迫害のための組織や団体 ー恐怖や憎悪に支配されている人だけが・・・

chimimouryo_gosei 恐怖に支配されている人だけが,クー・クラックス・クランや,ファシスト党(イタリアのムッソリーニが組織した極右的国家主義団体)に加わるだろう。勇気ある人びとから成る世界には,そうした迫害のための組織は存在しえないだろうし,また,善い生活のために,現在ほど本能に抵抗する必要はなくなるだろう。

Only a man dominated by fear would join the Ku Klux Klan or the Fascisti. In a world of brave men, such persecuting organisations could not exist, and the good life would involve far less resistance to instinct than it does at present.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報;http://russell-j.com/beginner/OE02-220.HTM

<寸言>
aikoku-onna_seijikatachi 「正義を実現するため」と称しながら,実際は他人や特定のグループを迫害することを目的としている組織や団体がいっぱいある。迫害の対象は,国内の一定集団であったり、気に食わない思想信条だったり,外国人や移民だったり、様々である。そういった迫害のための集団も、極右政党新興宗教を装った集団一般市民からなるヘイト集団,その他、様々な形態をとる。
そういった迫害を主目的とした組織や団体の属する者は恐怖や憎悪に支配されており,一部のマスコミを利用しながら、害悪をまきちらす。彼らにとって、知性や思いやりは、意志の弱さでしかなく、自分たちの偽装された「高貴な」憎悪を嫌いな国家や集団や特定の個人にぶつけることが尊いことだと思い込む。

子供と老人- 好奇心の量と質

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動物,機械,雷雨,及び,あらゆる種類の手細工が子供の好奇心をかき立てる。子供の旺盛な知識欲(知識に対する渇望)は,最も知的なおとなもしのぐ。この衝動は,年をとるにつれて弱くなり,ついには,おなじみでないものは嫌悪感を抱かせるだけで,もっとよく知りたいという欲望はまったく抱かなくなる。人々が,この国は没落しつつある(going to the dogs)とか,「いろんなことが,自分の若い頃とは違ってしまっている」などと言い出すのは,この段階である。遠

Animals, machines, thunderstorms, and all forms of manual work, arouse the curiosity of children, whose thirst for knowledge puts the most intelligent adults to shame. This impulse grows weaker with advancing years, until at last what is unfamiliar inspires only disgust, with no desire for a closer acquaintance. This is the stage at which people announce that the country is going to the dogs.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2 The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-190.HTM

<寸言>
grandpa_and%ef%bc%bfgrandson 子供の好奇心は旺盛である。大人になると疲れてくるので,しだいに新鮮な好奇心を抱けなくなる。したがって,年をとってもいろいろなものに好奇心をもっていることは希少価値があるということで,「子供のような(素直な)心を持っている」と褒める。しかし何も知らない子供がいろいろなものに好奇心を持つのは,早く大人になって自立しなければならない動物にとって共通の,欠くべからざる天与の性質である。それに好奇心の質は必ずしも高いとはいえない。その点,大人は,好奇心が持てる対象(量)は減るだろうが,「質」は高めることは’可能’である。可能’なだけだが・・・。

習慣は第二の天性! Habit is second nature.

habit_is_second_natute 子供たちは,概して,その置かれている状況に応じて,良い方向にも悪い方向にも展開可能な衝動を有している。さらに,子供たちは,新しい習憤を身につけることがいまだ容易な年頃にある。そして,よい習慣は,’徳’のほとんどを自動的なものとする(良い習慣を身に着ければ,良い行いをしようと意識的に努力しなくても,良い行いを自動的・無意識的にする(できる)ようになる。)

neet_hikikomoriChildren have, as a rule, impulses which can be developed in good or bad directions according to the situations in which they find themselves. Moreover, they are at an age at which the formation of new habits is still easy; and good habits can make a great part of virtue almost automatic.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1:Postulates of modern educational theory.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-130.HTM

