今東西,宗教の信者は宗教によってどれだか人類がみじめになってきたか、その歴史に無知である。

啓発された利己心 対 偽装された理想主義

(これまでの)議論を要約する時がきました。政治は個人よりもむしろ集団に関心を持っており,それゆえ,政治において重要な情熱は所与の集団の多様なメンバー(成員)がひとしく感ずることのできる情熱です。政治の建造物(体系)を(その上に)築かれなければならない(築かざるをえない)広汎な本能的メカニズムは,集団内の協力及び他の集団に対する敵意です。集団内部での協力(協調)は決して完全なものではありません。順応しない(集団に従わない)メンバー(成員)がおり,彼らは,語源的な意味で「群れから抜きん出ている(“egregious”)」,即ち,集団の外側にいる者です。これらのメンバー(成員)は,(集団の)普通の水準から落下するかあるいは水準を超えた人々です。彼らは,白痴,犯罪者,予言者,あるいは発見家です。賢明な集団は(集団が賢明であれば),平均以上の人々の奇矯さを寛大に見たり,平均より下に落ちた人々をできるだけ残酷さを伴わずに取り扱ったりすることを学ぶでしょう。
他の集団との関係については,近代技術は利己心(self-interest)と本能との間に葛藤を生じさせました。昔は,二つの種族が戦争を始めると,そのうちの一つが他を絶滅させ,その領土を併合しました。勝者の観点からは,全ての行動(operations)が徹底的に満足なものでした。殺人はまったく高くつくものではなく,興奮は心地よいものでした。そのような状況にあって,戦争が起こり続ける(終わらない)ことは,何も驚くにはあたりませんでした。不幸なことに,我々は未だにそのような原始的な戦いにふさわしい感情を持っていますが,他方では,実際の戦争行動は完全に変わってしまいました。近代戦においては,敵を殺すことはとても高くつく行動です。もし,この前の大戦(第二次世界大戦)でドイツ人が何名殺されたかを考え,そうして,勝者たち(連合国側)がどれほど所得税を払っているかを考えれば,(あなたは)長い割算の結果(合計)によって,ドイツ人死者一人当たりの費用(コスト)(ドイツ人一人を殺すのに要した費用)を知ることができ,それが相当な金額であることを発見することでしょう。なるほど東側(諸国)においては,ドイツ人の敵(敵国)は敗北した国民を追い出して彼らの領地を占領するという昔ながらの利益を確保しました。しかし西側(諸国)の勝者たち(戦勝国)はまったくそのような利益は確保できませんでした。明らかに,近代戦は財政的な見地からすれば,割のよい事業ではありません。私たち(西側諸国)は二つの世界大戦に勝利しましたが,その両大戦が起きていなかったら現在はもっと裕福になっていた(いる)ことでしょう。

もし人間が利己心によって動かされるとするならば -少数の聖者を除いて(実際は)そうではないですが- 全人類は協力(協調)することでしょう。(注:人間が,他人を害するよりも「利己心」を重視すれば,つまり,結果として,お互いの「利己心」を尊重しすることになれば,お互い協力しあうことになるであろう,という意味合い。ラッセル『ヒューマン・ソサエティ』に収録された勝部訳のように,’self-interest’ を「利己主義」と訳すとピンとこなくなる。) そうであれば(みな利己心に忠実なら),戦争も,軍隊も,海軍も,原子爆弾もなくなるでしょう。国民Bに対抗する(敵愾心を持つ)国民Aの心を,また,逆に,国民Aに対抗する(対抗心を持つ)国民Bの心を害するために雇用されている多数の宣伝家の人々もなくなるでしょう。それがどれだけ優れているとしても,外国の書籍や思想の(自国への)流入を防ぐために国境(frontiers)に配置されている多数の官僚たちもなくなるでしょう。一つの大企業のほうが(中小企業より)もっと経済的であるところ(現状)で,多くの小企業の存在を保証するべく,関税障壁もなくなるでしょう。もし人々が自分自身の幸福を,隣人の不幸を望んだのと同じ熱心さで望んだとするならば(注:皮肉ですよ),こういうすべてのことがすみやかに起こるでしょう。しかし,皆さんは,そんなユートピア主義者の夢がどんな役に立つのかと言われるでしょう。道徳家たちは我々が完全に利己的ににならないように取り計らうことでしょう。そうして(しかし),我々が利己的にならない限り,至福千年(の到来)は不可能でしょう(until we do the millenium will be impossible)。

