保守主義者と伝統的道徳の擁護 - 「由らしむべし知らしむべからず」

 伝統的道徳を擁護する人たちも,時には,伝統的道徳が完全なものでないことを認めるであろう。しかし,彼らは,道徳に対するいかなる批判も,道徳を全て壊してしまう,と強く主張する。このことは,道徳に対する批判が何らか積極的かつ建設的なものに基づいてなされているのなら当てはまらないであろうが,その批判が一時的な楽しみにすぎないものを目当てになされる時だけは当っている。
べンサムに戻ろう。彼は,社会道徳(注:morals 複数形)の基盤として,「最大多数の最大幸福」を唱えた。この原理に基づいて行動する人は,単に因襲的な教えに従っているだけの人よりも,ずっと骨の折れる生涯を送るであろう。彼は必然的に抑圧された人たちのために闘う者(擁護者)となるであろうし,そのために偉い人たち(大物/権力者)の敵意を招くであろう。彼は,権力者が隠したいと望む事実を公表するであろう。彼は,同情を必要としている人々からその同情を遠ざける(同情がいかないようにする)意図を持った虚偽を否定するであろう(注:たとえば,困窮した人々に援助の手は必要ない,あるいはそんなことはその人たちのためにならない,といった嘘を虚偽だと否定する)。そのような生活様式は,本ものの道徳を破壊することにはならない(はずである)。官製(お上)の道徳は(これまで)いつも抑圧的,否定的なものであった。それは「汝・・・べからず」と言ってきたし,規則の禁じていない活動の結果を調べる労をとったことがない。この種の道徳に対して,神秘思想家や宗教関係の教師(導師)は皆抗議してきたけれども無駄であった(効果はなかった)。(即ち,)彼らに従う者たちは,彼らの最もはっきりした意見さえも無視した(のである)。それゆえ,彼らのやり方では,いかなる大規模な改善も生じそうにないように思われる。

Those who defend traditional morality will sometimes admit that it is not perfect, but contend that any criticism will make all morality crumble. This will not be the case if the criticism is based upon something positive and constructive, but only if it is conducted with a view to nothing more than momentary pleasure. To return to Bentham: he advocated, as the basis of morals, ‘the greatest happiness of the greatest number’. A man who acts upon this principle will have a much more arduous life than a man who merely obeys conventional precepts. He will necessarily make himself the champion of the oppressed, and so incur the enmity of the great. He will proclaim facts which the powers that be wish to conceal; he will deny falsehoods designed to alienate sympathy from those who need it. Such a mode of life does not lead to a collapse of genuine morality. Official morality has always been oppressive and negative: it has said ‘thou shalt not’, and has not troubled to investigate the effect of activities not forbidden by the code. Against this kind of morality all the great mystics and religious teachers have protested in vain: their followers ignored their most explicit pronouncements. It seems unlikely, therefore, that any large-scale improvements will come through their methods.
出典: The Harm That Good Men Do,1926.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0393_HGMD-140.HTM

<寸言>
「由らしむべし知らしむべからず」(一般大衆は愚かなので,説明しても理解しない。従って,社会秩序を保つためには,「余分なこと」は知らせない方がよい。)の精神で政治を行う保守政治家たち。つまり,自分たちは一般庶民とは違うと思っている。彼らは,選挙で落選すれば「タダの人」になってしまうが、国会に議席をもっていなくても,保守党に所属していれば(与党「関係者」であれば)一般国民の「上にたてる」と思っている人たちである。

不正によって利益を得る人々が賞罰を与える地位にある(という社会/国家)