<寸言>
mini-girl-reading-a-book-bookend 良い習慣は「第2の天性」である。幼少期に良い習慣を身につければ(親が子供に良い習慣を身につけさせることができれば)他人から良く思われようと意識的な努力をしなくても,普通に振舞うだけで,他人から好かれ,周囲に良い影響を与える。子供に良い習慣をつけさせることの重要性を理解していない親が少なくない。

学びたいという自発的な願望を「教育の推進力」とすべきである

undo-noryoku_hatttu 歩いたり話したりしようとする努力において示されているように,正常な子供が皆持っている’学びたいという自発的な願望’が,教育の’推進力‘とならなければならない。この推進力を’むち’に代替させたことは,現代の大きな進歩の一つである。

The spontaneous wish to learn, which every normal child possesses, as shown in its efforts to walk and talk, should be the driving-force in education. The substitution of this driving-force for the rod is one of the great advances of our time.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1:Postulates of modern educational theory.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-120.HTM

<寸言>
aikoku-yochien 自分が幸福であれば,他人に対しても親切になれるというのが通常の姿であろう。しかし,個人の幸福よりも,「国家に役立つ人間をつくること」が教育の第一の目標になると,結果として,不幸な人間を大量に生み出すことになりかねない。

自分の子供が欲しいという強い欲求-ドーラとの恋愛

dorablk ドーラと私は,ルルワース(Lulworth)に彼女が来た時,恋人同士になった。彼女がルルワースに滞在していた夏の期間(注:夏の全期間ではなく,ドーラがいた期間)は,この上なく楽しいものだった。私とコレットとの間の主要な困難は,彼女が子供を持つことをいやがったことであり,また,私が子供を持つつもりであればこれ以上この問題を棚上げにしておくことはできないと私が感じたこと,であった。ドーラは,結婚をするしないにかかわらず,心から子供を持ちたがっており,それで,私たちは初めから予防措置をとらなかった(避妊しなかった)
彼女は,二人の関係が即座といってよいほど早く結婚と全く同じ性質を帯びてしまったことに気づき,少し失望した。また,私が,(1911年以来,長期間別居中のアリスと)離婚をして彼女と再婚できればうれしいと言うと,彼女は突然泣き出してしまった。結婚は’自立’と’気楽さ’の終焉を意味すると感じたからであろう。しかし,私たちが共有した感情には,ふまじめな関係をいっさい不可能にするような安定性があったように思われる。彼女の公的な能力(有能さ)のみを知っている人たちは,責任感が彼女に重くのしかからない時にはいつも持っていた小妖精のような魅力という特質を彼女がもっているなどとはほとんど信じられないだろう。彼女は月明かりで(月明かりを頼りに)水浴びをしたり,あるいは,露で濡れた草の上を裸足で走ることによって,,私の親になりたいという欲求及び社会的責任感に強く訴えかけた彼女の真面目な面と同じように,完璧に,私の想像力をとらえた(勝ちとった)のである。

Dora and I became lovers when she came to Lulworth, and the parts of the summer during which she was there were extraordinarily delightful. The chief difficulty with Colette had been that she was unwilling to have children, and that I felt if I was ever to have children I could not put it off any longer. Dora was entirely willing to have children, with or without marriage, and from the first we used no precautions. She was a little disappointed to find that almost immediately our relations took on all the character of marriage, and when I told her that I should be glad to get a divorce and marry her, she burst into tears, feeling, I think, that it meant the end of independence and light-heartedness. But the feeling we had for each other seemed to have that kind of stability that made any less serious-relation impossible. Those who have known her only in her public capacity would scarcely credit the quality of elfin charm which she possessed whenever the sense of responsibility did not weigh her down. Bathing by moonlight, or running with bare feet on the dewy grass, she won my imagination as completely as on her serious side she appealed to my desire for parenthood and my sense of social responsibility.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2:Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-030.HTM

