若い頃、短期間ではあるが、ヘーゲリアンだったラッセル

McTaggart_John  マクタガート((John McTaggart, 1866 –1925:英国の観念論哲学者)は,へーゲリアンであり,その当時はまだ若くて熱狂的な性格であった。彼は当時の我々の世代に大きな知的影響力をもっていたが,ふり返ってみると,その影響力は,非常によいものであったとは思わない。2,3年の間,彼の影響のもと,私はへーゲリアンであった大学4年生の時,私も’へーゲリアン’の一人になったまさにその瞬間をおぼえている。私はタバコ(の葉)を一罐買いに外出していたが,それを持ってトリニティ小路を通って戻りつつあったその時,突如として私はそれを空中に放り投げてこう叫んだ--「そのとおりだ! その存在論的議論は正しい!」(松下注:’Great God in boots! はどのようなニュアンスでしょうか? 
1898年以後私はもはやマクタガートの哲学を受け入れなかったが,第一次世界大戦中に私の意見にはがまんがならないので今後はもう会いに来ないようにと彼が告げたその時まで,私はずっと彼が好きであった。このように私を拒絶したことに続いて,彼は私をトリニティ・コレッジの講師職から追放することに指導的役割を果たした。

McTaggart was a Hegelian, and at that time still young and enthusiastic. He had a great intellectual influence upon my generation, though in retrospect I do not think it was a very good one. For two or three years, under his influence, I was a Hegelian. I remember the exact moment during my fourth year when I became one. I had gone out to buy a tin of tobacco, and was going back with it along Trinity Lane, when suddenly I threw it up in the air and exclaimed : ‘Great God in boots! – the ontological argument is sound !’
Although after 1898 I no longer accepted McTaggart’s philosophy, I remained fond of him until an occasion during the first war, when he asked me no longer to come and see him because he could not bear my opinions. He followed this up by taking a leading part in having me turned out of my lectureship.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3: Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-130.HTM

[寸言]
ラッセルがヘーゲリアンであったのは若い頃の数年だけのこと。ヘーゲルが数学に関してあまりにも無知で馬鹿げていることを言っていることなどから、また、親友の哲学者ムーアの助けを借りて、ヘーゲリアンであることから脱け出すことができた。その後は、ラッセルはヘーゲルに対する厳しい批判者となっていった。

現代における哲学(的思索)の価値 -科学は目的や価値については語らず

SOCRATES 哲学と無縁の人は,常識,年齢または国籍による習慣的信念,あるいは(慎重な理性の協力または同意なしに自分の心に生い育ってきた確信等に由来する)偏見にとらわれて生涯を送る。そのような人にとっては,世界は明確で有限で明白なものとなってしまいやすい。ありふれた対象は問題を呼び起こすことなく,未知の可能性は軽蔑的に拒否される。

The man who has no tincture of philosophy goes through life imprisoned in the prejudices derived from common sense, from the habitual beliefs of his age or his nation, and from convictions which have grown up in his mind without the co-operation or consent of his deliberate reason. To such a man the world tends to become definite, finite, obvious; common objects rouse no questions.
出典: Tthe value of philosophy’ in The Problems of Philosophy, 1912.]
詳細情報:http://russell-j.com/R601.HTM

[寸言]
哲学者(や哲学研究者)でさえ,多くの偏見にとらわれて生涯を送る。大学勤務のサラリーマン的な哲学者や哲学研究者も,自分の専門としていることに関してはできるだけ客観的に,偏見にできるだけとらわれないように思索をするが,その分野・領域以外は偏見でいっぱい(確信過剰 cocksure),ということはめずらしくない。

哲学は,科学のような誰もが認める回答を与えることができなくても,人間を多くの偏見や先入観から解放し,思考を豊かなものにすることができる。また,科学は,目的や価値については何も語ることはできないが、哲学は,目的や価値についても思索をうながし,科学が提供する成果や技術的成果を有効に活用することにあたって,一定の役割を果たすことが可能である。