 我々の今日の倫理迷信と合理主義との奇妙に混じり合ったものである。殺人古代からの犯罪(注:←古代に発生した犯罪←古代の犯罪)であり,我々はそれを長年に渡ってたちこめる恐怖の霧を通して眺めている。偽造近代の犯罪であり,そうして,我々はそれを合理的(合理主義的)に眺める。我々は偽造者を罰するけれども,殺人者のように,別扱いの奇異な存在とは感じない。しかも(そうして)我々は,いまだに,社会的慣行において,たとえ理論上ではどう考えようとも,徳(美徳)とは行うことよりもむしろ行わないことにあると思っている。「罪」というレッテルを貼られた一定の行為を控えることは,他人の幸福(welfare)を増進するために何一つしなくても,善人になる。もちろん,このことは福音書において説き教え込まれている態度ではない。「汝の隣人を汝自身のごとく愛せよ」の言葉は,一つの積極的な教訓である。
 しかし,全てのキリスト教社会で,この教訓に従う者は迫害されるか,少なくとも貧乏を,通例は投獄を,時には死を招く。世界は不正に満ちており,不正によって利益を得る人々は賞罰を与える立場(地位)にある。ご褒美(報賞や褒賞など)は不平等に対する巧妙な正当化(の方法や理屈付け)を発明した(創案した)者のところに行き(与えられ),罰はこれを矯正しよう(正そうと)とする者のところに行く(与えられる)。隣人に対する純粋な愛情を持つ人間が汚名を長期間避けられる国がどこかにあるという話を,私は知らない(聞いたことがない)。
戦争勃発直前,フランスの最良の市民であったジャン・ジョレス(Jean Jaures, 1859-1914:第一次世界大戦に反対したために,狂信的な国家主義者に暗殺された。)がパリで殺害された。ジョレスを殺害した者は,公共の奉仕(注:a public service :国家のための行為-お国のためにやったこと→「愛国無罪」/この場合の service は可算名詞)を遂行したという理由で,無罪放免となった。この事件は,とりわけ劇的なものであったが,しかし,同種のことはいたるところに起っている。

Our current ethic is a curious mixture of superstition and rationalism. Murder is an ancient crime, and we view it through a mist of age-long horror. Forgery is a modern crime, and we view it rationally. We punish forgers, but we do not feel them strange beings set apart, as we do murderers. And we still think in social practice, whatever we may hold in theory, that virtue consists in not doing rather than in doing. The man who abstains from certain acts labelled ‘sin’ is a good man, even though he never does anything to further the welfare of others. This, of course, is not the attitude inculcated in the Gospels: ‘Love thy neighbour as thyself’ is a positive precept. But in all Christian communities the man who obeys this precept is persecuted, suffering at least poverty, usually imprisonment, and sometimes death. The world is full of injustice, and those who profit by injustice are in a position to administer rewards and punishments. The rewards go to those who invent ingenious justifications for inequality, the punishments to those who try to remedy it. I do not know of any country where a man who has a genuine love for his neighbour can long avoid obloquy. In Paris, just before the outbreak of the war, Jean Jaures, the best citizen of France, was murdered; the murderer was acquitted, on the ground that he had performed a public service. This case was peculiarly dramatic, but the same sort of thing happens everywhere.
出典: The Harm That Good Men Do,1926.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0393_HGMD-130.HTM

<寸言>
国や地方自治体の各種審議会が(実質的に)時の権力者から選ばれた御用学者や御用「識者」中心に構成されていたとしたら,(手続きだけは民主的に見えても)民主主義は形骸化し・・・。

「立派な」人たちが徳(美徳)のためにとかくふけりがちな無謀な嘘

 百年前(注:今から見ると二百年前),ジュレミー・べンサム (Jeremy Bentham, 1748-1832。「快楽や幸福をもたらす行為が善であり・・・最大多数の最大幸福をもたらすものが善である」とする功利主義者として有名)という名の哲学者がいましたが,この人は一般に邪悪な人間であると見られていました(注:「昔々,あるところに・・・が住んでいました」といったニュアンスか?)。 私は,子供の時に,この人物の名前に初めて出くわした時のことを,今日でも,記憶している。それは,祖母(おばあさん)が亡くなったら,祖母(おばあさん)をスープにすべきだ(スープにして食べるべきだ)とべンサムは言っているというような趣旨の,シドニー・スミス師(尊師)の陳述(言葉)の中にあったものである。この行為は,道徳的観点からと同様に調理上の観点からも望ましくないものだと思われたので,従って,私は,べンサムをよく思わなかった。ずっと後に至って,この陳述(言葉)は, 立派な人たちが徳(美徳)のためにとかくふけりがちな無謀な嘘の一つだということがわかった。

また,私は,彼(ベンサム)に対して実際に厳しく非難すべき点は何であるかということも発見した。それは次のようなことにほかならなかった。即ち,彼が,善人とは善をなす人間だと定義したことである。この定義は,読者が健全な考えの持ち主であればただちに気づくであろうが,すべての真の道徳を破壊するものである。もっとずっと賞揚すべきはカントの態度であり,彼は,親切な行為も恩恵を受ける者(受益者)に対する愛情からなされたものであれば美徳とは言えないが,もしそれが道徳法則によって霊感を受けたもの(鼓舞されたもの)であるならばその時にのみ徳(美徳)である,と主張する。その場合は,もちろん,不親切な行為を起させる見込みもある。我々は,徳(美徳)を行うことは,それ自体がその報酬になるべきであるということを,理解している。また,そこからの当然の帰結として,この徳(美徳)を受ける者がこの徳(美徳)に堪えることこそ,この徳(美徳)自体の罰になるべきだということになる。従って,カントは,ベンサムよりもいっそう崇高なモラリストであり,徳(美徳)を徳そのもののために愛すると語る全ての人たちの賛成を得ている。

