宗教においては,多くの場合,女性は「誘惑者」とされたが・・・

 けれども,キリスト教の最悪の特徴は,性に対する態度である-それはあまりにも病的かつあまりにも不自然であり,ローマ帝国が衰退しつつあった時代の文明世界の病いと関連させることによってのみ理解することができる。我々は,時々,キリスト教が女性の地位を改善(向上)させたという趣旨の話を聞くことがある。これは,なしうる限りの,最もひどい歴史の曲解の一つである。女性が極めて厳格な道徳律(倫理規則)を犯してはならないということはこの上もなく重大であると考えられている社会においては,女性は我慢できる地位を享受することができない。修道士たちは,本来女性は誘惑者であると常に見なしてきた。即ち,彼らは,女性は主として不純な情欲をあおる者だと考えてきた。教会の教えは,童貞であること(virginity)は最善であるが,それが不可能な人々には結婚が許されるというのであったし,今なおそうである。
(注:大竹勝訳では,「処女は最善であり・・・」となっているが,前後関係からわかるようにここでは男性の修道士のことを言っており,あきらかに「童貞であること」を指している。「ヴァージン=女性」という思い込みがあるためであろう。大竹氏はシラキュース大学卒で日本翻訳家協会会長をされていたが・・・?)
聖パウロが粗野に表現しているように,「(情欲で)焼き焦がれるよりは,結婚したほうがよい」(という趣旨である)。結婚を解消できないものとし(注:カトリックの教義では離婚を認めていない。),性愛の技術(ars amandi)についてのすべての知識を根絶することによって,教会が認めた唯一の性の形 -快楽はほとんどなく,苦痛は大きくなければならないもの- を確保することに,教会は全力を尽くしたのである。事実,産児制限への反対も同じ動機を持っている。(即ち,)たとえ,女性(婦人)が,疲れきって死ぬまで,一年に一人(have a child a year …)子供をもつ(産む)としても(注:if = even if),結婚生活から多くの喜びを引き出すことを想定するべきではない。それゆえ,産児制限には反対しなければならない(とカトリック教会は考えるのである)(注:荒地出版社刊の大竹訳『宗教は必要か』では,「もし女性が一年間,疲労して死ぬくらいなら,結婚生活からたいした悦びを得られないであろう。それだから,産児制限は奨励されてはならないというのである。」と,文法を無視した,論理的に意味不明の訳をしている。産児制限をしないで毎年子供を産めばどういうことになるか,常識的に想像がつきそうなものである。)

The worst feature of the Christian religion, however, is its attitude toward sex — an attitude so morbid and so unnatural that it can be understood only when taken in relation to the sickness of the civilized world at the time the Roman Empire was decaying. We sometimes hear talk to the effect that Christianity improved the status of women. This is one of the grossest perversions of history that it is possible to make. Women cannot enjoy a tolerable position in society where it is considered of the utmost importance that they should not infringe a very rigid moral code. Monks have always regarded Woman primarily as the temptress; they have thought of her mainly as the inspirer of impure lusts. The teaching of the church has been, and still is, that virginity is best, but that for those who find this impossible marriage is permissible. “It is better to marry than to burn,” as St. Paul brutally puts it. By making marriage indissoluble, and by stamping out all knowledge of the ars amandi, the church did what it could to secure that the only form of sex which it permitted should involve very little pleasure and a great deal of pain. The opposition to birth control has, in fact, the same motive: if a woman has a child a year until she dies worn out, it is not to be supposed that she will derive much pleasure from her married life; therefore birth control must be discouraged.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-030.HTM

<寸言>
宗教の開祖や教会の責任者(例:法王)のほとんどは男性だからね。女性の開祖がだいぶぶんだったら、男性が誘惑者にされたかも・・・。

宗教や教会の有害性は歴史が証明している - 歴史に学ばない人類

 教会とその開祖との間のこの相違は,決して偶然のことではない。ある特定の人物が言ったこと絶対的な真理が含まれているということになると(想定されると),その人物が言ったことを解釈する一団の専門家たちが出現し,それらの専門家たちは,必ず権力を獲得する。なぜなら,彼らは真理への鍵を保持している(とされる)からである。他の特権階級と同様に,彼らはその権力を自分たちの利益のために使用するのである。けれども,一つの点(面)において,彼らは他の特権階級よりも悪質である。なぜなら(神によって/啓示によって)きっぱりと完璧に明らかにされた不変の真理を説くというのが彼らの仕事であるので,必然的にあらゆる知的かつ道徳的進歩の敵となるからである。教会(キリスト教会)は,ガリレオとダーウィンに反対した。そうして、我々の時代においては,フロイドに反対している。キリスト教会が最も勢力を持っていた時代においては,さらに進んで知的生活への反対まで行ったのである。グレゴリー大教皇はある司教に出した手紙を,次の言葉で始めている。

「頼を赤らめずして口にすることができないような報告が我々のもとに届きました。そなたは(汝は)友人たちに文法(学)について詳しく説いたとの報告です。」
その司教は,教皇権によって,この悪しき行為をやめるように強いられ,ラテン語使用(Latinity)は,ルネッサンスまで復活しなかった。宗教が有害なのは、知的に有害であるばかりでなく,道徳的にも有害である。これによって,私が言おうとしているのは,宗教は人間の幸福に資することがない倫理規則(道徳律)を教える,ということである。数年前,ドイツにおいて,退位後の王室が,なおも私有財産を持つことが許さるべきか否かについての国民投票が行なわれたとき,ドイツの諸教会は王室からそれを剥奪することはキリスト教の教えにそむくと宣言したのである。誰も知っているように,教会は立ち向かえる限りできるだけ長い間奴隷制度の廃止に反対したし,今日,賢明なごく少数の例外はあるが,教会はあらゆる経済的正義に反対している。教皇(法王)は公式に社会主義を非難したのである。

There is nothing accidental about this difference between a church and its founder. As soon as absolute truth is supposed to be contained in the sayings of a certain man, there is a body of experts to interpret his sayings, and these experts infallibly acquire power, since they hold the key to truth. Like any other privileged caste, they use their power for their own advantage. They are, however, in one respect worse than any other privileged caste, since it is their business to expound an unchanging truth, revealed once for all in utter perfection, so that they become necessarily opponents of all intellectual and moral progress. The church opposed Galileo and Darwin; in our own day it opposes Freud. In the days of its greatest power it went further in its opposition to the intellectual life. Pope Gregory the Great wrote to a certain bishop a letter beginning:
“A report has reached us which we cannot mention without a blush, that thou expoundest grammar to certain friends.”
The bishop was compelled by pontifical authority to desist from this wicked labor, and Latinity did not recover until the Renaissance. It is not only intellectually but also morally that religion is pernicious. I mean by this that it teaches ethical codes which are not conducive to human happiness. When, a few years ago, a plebiscite was taken in Germany as to whether the deposed royal houses should still be allowed to enjoy their private property, the churches in Germany officially stated that it would be contrary to the teaching of Christianity to deprive them of it. The churches, as everyone knows, opposed the abolition of slavery as long as they dared, and with a few well-advertised exceptions they oppose at the present day every movement toward economic justice. The Pope has officially condemned Socialism.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-020.HTM