ラッセル=アインシュタイン声明発表の舞台裏(3)-ラッセルの記憶違い

Max-Born しかしそれよりももっと悪い事態が起こった。私は新聞を読んで,マックス・ボルン教授(Max Born,1882年-1970年1月5日:ドイツ生まれのイギリスの理論物理学者で,1954年ノーベル物理学賞受賞)の名前を署名者名簿から落としていたことが,また彼が署名することを断わったとさえ言ったことがわかった。事実はまったく逆であった。彼は署名したばかりでなく,最も熱心でありかつ大いに助けになった。これは私の大失態であり,後悔の念が消えることは,これまで,決してなかった。私が自分の間違いを知った時には,誤りを訂正するにはすでに遅すぎたが,自分としてはこの件を正すために考えつくあらゆる手段を即座にまたその後もずっと講じてきている。ボルン教授自身はとても寛大な人であり,ずっと親しく私と交信を続けてくれている。彼以外の大部分の他の署名者たちもそうであるが,ボルン教授のそれと同様,この声明書の企てと達成が,個人的な感情よりも優先したのであった。

But worse was to come. I learned that I had omitted Professor Max Born’s name from the list of signatories, had, even, said that he had refused to sign. The exact opposite was the truth. He had not only signed but had been most warm and helpful. This was a serious blunder on my part, and one that I have never stopped regretting. By the time that I had learned of my mistake it was too late to rectify the error, though I at once took, and have since taken, every means that I could think of to set the matter straight. Professor Born himself was magnanimous and has continued his friendly correspondence with me. As in the case of most of the other signatories the attempt and achievement of the manifesto took precedence over personal feelings.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-260.HTM

[寸言]
M. ボルン教授に関する勘違い(ラッセル=アインシュタイン声明への署名拒否)は、結果オーライであったにしても、いつまでも悔やまれる大きな失敗であった。このような悔恨はだれにでも起こりそうなことではあるが、この重要な局面における思い違いはへたをすると大変なことになってしまう。ラッセルにとって、反省することしきりの出来事であった。(たぶん、ニールス・ボーア教授が断ったことと混同したのではないだろうか?)

ラッセル=アインシュタイン声明発表共同記者会見の様子

BR19550709-2・・・。会場は,人間だけでなく,録音機器や放送機材でギューギュー詰め状態であった。
私は,声明(文)及び署名者のリストを読みあげ,そうしてその声明(文)がどのようにして,またいかなる理由でできあがったか,説明した。続いて,私は,ロートブラット(注:1995年にノーベル平和賞受賞)の補佐のもと,会場からの質問に答えた。当然のことながら新聞記者の心(ジャーナリスト魂)は,アインシュタインの署名が私(ラッセル)のもとに届いた劇的な方法(道のり)に深い印象を受けた。それ以後,声明(文)はアインシュタイン=ラッセル声明(あるいはその逆のラッセル=アインシュタイン声明)と名づけられた。
記者会見が始まった当初は,新聞社側からは,かなり懐疑的な見方や冷淡な態度(無関心な態度)が,また数人の記者からは徹底的な敵意も伺われた。
記者会見が続けられていくうちに,あるアメリカ人記者を除いて,新聞記者たちはしだいに好意的になり,同意さえするようになったとようであった。そのアメリカ人は,私が彼からの質問に対して私が答えたことで,自分の母国アメリカが侮辱されたと感じとったのだった。その記者会見は,(核廃絶のための)会議を開催しようとの科学者への呼びかけの成果を多いに期待しつつ,感激とともに,2時間半で終了した。