私は,冷笑的な調子でこの講演を終わるように思われたくありません。私は利己的であることより立派なものがあることや,そういう立派なことを達成する人たちのいることを否定しません。けれども,私は,一方においては,政治が関係するような大きな集団が利己心を超越することができるような機会は殆どないと,他方において,もし利己心(利己的であること)が啓発された利己心と解釈される場合には,各国民が利己的であることを下回るような状況が非常に多いと,断言(主張)しま
 そうして,人々が理想主義的な動機から行動していると自分では確信している場合の大部分において,人々は利己心を下回るのです。理想主義として通っているものの多くは,偽装された憎悪か,あるいは偽装された権力欲(権力欲の偽装)です。人間の大集団が一見気高い(高邁な)動機によってゆり動かされるのを見る時,その動機の下にあるものを見て,そういった動機をこのように効果的なものにしているのは何んだろうと自問したほうがよいでしょう。私が試みてきたような心理学的探究が実行に値するのは,一部分は,見かけだおしの気高さ(高邁さ)に騙されることがきわめて容易だからです。結論として私が言いたいのは,もし私の言ったことが正しければ,世界を幸福にするために必要とされる主要なものは知性であるということです。そして,これは,結局,楽観主義的な結論です,なぜなら,知性は既知の教育方法で育成できるものだからです。(終)

The time has come to sum up our discussion. Politics is concerned with herds rather than with individuals, and the passions which are important in politics are, therefore, those in which the various members of a given herd can feel alike. The broad instinctive mechanism upon which political edifices have to be built is one of cooperation within the herd and hostility towards other herds. The co-operation within the herd is never perfect. There are members who do not conform, who are, in the etymological sense, “egregious”, that is to say, outside the flock. These members are those who have fallen below, or risen above, the ordinary level. They are: idiots, criminals, prophets, and discoverers. A wise herd will learn to tolerate the eccentricity of those who rise above the average, and to treat with a minimum of ferocity those who fall below it.
As regards relations to other herds, modern technique has produced a conflict between self-interest and instinct. In old days, when two tribes went to war, one of them exterminated the other, and annexed its territory. From the point of view of the victor, the whole operation was thoroughly satisfactory. The killing was not at all expensive, and the excitement was agreeable. It is not to be wondered at that, in such circumstances, war persisted. Unfortunately, we still have the emotions appropriate to such primitive warfare, while the actual operations of war have changed completely. Killing an enemy in a modern war is a very expensive operation. If you consider how many Germans were killed in the late war, and how much the victors are paying in income tax, you can, by a sum in long division, discover the cost of a dead German, and you will find it considerable. In the East, it is true, the enemies of the Germans have secured the ancient advantages of turning out the defeated population and occupying their lands. The Western victors, however, have secured no such advantages. It is obvious that modern war is not good business from a financial point of view. Although we won both the world wars, we should now be much richer if they had not occurred. If men were actuated by self-interest, which they are not – except in the case of a few saints – the whole human race would cooperate. There would be no more wars, no more armies, no more navies, no more atom bombs. There would not be armies of propagandists employed in poisoning the minds of Nation A against Nation B, and reciprocally of Nation B against Nation A. There would not be armies of officials at frontiers to prevent the entry of foreign books and foreign ideas, however excellent in themselves. There would not be customs barriers to ensure the existence of many small enterprises where one big enterprise would be more economic. All this would happen very quickly if men desired their own happiness as ardently as they desired the misery of their neighbours. But, you will tell me, what is the use of these Utopian dreams ? Moralists will see to it that we do not become wholly selfish, and until we do the millennium will be impossible.
I do not wish to seem to end upon a note of cynicism. I do not deny that there are better things than selfishness, and that some people achieve these things. I maintain, however, on the one hand, that there are few occasions upon which large bodies of men, such as politics is concerned with, can rise above selfishness, while, on the other hand, there are a very great many circumstances in which populations will fall below selfishness, if selfishness is interpreted as enlightened self-interest.
And among those occasions on which people fall below self-interest are most of the occasions on which they are convinced that they are acting from idealistic motives. Much that passes as idealism is disguised hatred or disguised love of power. When you see large masses of men swayed by what appear to be noble motives, it is as well to look below the surface and ask yourself what it is that makes these motives effective. It is partly because it is so easy to be taken in by a facade of nobility that a psychological inquiry, such as I have been attempting, is worth making. I would say, in conclusion, that if what I have said is right, the main thing needed to make the world happy is intelligence. And this, after all, is an optimistic conclusion, because intelligence is a thing that can be fostered by known methods of education.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-160.HTM

