記憶-信念について詳しく調査研究する際に,心に留めておかなければならない要点がいくつかある。第一の要点は,記憶-信念を構成するすべてのものは,いま起こっているのであって,その信念が言及していると言われる過去の時に起こったのではない,ということである。想起される出来事が起こったということは,あるいは,そもそも過去が存在したということでさえ,記憶-信念の存在にとっては論理的に必然的なことではない。世界は五分前に,正確にその時そうあった通りに,まったく実在しない過去を「想起する」全住民とともに,突然存在し始めたという仮説に,いかなる論理的不可能性もない。異なった時に起こる出来事の間には論理的に必然的な関連はない。それゆえ,いま起こっている,あるいは,未来に起こるであろう,いかなることも,世界が五分前に始まったという仮説を反証することはできない。従って,過去の知識とよばれる出来事は,過去とは論理的に独立である。それらの出来事は現在の内容に完全に分析されうるのであり,そしてその現在の内容は,理論的には,かりに過去が存在しなかったとしても,ちょうど現にあるようなものであるかも知れないのである。
私は,過去の非存在をまじめな仮説として受け入れるべきだと示唆しているわけではない。すべての懐疑論的仮説と同じように,それは論理的には主張することができるが,興味のあるものではない。私がしようとしていることは,論理的にそれが主張できるということを,われわれが想起するときに起こることを分析する際の助けとして用いることだけである。
In investigating memory-beliefs, there are certain points which must be borne in mind. In the first place, everything constituting a memory-belief is happening now, not in that past time to which the belief is said to refer. It is not logically necessary to the existence of a memory-belief that the event remembered should have occurred, or even that the past should have existed at all. There is no logical impossibility in the hypothesis that the world sprang into being five minutes ago, exactly as it then was, with a population that “remembered” a wholly unreal past. There is no logically necessary connection between events at different times; therefore nothing that is happening now or will happen in the future can disprove the hypothesis that the world began five minutes ago. Hence the occurrences which are CALLED knowledge of the past are logically independent of the past; they are wholly analysable into present contents, which might, theoretically, be just what they are even if no past had existed.
I am not suggesting that the non-existence of the past should be entertained as a serious hypothesis. Like all sceptical hypotheses, it is logically tenable, but uninteresting. All that I am doing is to use its logical tenability as a help in the analysis of what occurs when we remember.
出典:The Analysis of Mind, 1921, chap. 9:Memory.
詳細情報:https://russell-j.com/cool/16T-0901.HTM
[寸言]
ラッセルの「世界五分前創造仮説」は、 「涼宮ハルヒの憂鬱」他、内外のSF小説で利用(使用)されています。
ラッセルはこの仮説は論理的に言えること(論理的には重要なこと)であるが、「実際問題として」重要かつ真実であると言っているわけではない、と説明しています。
どうもそこのところを誤解している人がいて、「実際問題として」重要だと(ラッセルは考えていると)主張する人がいます。最近、評論家の保阪正康氏がどこかで(筑摩書房のPR誌『ちくま』だったか?),ラッセルの世界五分前創造仮説はフザケており嫌いだと述べているのを目撃しました(その部分だけ読みました)。
ラッセルの「世界五分前創造仮説」は、人間の思考の特徴や限界を考える上で意義のあるものであり、そういったことに価値を見出さない人の視野の狭さは残念です。