Russell-Einstein_ManifestoThe hall was packed, not only with men, but with recording and television machines. I read the manifesto and the list of signatories and explained how and why it had come into being. I then, with Rotblat’s help, replied to questions from the floor. The journalistic mind, naturally, was impressed by the dramatic way in which Einstein’s signature had arrived. Henceforth, the manifesto was called the Einstein-Russell (or vice versa) manifesto. At the beginning of the meeting a good deal of scepticism and indifference and some out and out hostility was shown by the press. As the meeting continued, the journalists appeared to become sympathetic and even approving, with the exception of one American journalist who felt affronted for his country by something I said in reply to a question. The meeting ended after two and a half hours with enthusiasm and high hope of the outcome of the call to scientists to hold a conference.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB32-250.HTM

[寸言]
前日には,(ラッセル=アインシュタイン声明発表のための)共同記者会見は中止になるかもしれないと心配されたが、幸いにも共同記者会見は開催でき、世界に向け大々的に報道された。(声明を発表しているラッセルの、向かって左側からの写真を添付)

最悪の事態の回避-ラッセル=アインシュタイン宣言発表の舞台裏(2)

BR195507 最悪の局面(事態)は,その記者会見の少し前に,結局のところ声明文に署名できないかもしれないと書かれたジョリオ=キュリーからの手紙を受け取ったことであった。彼がなぜ心変わりしたのか,その理由を推し量ることができなかった。私はこの問題を議論するために彼にロンドンに来てくれるよう懇願したが,彼の病気が重すぎ,実現しなかった。私は,声明(文)が共産主義の信条を持った人々の感情をいかなる点においても害することのないように,常に E.H.S.バーロップ博士との接触を保っていた。記者会見が開かれる予定になっていた日の前夜に,ジョリオ=キュリーの反対意見についてバーロップ博士及びと議論するためにビカール氏(注:Pierre Biquard,1901-1992:フランスの物理学者)がパリからやって来たのは,多分にバーロップ博士の努力に負うものであった。ビカール氏はずっと世界科学者連盟(注:World Federation of Scientific Workers:1947年設立。ユネスコの諮問機関)でジョリオ=キュリーに代わって会長をつとめていた。ビカール氏とバーロップ博士の二人は,夜11時30分に到着した。そして真夜中12時を少しまわった頃,私たちは合意に達した。声明(文)は,アインシュタインが署名した時の形式を変えるわけにはいかなかった。それに,いずれにせよ,他の署名者たちに声明(文)の修正について同意を求めるには時間が遅すぎた。そこで私は,ジョリオ=キュリーが異議ありとする点は必要に応じてコメントを脚注に加え,かつ,翌朝私が声明(文)のテキストを読みあげる時に説明することを提案した。私は,アメリカ人の署名者のうちの一人の反対意見を取り扱うのにこのやり方を思いついていた。ジョリオ=キュリーの使者(ビカール氏)も 最終的にこの案に賛成し, –代理で署名する権限を与えられていたので– ジョリオ=キュリーに代わって声明(文)に署名した。

The worst aspect of the affair was that not long before this I had received a letter from Joliot-Curie saying that he feared that, after all, he could not sign the manifesto. I could not make out why he had changed. I begged him to come to London to discuss the matter, but he was too ill. I had been in constant touch with Dr E. H. S. Burhop in order that the manifesto should not in any way offend those of communist ideology. It was largely due to his efforts that the night before the conference was scheduled to take place Monsieur Biquard came from Paris to discuss with Burhop and myself Joliot-Curie’s objections. Monsieur Biquard has since taken Joliot-Curie’s place in the World Federation of Scientific Workers. They arrived at 11.30 p,m. Sometime after midnight we came to an agreement. The manifesto could not be changed from the form it had had when Einstein had signed it and, in any case, it was too late to obtain the agreement of the other signatories to a change. I suggested, therefore, that Joliot-Curie’s objections be added in footnotes where necessary and be included in my reading of the text the following morning. I had hit upon this scheme in dealing with an objection of one of the Americans. Joliot-Curie’s emissary at last agreed to this and signed the manifesto for him, as he had been empowered to do if an agreement could be reached.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-230.HTM