<寸言>
他人のことを考えない利己主義はいけないが,他人のこともあわせて考える啓発された利己心はむしろ推奨すべきもの。そうでなくて、自己犠牲を社会の成員に強制すれば逆効果になりやすく、多くの人間を不幸にする。

同情心(思いやり)の効用

 同情心(思いやり)は純粋な動機であること,また,時には他人の苦痛によっていくらか居心地が悪くなる人もいること,を疑問に付すことができるとは,私は考えません。過去数百年における多くの人道主義的な進歩を生んだのは同情心(思いやり)です。(人道主義的な進歩として)精神異常者が虐待されている(不適切な取り扱いを受けている)という話を聞くとき,われわれはショックを覚えますが,今日では彼らが虐待されていないかなりの精神病院があります。西欧諸国の囚人たちは拷問にはかけられないはずになっていますが,拷問が行なわれている場合には,その事実が発見されると大騒ぎになります。我々は『オリヴァー・トゥイスト』のなかで取り扱われたように孤児が取り扱われることを是認しません。新教(プロテスタント)の国々では,動物に対する残酷さ(動物虐待)を是認しません。これらすべての点で,同情心(思いやり)は政治的に効果的をあげてきました。もし戦争(勃発)の恐怖が取り除かれるのなら,同情心(思いやり)の効用はより大きなものになるでしょう。おそらく,人類の将来の最高の希望は,同情心(思いやり)の範囲と強さが増大させるいろいろな方法が見出されることでしょう。

I do not think it can be questioned that sympathy is a genuine motive, and that some people at some times are made somewhat uncomfortable by the sufferings of some other people. It is sympathy that has produced the many humanitarian advances of the last hundred years. We are shocked when we hear stories of the ill-treatment of lunatics, and there are now quite a number of asylums in which they are not ill-treated. Prisoners in Western countries are not supposed to be tortured, and when they are, there is an outcry if the facts are discovered. We do not approve of treating orphans as they are treated in Oliver Twist. Protestant countries disapprove of cruelty to animals. In all these ways sympathy has been politically effective. If the fear of war were removed, its effectiveness would become much greater. Perhaps the best hope for the future of mankind is that ways will be found of increasing the scope and intensity of sympathy.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-150.HTM

<寸言>
 同情心(おもいやり)は年齢,地位に関係なく,特定の個人や集団に対して持つことができます。これに対して「忖度(そんたく)」というのは、通常、自分より地位や権力や年齢が上の者に対して働きます。だから某政治家の言うように「忖度はもともと良い意味だった。忖度してなぜ悪いかわからない」という開き直りはいただけません。

恐怖(心)に対抗する方法(恐怖心を克服する方法)