<寸言>
宗教にはもちろん良い面がある。しかし,歴史をよく学べば有害な面のほうがずっと多いことに気づくはず。ところが、多くの人は自分の信じている宗教の有害性(歴史上の事実)については無知あるいは「寛容」であり、他宗教は邪教であり有害だと思う人が少なくない

宗教は恐怖(心)から生まれた病気 - 教会・教団栄えて宗教心滅ぶ

 宗教についての私自身の意見は,ルクレティウス(注:Lucretius)の意見(と同じ)である。私は,宗教を恐怖(心)から生まれた病気として,また人類への計り知れない惨めさの根源であると考えている。けれども,宗教がある程度文明に貢献したことは否定できない。宗教は,(宗教が起こった)初期の時代にあっては,暦を定着させる助けをし,エジプトの僧侶たちに,日食月食を極めて注意深く記録させたので,後に,彼らは日食月食を予言することができるようになった。私はこれらの二つの功績(two services)をいつでも認める用意があるが,その他の功績については,私は知らない。

 宗教という言葉は,今日では極めて不正確な(散漫な)意味で使われている。極端なプロテスタンティズム(新教)の影響のもとに,この言葉は,道徳に関する真面目な個人的確信,あるいは,宇宙の本質に関する確信,を示すために使用する者もいる。宗教という言葉のこういった使い方は非歴史的なものである。宗教は,本来(主として)一つの社会現象である。教会(注:キリスト教会)はその起源を強い個人的確信を持った宣教師/説教師(teachers)に帰さなければならないかもしれないが,これらの宣教師/説教師は滅多に自分たちが創建した教会に勢力を持たなかった。しかるに,教会はその上に栄えたところの共同社会に多大の影響を与えた。西欧文明のメンバー(一員)にとって最も興味深いケースを取り上げてみよう。福音書に現れているキリストの教えは,キリスト教徒の倫理とは,驚くほど無関係である。キリスト教について,社会的,歴史的な見地から,最も重要なものは,キリストではなくて,教会である。そこで,一つの社会勢力としてのキリスト教を我々が判断しようとするならば,我々の資料としては,福音書に求めてはならない。キリストは,人は自分の財産を貧しい者に与えるべきである,争ってはいけない,教会に行くべきではない(注:無教会主義),不貞(姦通)を罰してはいけない,と教えた。これらの教えのうちいずれについても,カトリックもプロテスタント(新教徒)も,キリストの教えに従うという強い欲求をこれまで示してはいない。確かに,フラシスコ修道会の僧侶のうちには,使徒的な貧しさの教義を教えようとした者もあるけれども,ローマ法王は,彼らを有罪だと非難し,彼らの教義は異端であると宣言した。あるいは,また「裁くことなかれ,汝らもまた裁かるべければなり」というようなテクストを考察して,そのようなテクストがいかなる影響を異端審問所(宗教裁判所)やクー・クラックス・クランに与えたかということを自問してみるとよい。

キリスト教について真理であることは,仏教においてもひとしく真理である。仏陀は気立てが優しく,悟っていた。臨終の床において,仏陀は,(弟子たちが)自分(=仏陀)を不滅であると想像したことについて,弟子たちを笑った。しかし坊主(Buddhist priest 仏教徒僧)は-たとえば,チベットに存在しているように-,反啓蒙主義者であり,専制的で,これ以上ないほど残酷であった。

My own view on religion is that of Lucretius. I regard it as a disease born of fear and as a source of untold misery to the human race. I cannot, however, deny that it has made some contributions to civilization. It helped in early days to fix the calendar, and it caused Egyptian priests to chronicle eclipses with such care that in time they became able to predict them. These two services I am prepared to acknowledge, but I do not know of any others.
The word religion is used nowadays in a very loose sense. Some people, under the influence of extreme Protestantism, employ the word to denote any serious personal convictions as to morals or the nature of the universe. This use of the word is quite unhistorical. Religion is primarily a social phenomenon. Churches may owe their origin to teachers with strong individual convictions, but these teachers have seldom had much influence upon the churches that they have founded, whereas churches have had enormous influence upon the communities in which they flourished. To take the case that is of most interest to members of Western civilization: the teaching of Christ, as it appears in the Gospels, has had extraordinarily little to do with the ethics of Christians. The most important thing about Christianity, from a social and historical point of view, is not Christ but the church, and if we are to judge of Christianity as a social force we must not go to the Gospels for our material. Christ taught that you should give your goods to the poor, that you should not fight, that you should not go to church, and that you should not punish adultery. Neither Catholics nor Protestants have shown any strong desire to follow His teaching in any of these respects. Some of the Franciscans, it is true, attempted to teach the doctrine of apostolic poverty, but the Pope condemned them, and their doctrine was declared heretical. Or, again, consider such a text as “Judge not, that ye be not judged,” and ask yourself what influence such a text has had upon the Inquisition and the Ku Klux Klan.
What is true of Christianity is equally true of Buddhism. The Buddha was amiable and enlightened; on his deathbed he laughed at his disciples for supposing that he was immortal. But the Buddhist priesthood — as it exists, for example, in Tibet — has been obscurantist, tyrannous, and cruel in the highest degree.
ostered by known methods of education.
出典:Has Religion Made Useful Contributions to Civilization? 1930
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0466HRMUC-010.HTM

