私は,文章をどのように書くべきかについて,あるいは,また,賢明な批評家が私の文章を直そうとして,どのような助言をするかについて,知っているふりをすることなどできない。私のできることは,せいぜい,自分自身でやってみたことについて語ることである。
21歳(注:英国での成人)になるまで,私は多少なりともジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)の文体で(文体を真似て)書きたいと思っていた。私は,彼の文の組み立て(構文)及び主題の限界の仕方を好んだ。しかし,私は(その時には)既に(文章に関する)別の理想 -それはおそらく数学に由来するもの- をもっていた。(即ち)私は,いかなるものも,出来る限り少い言葉で,明瞭に表現したい(言いたい)と思った。おそらく,他のどんな文章上の模範よりも,べデカー(注:Baedeker 著名な旅行案内書)を真似るぺきだろう,と考えたのである。曖昧さなしであること表現する(言う)一番短い方法(書き方)をみつけようとして,よく何時間も時間を費やし,また,この目的のためには美的な卓越性のためのすぺての試みを,喜んで犠牲にしようとした(のである)。
I cannot pretend to know how writing ought to be done, or what a wise critic would advise me to do with a view to improving my own writing. The most that I can do is to relate some things about my own attempts.
Until I was twenty-one, I wished to write more or less in the style of John Stuart Mill. I liked the structure of his sentences and his manner of developing a subject. I had, however, already a different ideal, derived, I suppose, from mathematics. I wished to say everything in the smallest number of words in which it could be said clearly. Perhaps, I thought, one should imitate Baedeker rather than any more literary model. I would spend hours trying to find the shortest way of saying something without ambiguity, and to this aim I was willing to sacrifice all attempts at aesthetic excellence.
出典: How I write, 1951.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0951_HIW-010.HTM
<寸言>
ラッセルは名文家として知られている。しかし、たまにラッセルは文章は余りうまくないと言う人がいたりする。そういった人は、ラッセルの文章を原文(英文)であまり読んだことがない人か、あるいは、名文とは美文調の文章だと考えている人であろう。