 恐怖(心)に対抗する(恐怖心を克服する)方法は,二つあります。一つは外的な危険を減らすことであり,もう一つはストア学派風に忍耐力を養成することです。後者は,すぐに行動を起こす必要がある場合を除いて,我々の思考を恐怖の原因からそらすことによって補強することができます。}
恐怖(心)を克服することは非常に重要なことです。恐怖(心)(を持つこと)はそれ自体で人間の品位を落とします。それは容易に強迫観念となります。恐れているものに対する憎しみを生み出します。また,それは,過度な残酷さに,せっかちに導きます。安心・安全ほど人間に恩恵のある効果を与えるものはありません戦争の恐怖を取り除くような国際的な組織体制を確立できれば,日常の人々(注:特殊な人ではなく,一般の人々)の日常の精神状態に及ぼす改善は,甚大かつ急速なものになるでしょう。現在,恐怖(心)は,世界に暗い影をなげかけています。原子爆弾と細菌爆弾(細菌兵器)は,場合によって,悪しき共産主義者,あるいは悪しき資本主義者,によって支配されていますが,それらはワシントン(米国政府)とクレムリン(ソ連政府)を震撼させ,さらに人間を深淵(地獄)へと駆り立てています。
事態を好転させるべきとしたら,第一に必須な処置は恐怖(心)を減少させる方法を見つけることです。今日の世界は,相互に対抗するイデオロギーの闘争に取り憑かれており,その闘争の明白な原因の一つは,自分たち(自国/自分たちの陣営)のイデオロギーの勝利と相手(敵国/敵陣営)のイデオロギーの敗北についての欲求です。ここにおける基本的な動機は,イデオロギーと深い関係があるとは思いません。イデオロギーは単に人々を集団化(グループ分け)する方法にすぎないと,私は考えています。また,それに係る情熱は,対抗する集団の間に常に起こる情熱にすぎない,と思います。もちろん,共産主義者を嫌悪するのには多くの理由があります。
第一かつ最も重要な理由は,彼らは我々の財産を奪おうと望んでいる,と我々が信じていることです。しかし,夜盗も同じようなことやり,我々は夜盗を非難しますが,彼らに対する我々の態度は,共産主義者に対する我々の態度とは実に異なっています。その主な理由は,彼ら(泥棒)が同じ程度の恐怖(心)を我々に吹き込まないからです。
第二に,我々は,共産主義者が無宗教だという理由で嫌います。しかし,中国人は11世紀から(ずっと)無宗教であったのであり,彼らが蒋介石を(中国本土から)追い出してから,共産主義者を嫌い始めたのです。
第三に,我々は共産主義者は民主主義を信じないということで嫌いますが,我々はこれ(民主主義を信じないこと)がフランコ(注:スペインの独裁者)を嫌う理由にはまったくならないと考えています。
第四に,我々は,彼らが自由を許容しないという理由で彼らを嫌います。このことを我々(注:米国だけでなく英国などの西側諸国)は,非常に強く感じているので,彼らを真似ることを決心してしまったほどです(注:ラッセル独特の皮肉。米英その他において,”赤狩り(レッドパージ)”により,共産主義者と疑われる者を公職追放し,彼らの自由を奪ったことを暗喩している。自分たちの自由を守るために,自分たちと同じ価値観をもたない人間の自由を否定したり制限する,という「自由のパラドクス」を示唆している)。
明らかにこれらの理由のどれ一つとして,我々が共産主義者を嫌悪する本当の根拠ではありません。我々が彼らを嫌うのは,彼らを我々が恐怖し,彼らが我々を威嚇するからです。仮に,ロシアが今なおギリシア正教を固守していたとしても,仮に議会政治を制度化しても,仮に毎日のように悪口雑言をあびせる完全に自由な新聞を持っているとしても,それでも,彼らが現在持っているのと同じく強大な軍隊を持っており,もし彼らが(我々に)敵意を持っていると考させる根拠を我々に与えるならば,我々は彼らをあいかわらず嫌悪するでしょう。もちろん,「神学的憎悪」
(注:odium theologicum 宗教にはいろいろな宗派があるが,お互い自分たちが正しいと信じ,お互いの違いを「単なる意見の相違」だとは認めない。そういったことから、多くの争いが起こったり,宗教戦争が起こったりした。J. S. ミルの「自由について」が参考となる。http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html)  ということがあり,それは敵意の一因となりえます。しかし,それは集団的感情から派生したものである,と私は考えます。異なった神学を持つ者は,未知の人間(得体の知れない人間)だと感じます。そして未知のものはどんなものであっても危険に違いない,と感じます。実際,イデオロギーというのは,集団が創られる方法の一つであり,集団の発生がどのようであったとしても,その心理はほとんど同じです。