<寸言>
古今東西,宗教の信者は宗教によってどれだか人類がみじめになってきたか、その歴史に無知である。

啓発された利己心 対 偽装された理想主義

(これまでの)議論を要約する時がきました。政治は個人よりもむしろ集団に関心を持っており,それゆえ,政治において重要な情熱は所与の集団の多様なメンバー(成員)がひとしく感ずることのできる情熱です。政治の建造物(体系)を(その上に)築かれなければならない(築かざるをえない)広汎な本能的メカニズムは,集団内の協力及び他の集団に対する敵意です。集団内部での協力(協調)は決して完全なものではありません。順応しない(集団に従わない)メンバー(成員)がおり,彼らは,語源的な意味で「群れから抜きん出ている(“egregious”)」,即ち,集団の外側にいる者です。これらのメンバー(成員)は,(集団の)普通の水準から落下するかあるいは水準を超えた人々です。彼らは,白痴,犯罪者,予言者,あるいは発見家です。賢明な集団は(集団が賢明であれば),平均以上の人々の奇矯さを寛大に見たり,平均より下に落ちた人々をできるだけ残酷さを伴わずに取り扱ったりすることを学ぶでしょう。
他の集団との関係については,近代技術は利己心(self-interest)と本能との間に葛藤を生じさせました。昔は,二つの種族が戦争を始めると,そのうちの一つが他を絶滅させ,その領土を併合しました。勝者の観点からは,全ての行動(operations)が徹底的に満足なものでした。殺人はまったく高くつくものではなく,興奮は心地よいものでした。そのような状況にあって,戦争が起こり続ける(終わらない)ことは,何も驚くにはあたりませんでした。不幸なことに,我々は未だにそのような原始的な戦いにふさわしい感情を持っていますが,他方では,実際の戦争行動は完全に変わってしまいました。近代戦においては,敵を殺すことはとても高くつく行動です。もし,この前の大戦(第二次世界大戦)でドイツ人が何名殺されたかを考え,そうして,勝者たち(連合国側)がどれほど所得税を払っているかを考えれば,(あなたは)長い割算の結果(合計)によって,ドイツ人死者一人当たりの費用(コスト)(ドイツ人一人を殺すのに要した費用)を知ることができ,それが相当な金額であることを発見することでしょう。なるほど東側(諸国)においては,ドイツ人の敵(敵国)は敗北した国民を追い出して彼らの領地を占領するという昔ながらの利益を確保しました。しかし西側(諸国)の勝者たち(戦勝国)はまったくそのような利益は確保できませんでした。明らかに,近代戦は財政的な見地からすれば,割のよい事業ではありません。私たち(西側諸国)は二つの世界大戦に勝利しましたが,その両大戦が起きていなかったら現在はもっと裕福になっていた(いる)ことでしょう。

もし人間が利己心によって動かされるとするならば -少数の聖者を除いて(実際は)そうではないですが- 全人類は協力(協調)することでしょう。(注:人間が,他人を害するよりも「利己心」を重視すれば,つまり,結果として,お互いの「利己心」を尊重しすることになれば,お互い協力しあうことになるであろう,という意味合い。ラッセル『ヒューマン・ソサエティ』に収録された勝部訳のように,’self-interest’ を「利己主義」と訳すとピンとこなくなる。) そうであれば(みな利己心に忠実なら),戦争も,軍隊も,海軍も,原子爆弾もなくなるでしょう。国民Bに対抗する(敵愾心を持つ)国民Aの心を,また,逆に,国民Aに対抗する(対抗心を持つ)国民Bの心を害するために雇用されている多数の宣伝家の人々もなくなるでしょう。それがどれだけ優れているとしても,外国の書籍や思想の(自国への)流入を防ぐために国境(frontiers)に配置されている多数の官僚たちもなくなるでしょう。一つの大企業のほうが(中小企業より)もっと経済的であるところ(現状)で,多くの小企業の存在を保証するべく,関税障壁もなくなるでしょう。もし人々が自分自身の幸福を,隣人の不幸を望んだのと同じ熱心さで望んだとするならば(注:皮肉ですよ),こういうすべてのことがすみやかに起こるでしょう。しかし,皆さんは,そんなユートピア主義者の夢がどんな役に立つのかと言われるでしょう。道徳家たちは我々が完全に利己的ににならないように取り計らうことでしょう。そうして(しかし),我々が利己的にならない限り,至福千年(の到来)は不可能でしょう(until we do the millenium will be impossible)。

私は,冷笑的な調子でこの講演を終わるように思われたくありません。私は利己的であることより立派なものがあることや,そういう立派なことを達成する人たちのいることを否定しません。けれども,私は,一方においては,政治が関係するような大きな集団が利己心を超越することができるような機会は殆どないと,他方において,もし利己心(利己的であること)が啓発された利己心と解釈される場合には,各国民が利己的であることを下回るような状況が非常に多いと,断言(主張)しま
 そうして,人々が理想主義的な動機から行動していると自分では確信している場合の大部分において,人々は利己心を下回るのです。理想主義として通っているものの多くは,偽装された憎悪か,あるいは偽装された権力欲(権力欲の偽装)です。人間の大集団が一見気高い(高邁な)動機によってゆり動かされるのを見る時,その動機の下にあるものを見て,そういった動機をこのように効果的なものにしているのは何んだろうと自問したほうがよいでしょう。私が試みてきたような心理学的探究が実行に値するのは,一部分は,見かけだおしの気高さ(高邁さ)に騙されることがきわめて容易だからです。結論として私が言いたいのは,もし私の言ったことが正しければ,世界を幸福にするために必要とされる主要なものは知性であるということです。そして,これは,結局,楽観主義的な結論です,なぜなら,知性は既知の教育方法で育成できるものだからです。(終)

The time has come to sum up our discussion. Politics is concerned with herds rather than with individuals, and the passions which are important in politics are, therefore, those in which the various members of a given herd can feel alike. The broad instinctive mechanism upon which political edifices have to be built is one of cooperation within the herd and hostility towards other herds. The co-operation within the herd is never perfect. There are members who do not conform, who are, in the etymological sense, “egregious”, that is to say, outside the flock. These members are those who have fallen below, or risen above, the ordinary level. They are: idiots, criminals, prophets, and discoverers. A wise herd will learn to tolerate the eccentricity of those who rise above the average, and to treat with a minimum of ferocity those who fall below it.
As regards relations to other herds, modern technique has produced a conflict between self-interest and instinct. In old days, when two tribes went to war, one of them exterminated the other, and annexed its territory. From the point of view of the victor, the whole operation was thoroughly satisfactory. The killing was not at all expensive, and the excitement was agreeable. It is not to be wondered at that, in such circumstances, war persisted. Unfortunately, we still have the emotions appropriate to such primitive warfare, while the actual operations of war have changed completely. Killing an enemy in a modern war is a very expensive operation. If you consider how many Germans were killed in the late war, and how much the victors are paying in income tax, you can, by a sum in long division, discover the cost of a dead German, and you will find it considerable. In the East, it is true, the enemies of the Germans have secured the ancient advantages of turning out the defeated population and occupying their lands. The Western victors, however, have secured no such advantages. It is obvious that modern war is not good business from a financial point of view. Although we won both the world wars, we should now be much richer if they had not occurred. If men were actuated by self-interest, which they are not – except in the case of a few saints – the whole human race would cooperate. There would be no more wars, no more armies, no more navies, no more atom bombs. There would not be armies of propagandists employed in poisoning the minds of Nation A against Nation B, and reciprocally of Nation B against Nation A. There would not be armies of officials at frontiers to prevent the entry of foreign books and foreign ideas, however excellent in themselves. There would not be customs barriers to ensure the existence of many small enterprises where one big enterprise would be more economic. All this would happen very quickly if men desired their own happiness as ardently as they desired the misery of their neighbours. But, you will tell me, what is the use of these Utopian dreams ? Moralists will see to it that we do not become wholly selfish, and until we do the millennium will be impossible.
I do not wish to seem to end upon a note of cynicism. I do not deny that there are better things than selfishness, and that some people achieve these things. I maintain, however, on the one hand, that there are few occasions upon which large bodies of men, such as politics is concerned with, can rise above selfishness, while, on the other hand, there are a very great many circumstances in which populations will fall below selfishness, if selfishness is interpreted as enlightened self-interest.
And among those occasions on which people fall below self-interest are most of the occasions on which they are convinced that they are acting from idealistic motives. Much that passes as idealism is disguised hatred or disguised love of power. When you see large masses of men swayed by what appear to be noble motives, it is as well to look below the surface and ask yourself what it is that makes these motives effective. It is partly because it is so easy to be taken in by a facade of nobility that a psychological inquiry, such as I have been attempting, is worth making. I would say, in conclusion, that if what I have said is right, the main thing needed to make the world happy is intelligence. And this, after all, is an optimistic conclusion, because intelligence is a thing that can be fostered by known methods of education.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-160.HTM