A hundred years ago there lived a philosopher named Jeremy Bentham, who was universally recognised to be a very wicked man. I remember to this day the first time that I came across his name when I was a boy. It was in a statement by the Rev. Sydney Smith to the effect that Bentham thought people ought to make soup of their dead grandmothers. This practice appeared to me as undesirable from a culinary as from a moral point of view, and I therefore conceived a bad opinion of Bentham. Long afterwards, I discovered that the statement was one of those reckless lies in which respectable people are wont to indulge in the interests of virtue. I also discovered what was the really serious charge against him. It was no less than this: that he defined a ‘good’ man as a man who does good. This definition, as the reader will perceive at once if he is right-minded, is subversive of all true morality. How much more exalted is the attitude of Kant, who lays it down that a kind action is not virtuous if it springs from affection for the beneficiary, but only if it is inspired by the moral law, which is, of course, just as likely to inspire unkind actions. We know that the exercise of virtue should be its own reward, and it seems to follow that the enduring of it on the part of the patient should be its own punishment. Kant, therefore, is a more sublime moralist than Bentham, and has the suffrages of all those who tell us that they love virtue for its own sake.
出典: The Harm That Good Men Do,1926.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0393_HGMD-010.HTM

<寸言>
東西古今,「立派な」人々がつき続けてきた嘘は枚挙に暇がない。彼らは,高貴な徳を実現するためには人々(国民)を騙し続けてもかまわない(必要悪)と思っている「善人とは善をなす人間」における「善」は,’世の中で’「善」とされていることであり、運良く「善」であることもあるが、そうでない場合も少なくない

コンラッドとの最後の接触

 私は,その年(1921年)の大部分をコーンウォールで過ごしたので,彼(Joseph Conrad,1857-1924)にあまりあわなかった。そうして,彼の健康は悪化しつつあった。しかし,彼からの何通かの魅力的な手紙を受け取った。特に私が出した中国に関する本(注:The Problem of China, 1921)についての彼からの手紙は魅力的なものであった。彼は,手紙のなかで次のように書いている。

「私は,常に中国人を愛してきました,チャンタブリ(注:Chantabun チャンタブン = Chantaburi チャンタブリ)のある人の家で私(や何人かの他の人)を殺そうとした中国人でさえ,また,(それほど大金ではなかったですが)ある夜バンコックで私の金を全部盗んだが,シャム(注:当時のタイ)の奥深くへと消え去る前に,私が朝着るための服に丁寧にブラシをかけて畳んでおいた中国人でさえ,私は愛しました。また,私は,多くの中国人から直接親切を受けました。このことと,あるホテルのベランダで 陳氏の秘書(注:His Excellency Tseng と “His” がついているのでよくわからないが,当時の中国人の有名な共産主義者らしい)と一晩談話したことと,「異教徒の中国」という詩を一ついいかげんに勉強したことが,私の知っている中国の全てです。しかし,あなたの極めて興味深い「中国の問題」に関する見解を読んだ後では,私の中国の将来に対する見方は暗くなります。