<寸言>
FAM-1924 ラッセルは1911年に(初婚相手の)アリスと別居してから,オットリン(モレル)夫人やコレット(マレソン夫人)などと恋愛しますが,自分の子供が欲しいとの強い欲求をラッセルは満たすことができませんでした。
ところが,ドーラ及び彼女の友達などとキャンプファイアーに火を囲んでおしゃべりしている時に、ドーラが自分は早く子供が欲しいと言っているのに印象づけられ、彼女に強い関心を持つようになります。
紆余曲折を経て二人は結婚し、二人の子供(ジョンとケイト)を持つことになり、そうして、自分たちの子供をよい環境で教育したいと、兄の別送を借りて、幼児学校(Beacon Hill School)を開設することになります。
そうして、しばらく幸せな日々が続きますが・・・。

コレット・オニール(マレソン夫人)との恋愛

coletteoniel 彼女(コレット)は非常に若かったが、オットリンと同じくらいすばらしい、落ち着いた勇気をもっていることがわかった。(勇気は、私が真剣に愛そうとする女性には不可欠な性質である。) 私たちは、夜中まで語り合った。そして語りあううちに恋人同志になった。
分別を持つべきだと言う人たちがいるが、私はそういう人の言うことには同意できない。私たちはお互い相手のことをほとんど知らなかったが、それにもかかわらず、あの瞬間において、二人の間に、きわめて真剣かつ、きわめて重大で、時に幸福で、時に苦痛である関係が始まった。だが、二人の関係は、大戦と結びついた巨大な大衆感情と同列に置く価値がないほど、とるにたらないものでも無価値なものでも決してなかった。事実、第一次大戦は、最初から最後まで、私たち二人の恋愛の織物の中に織り込まれた。私が彼女と初めて肉体関係を持った時(私たちが最初に恋人同士となった夜は、話すべきことが多すぎたために肉体関係は持たなかった。)、突如として獣のような’勝利の叫び声’が通りから聞こえてきた。私はすぐにベッドから飛び起きた。そして(ドイツの)ツェッペリン飛行船が炎に包まれながら墜落するのを見た。勇敢な飛行士が苦悶しながら死につつあるという思いが群集に’勝利の喜びをもたらした全てであった(それ以外の何物でもなかった。)。その瞬間において、コレットの愛(のみ)が私の心の避難所であった。それは、逃れられない残酷さそのものからではなく、人間とはなんであるかということを悟ることによる’魂を切り刻む激しい苦痛’からの避難所であった。

led-zeppelin-i-coverShe was very young, but I found her possessed of a degree of calm courage as great as Ottoline’s (courage is a quality that I find essential in any woman whom I am to love seriously). We talked half the night, and in the middle of talk became lovers. There are those who say that one should be prudent, but I do not agree with them. We scarcely knew each other, and yet in that moment there began for both of us a relation profoundly serious and profoundly important, sometimes happy, sometimes painful, but never trivial and never unworthy to be placed alongside of the great public emotions connected with the War. Indeed, the War was bound into the texture of this love from first to last. The first time that I was ever in bed with her (we did not go to bed the first time we were lovers, as there was too much to say), we heard suddenly a shout of bestial triumph in the street. I leapt (= leaped) out of bed and saw a Zeppelin falling in flames. The thought of brave men dying in agony was what caused the triumph in the street. Colette’s love was in that moment a refuge to me, not from cruelty itself, which was unescapable, but from the agonising pain of realising that that is what men are.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1: The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-190.HTM

<寸言>
この文章に続けて、次の言葉が続きます。(ラッセルも初婚相手のアリスも、オットリンも、コレットも、みな、自由恋愛論者でした。コレット夫人の夫も自由恋愛論者でした。)

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ツェッペリン飛行船が墜落した夜が明けてから,朝早く,彼女を残して,当時私が住んでいたゴードン・スクエア(注:57, Gordon Square)の兄(Frank Russell)の家に戻った。その途上,「香りがよく,可愛いバラはいかがですか!」と叫んでいる花売りの老人に出会った。私はバラの花を一束買い,それをバーナード・ストリートのコレット(の家)に届けるように頼んだ(注:…told him to deliver them in Bernard Street となっているが, to Colette in Bernard Street の省略形か?)。老人はその代金を受け取っただけでバラの花を届けなかっただろうと誰もが想像するだろうが,そうではなかった。そして私は,彼がそんなことをする人間ではないということがわかっていた。「香りがよく,可愛いバラ(’Sweet lovely roses’)」という言葉は,それ以来コレットのことを思う時にはいつも浮かんでくる,一種のリフレイン(常に思い出される文句)となった。