There are two ways of coping with fear: one is to diminish the external danger, and the other is to cultivate Stoic endurance. The latter can be reinforced, except where immediate action is necessary, by turning our thoughts away from the cause of fear. The conquest of fear is of very great importance. Fear is in itself degrading; it easily becomes an obsession; it produces hate of that which is feared, and it leads headlong to excesses of cruelty. Nothing has so beneficent an effect on human beings as security. If an international system could be established which would remove the fear of war, the improvement in everyday mentality of everyday people would be enormous and very rapid. Fear, at present, overshadows the world. The atom bomb and the bacterial bomb, wielded by the wicked communist or the wicked capitalist as the case may be, make Washington and the Kremlin tremble, and drive men further along the road toward the abyss. If matters are to improve, the first and essential step is to find a way of diminishing fear. The world at present is obsessed by the conflict of rival ideologies, and one of the apparent causes of conflict is the desire for the victory of our own ideology and the defeat of the other. I do not think that the fundamental motive here has much to do with ideologies. I think the ideologies are merely a way of grouping people, and that the passions involved are merely those which always arise between rival groups. There are, of course, various reasons for hating communists. First and foremost, we believe that they wish to take away our property. But so do burglars, and although we disapprove of burglars our attitude towards them is very different indeed from our attitude towards communists – chiefly because they do not inspire the same degree of fear. Secondly, we hate the communists because they are irreligious. But the Chinese have been irreligious since the eleventh century, and we only began to hate them when they turned out Chiang Kai-shek. Thirdly, we hate the communists because they do not believe in democracy, but we consider this no reason for hating Franco. Fourthly, we hate them because they do not allow liberty; this we feel so strongly that we have decided to imitate them. It is obvious that none of these is the real ground for our hatred. We hate them because we fear them and they threaten us. If the Russians still adhered to the Greek Orthodox religion, if they had instituted parliamentary government, and if they had a completely free press which daily vituperated us, then – provided they still had armed forces as powerful as they have now – we should still hate them if they gave us ground for thinking them hostile. There is, of course, the odium theologicum, and it can be a cause of enmity. But I think that this is an offshoot of herd feeling: the man who has a different theology feels strange, and whatever is strange must be dangerous. Ideologies, in fact, are one of the methods by which herds are created, and the psychology is much the same however the herd may have been generated.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-140.HTM

<寸言>
自分にとって身近でないものについては違和感を持ったり,嫌悪感を抱いたり,恐怖心を持ったりしがち。そうならないためには,いろいろなことを知ったり体験したりして,多くのことに対して免疫を持つのがよい。

恐怖心と憎悪心-他者を理解しようとする努力を怠り・・・

 人間には,嘆かわしいほどその傾向のある,多くのその他の政治的動機のなかに織り込まれた,二つの(相互に)密接な関係がある情熱があります。それは,恐怖と憎悪(嫌悪)です。我々が恐れるものを嫌うことは常態ですが,常にではないですが,嫌いなもの(憎むもの)を恐れるのは,しばしばあることです。未開人の間では通例のことだとしてよいだろうと思いますが,未開人は見慣れないものには何であれ恐怖と憎悪(嫌悪)の両方を感ずるようです。彼らは当初は非常に小さな自分たちの集団(所属集団)を持っています。そうして,その一つの集団のなかでは,特に敵意を持つ理由がなければ,全てが仲間です。他の集団は潜在的あるいは実際の敵です。即ち,それらの集団のなかの一つの集団のただ一人のメンバーが偶然集団からはぐれると(他の集団によって)殺されるでしょう。全体として,異なる(別の)集団は,状況によって,避けたりあるいは戦ったりします。現在でもなお,外国の国民に対する我々の本能的な反応を支配しているのはこの原始的な機構(メカニズム)です。全然旅行したことのない人はすべての外国人を,未開人が別の集団のメンバー(一員)を見るような目で見ることでしょう。しかし,旅行したことのある人や国際政治を研究したことのある人は,自分が属する集団が繁栄すべきであるとしたら,ある程度,他のいくつかの集団と融合しなければならないということを発見していることでしょう。もしあなたが英国人であり,誰かがあなたに「フランス人はあなたの兄弟(同胞)だ」と言ったら「そんな馬鹿な,彼らは肩をすくめるし(注:英国人はしない所作?),フランス語を話す。しかも,聞くところによると蛙を食べるそうだ」と言うのが,あなた(=英国人)が最初に本能的に抱く気持ちでしょう。もし,彼(相手)が英国人に対し,我々英国人ロシア人と戦わねばならなくなるかもしれないし,そうなれば,ライン河の前線を防御することほ望ましいことであろうし,もしライン河の前線を防御するということになれば,フランス人の援助が必要欠くペからざるものとなる,と説明すれば,フランス人は兄弟(同胞)だという言葉が何を意味するかを英国人は理解し始めるでしょう。しかし,たとえ旅の同行者がさらに,ロシア人もまた兄弟(同胞)だと言ったとしても,我々は皆火星人からの(攻撃の)危険にさらされていることを示しえない限り,彼は英国人を説得することはできないでしょう。我々は,我々の敵を憎む人々を愛するのであり,もし我々が敵を持たなかったら,我々が愛するようなひとびとはごく少なくなるでしょう
けれども,このようなことは全て,我々が単に他の人間に対する態度に関心を持つ限りにおいてのみ真理となります。土地がいやいやながら,わずかばかりの作物しか産み出さないという理由で,あなたは土地を敵とみなすかも知れません。人は母なる自然一般を敵とみなして,人間の生活を母なる自然に打ち克つための闘いだとみなすかも知れません。もし人間が人生をこのように見れば,全人類の協力は容易になるかも知れません。そして,学校,新聞,政治家がこの目的のために献身的になるならば,人々は容易に人生をこのように見るようになるでしょう。しかし,(実際は)学校は進んで愛国心を教え,新聞は進んで興奮をかき立て,政治家は進んで再選されようとします(注:再選されるためならウソ偽りをいうことも平気)。従って,この三者のうちのいずれも,人類を相互自殺から救うことに対し,何もすることができないのです。