彼はさらに続けて,私の中国の将来に対する見方は,「心に悪寒を感じさせる(ぞっとさせる)」ものであり,私が国際的社会主義に希望を託しているだけにますますそうだと言った。彼は次のようにコメントした。「(それは)私がいかなる種類の明確な意味を与えることができないものです。私は,いかなる人の本にも,いかなる人の話にも,人間が住んでいるこの世界を支配する根深い宿命感を,一瞬たりとも否定することができると十分確信させてくれるものをまったく見い出すことができません(これまで発見できていません)。」 彼はさらに続けて,人間は飛ぼうとしてきたが,「人間は鷲のように(ゆったりと堂々と)飛ばないで,甲虫のように(ばたばたとうるさく)飛んでいます。あなたは,甲虫の飛び方が,いかに醜く,馬鹿げていて,間が抜けているか気づいているに違いありません。」 このコンラッドの悲観主義的な言葉のなかで,彼は,私が中国の幸福な状態へのやや不自然な希望で示したものよりも,より深い知恵を示していると感じた。これまでに起こった出来事は,彼の方が正しかったことを証明している,と言わなければならない。(注:このエッセイは1953年に発表されているが,1949年には中国に共産主義国家が成立している。ラッセルは社会主義者ではあるが,共産主義には強く反対した。)
この手紙が私と彼との最後の接触(コンタクト)であった。私は,(それ以後)彼と話すために,再び会うことはなかった。一度,彼が,通りの向う側で,以前私の祖母の家だったが彼女が死んだ後に美術クラブ(The Arts Club)となっていた建物のドアの外に立って,私が知らない人と熱心に話しているのを見かけた。真面目な会話をしているように見えたので,私は会話の邪魔をしたくなかった。そこで私は立ち去った。それからしばらくして彼が死んだので,もっと勇気があればよかったと残念に思った。今は,その家は,ヒットラー(ドイツのロケット弾)によって破壊されてしまい,消え去ってしまった。コンラッドは,忘れられかけているように思われる。しかし,彼の強烈で情熱的な高貴さは,私の記憶の中で,井戸の底から眺める星のように輝いている。私は,彼が私の上でかつて輝いたように,他の人々の上でも輝かせたいと思う。

I did not see much of him, as I lived most of the year in Cornwall, and his health was failing. But I had some charming letters from him, especially one about my book on China. He wrote:

“I have always liked the Chinese, even those that tried to kill me (and some other people) in the yard of a private house in Chantabun, even (but not so much) the fellow who stole all my money one night in Bangkok, but brushed and folded my clothes neatly for me to dress in the morning, before vanishing into the depths of Siam. I also received many kindnesses at the hands of various Chinese. This with the addition of an evening’s conversation with the secretary of His Excellency Tseng on the verandah of a hotel and a perfunctory study of a poem, ‘The Heathen Chinee’ is all I know about Chinese. But after reading your extremely interesting view of the Chinese Problem I take a gloomy view of the future of their country.”

He went on to say that my views of the future of China “strike a chill into one’s soul,” the more so, he said, as I pinned my hopes on international socialism.–“The sort of thing,” he commented, “to which I cannot attach any sort of definite meaning. I have never been able to find in any man’s book or any man’s talk anything convincing enough to stand up for a moment against my deep-seated sense of fatality governing this man-inhabited world.” He went on to say that although man has taken to flying, “He doesn’t fly like an eagle, he flies like a beetle. And you must have noticed how ugly, ridiculous and fatuous is the flight of a beetle.” In these pessimistic remarks, I felt that he was showing a deeper wisdom than I had shown in my somewhat artificial hopes for a happy issue in China. It must be said that so far events have proved him right.
This letter was my last contact with him. I never again saw him to speak to. Once I saw him across the street, in earnest conversation with a man I did not know, standing outside the door of what had been my grandmother’s house, but after her death had become the Arts Club. I did not like to interrupt what seemed a serious conversation, and I went away. When he died, shortly afterward, I was sorry I had not been bolder. The house is gone, demolished by Hitler. Conrad, I suppose, is in process of being forgotten. But his intense and passionate nobility shines in my memory like a star seen from the bottom of a well. I wish I could make his light shine for others as it shone for me.
出典: Joseph Conrad, 1953.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1040_CONRAD-060.HTM

<寸言>
寛容であった時代の中国へのノスタルジーも少し。ラッセルは社会主義者ではあるが、共産主義には反対した。自由を尊ぶラッセルとしては、非人間的な共産主義や全体主義は受け入れることができないものであった。

J.コンラッドに自分の息子の名付け親になってもらう

 私は,第一次世界大戦中,またその後も1921年に中国から帰国するまで,コンラッドにまったく会わなかった。私の最初の息子がその年(注:1921年=ラッセル49歳)に生れると,私は,コンラッドに,正式の儀式なしに,できるだけ息子の名付親に近いものになってほしいと期待した。私は手紙を書いてそのなかで次のように述べた。「あなたの許しを得て,私の息子をジョン・コンラッド(ジョン・コンラッド・ラッセル)と名付けたいと思います。私の父も祖父も曾祖父もジョンと名付けられました。それに,コンラッドは良い名前です。」 彼はこの立場を引受け,私の息子にそのような機会に通常贈られるコップを型どおりに贈ってくれた。