女性によって影響を受けることーオットリン・モレル夫人との恋愛

ottoline オットリン(モレル夫人)は非常に大きな影響を私に与えたが,ほとんどの場合,有益なものであった。・・・。彼女は,私の自己中心的なところや,独善的なところを少なくしてくれた。・・・。彼女は,私の禁欲的(清教徒的)なところをかなりなくし,また他人に対し批判的なところ(人に難癖をつけたがるところ)を,以前よりかなりなくしてくれた。・・・。
女性によって影響を受けることを怖れる男性が多いが,私の経験による限りでは,これはばかげた怖れである。肉体的と同様に精神的にも,男は女を必要とし女は男を必要とする,と私には,思われる。自分のことを言えば,私はかつて愛した女性たちのおかげを非常に受けており,彼女たちがいなければ,私は今よりもずっと狭量な人間になっていたであろう。

Ottoline had a great influence upon me, which was almost wholly beneficial. … She made me less self-centred, and less self-righteous. …
Many men are afraid of being influenced by women, but as far as my experience goes, this is a foolish fear. It seems to me that men need women, and women need men, mentally as much as physically. For my part, I owe a great deal to women whom I have loved, and without them I should have been far more narrow-minded.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 7: Cambridge Again, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB17-050.HTM

<寸言>
ottoline_seymour_cover-jacket ラッセルは,若い時に5歳年上のアリスと結婚したが,しだいに気持ちが離れていき,結局,結婚生活は失敗に終わり,長い別居期間を経て、離婚に至った。(二人の間に子供がいれば、また違った展開になったであろう。ラッセルは早く両親が病没したことによる孤独感から,子供を持つことを熱望していたが、アリスは子供が産めない身体であり、ラッセルの強い希望も立たれた。)

そのような時にラッセルの孤独感を救ったのは、オットリン・モレル夫人((1873-1938,ラッセルの1歳年下)であった。オットリン(注:ポートランド公爵の義理の妹)のことをラッセルは幼児の頃から知っていたが、ラッセルがオットリンに急速に接近したのは、オットリンの夫が自由党から立候補したのを応援したのがきっかけであった。そうして、二人は恋人同士になった。

知性や感受性は「競争におけるハンディキャップ?」ーアベノミクスの本質

trump_and_abe_iwanka 若者の精神を形成する影響力のある大部分のもの(人やメディア)によって,金銭面での成功の理想像が若者の前に示される。映画では,若者たちは贅沢を表現したものを見る。金持ちは大理石の大広間を持っており,大広間には華麗な衣装をまとった美女が集まっている。映画の主人公は,たいてい,最後には成功した階級の仲間入りを成就する。芸術家でさえ,稼いだ金額で判断されるようになる。金銭で計れない価値は,見下されるようになる。あらゆる感受性は,競争におけるハンディキャップであるため,失敗の烙印(焼印)と見なされる。

The ideal of financial success is set before the young by most of the influences that form their minds. In the cinema they see representations of luxury, where plutocrats own marble halls and beautiful ladies in splendid dresses. The hero generally succeeds, in the end, in belonging to this successful class. Even artists come to be judged by the amount of money they make. Merit not measured in money comes to be despised. Every kind of sensitiveness, being a handicap in the struggle, is regarded as a stigma of failure.
出典: Hope and Fear, Oct. 7,1932. In Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:https://russell-j.com/HOPEFEAR.HTM