[寸言]
重病であったジョリオ=キュリー(の代理)との話し合いがうまくいかなければ、ラッセル=アインシュタイン声明は発表できなかったかも知れなかったというエピソード。誰にも人とは違ったこだわりがあり、お互いが譲歩しなければ、まとまるものもまとまらなくなるが、この時はよい解決法が見つかってなんとか一件落着。

ラッセル=アインシュタイン声明発表の舞台裏 - 歴史の証人

BR195507-B (1955年)6月となったが,科学者たちに送った私の手紙に対する返事は,まだ全て届いているわけではなかった。いずれにせよ,その声明文(後にラッセル=アインシュタイン宣言と呼ばれるようになった声明文)をどのような方法で公表すべきかについて何らかの具体的な計画を立てなければならないと思った。その声明(文)について,即ち,その声明(文)の趣旨とそれを支持した人々が卓越した人々であることについて,一般の注意を喚起するために劇的なスタート(発進)を行わなければならない,と感じた。多くの計画案を捨てた後,専門家の助言を得ることを決意した。私は,オブザーヴァー紙の編集主幹を少し知っており,彼はリベラルでありかつ私に好意を持っている,と信じていた。彼はそのとおりの人(リベラルかつラッセルに好意的)であることがわかった。彼はさっそくこの問題について議論するために,同僚たちを集めてくれた。彼らは,その声明(文)が書かれ,様々の信条を持つ多数の著名な科学者たちが署名したという事実を単に公表するだけでなく,それ以上の何かをなす必要があるということで意見が一致した。彼等は,私が記者会見を開き,声明(文)を読みあげ,質問に応えることを提案した。実際には彼らはその提案以上のことをしてくれた。彼等は,記者会見が終わるまで(この件が一段落するまで/not until later)自分たちがそうしたことを一般に知らせないという条件で,この会議を準備し,経費を負担することを申し出てくれた。最終的にこの記者会見を1955年7月9日に開くことが決定された。(記者会見の)一週間前にロンドンのキャクストン・ホール(Caxton Hall)の一室が予約された。記者会見への招待状が,BBCをはじめ在ロンドンの外国のラジオやテレビの代表はもとより,全ての新聞社の編集主幹及び各国新聞社の代表に送られた。招待状には,ただ世界的関心事のある重要なことが発表される記者会見が開かれるということだけしか書かれていなかった。その反響は我々を鼓舞するものであり,予約した部屋をそのホールのなかで一番広い部室に変更しなければならなかった。

発表後の一週間は,すさまじいものとなった。一日中,電話は鳴りっぱなしであり,戸口のベルも鳴り響いた。ジャーナリストもラジオのディレクターも,この重要なニュースの内容を知りたがった。彼らの誰もが,スクープしたがっているようであった。デイリー・ワーカー紙の誰かが,毎日3回ずつ電話をかけてきて,本紙には招待状が来ていないと言った。そうして,毎日3回ずつ,貴紙も招待されていると告げられた。それでもその新聞は,いつもあまりにも冷遇されていたので,それを信じることができなかった。
結局,彼等記者たちには知らされていなかったけれども,その声明の目的の一つは,共産主義世界と非共産主義世界との間の協力を促進することであった。こうした大騒ぎの全ての負担が,私の妻とハウスキーパーの上にふりかかってきた。私は,家族の者以外に顔をみせたり,電話で話したりすることを許されなかった。我々は誰一人,家から出ることができなかった。私は,その週は,自分の書斉で本を読みながら椅子に坐って過した。あとで聞かされたことであるが,その週の間,私はときどき,憂うつそうにこうつぶやいていたそうである。「こんなことではせっかくの花火も湿ってしまう」。私の記憶では,その週はずっと雨が振っており,非常に寒かった。