<寸言>
他人のことを考えない利己主義はいけないが,他人のこともあわせて考える啓発された利己心はむしろ推奨すべきもの。そうでなくて、自己犠牲を社会の成員に強制すれば逆効果になりやすく、多くの人間を不幸にする。

同情心(思いやり)の効用

 同情心(思いやり)は純粋な動機であること,また,時には他人の苦痛によっていくらか居心地が悪くなる人もいること,を疑問に付すことができるとは,私は考えません。過去数百年における多くの人道主義的な進歩を生んだのは同情心(思いやり)です。(人道主義的な進歩として)精神異常者が虐待されている(不適切な取り扱いを受けている)という話を聞くとき,われわれはショックを覚えますが,今日では彼らが虐待されていないかなりの精神病院があります。西欧諸国の囚人たちは拷問にはかけられないはずになっていますが,拷問が行なわれている場合には,その事実が発見されると大騒ぎになります。我々は『オリヴァー・トゥイスト』のなかで取り扱われたように孤児が取り扱われることを是認しません。新教(プロテスタント)の国々では,動物に対する残酷さ(動物虐待)を是認しません。これらすべての点で,同情心(思いやり)は政治的に効果的をあげてきました。もし戦争(勃発)の恐怖が取り除かれるのなら,同情心(思いやり)の効用はより大きなものになるでしょう。おそらく,人類の将来の最高の希望は,同情心(思いやり)の範囲と強さが増大させるいろいろな方法が見出されることでしょう。

I do not think it can be questioned that sympathy is a genuine motive, and that some people at some times are made somewhat uncomfortable by the sufferings of some other people. It is sympathy that has produced the many humanitarian advances of the last hundred years. We are shocked when we hear stories of the ill-treatment of lunatics, and there are now quite a number of asylums in which they are not ill-treated. Prisoners in Western countries are not supposed to be tortured, and when they are, there is an outcry if the facts are discovered. We do not approve of treating orphans as they are treated in Oliver Twist. Protestant countries disapprove of cruelty to animals. In all these ways sympathy has been politically effective. If the fear of war were removed, its effectiveness would become much greater. Perhaps the best hope for the future of mankind is that ways will be found of increasing the scope and intensity of sympathy.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-150.HTM

<寸言>
 同情心(おもいやり)は年齢,地位に関係なく,特定の個人や集団に対して持つことができます。これに対して「忖度(そんたく)」というのは、通常、自分より地位や権力や年齢が上の者に対して働きます。だから某政治家の言うように「忖度はもともと良い意味だった。忖度してなぜ悪いかわからない」という開き直りはいただけません。

恐怖(心)に対抗する方法(恐怖心を克服する方法)

 恐怖(心)に対抗する(恐怖心を克服する)方法は,二つあります。一つは外的な危険を減らすことであり,もう一つはストア学派風に忍耐力を養成することです。後者は,すぐに行動を起こす必要がある場合を除いて,我々の思考を恐怖の原因からそらすことによって補強することができます。}
恐怖(心)を克服することは非常に重要なことです。恐怖(心)(を持つこと)はそれ自体で人間の品位を落とします。それは容易に強迫観念となります。恐れているものに対する憎しみを生み出します。また,それは,過度な残酷さに,せっかちに導きます。安心・安全ほど人間に恩恵のある効果を与えるものはありません戦争の恐怖を取り除くような国際的な組織体制を確立できれば,日常の人々(注:特殊な人ではなく,一般の人々)の日常の精神状態に及ぼす改善は,甚大かつ急速なものになるでしょう。現在,恐怖(心)は,世界に暗い影をなげかけています。原子爆弾と細菌爆弾(細菌兵器)は,場合によって,悪しき共産主義者,あるいは悪しき資本主義者,によって支配されていますが,それらはワシントン(米国政府)とクレムリン(ソ連政府)を震撼させ,さらに人間を深淵(地獄)へと駆り立てています。
事態を好転させるべきとしたら,第一に必須な処置は恐怖(心)を減少させる方法を見つけることです。今日の世界は,相互に対抗するイデオロギーの闘争に取り憑かれており,その闘争の明白な原因の一つは,自分たち(自国/自分たちの陣営)のイデオロギーの勝利と相手(敵国/敵陣営)のイデオロギーの敗北についての欲求です。ここにおける基本的な動機は,イデオロギーと深い関係があるとは思いません。イデオロギーは単に人々を集団化(グループ分け)する方法にすぎないと,私は考えています。また,それに係る情熱は,対抗する集団の間に常に起こる情熱にすぎない,と思います。もちろん,共産主義者を嫌悪するのには多くの理由があります。
第一かつ最も重要な理由は,彼らは我々の財産を奪おうと望んでいる,と我々が信じていることです。しかし,夜盗も同じようなことやり,我々は夜盗を非難しますが,彼らに対する我々の態度は,共産主義者に対する我々の態度とは実に異なっています。その主な理由は,彼ら(泥棒)が同じ程度の恐怖(心)を我々に吹き込まないからです。
第二に,我々は,共産主義者が無宗教だという理由で嫌います。しかし,中国人は11世紀から(ずっと)無宗教であったのであり,彼らが蒋介石を(中国本土から)追い出してから,共産主義者を嫌い始めたのです。
第三に,我々は共産主義者は民主主義を信じないということで嫌いますが,我々はこれ(民主主義を信じないこと)がフランコ(注:スペインの独裁者)を嫌う理由にはまったくならないと考えています。
第四に,我々は,彼らが自由を許容しないという理由で彼らを嫌います。このことを我々(注:米国だけでなく英国などの西側諸国)は,非常に強く感じているので,彼らを真似ることを決心してしまったほどです(注:ラッセル独特の皮肉。米英その他において,”赤狩り(レッドパージ)”により,共産主義者と疑われる者を公職追放し,彼らの自由を奪ったことを暗喩している。自分たちの自由を守るために,自分たちと同じ価値観をもたない人間の自由を否定したり制限する,という「自由のパラドクス」を示唆している)。
明らかにこれらの理由のどれ一つとして,我々が共産主義者を嫌悪する本当の根拠ではありません。我々が彼らを嫌うのは,彼らを我々が恐怖し,彼らが我々を威嚇するからです。仮に,ロシアが今なおギリシア正教を固守していたとしても,仮に議会政治を制度化しても,仮に毎日のように悪口雑言をあびせる完全に自由な新聞を持っているとしても,それでも,彼らが現在持っているのと同じく強大な軍隊を持っており,もし彼らが(我々に)敵意を持っていると考させる根拠を我々に与えるならば,我々は彼らをあいかわらず嫌悪するでしょう。もちろん,「神学的憎悪」
(注:odium theologicum 宗教にはいろいろな宗派があるが,お互い自分たちが正しいと信じ,お互いの違いを「単なる意見の相違」だとは認めない。そういったことから、多くの争いが起こったり,宗教戦争が起こったりした。J. S. ミルの「自由について」が参考となる。http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html)  ということがあり,それは敵意の一因となりえます。しかし,それは集団的感情から派生したものである,と私は考えます。異なった神学を持つ者は,未知の人間(得体の知れない人間)だと感じます。そして未知のものはどんなものであっても危険に違いない,と感じます。実際,イデオロギーというのは,集団が創られる方法の一つであり,集団の発生がどのようであったとしても,その心理はほとんど同じです。

