現代は「酔いしれた時代」か? それとも・・・「冷めた時代」か?

 酔いしれた我々の時代(現代)に正気をもたらすことにおいて,歴史(書)は演ずべき重要な役割をもっていると,私は思います。これは,任意の想定上の「歴史の教訓」(注:みすず書房版の中村訳では “lessons of history” が「歴史課程」という訳になってしまっている!)によって,あるいは,実際に,安易に決まり文句に入れられた任意のものによって,もたらされると,私が言おうとしているのではありません。歴史家のためだけでなく,教育によって何らかの物の見方の広がりを与えられたすべての人たちのために,歴史(書)にとって可能であり,また歴史(書)がなすべきことは,現在の出来事や,それらの出来事の過去や未来に対する関係について,ある一定の平静な心(精神の平静さ)や、ある一定の考え方や感じ方,を生み出すことです。私は,トゥキディデス(紀元前460年頃 – 紀元前395年:古代アテナイの歴史家)は,自分の歴史(書)をアッテイカの悲劇を模範にして書いたというコーンフォードの学説を承認すべきかどうかわかりません。しかし,トゥキディデスがそうしたのであれば,彼が記録した出来事は,彼のその行為を十分正当化しているし,アテナイ人たちは,自分自身をありえそうな(実際起こりそうな)悲劇における役者の照明に照らしてみたならば,悲劇的な結果を避けるだけの知恵を彼らはもっていたことでしょう。悲劇は倣慢から生じるというのは古い(古代の)教義ですが,それは古いものであってもなお真理であり,倣慢は,傲慢が常に導いた災害を忘れた人々の間に,いつの時代にも再発します(繰り返し起こります)。どの時代にも繰返してそれがつねにそこへと導いてきた悲劇を忘れた人たちの間に起ります。我々の時代においては,人類は以前の時代に知られたあらゆるものを越えるほどの倣慢さに集団的にふけってきました。過去において,プロメテウスは,ゼウスの暴逆によって彼の慈愛に満ちた仕事を制止された,自称解放者と見なされましたが,現在我々は,プロメテウスの現代の追随者を制止するゼウスのいることを望み始めています。プロメテウスは,(天界から日を盗んで)人類に奉仕しようとしました。彼の現代の追随者たちは,人類の情熱に奉仕しています。(ただし)それはただそれらの追従者が気が狂っていて,破壊的である場合に限られています。現代の世界では,実験室により聡明な人間がおり,権力の座には愚か者がいます。より賢い人間は,アラビアンナイトのジン(妖霊)のように奴隷です。人類は,愚か者の指導の下に,また聡明な奴隷の巧妙なエ夫によって,集団で自らの(人類の)の根絶を準備する偉大な仕事に従事しています。このテーマ(人類根絶という主題)をそれにふさわしい扱い方のできる(現代の)トウキディデスがいることを願っています。権力の座にいる者が,もし歴史感覚を十分もっていたなれば,近づいていることが誰にもわかっており,誰も望んでいない大惨事を避ける方法を見つけるだろうと,私は考えざるをえません。なぜなら,歴史はあれこれの民族国家,あれこれの大陸の説明であるだけではありません。歴史の主題は,人類であり,人類は,他の(人間以外の)あらゆる他の生命形態を,また,人類に対する大きな危険において,生命のない自然の(様々な)力をさえ,支配する技術によって,地位を高めてきた,進化の奇妙な産物です。しかし,人類は,聴明であるにもかかわらず,人類を一つの家族と考えることを(今日まで)学びんできていません。
(注)プロメテウス:ギリシア神話に登場する男性神。ゼウスの反対を押し切り,(人類のためになると考えて)天界の火を盗んで(未熟な)人間に与えた。しかし、ゼウスの予言どおり,人間はその火を使って武器を作り戦争を始めた。この神話から,「プロメテウスの火」とは,原子力など,人間の力ではコントロールできないほど強大かつリスクの大きな科学技術の暗喩として用いられている。

I think that in bringing sanity to our intoxicated age, history has an important part to play. I do not mean that this is to be brought about by any supposed “lessons of history,” or indeed by anything easily put into a verbal formula. What history can and should do, not only for historians but for all whose education has given them any breadth of outlook, is to produce a certain temper of mind, a certain way of thinking and feeling about contemporary events and their relation to the past and the future. I do not know whether one should accept Cornford’s thesis that Thucydides modeled his history on Attic tragedy; but, if he did, the events that he recorded fully justified his doing so, and the Athenians, if they had seen themselves in the light of actors in a possible tragedy, might have had the wisdom to avert the tragic outcome. It is an ancient doctrine that tragedy comes of hubris, but it is none the less true for being ancient, and hubris recurs in every age among those who have forgotten the disasters to which it has always led. In our age, mankind collectively has given itself over to a degree of hubris surpassing everything known in former ages. In the past, Prometheus was regarded as a would-be liberator, restrained in his beneficent work by the tyranny of Zeus, but now we begin to wish that there were some Zeus to restrain the modern followers of Prometheus. Prometheus aimed to serve mankind: his modern followers serve the passions of mankind, but only in so far as they are mad and destructive. In the modern world there are clever men in laboratories and fools in power. The clever men are slaves, like Djinns in the Arabian Nights. Mankind collectively, under the guidance of the fools and by the ingenuity of the clever slaves, is engaged in the great task of preparing its own extermination. I wish there were a Thucydides to treat this theme as it deserves. I cannot but think that if the men in power were impregnated with a sense of history they would find a way of avoiding the catastrophe which all see approaching and which none desire, for history is not only an account this nation or that, nor even of this continent or that; its theme is Man, that strange product of evolution which has risen by means of skill to a mastery over all other forms of life, and even, at great peril to himself, to mastery over the forces of inanimate nature. But Man, in spite of his cleverness, has not learned to think of the human family as one.
出典:Bertrand Russell : History as an art (1954)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/1057_HasA-190.HTM

<寸言>
現代は「酔いしれた時代」か、それとも「理性が拡大した冷めたあるいは覚めた時代」か? いずれにせよ、マスコミの発達及び国際化の進展によって、「より酔いしれ易い時代」になっていることは確かなようである。