June came and still all the replies to my letters to the scientists had not been received. I felt that in any case some concrete plan must be made as to how the manifesto should be publicised. It seemed to me that it should be given a dramatic launching in order to call attention to it, to what it said and to the eminence of those who upheld it. After discarding many plans, I decided to get expert advice. I knew the editor of the Observer slightly and believed him to be liberal and sympathetic. He proved at that time to be both. He called in colleagues to discuss the matter. They agreed that something more was needed than merely publishing the fact that the manifesto had been written and signed by a number of eminent scientists of varying ideologies. They suggested that a press conference should be held at which I should read the document and answer questions about it. They did far more than this. They offered to arrange and finance the conference with the proviso that it not become, until later, public knowledge that they had done so. It was decided finally that the conference should take place on July 9th (1955). A room was engaged in Caxton Hall a week before. Invitations were sent to the editors of all the journals and to the representatives of foreign journals as well as to the BBC and representatives of foreign radio and TV in London. This invitation was merely to a conference at which something important of world-wide interest was to be published. The response was heartening and the room had to be changed to the largest in the Hall.
It was a dreadful week. All day long the telephone rang and the doorbell pealed. Journalists and wireless directors wanted to be told what this important piece of news was to be. Each hoped, apparently, for a scoop. Three times daily someone from the Daily Worker rang to say that their paper had not been sent an invitation. Daily, three times, they were told that they had been invited. But they seemed to be so used to being cold-shouldered that they could not believe it. After all, though they could not be told this, one purpose of the manifesto was to encourage co-operation between the communist and the non-communist world. The burden of all this flurry fell upon my wife and my house-keeper. I was not permitted to appear or to speak on the telephone except to members of the family. None of us could leave the house. I spent the week sitting in a chair in my study trying to read. At intervals, I was told later, I muttered dismally, ‘This is going to be a damp squib’. My memory is that it rained during the entire week and was very cold.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-220.HTM

[寸言]
ラッセル=アインシュタイン声明発表の共同記者会見(1955年7月9日開催)は,すでに60年前のことであるが、幸いなことに、その様子は歴史上の確かな記録((写真、映像・音声、ドキュメント)として残っている。
宣言 http://russell-j.com/RUSSELL-EINSTEIN.HTM
音声   http://pugwashconferences.files.wordpress.com/2014/02/19550709_history_manifesto_russell_pressconference.mp3?_=1

アインシュタイン,最後(かつ最期)の公的な仕事

einstein-russell その間,私は,自分の放送がなしえた反響を評価し,次に何をなすべきかを考えた時,私が力を傾注すべき要点は,国家間の協力が必要であるということをはっきり理解した。数多くの非常に有名かつ尊敬されている科学者が,資本主義のイデオロギーをもつ者も共産主義のイデオロギーをもつ者も,両者とも進んでさらなる共同行動への呼びかけに署名してくれそうな声明(文)を作成することが可能であるかもしれないという考えが,私の頭に浮かんだ。けれども私は,そのための何らかの方法を講ずる前に,アインシュタイン博士はそのような計画をどう思うか知りたくて,手紙を書いた。彼は,熱意を込めた返事をくれたが,返事の手紙には,自分は健康があまりすぐれず,当面ほとんど関与することができず,共鳴してくれると自分が思う多様な科学者の名前をあげる以上のことは何も役に立つことはできそうもない,と書かれていた。それにもかかわらず,彼は,私の考えを実行にうつすこと,また私自身で声明(文)を作成してほしい,と懇願してきた。(そこで)私は,私のクリスマス放送「人類の危機(Man’s Peril)」をもとにしてその声明(文)(ラッセル=アインシュタイン宣言)を作成した。
私は,(アインシュタイン推薦のリストをもとに)東西両陣営の科学者のリストを作成した。そして,世界政府推進の(英国の)国会議員たちとローマに行く直前に,それらの科学者たちにその声明(文)(注:ラッセル・アインシュタイン宣言)を同封し手紙を送った。もちろん,アインシュタインにも同意を得るために同じ声明(文)を送った。しかし,彼がそれについてどう考えるかまだ返事がなく,また,快く(進んで)署名してくれるかどうかも聞いていなかった。私たち一行が,ローマから世界政府協会の次の集会が開かれることになっていたパリに飛行機で向かっていた時,その機内でアインシュタイン逝去のニュースが,機長によってアナウンスされた。私は,身も心も打ち砕かれたように感じた。それは,彼を失った悲しみという明白な理由からだけではなく,また,彼の支持なくしては計画が失敗(頓挫)することを理解していたからであった。 しかし,私がパリのホテルに到着すると,署名に同意するというアインシュタインからの手紙が届いているのを発見した。これは,彼の公的な生涯での最後の仕事の一つとなった。