There are two ways of coping with fear: one is to diminish the external danger, and the other is to cultivate Stoic endurance. The latter can be reinforced, except where immediate action is necessary, by turning our thoughts away from the cause of fear. The conquest of fear is of very great importance. Fear is in itself degrading; it easily becomes an obsession; it produces hate of that which is feared, and it leads headlong to excesses of cruelty. Nothing has so beneficent an effect on human beings as security. If an international system could be established which would remove the fear of war, the improvement in everyday mentality of everyday people would be enormous and very rapid. Fear, at present, overshadows the world. The atom bomb and the bacterial bomb, wielded by the wicked communist or the wicked capitalist as the case may be, make Washington and the Kremlin tremble, and drive men further along the road toward the abyss. If matters are to improve, the first and essential step is to find a way of diminishing fear. The world at present is obsessed by the conflict of rival ideologies, and one of the apparent causes of conflict is the desire for the victory of our own ideology and the defeat of the other. I do not think that the fundamental motive here has much to do with ideologies. I think the ideologies are merely a way of grouping people, and that the passions involved are merely those which always arise between rival groups. There are, of course, various reasons for hating communists. First and foremost, we believe that they wish to take away our property. But so do burglars, and although we disapprove of burglars our attitude towards them is very different indeed from our attitude towards communists – chiefly because they do not inspire the same degree of fear. Secondly, we hate the communists because they are irreligious. But the Chinese have been irreligious since the eleventh century, and we only began to hate them when they turned out Chiang Kai-shek. Thirdly, we hate the communists because they do not believe in democracy, but we consider this no reason for hating Franco. Fourthly, we hate them because they do not allow liberty; this we feel so strongly that we have decided to imitate them. It is obvious that none of these is the real ground for our hatred. We hate them because we fear them and they threaten us. If the Russians still adhered to the Greek Orthodox religion, if they had instituted parliamentary government, and if they had a completely free press which daily vituperated us, then – provided they still had armed forces as powerful as they have now – we should still hate them if they gave us ground for thinking them hostile. There is, of course, the odium theologicum, and it can be a cause of enmity. But I think that this is an offshoot of herd feeling: the man who has a different theology feels strange, and whatever is strange must be dangerous. Ideologies, in fact, are one of the methods by which herds are created, and the psychology is much the same however the herd may have been generated.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-140.HTM

<寸言>
自分にとって身近でないものについては違和感を持ったり,嫌悪感を抱いたり,恐怖心を持ったりしがち。そうならないためには,いろいろなことを知ったり体験したりして,多くのことに対して免疫を持つのがよい。

恐怖心と憎悪心-他者を理解しようとする努力を怠り・・・

 人間には,嘆かわしいほどその傾向のある,多くのその他の政治的動機のなかに織り込まれた,二つの(相互に)密接な関係がある情熱があります。それは,恐怖と憎悪(嫌悪)です。我々が恐れるものを嫌うことは常態ですが,常にではないですが,嫌いなもの(憎むもの)を恐れるのは,しばしばあることです。未開人の間では通例のことだとしてよいだろうと思いますが,未開人は見慣れないものには何であれ恐怖と憎悪(嫌悪)の両方を感ずるようです。彼らは当初は非常に小さな自分たちの集団(所属集団)を持っています。そうして,その一つの集団のなかでは,特に敵意を持つ理由がなければ,全てが仲間です。他の集団は潜在的あるいは実際の敵です。即ち,それらの集団のなかの一つの集団のただ一人のメンバーが偶然集団からはぐれると(他の集団によって)殺されるでしょう。全体として,異なる(別の)集団は,状況によって,避けたりあるいは戦ったりします。現在でもなお,外国の国民に対する我々の本能的な反応を支配しているのはこの原始的な機構(メカニズム)です。全然旅行したことのない人はすべての外国人を,未開人が別の集団のメンバー(一員)を見るような目で見ることでしょう。しかし,旅行したことのある人や国際政治を研究したことのある人は,自分が属する集団が繁栄すべきであるとしたら,ある程度,他のいくつかの集団と融合しなければならないということを発見していることでしょう。もしあなたが英国人であり,誰かがあなたに「フランス人はあなたの兄弟(同胞)だ」と言ったら「そんな馬鹿な,彼らは肩をすくめるし(注:英国人はしない所作?),フランス語を話す。しかも,聞くところによると蛙を食べるそうだ」と言うのが,あなた(=英国人)が最初に本能的に抱く気持ちでしょう。もし,彼(相手)が英国人に対し,我々英国人ロシア人と戦わねばならなくなるかもしれないし,そうなれば,ライン河の前線を防御することほ望ましいことであろうし,もしライン河の前線を防御するということになれば,フランス人の援助が必要欠くペからざるものとなる,と説明すれば,フランス人は兄弟(同胞)だという言葉が何を意味するかを英国人は理解し始めるでしょう。しかし,たとえ旅の同行者がさらに,ロシア人もまた兄弟(同胞)だと言ったとしても,我々は皆火星人からの(攻撃の)危険にさらされていることを示しえない限り,彼は英国人を説得することはできないでしょう。我々は,我々の敵を憎む人々を愛するのであり,もし我々が敵を持たなかったら,我々が愛するようなひとびとはごく少なくなるでしょう
けれども,このようなことは全て,我々が単に他の人間に対する態度に関心を持つ限りにおいてのみ真理となります。土地がいやいやながら,わずかばかりの作物しか産み出さないという理由で,あなたは土地を敵とみなすかも知れません。人は母なる自然一般を敵とみなして,人間の生活を母なる自然に打ち克つための闘いだとみなすかも知れません。もし人間が人生をこのように見れば,全人類の協力は容易になるかも知れません。そして,学校,新聞,政治家がこの目的のために献身的になるならば,人々は容易に人生をこのように見るようになるでしょう。しかし,(実際は)学校は進んで愛国心を教え,新聞は進んで興奮をかき立て,政治家は進んで再選されようとします(注:再選されるためならウソ偽りをいうことも平気)。従って,この三者のうちのいずれも,人類を相互自殺から救うことに対し,何もすることができないのです。