Interwoven with many other political motives are two closely related passions to which human beings are regrettably prone: I mean fear and hate. It is normal to hate what we fear, and it happens frequently, though not always, that we fear what we hate. I think it may be taken as the rule among primitive men, that they both fear and hate whatever is unfamiliar. They have their own herd, originally a very small one. And within one herd, all are friends, unless there is some special ground of enmity. Other herds are potential or actual enemies; a single member of one of them who strays by accident will be killed. An alien herd as a whole will be avoided or fought according to circumstances. It is this primitive mechanism which still controls our instinctive reaction to foreign nations. The completely untravelled person will view all foreigners as the savage regards a member of another herd. But the man who has travelled, or who has studied international politics, will have discovered that, if his herd is to prosper, it must, to some degree, become amalgamated with other herds. If you are English and someone says to you, “The French are your brothers”, your first instinctive feeling will be, “Nonsense. They shrug their shoulders, and talk French. And I am even told that they eat frogs.” If he explains to you that we may have to fight the Russians, that, if so, it will be desirable to defend the line of the Rhine, and that, if the line of the Rhine is to be defended, the help of the French is essential, you will begin to see what he means when he says that the French are your brothers. But if some fellow-traveller were to go on to say that the Russians also are your brothers, he would be unable to persuade you, unless he could show that we are in danger from the Martians. We love those who hate our enemies, and if we had no enemies there would be very few people whom we should love.
All this, however, is only true so long as we are concerned solely with attitudes towards other human beings. You might regard the soil as your enemy because it yields reluctantly a niggardly subsistence. You might regard Mother Nature in general as your enemy, and envisage human life as a struggle to get the better of Mother Nature. If men viewed life in this way, cooperation of the whole human race would become easy. And men could easily be brought to view life in this way if schools, newspapers, and politicians devoted themselves to this end. But schools are out to teach patriotism; newspapers are out to stir up excitement; and politicians are out to get re-elected. None of the three, therefore, can do anything towards saving the human race from reciprocal suicide.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-130.HTM

<寸言>
好きなものは年とともに変わっていきやすいが、嫌いなものはあまり変わらない場合が多い。そこで、好きなものが同じ友達よりも、嫌いなものが同じ友達のほうが、友達関係が長続きすると言われている。
しかし、嫌いなものがたとえば、弱者いじめに対する義憤のようなものであればよいが、自分の嫌いなものが他国(外国)や他人種や他集団であり、ヘイトスピーチを繰り返すグループに属している「友達」の場合は、「友情」が長続きするとしても好ましくないし、多くの人に不幸をもたらす。

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