Meantime, as I assessed the response that my broadcast had achieved and considered what should be done next, I had realised that the point that I must concentrate upon was the need of co-operation among nations. It had occurred to me that it might be possible to formulate a statement that a number of very well-known and respected scientists of both capitalist and communist ideologies would be willing to sign calling for further joint action. Before taking any measures, however, I had written to Einstein to learn what he thought of such a plan. He had replied with enthusiasm, but had said that, because he was not well and could hardly keep up with present commitments, he himself could do nothing to help beyond sending me the names of various scientists who, he thought, would be sympathetic. He had begged me, nevertheless, to carry out my idea and to formulate the statement myself. This I had done, basing the statement upon my Christmas broadcast, ‘Man’s Peril’. I had drawn up a list of scientists of both East and West and had written to them, enclosing the statement, shortly before I went to Rome with the Parliamentarians. I had, of course, sent the statement to Einstein for his approval, but had not yet heard what he thought of it and whether he would be willing to sign it. As we flew from Rome to Paris, where the World Government Association were to hold further meetings, the pilot announced the news of Einstein’s death. I felt shattered, not only for the obvious reasons, but because I saw my plan falling through without his support. But, on my arrival at my Paris hotel, I found a letter from him agreeing to sign. This was one of the last acts of his public life.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 2: At home and abroad, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-190.HTM

[寸言]
ラッセルとアインシュタインはお互い敬愛(尊敬)しあった。
アインシュタインは温和な性格から多くの人に愛された。ラッセルも同様であるが、率直な物言いが影響して、権力者からは忌み嫌われ、デマも多くだされ、毀誉褒貶が激しかった。
アインシュタインは、ラッセルの『西洋哲学史』に推薦の言葉を寄せ、次のように、ラッセルを讃えている。
945
「バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』(A History of Western Philosophy, 1945)は貴重な書物である。この偉大な思想家ラッセルにおけるすばらしい新鮮さと独創性、換言すれば、過去の遠い時代や異質的な精神にたいする感情移入の鋭さについて、私はいかにそれを頌えるきか、言葉を知らないくらいである。現代――この、かくもドライで野蛮な時代においてすら、かくも英知にみち、信頼に値し、徹底的であり、しかもヒューマーにみちあふれた人間が存在することを示し得るのは、幸福である。この本は党派や見解のもろもろの闘争をはるかに超越し、もっとも深い意味で教育的である。A.アインシュタイン(1946)」

ラッセル=アインシュタイン宣言より

gca_xenophobia ・・・。さて,ここに私たちが皆さんに提出する問題,きびしく,恐ろしく,そして避けることのできない問題がある -即ち,私たちは人類に絶滅をもたらすか,それとも人類が戦争を放棄するか? 戦争を廃絶することはあまりにも困難であるという理由で,人々はこの二者択一という問題を面と向かってとり上げようとしないであろう。
戦争の廃絶国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかし,おそらく他のなにものにもまして事態の理解をさまたげているのは,「人類」という言葉が漠然としており,抽象的だと感じられる点にあるだろう。危険は単にぼんやり感知される’人類’に対してだけではなく,自分自身や自分の子どもや孫たちに対して存在するのだが,人々はそれを想像力を働かせることによって認識することは,ほとんどできない。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが,苦しみもだえながら死滅するという,切迫した危険状態にあるということをほとんど理解していない。そうして人々は,近代兵器さえ禁止されるなら,戦争は継続してもかまわないだろう(大丈夫だろう)と,思っている(希望的観測をしている/楽観している)。
この思い(希望)は幻想である。たとえ水爆を使用しないといういかなる協定が平時(平和時)に結ばれていたとしても,戦時にはそのような協定はもはや拘束とは考えられず,戦争が起こるやいなや双方とも水爆の製造にとりかかるであろう。なぜなら,もし一方が水爆を製造して他方が製造しないとすれば,水爆を製造した側はかならず勝利するにちがいないからである。・・・。