I saw nothing of Conrad during the war or after it until my return from China in 1921. When my first son was born in that year I wished Conrad to be as nearly his godfather as was possible without a formal ceremony. I wrote to Conrad saying: “I wish, with your permission, to call my son John Conrad. My father was called John, my grandfather was called John, and my great-grandfather was called John; and Conrad is a name in which I see merits.” He accepted the position and duly presented my son with the cup which is usual on such occasions.
出典: Joseph Conrad, 1953.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1040_CONRAD-050.HTM

<寸言>
ラッセルの次男の名前もコンラッド・ラッセル(ジョンはついていない)と名付けられた。ただし、その時にはジョウゼフ・コンラッドはなくなっていた。

孤独及び見慣れないものへの恐怖心-コンラッドとラッセルの場合

 コンラッドの想像力の大部分を専有していると思われる二つのものは,孤独及び見慣れないものへの恐怖心である。『文化果つるところ』は『闇の奥』と同様に,見慣れない事物への恐怖心に係るもの(物語)である。両方(孤独と見慣れないものへの恐怖心)とも『(小説)エイミー・フォスター』という感動的な短編小説(物語)のなかに,一体となって出てきている。この短編小説(物語)のなかで,ある南スラブの小作人がアメリカに渡る中,船の遭難にあい,ただ一人生き残り,(英国の)ケント州のある村に放り出される。エイミー・フォスターを除く村中の人々が彼を恐れ,足蹴に取り扱う。彼女は,鈍感で飾りのない少女であり,彼が飢えている時にパンを持ってきて与え,ついには彼と結婚する。しかし,夫が熱病にうかされて母国語を口走った(母国語にもどった)時,彼女もまた彼に対する恐怖心(注:見慣れないものに対する恐怖心)にとらわれ,子供を奪いとって(ひっつかんで)彼のもとを去り,彼を棄てる。彼は,一人になり希望を失って,亡くなる。私は,作者であるコンラッドが,この男の寂蓼をどれほど英国人の中で感じ,強い意志のカ(努力)で抑圧したのだろうかと,時々,思案した

コンラッドの物の見方は,現代的な物の見方からはずっと離れたものであった。近代世界には二つの哲学がある。一つはルソーから出ているものであり,規律を不要なものとして払いのける(一蹴する)。もう一つはその完璧な表現を全体主義の中に見いだすことができ,規律を本質的には(本質上)外部から課せられる(課せられるべき)ものとして見なす。コンラッドは,規律は内部から生ずるべきであるという従来の伝統に固執する。彼は規律の無さを軽蔑し,また,単なる外的な(外部からの)規律を嫌った。

これら全ての点で,私は彼と非常に意見が一致していることがわかった。我々は,まさに最初の出会いにおいて,絶えず親しみが増し続ける状態で話し合った。皮相な面を一つひとつ通り抜けて深く沈んで行き,ついには二人とも心の奥底(central fire 心の中心の火炎)に到達したように思われた。それは,私がそれまでに経験したいかなるものとも異なった経験であった。我々はお互い目を見つめ合い,二人ともそのような領域にいるのを発見して,半ばぎょっとし,半ば陶酔した。それは情熱的な恋愛と同じように強烈であり,同時に,あらゆるものを包含するような感情であった。私は困惑しながら(彼のもとを)立ち去り,平常の仕事にほとんど手がつかなかった。

The two things that seem most to occupy Conrad’s imagination are loneliness and fear of what is strange. An Outcast of the Islands like The Heart of Darkness is concerned with fear of what is strange. Both come together in the extraordinarily moving story called Amy Foster. In this story a South Slav peasant, on his way to America, is the sole survivor of the wreck of his ship, and is cast away in a Kentish village. All the village fears and ill treats him, except Amy Foster, a dull, plain girl who brings him bread when he is starving and finally marries him. But she, too, when, in fever, her husband reverts to his native language, is seized with a fear of his strangeness, snatches up their child and abandons him. He dies alone and hopeless. I have wondered at times how much of this man’s loneliness Conrad had felt among the English and had suppressed by a stern effort of will.