Interwoven with many other political motives are two closely related passions to which human beings are regrettably prone: I mean fear and hate. It is normal to hate what we fear, and it happens frequently, though not always, that we fear what we hate. I think it may be taken as the rule among primitive men, that they both fear and hate whatever is unfamiliar. They have their own herd, originally a very small one. And within one herd, all are friends, unless there is some special ground of enmity. Other herds are potential or actual enemies; a single member of one of them who strays by accident will be killed. An alien herd as a whole will be avoided or fought according to circumstances. It is this primitive mechanism which still controls our instinctive reaction to foreign nations. The completely untravelled person will view all foreigners as the savage regards a member of another herd. But the man who has travelled, or who has studied international politics, will have discovered that, if his herd is to prosper, it must, to some degree, become amalgamated with other herds. If you are English and someone says to you, “The French are your brothers”, your first instinctive feeling will be, “Nonsense. They shrug their shoulders, and talk French. And I am even told that they eat frogs.” If he explains to you that we may have to fight the Russians, that, if so, it will be desirable to defend the line of the Rhine, and that, if the line of the Rhine is to be defended, the help of the French is essential, you will begin to see what he means when he says that the French are your brothers. But if some fellow-traveller were to go on to say that the Russians also are your brothers, he would be unable to persuade you, unless he could show that we are in danger from the Martians. We love those who hate our enemies, and if we had no enemies there would be very few people whom we should love.
All this, however, is only true so long as we are concerned solely with attitudes towards other human beings. You might regard the soil as your enemy because it yields reluctantly a niggardly subsistence. You might regard Mother Nature in general as your enemy, and envisage human life as a struggle to get the better of Mother Nature. If men viewed life in this way, cooperation of the whole human race would become easy. And men could easily be brought to view life in this way if schools, newspapers, and politicians devoted themselves to this end. But schools are out to teach patriotism; newspapers are out to stir up excitement; and politicians are out to get re-elected. None of the three, therefore, can do anything towards saving the human race from reciprocal suicide.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-130.HTM

<寸言>
好きなものは年とともに変わっていきやすいが、嫌いなものはあまり変わらない場合が多い。そこで、好きなものが同じ友達よりも、嫌いなものが同じ友達のほうが、友達関係が長続きすると言われている。
しかし、嫌いなものがたとえば、弱者いじめに対する義憤のようなものであればよいが、自分の嫌いなものが他国(外国)や他人種や他集団であり、ヘイトスピーチを繰り返すグループに属している「友達」の場合は、「友情」が長続きするとしても好ましくないし、多くの人に不幸をもたらす。

興奮を求める心に建設的なはけ口を提供すること

 興奮について重大なことは,その非常に多くの形態が破壊的だということです。酒や賭博で過度になることに抵抗できない人々においては,興奮は破壊的なものになります。興奮が暴徒による暴力という形をとる時,それは破壊的になります。また,何にも増して,興奮(状態)が戦争に導く時,それは破壊的になります。興奮(を求める心)は非常に根深い要求ですので,害のないはけ口が手近にないと,この破壊的な種類の有害なはけ口を見出します。現在では,スポーツにそのような罪のないはけ口があり,政治も,憲法の制限内に止めておかれる限り(注:違憲にならない範囲であれば),同様に罪のないはけ口です。しかしこういったはけ口では不十分であり,特に最も人を興奮させる政治の種類(たぐい)は,また,最も有害な種類(たぐい)です
文明化された生活はまったく飼いならされすぎたものであり,もし文明化された生活が安定するためには,我々の遠い先祖が狩猟によって満足させていた衝動のための罪のないはけロを提供しなければなりません。オーストラリアは,国民の数が少なく,兎(うさぎ)の数は非常に多いところですが,私はオーストラリアの住民が皆,何千頭もの兎を手ぎわよく殺戮することによって,原始的な方法で原始的な衝動を満足させているのを観察しました。
 しかし,ロンドンやニューヨーク(のような現代都市)では,原始的な衝動を満足させるための別の方法を発見しなければなりません。私は,あらゆる大都市には,人々が非常に壊れやすいカヌーで下ることのできるような人工の滝や,機械じかけの鮫がいっぱいいるプールが設けられるべきだと考えます。予防戦争(注: a preventive war :敵の有利な戦争開始を予防するために先制して発動する戦争)を擁護しているとわかった者は誰でも一日に2時間この巧妙につくられた怪物どもに責められるべきでしょう。もっと真面目に言えば,興奮を求める心に建設的なはけ口を提供するように努力(注:pains 複数形になっている場合は「骨折り」。)がなされるべきでしょう。世界で何よりも刺激的なのは,突然の発見あるいは発明の瞬間です。時折思われているよりももっと多くの人々がそのような瞬間を経験することが可能です。

What is serious about excitement is that so many of its forms are destructive. It is destructive in those who cannot resist excess in alcohol or gambling. It is destructive when it takes the form of mob violence. And above all it is destructive when it leads to war. It is so deep a need that it will find harmful outlets of this kind unless innocent outlets are at hand. There are such innocent outlets at present in sport, and in politics so long as it is kept within constitutional bounds. But these are not sufficient, especially as the kind of politics that is most exciting is also the kind that does most harm. Civilized life has grown altogether too tame, and, if it is to be stable, it must provide harmless outlets for the impulses which our remote ancestors satisfied in hunting. In Australia, where people are few and rabbits are many, I watched a whole populace satisfying the primitive impulse in the primitive manner by the skillful slaughter of many thousands of rabbits. But in London or New York some other means must be found to gratify primitive impulse. I think every big town should contain artificial waterfalls that people could descend in very fragile canoes, and they should contain bathing pools full of mechanical sharks. Any person found advocating a preventive war should be condemned to two hours a day with these ingenious monsters. More seriously, pains should be taken to provide constructive outlets for the love of excitement. Nothing in the world is more exciting than a moment of sudden discovery or invention, and many more people are capable of experiencing such moments than is sometimes thought.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-120.HTM