<寸言>
知性や感性よりも「意志の力」が重視され,あらゆるものが,「金銭の尺度」ではかられる現代世界・・・。

carrot-and-stick 「一億総活躍」の名のもとに,また「何度でも活躍できる」(真意=努力すれば,一定の割合だけ助けてあげるよ)との誤魔化しのもとに,競争にあけくれる現代人。競争に敗けた者(負け組)に対しては、「お情けで」ほんの少し税金を使って助ける振りをするが,全員に大してではなく,ここでもその「お情け」を手に入れるための競争をさせる。その際の弁解は「国民の血税だからばらまくことはできない」といったものだが,為政者がやりたいことには血税をヘリコプターマネーのように世界中にばらまく大企業に対してもいろいろな優遇措置を与えるが,大企業が富めばそのおこぼれが全国民にいく(いわゆるトリクル・ダウン・セオリー)とでもいった説明をする。トリクル・ダウン・セオリーの観点に立ってはいないと最近では言っているが,これまでその考え方を吹聴してきたことについてはなんの責任も感じておらず、そんなことは言ったことはないと開き直る。

小利口だが知恵の乏しい人間-ゆっくり考えることを許さない社会風潮

DOKUSH34 今の世の中には,時間のゆとりがほとんどないが,それは,昔よりも人々が忙しく働いているからではなく,楽しみを持つことが仕事同様に’努力を要する事柄’になってしまっているためである。その結果,人間は小利口にはなったが,知恵が少しずつ’蒸留’される’ゆったりと考える時間(余裕)’を持てないために,知恵は減少してしまった。

In the modern world there is hardly any leisure, not because men work harder than they did, but because their pleasures have become as strenuous as their work. The result is that, while cleverness has increased, wisdom has decreased because no one has time for the slow thoughts out of which wisdom, drop by drop, is distilled.
出典:Mortals and Others; Bertrand Russell’s American Essays, v.1
詳細情報:https://russell-j.com/MEDITATE.HTM

<寸言>
ichioku-sokatuyaku_abe 知性や知恵を身につけることを目指す者よりも、権力に従順で小利口な人間が多くなっている現代為政者や権力を保持し続けたい人間にとってそういう傾向は都合がよい。政治家にとっても,近視眼的な経営者や資本家にとっても,「一億総活躍」の号令にのっかってくれる人間が増えることは,自らの力を保持し続けるために大変ありがたい風潮であろう。

ゆっくり考えることを許さない社会
ゆっくり,ぼんやりしてたら,落ちこぼれになるか,自分は落ちこぼれではないと思っても落ちこぼれだとレッテルを貼られたりされしそう・。
みんな忙しそうに働き,小利口に振る舞い,みんなが言いそうなことを言っていれば孤立することなく無難ということで・・・。
哲学なんかを研究していると言えば,「変わり者」というレッテルを貼られてしまう。
にかく,成果をあげなくちゃ,実績を積まなくちゃ,怠惰はいけない,グローバリズニに乗り遅れるな,小学校から英語教育を・・・,愛国心教育が重要などなど
・・。気がついたら墓場が近くなり・・・,自分が決めた人生を歩んできたのかと反省してももう遅い・・・。

「協力」する際の3種類の動機 -愛,恐怖心,強欲(不正利得に対する)

abe_susitomo01 人と協力するには三つの理由がある。一つは相手を愛するからであり,一つは相手を恐れるからであり,もう一つは不正な利得にあずかりたいと望むからである。これらの三つの動機は,人間の協力が必要なそれぞれの領域において,それぞれ異った重要性を持つ。第一の動機は’生殖’を支配し,第三の動機は’政治’を支配する。

(Now) there are three reasons for which you may co-operate with a man: because you love him, because you fear him, or because you hope to share the swag. These three motives are of differing importance in different regions of human co-operation: the first governs procreation, and the third governs politics.
出典:Mortals and Others; Bertrand Russell’s American Essays, v.1
詳細情報:https://russell-j.com/COWARD.HTM

<寸言>
自分を反省してみて,権力や権限をもっている人に対し,どのような態度で応対(「協力!」)することが多いでしょうか?
ラッセルがあげた3種類の「協力の動機」なかでは,第一番目の理由が望ましいわけですが,勤め人(経済人)であれば,そうでない場合も少なくありません。
abe_20160926-yorokobigumi 特に政治の世界では第三の理由で(不正な利得にあやかるために)「協力」する場合も少ないとはいえないですが,今日の日本では,第二の理由で(主流派で権力を持っている者を恐れるために)「協力」する場合がかなりあるように思われます。

2022年はラッセル生誕150年