Conrad’s point of view was far from modern. In the modern world there are two philosophies: the one, which stems from Rousseau, and sweeps aside discipline as unnecessary; the other, which finds its fullest. expression in totalitarianism, which thinks of discipline as essentially imposed from without. Conrad adhered to the older tradition, that discipline should come from within. He despised indiscipline, and hated discipline that was merely external.
In all this I found myself closely in agreement with him. At our very first meeting, we talked with continually increasing intimacy. We seemed to sink through layer after layer of what was superficial, till gradually both reached the central fire. It was an experience unlike any other that I have known. We looked into each other’s eyes, half appalled and half intoxicated to find ourselves together in such a region. The emotion was as intense as passionate love, and at the same time all-embracing. I came away bewildered, and hardly able to find my way among ordinary affairs.
出典: Joseph Conrad, 1953.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1040_CONRAD-040.HTM

<寸言>
ラッセルも大正時代に来日した時にコンラッドと同様な「見慣れないものへの恐怖心」を経験している。「ラッセル自伝」から以下、引用しておこう。
「私たちは,猛暑のなか京都から横浜まで(東海道線で) 10時間の旅 をした。暗くなってまもなくの頃,横浜に到着した。そうして,私たちはカメラマンたちが連続的にたくマグネシウムの爆発音で迎えられた。マグネシウムが一回爆発するごとにドーラはとび上がったので,流産するのではないかという心配が増した。私は’怒り’で我を失った。私がそんなふうになったのは,かつてフィッツジェラルドの首を絞めて殺しそうになった時以来,この時だけであった。私は,フラッシュライト(閃光灯)をもっている男性カメラマンたちを追いかけたが,’びっこ’をひいていたためにつかまえることができなかった。私は間違いなく殺人をおかしたであろうから,そのことは幸いであった。一人の冒険心のあるカメラマンが,怒りで眼が爛々としている私の写真を撮ることに成功した。私がそのように完璧に狂気じみて見えるようになるなどとは,この写真がなければついぞ知らなかったことである。この写真で私は東京に紹介された。
あの時の私の感情は,インド暴動(注:Mutiny 1857年のインドのベンガル地方のインド人傭兵が英国支配に対して起こした反乱)に際して,インド在住の英国人(Anglo-Indian)がもったにちがいない感情 -すなわち 有色人種の叛徒にとり囲まれた時の白人の感情- と同じ種類のものであった。・・・」

コンラッドにおける英国への愛とロシアへの憎悪

 彼(ジョウゼフ・コンラッド)は,ある種の強い政治的感覚を持っていたけれども,政治体制(国家体制など)にはあまり興味を持っていなかった。政治的感覚の中で最も強かったものは,英国への愛とロシアへの憎悪であり,その両方とも,『(小説)秘密諜報員(The Secret Agent)』の中に表現されている。ロシアへの憎悪は,ロシア皇帝支持者)及び革命派のどちらに対してもあったが,『(小説)西欧(人)の視野のもとで(Under Western Eyes)』に力強く表われている。彼のロシア嫌いはポーランドに伝統的なものであった。それは非常に徹底していて,トルストイやドストエフスキーも認めないほどであった。ツルゲネーフは,彼の賛美する唯一のロシア人作家だ,とかつて私に語っていた。

英国への愛とロシアへの憎悪を除けば,彼は政治にはあまり関心を持たなかった。彼の関心を引いたものは,自然の冷淡さ(=人間に対する無関心)やしばしば人間の敵意に直面した,また,破滅へと導く善悪両様の情熱と心のなかで闘っている,個々の人間の魂であった。孤独の悲劇は彼の思想や感情の大部分を専有した。彼の(作風として)もっとも典型的な短編小説(物語)の一つは『台風(Typhoon)』である。この物語において,単純な精神の持ち主の船長は,揺がない勇気と断乎たる決意を持って船を操縦し,困難を切り抜ける。嵐が過ぎ去ると彼は妻に長い手紙を書いてこのことを知らせる。その手紙のなかの,自分に関する部分の説明は,彼にとって,まったく単純である(そっけない記述ですませる)。彼はただ,だれもが当然期待するような,船長としての義務を遂行したにすぎないのである。しかし,読者は,彼の話を通じて,彼が勇気をもって行い耐えたあらゆることに気づく。この手紙は送られる前に船員によってこっそり読まれるが,彼の妻は手紙の内容が退屈なので(ろくに)読まずに棄ててしまい,(結局)他の誰にも読まれないことになる