<寸言>
人間の興奮を求める心が悲惨な結果を産まないためには,(そのための良いはけ口と悪いはけ口をよく区別した上で)良いはけ口をいろいろ用意する必要がある。

興奮を愛する心--弱者に対する攻撃も,ヘイトスピーチも・・・

(人間が)興奮好きである(ことの)根本的な原因が何であるかを決定することは,全て容易であるというわけではありません(必ずしも容易ではありません)。私は,我々の精神構造は我々(人類)が狩猟によって生きていた段階にふさわしいものである,と考える傾向にあります。男がとても原始的な武器を携えて,夕食用(の食べ物)にしたいと望んで,鹿に忍び寄ることで一日を過ごし,夕方に誇らしげに洞窟までその獲物をひっぱって行き,満足した疲労感とともに(洞窟に)座り込む,一方,彼の妻はその肉を下ごしらえをし,料理しました。彼は眠たく,骨は痛みましたが,同時にまた,料理の香は彼の意織の隅々まで満たしました。(そうして)食事の後,ついに,彼は深い眠りに陥りました。そのような生活においては,退屈(倦怠)を感ずる時間(暇)もなければ精力もありませんでした
ところが,人間(彼)が農業をやるようになり,妻にすべての苦しい野良仕事をさせるようになると(注:狩猟時代は子育てと料理が主な労働であった。),彼は人間の命のはかなさを反省したり,神話や哲学大系を創りだしたり,ヴァルハラ(Valhalla 北欧神話で,戦死した英雄を祀る場所)の天国で絶えず猪狩りをするという死後の生活を夢みる時間を持ちました(持つようになりました)。
我々の精神構造はきわめて厳しい肉体労働に適しています。私がもっと若かった頃は,休日にはハイキングによく行きました。私は一日に25マイル(注:約40km)を踏破し,夕方になったとき,倦怠から逃れるために何もする必要はありませんでした,なぜなら,腰掛けている喜びだけで十分だったからです
しかし現代生活はこのように肉体的な奮闘を要する方針で行なうことはできません。非常に多くの仕事は坐りがちなものであり,大部分の筋肉労働は幾つかの特定の部位の筋肉だけしか使いません。英国政府が彼ら(群衆=国民)が殺されるようになる決定(注:参戦の決定)をしたことを発表したのに対して,トラファルガー広場に集まった群集がこだまするほど(to the echo),喝来する時,もしかりにその日彼らが25マイルも歩いていたら(歩いた後であれば),彼らは喝采はしないでしょう。
しかし好戦性に対するこの治療法は実際的なものではなく,もし人類が生き残るべきとしたら -人類の生存は,もしかすると(perhaps)望ましくないことかもしれないのですが(注:もしかすると,殺し合いにあけくれる人類など存在しないほうがよいかもしれない,というニュアンス)-,興奮を愛する心を生む,未使用の肉体的な精力に対する無害なはけ口を確保するために,他の方法を見出さなければなりません。これは,道徳家や社会改革家の両者によって,これまでほとんど考えられてこなかった問題です。社会改革家は(そんなはけ口を考えるよりも)もっと考えるべき重要なことがあるとの意見です。他方,道徳家のほうは,興奮を愛する(求める)心に対して許された全てのはけ口のゆゆしさ(注:seriousness 重大さ)に大いに印象づけられています。けれども,彼ら(道徳家)の心にあるゆゆしさ(重大さ)というのは「罪」というゆゆしさなのです。ダンス・ホール,映画館,このジャズ時代は皆,もし我々の耳を信ずるならば,地獄への門であり,我々は自宅に坐って,我々(人間)の罪について瞑想したほうが(時間の使い方として)もっとよいと言うのです。私はこのような警告を発する厳粛な人たちに全面的な賛意を表することはできません。悪魔には多く形態があり,あるものは若者を騙そうと企てており,あるものは老人や真面目なひとびとを騙そうと企てています。若者に自分で楽しむことをそそのかすのが悪魔だとしたら,老人に若者の楽しみを非難するように鋭得するのも,おそらく,同じ人物(悪魔)ではないでしょうか? そして,(他者の)非難は,おそらく,老人に適した興奮の単なる一つの形式であるにすぎないのではないでしょうか? しかも,それは望む効果を生むためには,-阿片のように- 絶えず前よりお強い分量を服用しなければならない薬(麻薬)ではないでしょうか? 映画館の害悪から始まって,一歩一歩,反対党,イタ公(dagoes, wops : ラテン系の人々、特にイタリア人に対する蔑称),アジア人,要するに自分の属するクラブ会員以外の誰をも非難するように導かれていく,ということは恐るべきことではないでしょうか? そうして、戦争に進むのは,そういった非難が拡大した時です。私は(道徳家が言うようにダンス。ホールが仮に悪いとしても)ダンス・ホールから起こった戦争のことを聞いたことがありません。

It is not altogether easy to decide what is the root cause of the love of excitement. I incline to think that our mental make-up is adapted to the stage when men lived by hunting. When a man spent a long day with very primitive weapons in stalking a deer with the hope of dinner, and when, at the end of the day, he dragged the carcass triumphantly to his cave, he sank down in contented weariness, while his wife dressed and cooked the meat. He was sleepy, and his bones ached, and the smell of cooking filled every nook and cranny of his consciousness. At last, after eating, he sank into deep sleep. In such a life there was neither time nor energy for boredom. But when he took to agriculture, and made his wife do all the heavy work in the fields, he had time to reflect upon the vanity of human life, to invent mythologies and systems of philosophy, and to dream of the life hereafter in which he would perpetually hunt the wild boar of Valhalla. Our mental make-up is suited to a life of very severe physical labor. I used, when I was younger, to take my holidays walking. I would cover twenty-five miles a day, and when the evening came I had no need of anything to keep me from boredom, since the delight of sitting amply sufficed. But modern life cannot be conducted on these physically strenuous principles. A great deal of work is sedentary, and most manual work exercises only a few specialized muscles. When crowds assemble in Trafalgar Square to cheer to the echo an announcement that the government has decided to have them killed, they would not do so if they had all walked twenty-five miles that day. This cure for bellicosity is, however, impracticable, and if the human race is to survive – a thing which is, perhaps, undesirable – other means must be found for securing an innocent outlet for the unused physical energy that produces love of excitement. This is a matter which has been too little considered, both by moralists and by social reformers. The social reformers are of the opinion that they have more serious things to consider. The moralists, on the other hand, are immensely impressed with the seriousness of all the permitted outlets of the love of excitement; the seriousness, however, in their minds, is that of sin. Dance halls, cinemas, this age of jazz, are all, if we may believe our ears, gateways to Hell, and we should be better employed sitting at home contemplating our sins. I find myself unable to be in entire agreement with the grave men who utter these warnings. The devil has many forms, some designed to deceive the young, some designed to deceive the old and serious. If it is the devil that tempts the young to enjoy themselves, is it not, perhaps, the same personage that persuades the old to condemn their enjoyment? And is not condemnation perhaps merely a form of excitement appropriate to old age? And is it not, perhaps, a drug which – like opium – has to be taken in continually stronger doses to produce the desired effect? Is it not to be feared that, beginning with the wickedness of the cinema, we should be led step by step to condemn the opposite political party, dagoes, wops, Asiatics, and, in short, everybody except the fellow members of our club? And it is from just such condemnations, when widespread, that wars proceed. I have never heard of a war that proceeded from dance halls.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-110.HTM

<寸言>
ラッセルの名言:「戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた。それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。」
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap. 4: boredom and excitement.
詳細情報.:http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM

Capacity for Boredom:「退屈を味わえる能力」対「退屈に耐える能力」?

