「立派な」人たちが徳(美徳)のためにとかくふけりがちな無謀な嘘

 百年前(注:今から見ると二百年前),ジュレミー・べンサム (Jeremy Bentham, 1748-1832。「快楽や幸福をもたらす行為が善であり・・・最大多数の最大幸福をもたらすものが善である」とする功利主義者として有名)という名の哲学者がいましたが,この人は一般に邪悪な人間であると見られていました(注:「昔々,あるところに・・・が住んでいました」といったニュアンスか?)。 私は,子供の時に,この人物の名前に初めて出くわした時のことを,今日でも,記憶している。それは,祖母(おばあさん)が亡くなったら,祖母(おばあさん)をスープにすべきだ(スープにして食べるべきだ)とべンサムは言っているというような趣旨の,シドニー・スミス師(尊師)の陳述(言葉)の中にあったものである。この行為は,道徳的観点からと同様に調理上の観点からも望ましくないものだと思われたので,従って,私は,べンサムをよく思わなかった。ずっと後に至って,この陳述(言葉)は, 立派な人たちが徳(美徳)のためにとかくふけりがちな無謀な嘘の一つだということがわかった。

また,私は,彼(ベンサム)に対して実際に厳しく非難すべき点は何であるかということも発見した。それは次のようなことにほかならなかった。即ち,彼が,善人とは善をなす人間だと定義したことである。この定義は,読者が健全な考えの持ち主であればただちに気づくであろうが,すべての真の道徳を破壊するものである。もっとずっと賞揚すべきはカントの態度であり,彼は,親切な行為も恩恵を受ける者(受益者)に対する愛情からなされたものであれば美徳とは言えないが,もしそれが道徳法則によって霊感を受けたもの(鼓舞されたもの)であるならばその時にのみ徳(美徳)である,と主張する。その場合は,もちろん,不親切な行為を起させる見込みもある。我々は,徳(美徳)を行うことは,それ自体がその報酬になるべきであるということを,理解している。また,そこからの当然の帰結として,この徳(美徳)を受ける者がこの徳(美徳)に堪えることこそ,この徳(美徳)自体の罰になるべきだということになる。従って,カントは,ベンサムよりもいっそう崇高なモラリストであり,徳(美徳)を徳そのもののために愛すると語る全ての人たちの賛成を得ている。

A hundred years ago there lived a philosopher named Jeremy Bentham, who was universally recognised to be a very wicked man. I remember to this day the first time that I came across his name when I was a boy. It was in a statement by the Rev. Sydney Smith to the effect that Bentham thought people ought to make soup of their dead grandmothers. This practice appeared to me as undesirable from a culinary as from a moral point of view, and I therefore conceived a bad opinion of Bentham. Long afterwards, I discovered that the statement was one of those reckless lies in which respectable people are wont to indulge in the interests of virtue. I also discovered what was the really serious charge against him. It was no less than this: that he defined a ‘good’ man as a man who does good. This definition, as the reader will perceive at once if he is right-minded, is subversive of all true morality. How much more exalted is the attitude of Kant, who lays it down that a kind action is not virtuous if it springs from affection for the beneficiary, but only if it is inspired by the moral law, which is, of course, just as likely to inspire unkind actions. We know that the exercise of virtue should be its own reward, and it seems to follow that the enduring of it on the part of the patient should be its own punishment. Kant, therefore, is a more sublime moralist than Bentham, and has the suffrages of all those who tell us that they love virtue for its own sake.
出典: The Harm That Good Men Do,1926.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0393_HGMD-010.HTM

<寸言>
東西古今,「立派な」人々がつき続けてきた嘘は枚挙に暇がない。彼らは,高貴な徳を実現するためには人々(国民)を騙し続けてもかまわない(必要悪)と思っている「善人とは善をなす人間」における「善」は,’世の中で’「善」とされていることであり、運良く「善」であることもあるが、そうでない場合も少なくない