He was not much interested in political systems, though he had some strong political feelings. The strongest of these were love of England and hatred of Russia, of which both are expressed in The Secret Agent: and the hatred of Russia, both Czarist and revolutionary, is set forth with great power in Under Western Eyes. His dislike of Russia was that which was traditional in Poland. It went so far that he would not allow merit to either Tolstoy or Dostoievsky. Turgeniev, he told me once, was the only Russian novelist he admired.
Except for love of England and hatred of Russia, politics did not much concern him. What interested him was the individual human soul faced with the indifference of nature, and often with the hostility of man, and subject to inner struggles with passions both good and bad that led toward destruction. Tragedies of loneliness occupied a great part of his thought and feeling. One of his most typical stories is Typhoon. In this story the captain, who is a simple soul, pulls his ship through by unshakable courage and grim determination. When the storm is over, he writes a long letter to his wife telling about it. In his account his own part is, to him, perfectly simple. He has merely performed his captain’s duty as, of course, anyone would expect. But the reader, through his narrative, becomes aware of all that he has done and dared and endured. The letter, before he sends it off, is read surreptitiously by his steward, but is never read by anyone else at all because his wife finds it boring and throws it away unread.
出典: Joseph Conrad, 1953.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1040_CONRAD-030.HTM

<寸言>
ポーランドは繰り返しロシアに侵略されており,コンラッドの憎悪は理解できる。

しばらく更新を中止?

ご操作により、Google Drive上のいくつかの重要ファイルを完全に削除してしまったようです。そのため、しばらくの間、このページの更新を中止するかも知れません。
→ Google Suppoet Team にメールで救済を頼み、完全に削除してしまったファイルを復旧してもらいました!!

ジョウゼフ・コンラッド『闇の奥』

 彼の書いたものの中で私が最も賞賛したのは,『闇の奥』と名付けられた恐ろしい物語(小説)であった。その物語(小説)のなかで,かなり気弱い理想主義者は,熱帯地方の森(ジャングル)の恐怖(注:いつ獣が襲いかかってくるかも知れないという恐怖)と未開人に囲まれた孤独(注:言葉か通じないことによる孤立)のために気が狂ってしまう。この話は,彼の人生哲学を最も完璧に表現している,と私は考える。彼がそのようなイメージ(想像)を受け入れたかどうかわからないが,彼は,文明化された,また,道徳的に何とか我慢できる,人生を,いつ破れて灼熱の深い底(fiery depths いわば,火口)へと油断によって落ちていくかもしれない,ようやく冷えた熔岩の薄皮の上を歩くように危険なものだ,と思っているのではないか,と私は感じた。彼は人間が陥りやすい様々な狂気をはっきりと意識していた。これこそ,彼に規律(注:discipline ここでは外部からの規律ではなく,むしろ,自己規律)の重要性への深い信念を与えたものであった。彼の物の見方は,ルソーの考え方(注:人間は生まれながらにして自由)のアンチテーゼ(正反対)であると言ってよいだろう。即ち,「人間は鎖にしばられた状態で生れるが自由になることができる」。人間は彼の衝動を(ただ)放任することによってではなく,(また)因果律に従いかつ制御なしによってではなく,気ままな衝動を(自分が)最も大事だと思う目的に従わせることによって人間は自由になるのだとコンラッドは言ったのだろう,と私は信ずる

Of all that he had written I admired most the terrible story called The Heart of Darkness, in which a rather weak idealist is driven mad by horror of the tropical forest and loneliness among savages. This story expresses, I think, most completely his philosophy of life. I felt, though I do not know whether he would have accepted such an image, that he thought of civilized and morally tolerable human life as a dangerous walk on a thin crust of barely cooled lava which at any moment might break and let the unwary sink into fiery depths. He was very conscious of the various forms of passionate madness to which men are prone, and it was this that gave him such a profound belief in the importance of discipline. His point of view, one might perhaps say, was the antithesis of Rousseau’s: “Man is born in chains, but he can become free.” He becomes free, so I believe Conrad would have said, not by letting loose his impulses, not by being casual and uncontrolled, but by subduing wayward impulse to a dominant purpose.
出典: Joseph Conrad, 1953.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1040_CONRAD-020.HTM

<寸言>
コンラッドの名著(小説なので,名作)に『闇の奥』がある。コンラッドの小説の中でラッセルが最も気に入っているものであるが、これは有名な映画「地獄の黙示録」の原作である。舞台こそ、アフリカではなくベトナム(戦争)に移しているが、モチーフは同じである。

