自由意志の教義
自然法則に関するキリスト教徒の態度は,奇妙に揺れていて,はっきりしない。一方においては,自由意志の教義があり,大部分のキリスト教徒はそれを信じていた。そうして,この教義は,少なくとも,人間の行為は自然法則に服従すべきではないことを必要としていた(注:人間は自然法則に従うだけで自由意志がないと倫理が成り立たないため)。他方,特に18世紀 及び19世紀には,立法者としての神(へ)の信仰及び(世界の)創造者が実在する主要な証拠の一つとしての自然法則への信仰があった。近代においては,(神が)立法者である証拠を与えるものとしての自然法則への信仰よりも,(人間の)自由意志のために法則(自然法則)の支配に対する異議がより強く感じられ始めてきた。唯物論者たちは,人体の動きは機械的に決定されており,その結果,我々(人間)の言う全てや我々がなすあらゆる位置の変化は,いかなる可能な自由意志の範囲外になる(注:それらについては人間に自由意志はない),ということを示すために,あるいは示そうとして,物理法則を用いた。もしそれが正しいのであれば,束縛されない意志(の力)として我々人間に何が残されようとも、それはほとんど価値はない。もし,人が詩を書いたり,あるいは殺人を犯す場合,その行為に含まれる人体の運動がもっぱら物理的な原因からの結果であるとするならば,ある場合には(その人の功績をたたえ)銅像を建て,別の場合には首を締める(絞首刑にする)というのは,馬鹿げていると思われるであろう。ある種の形而上学の体系の中においては,意志が自由であるような(肉体が関係しない)純粋な思惟の領域が残っているかも知れない。(注:カントの「純粋理性」などに対する皮肉であろう。/大竹勝・訳『宗教は必要か』では次のように訳されており,哲学の知識の不足により,不適切な訳となっている。「ある形而上学体系の中に,意志が自由であるような純粋思想の分野は残っているであろうが,それは人体の運動によってのみ他人に伝えられるのだから・・・」 それから,"certain" という単語は漠然とした「ある~」というものではないことに注意が必要であろう。)しかし,その意志は人体の運動によってのみ他人に伝えることができるのであるから,自由の領域は,伝達の対象にはなりえないものであり,社会的な重要性を決して持ちえないものとなるであろう。
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The Doctrine of Free Will
The attitude of the Christians on the subject of natural law has been curiously vacillating and uncertain. There was, on the one hand, the doctrine of free will, in which the great majority of Christians believed; and this doctrine required that the acts of human beings at least should not be subject to natural law. There was, on the other hand, especially in the eighteenth and nineteenth centuries, a belief in God as the Lawgiver and in natural law as one of the main evidences of the existence of a Creator. In recent times the objection to the reign of law in the interests of free will has begun to be felt more strongly than the belief in natural law as affording evidence for a Lawgiver. Materialists used the laws of physics to show, or attempt to show, that the movements of human bodies are mechanically determined, and that consequently everything that we say and every change of position that we effect fall outside the sphere of any possible free will. If this be so, whatever may be left for our unfettered volitions is of little value. If, when a man writes a poem or commits a murder, the bodily movements involved in his act result solely from physical causes, it would seem absurd to put up a statue to him in the one case and to hang him in the other. There might in certain metaphysical systems remain a region of pure thought in which the will would be free; but, since that can be communicated to others only by means of bodily movement, the realm of freedom would be one that could never be the subject of communication and could never have any social importance.
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