第18章 「批評に対する若干の返答」その4_ 「心とは何か」09


 ライル教授は、オックスフォード学派(←その学派)とともに、生じる諸問題に対して言語的な形態を与えるという情熱的な決意を飾り立てている。(訳注:みすず書房版の野田又夫訳は次のようになっています。「ライル教授は、彼が花形役者となっている学派の共通の傾向として、問題が起るとそれに言語的形式を与えるという強い決心をもっている」。← なぜ「花形役者」なのか?野田氏は、
adorn’は’the school’にかかり、’passionate determination‘を’share with‘するととっているようです?)
参考:share A with B が通常の形ですが share with B A の形は可能でしょうか? 「Yahoo 知恵袋」より : Irregular ですが、Aが長い場合、可能です。これはShareにかぎらずですが、英語では誤解を避けるために、長い節は後ろに倒置することが度々あります。 例えば、 「あなたが昨晩完成したレポートを私に共有してくれませんか」は、 Can you share the report that you completed last night with me? ではなくて、 Can you share with me the report that you completed last night? とするほうがわかりやすくなりますし、実際にこのように表現されます。】
 たとえば、彼は、視覚対象の知覚について次のように言っている。  つまり、問いは、「どうやって我々は駒鳥を見るか」という機械論の (para-mechanical 力学に関する) 形式の 問いではなく、「どうやって我々は『島を見た』と機械論のような記述を用いるか」という問いである (p.225)。  これは、言語上の些細なこと(とるにたらないこと)を優先して(in favour of 支持して)、重要な科学的知識を無視している(involve dismissing 無視を伴っている)と私には思われる。 「いかにしてわれわれは駒鳥を見るか」という問いは、物理学と生理とが結合して、答を与えている問いであり、その答は興味もあり重要でもあり、かつ、いくらか奇妙な帰結をもっている。 視神経におけるある種のプロセスは -知覚者の身体の外部の何らかのものによって引き起こされたのではなくても- 「駒鳥を見る(見える)」こと(という現象)をどうやら引き起こすようである。私はかつて、生理学者が他人の脳を調べている時にその生理学者が見ているものは、その生理学者自身の脳の中にあるのであって、彼が調べている脳の中にあるのではないと言ったことで咎められてきている(訳注:人の脳の中の現象を観察しているように見えても、実際は他人の脳に起こっていることが自分の目から入り、自分の神経を通して、自分の脳に反映されたものを見ているのだといういうこと)。この私の陳述(statement)を十分に理由づけるためには、「見る(see)」という語と「中に(in)」という語についての長い議論が必要だろう。特に、「中に(中で)(in)」という語は普通考えられているよりはるかに複雑かつ曖昧な言葉である。 しかし、これらの問題は別の場所で論じているので、ここではそれに立ち入らないことにする。

Chapter 18, n.4: What is mind? n.9 Professor Ryle shares with the school that he adorns a passionate determination to give a linguistic form to the problems that arise. He says, for example, in regard to our perception of visual objects: The questions, that is, are not questions of the para-mechanical form ‘How do we see robins?’ but questions of the form, ‘How do we use such descriptions as “he saw a robin”?’ (page 225). This seems to me to involve dismissing important scientific knowledge in favour of verbal trivialities. The question, ‘How do we see robins?’ is one to which physics and physiology, combined, have given an answer which is interesting and important, and has somewhat curious consequences. It appears that certain processes in the optic nerve will cause you ‘to see a robin’ even if these processes have not been caused, as they usually are, by something outside the body of the percipient. I have been taken to task for saying that what a physiologist sees when he examines another man’s brain is in his own brain, and not in the other man’s. To justify this statement fully would require a long discussion of the word ‘see’ and the word ‘in’. This latter word, in particular, is much more complicated and ambiguous than is usually supposed. But I will not go into these questions here as I have dealt with them elsewhere.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
  More info.: https://russell-j.com/BR_MPD_18-420.HTM

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