ジョウゼフ・コンラッドとの出会い

 私は,1913年9月,我々の共通の友達であるオットリン・モレル夫人(1873-1938:ラッセルの愛人として有名)によって,ジョウゼフ・コンラッド(Joseph Conrad, 1857-1924, 英国の小説家。南ポーランドの出身で,船員生活をへて英国に帰化。海洋小説で有名。)と知り合った。私は,長い間彼の著書の熱烈な愛読者であったが,紹介がなければ,進んで知り合いになろうと試みることはなかったであろう。私はケント州のアッシュフォードの近くにある彼の家へ,幾分不安げな期待をもって,訪ねていった。(彼と会っての)第一印象は驚くべきものであった。彼は英語をとても強い外国のアクセントで話し,その物腰には海を暗示させるようなものはまったくなかった。彼はどこからどこまで・貴族的なポーランド紳士であった。彼の海に対する,また英国に対する感情は,ロマンチックな愛情-ー(即ち)ロマンを汚さないままにするのに十分な,ある一定の距離を保った愛情であった。彼の海への愛は早くから始まり,両親に船員として暮らしたいと言った時,両親は彼にオーストリア海軍へ入ることを勧めたが,彼は冒険や熱帯の海や鬱蒼とした森(ジャングル)に囲まれた不思議な河を望んだ。そうして,オーストリア海軍はそういった望みをかなえるものをまったく提供しなかった。家族は彼が英国商人の商船隊に入ろうとしているのを知ってぞっとしたが,彼の決意は揺るがなかった。彼は,誰でも彼の著書から読みとれるように厳格なモラリストであり,政治的には革命(注:1917年のロシア革命前夜であることに注意)に共感を抱いていなかった。彼と私は多くの意見において決して一致することはなかったが,ごく根本的なところで(注:人間観や価値観において)驚くほど一致していた
ジョウゼフ・コンラッドとの関係は,私のそれまで持ったいかなる関係とも異なっていた。彼とはめったに合わず,長い年月にわたって会わなかった。仕事(注:outwork 勤務による仕事ではなく,職場外=主として自宅での仕事のこと)では,お互いほとんど関係なかったが,人生や人間の運命に関しては,ある一定の見方を共有し,ごく始めの頃から強い絆ができた。我々が知りあってからすぐに彼が書いてよこした手紙から一文を引用することを,恐らく,彼は許してくれるであろう。(しかし)自慢話になってはいけないので(modesty forbids),私が彼について感じたことをとても精確にその一文は表現しているという事実(を示す)以外,引用してはならないと,私は感じる。彼が表現し,私も同様に感じたことを彼の言葉で示せば,次のとおりである。

「あなたが私ともう二度と会わず,私の存在を明日忘れようとも,変わることなく死ぬまで[usque ad finem = (ラテン語で)最後まで/死ぬまで],私(の心)はあなたとともにあることでしょう」。

I made the acquaintance of Joseph Conrad in September 1913, through our common friend Lady Ottoline Morrell. I had been for many years an admirer of his books, but should not have ventured to seek acquaintance without an introduction, I traveled down to his house near Ashford in Kent in a state of somewhat anxious expectation. My first impression was one of surprise. He spoke English with a very strong foreign accent, and nothing in his demeanor in any way suggested the sea. He was an aristocratic Polish gentleman to his finger tips. His feeling for the sea, and for England, was one of romantic love — love from a certain distance, sufficient to leave the romance untarnished. His love for the sea began at a very early age. When he told his parents that he wished for a career as a sailor, they urged him to go into the Austrian navy, but he wanted adventure and tropical seas and strange rivers surrounded by dark forests; and the Austrian navy offered him no scope for these desires. His family were horrified at his seeking a career in the English merchant marine, but his determination was inflexible. He was, as anyone may see from his books, a very rigid moralist and politically far from sympathetic with revolutionaries. He and I were in most of our opinions by no means in agreement, but in something very fundamental we were extraordinarily at one.
My relation to Joseph Conrad was unlike any other that I have ever had. I saw him seldom, and not over a long period of years. In the outworks of our lives, we were almost strangers, but we shared a certain outlook on human life and human destiny, which, from the very first, made a bond of extreme strength. I may perhaps be pardoned for quoting a sentence from a letter that he wrote to me very soon after we had become acquainted. I should feel that modesty forbids the quotation except for the fact that it expresses so exactly what I felt about him. What he expressed and I equally felt was, in his words, “A deep admiring affection which, if you were never to see me again and forgot my existence tomorrow, would be unalterably yours usque ad finem”
出典: Joseph Conrad, 1953.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1040_CONRAD-010.HTM

<寸言>
コンラッドの名著(小説なので,名作)に『闇の奥』がある。ラッセルが最も気に入っている小説であるが、これは有名な映画「地獄の黙示録」の原作である。舞台こそ、アフリカではなくベトナム(戦争)に移しているが、モチーフは同じである。