Here, then, is the problem which we present to you, stark and dreadful and inescapable: Shall we put an end to the human race; or shall mankind renounce war? People will not face this alternative because it is so difficult to abolish war.
The abolition of war will demand distasteful limitations of national sovereignty. But what perhaps impedes understanding of the situation more than anything else is that the term ‘mankind’ feels vague and abstract. People scarcely realize in imagination that the danger is to themselves and their children and their grandchildren, and not only to a dimly apprehended humanity. They can scarcely bring themselves to grasp that they, individually, and those whom they love are in imminent danger of perishing agonizingly. And so they hope that perhaps war may be allowed to continue provided modern weapons are prohibited.
This hope is illusory. Whatever agreements not to use H-bombs had been reached in time of peace, they would no longer be considered binding in time of war, and both sides would set to work to manufacture H-bombs as soon as war broke out, for, if one side manufactured the bombs and the other did not, the side that manufactured them would inevitably be victorious.
出典:ラッセル=アインシュタイン宣言(1955年7月9日発表)
詳細情報:http://russell-j.com/RUSSELL-EINSTEIN.HTM

[寸言]
憲法9条の「国家の交戦権の放棄」は非現実的だと主張する政治家の非現実性。人類が戦争を廃止できる体制(世界連邦政府)をつくるのが先か、それとも戦争(核戦争)が人類をほろぼす(あるいは文明をほろぼす)のが先か!? ・・・。

現実はそんなに甘いものではないと主張する政治家はかえって非現実的!?

RATIONAL 私は、最初、理性に訴える方法を試みた。即ち,核兵器の危険をペスト(黒死病)に比較した。誰しもが「まったくそのとおりだ!」と言った。しかし誰も何もしなかった。特定の集団に注意喚起をしてみた。その成果は限定的ではあれあったが,社会一般や各国政府に対してはほとんど効果はなかった。次に私は,大規模なデモ行進による大衆アピールを試みた。皆がこう言った。「このようなデモ行進は迷惑千万だ!」。その後,政府に対する一般市民の不服従運動という方法を試みた。しかしその方法もまた成功しなかった。こうした方法は全て現在でも行われており,私はそのことごとくを,実行可能でさえあれば支持する。しかしそれらは,部分的な効果しかないということが明らかになっている。私はいま,各国政府と一般の人々の双方同時にアピールするという新しい試みを行っている。私は生きているかぎり,その探求を続けるだろう。そして,きっと,その仕事を他の人たちに続けてもらうべく任せるだろう。しかし,人類が自らを保存する価値があると考えるかどうかは,依然として疑問のままである。(イラスト出典: Bertrand Russell’s The Good Citizen’s Alphabet, 1953 — Rational – Not basing opinions on evidence 逆説的な物言い)

I tried first the method of reason: I compared the danger of nuclear weapons with the danger of the Black Death. Everybody said, ‘How true,’ and did nothing. I tried alerting a particular group, but though this had a limited success, it had little effect on the general public or Governments. I next tried the popular appeal of marches of large numbers. Everybody said, ‘These marchers are a nuisance’. Then I tried methods of civil disobedience, but they, too, failed to succeed. All these methods continue to be used, and I support them all when possible, but none has proved more than partially efficacious. I am now engaged in a new attempt which consists of a mixed appeal to Governments and public. So long as I live, I shall continue the search and in all probability I shall leave the work to be continued by others. But whether mankind will think itself worth preserving remains a doubtful question.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969, chap.4: The Foundation
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-010.HTM