 私は,今や,(これまでのべた以外の)他の動機について検討するところに来ました。これから検討する動機は今まで検討してきた動機ほど根本的なものではありませんが,それでもなお,かなり重要なものです。それらの動機の第一(人間が)興奮を好むことです。人間は退屈を味わえる能力(注:”their capacity for boredom” 「退屈に耐える能力」と訳している人が多いですが、なぜ「退屈を味わえる点(能力)」としたか,一番下の「考察」を参照してください。)によってよりもすぐれていることを示しています。ただし,動物園(注:”at the Zoo” 定冠詞付きかつ大文字のZooとなっているので,ロンドン動物園のことか?)の類人猿を観察していて(in examining),彼らも,もしかすると,この退屈な感情の初歩的なものをもっているかも知れない,と時々思ったことがあります。いずれにしても,経験の示すところでは,退屈(倦怠)から逃れることはほとんど全ての人類の本当に強い欲求の一つです。白人が,まだ損なわれていない未開人と初めて接触をする時に,白人は彼らに,福音の光明からパンプキン・バイにいたるまで,あらゆる種類の便益(恩恵)を提供します。けれども,我々としては残念なことながら,そういったものは大部分の未開人には全然興味がありません。我々がもたらす贈り物のなかで彼らが本当に価値があると思うものは人を酔わせる酒であり,それは,野蛮人に,生まれて初めて,ほんのつかの間,死ぬよりは生きていた方がましだという錯覚を与えることができます。アメリカ・インディアンは,白人による影響をいまだ受けていなかった頃,パイプを我々のように穏やかに吸うのではなく,めちゃくちゃに深く肺まで吸い込み,そのために失神してしまいました。そうして,ニコチンによる刺激が失敗する(効果がなくなる)と,愛国的な雄弁家が一族を扇動し,近くの種族を攻撃させました。これが,(気質により)我々なら競馬や総選挙から得るような,全ての楽しみを一族に与えました。ギャンブルの楽しみはほとんどすべて興奮することのなかにあります。(フランス人の)フック氏は,冬の万里の長城で,中国の商人が,全ての現金を失うまでギャンブル(賭け事)をやり続け,次に全ての商品を失い,ついには自分の服を脱いで裸になって寒さのため死んでしまうまでギャンブル(賭け事)をにふける姿を描写しています。原始的なアメリカ・インディアン部族の場合と同様,文明人にとっても,戦争が勃発した時に,民衆に拍手をさせるのは,主として興奮を求める心である,と私は思います。この感情は -戦争勃発の結果は時としてもっと重大ではありますが- フットボール試合(に熱狂する時)とそっくりです。

I come now to other motives which, though in a sense less fundamental than those we have been considering, are still of considerable importance. The first of these is love of excitement. Human beings show their superiority to the brutes by their capacity for boredom, though I have sometimes thought, in examining the apes at the Zoo, that they, perhaps, have the rudiments of this tiresome emotion. However that may be, experience shows that escape from boredom is one of the really powerful desires of almost all human beings. When white men first effect contact with some unspoilt race of savages, they offer them all kinds of benefits, from the light of the gospel to pumpkin pie. These, however, much as we may regret it, most savages receive with indifference. What they really value among the gifts that we bring to them is intoxicating liquor which enables them, for the first time in their lives, to have the illusion for a few brief moments that it is better to be alive than dead. Red Indians, while they were still unaffected by white men, would smoke their pipes, not calmly as we do, but orgiastically, inhaling so deeply that they sank into a faint. And when excitement by means of nicotine failed, a patriotic orator would stir them up to attack a neighbouring tribe, which would give them all the enjoyment that we (according to our temperament) derive from a horse race or a General Election. The pleasure of gambling consists almost entirely in excitement. Monsieur Huc describes Chinese traders at the Great Wall in winter, gambling until they have lost all their cash, then proceeding to lose all their merchandise, and at last gambling away their clothes and going out naked to die of cold. With civilized men, as with primitive Red Indian tribes, it is, I think, chiefly love of excitement which makes the populace applaud when war breaks out; the emotion is exactly the same as at a football match, although the results are sometimes somewhat more serious.
出典:Bertrand Russell: What Desires Are Politically Important? 1950
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0944WDPI-100.HTM

<考察>
『ヒューマン・ソサエティ』(玉川大学出版部)の勝部訳では,”capacity for boredom” のところを「人間は,退屈に耐える能力では,獣どもよりすぐれている。」と訳されています(インターネット上にはこのように訳されている例が非常に多くあります。Yahoo 知恵袋で模範解答?としてだされている例は酷い誤訳であり,参考になりません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014297440
それから,主婦の友社のノーベル文学賞全集第22巻「ラッセル、チャーチル」に収められた大竹勝訳では「人間は倦怠をもよおすという能力によって動物(注:人間も動物であり,ラッセルは’brutes’ と書いているのですから,「獣」と訳して欲しいところ)よりもすぐれている」と訳されています。
* capacity (n):受容力,収容能力;容量;知的能力;達成(産出,抵抗)しうる能力;一定の処理(作用)が可能な性質(状態)
日常,日本語では「キャパがない」といった使い方をする場合は、収納能力や自分の処理能力がない(限界だ)という意味合いで使うことが多い。それでは,”capacity for boredom” は「退屈に耐える能力」でしょうか? 単語に多くの意味がある場合には,前後関係が重要であるとともに、論理的におかしくなる訳はさけなければなりません。
ラッセルは,「政治的に重要な人間の欲求や動機」について考察しており、上記の文章では「興奮を好む」ということも大きな動機になる,と言っています。人間は刺激や興奮を求め、戦争だけでなく,フットボールなどのスポーツでも我を忘れてしまうことが多々あり、危険なことが少なくありません。つまり、退屈に耐えられずに刺激を求めるのが人間の性(さが)です。
ラッセルの有名な言葉に次の言葉もあります。
Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from boredom; even quarrels with neighbours have been found better than nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.(戦争,虐殺,迫害は,すべて退屈からの逃避の一部(→逃避から生まれたもの)であり,隣人とのけんかさえ,何もないよりはましだと感じられてきた。それゆえ退屈は,人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから,モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。
これを読めば、ラッセルの文章を,勝部氏のように「人間は,退屈に耐える能力では,獣どもよりすぐれている。」と訳すことなどとうてい考えらません。
いや、その前に、論理的におかしくないでしょうか? 人間に近い動物(猿など)を除いて、動物は「退屈などという感情を感じることはない」のではないでしょうか?(つまり「退屈を味わえない!」 また,人間のように(人間ほど)退屈に耐えられない動物って何でしょうか? 退屈に耐えられない牛や馬やクジラ??

ネットに「退屈に耐える能力」という訳がたくさんでていますが、一つだけ、適切に訳していると思われるものを見つけました。以下にあげさせていただきます。
http://blog.goo.ne.jp/mchruts/e/00fa8dd066b1a213e61288f45ad2c8a6
人間は、退屈を味わえる点で獣より勝っている。しかし時々思うことがある。ロンドン動物園でサルを観察していると、こいつらにもひょっとしてこの倦怠感の兆しがあるのでは、と。それはともかく、経験上、退屈から逃避したいという気持ちは、殆ど全ての人間が持つ実に強力な願望の一つだということが分かる。