[寸言]
 「確信過剰(cocksure)」な人間の多い政治の世界。自らの愚かさに「確信」を持ってもらいたいところだが・・・。

揉め事(トラブル)の根本原因は,現代世界においては知的な(聡明な)人々が懐疑心でいっぱいである一方,愚かな人々が’確信過剰’である(cocksure)ということである。(The fundamental cause of the trouble is that in the modern world the stupid are cocksure while the intelligent are full of doubt.
出典:The Triumph of Stupidity (written in May 10, 1933 and pub. in Mortals and Others, v.2:p.28.)

他の人間よりも優越したいという欲望 -自己の生存よりも敵の絶滅を望む

gca_jolly 核(兵器)の危険は,各国政府が核兵器を保持する間存続しそうな危険(な状態)を,また,もしそのような破壊力のある物体(大量破壊兵器)が個人の手に渡ればもっと長びきそうな危険(な状態)を表していた。最初私は,一般の人々をこうした危険に目ざめさせる仕事は非常に困難な仕事だとは思っていなかった。私は一般の通念と同じように,自己保存の本能は非常に強力なものであって,それが働けば通常他の全てのものを圧倒すると信じていた。一般の人々は,自分の家族や隣人たちやその消息について聞いたことのあるすべての今生きている人たちとともに(核兵器によって)焼かれてしまうという’予想’を好まないだろう,と私は考えた。そして,核の危険を一般に知らせることだけが必要であり,知らせ終えれば,いかなる党派に属する人でも以前の安全を回復するために結束するだろう,と私は考えた。
しかしその考えが間違いだということがわかった。自己保存の本能よりもっと強い本能があるのである。それは他の人間よりも優越したいという欲望である。私は –私自身も見過していたことであるが– しばしば見過されているある重要な政治的事実があることに気がついた。即ち,,人々は自分たち自身が生き残ることを --あるいは,事実はそれどころか人類の生き残ることを 自分の敵を絶滅させることほど心配しない,という事実である。(イラスト出典: Bertrand Russell’s The Good Citizen’s ALphabet, 1953--Jolly – Downfall of our enemies

The nuclear peril represented a danger which was likely to last as long as governments possessed nuclear weapons, and perhaps even longer if such destructive objects get into private hands. At first I imagined that the task of awakentng people to the dangers should not be very difficult. I shared the general belief that the motive of self-preservation is a very powerful one which, when it comes into operation, generally overrides all others. I thought that people would not like the prospect of being fried with their families and their neighbours and every living person that they had heard of. I thought it would only be necessary to make the danger known and that, when this had been done, men of all parties would unite to restore previous safety. I found that this was a mistake. There is a motive which is stronger than self-preservation : it is the desire to get the better of the other fellow. I have discovered an important political fact that is often overlooked, as it had been by me: people do not care so much for their own survival – or, indeed, that of the human race – as for the extermination of their enemies.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3, chap. 4:The Foundation, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-010.HTM

[寸言]
幼児的な我儘な感性しか持ち合わせていない北朝鮮の指導者。キチガイに刃物(核兵器、特に水爆)のあやうさ。そういった権力者に幻想を抱かせてはならないが、だからといって、核兵器を搭載できる戦略爆撃機B52を低空飛行で飛ばして相手に恐怖心を与え、もし北朝鮮が核兵器(水爆は実際は所有しておらず多分原爆のみ)を使うような可能性がある場合には、(核兵器が使われたら大変なので)韓国の国民を守るために核兵器の先制使用も辞さないという態度をとる米国にも違和感を覚える。日本中の都市が米軍のB29爆撃機によって焦土と化した姿を実際に目にした年配の人なら特にそう思うのではないか?