第9章 科学と倫理 n.2 - 外部の行動規範と内なる「良心」(松下 訳)外部の行動規範(行為の規則)の必要性に訴えることが回避されてきた方法の一つは「良心」(の存在)に対する確信であった(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「external rules of conduct」は「行為の外的法則」と訳されている。この近辺では「rule」は全て「法則」と訳されてしまっている)。それは,とくにプロテスタントの倫理において重要であった。神が各人の心に何が正しく何が誤りであるかを啓示すると,また,それゆえ,罪を避けるには,我々は自分の内なる声だけを聴けばよいと,考えられてきた。けれども,この説には二つの困難(問題)がある。第一に,良心は異なった人に異なったことを言う(人が違えば良心は異なる)。第二に,(精神分析による)潜在意識の研究は,良心的な感情の世俗的な原因(良心的な感情の背後には世俗的な原因があること)についての理解を我々にもたらしてきた。良心の異なった判断/評決(different deliverances 異なった判断/評決をすること)について(次のような例がある)。(例えば,)ジョージ三世の良心は,カトリック教徒の解放を認めたら自分の戴冠式の誓いで偽証(perjury)を行ったことになるので,そうしてはならないと告げた(訳注:カトリック教徒解放というのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて英国において起こったローマ・カトリック教徒にかけられた多くの制約を減らし、取り除こうとする運動)。しかし,その後の君主たちはそのような良心の呵責(scruples)は持たなかった。良心は,共産主義者によって主張されているように,貧しい者による富める者からの略奪についてある者には非難させ,また,資本家によって言われているように,富める者による貧しい者からの搾取について他の者には非難させる。良心はある者には,自国が侵略された際には国家を守るべきだと告げ,また,別の者には戦争に参加する者は全て邪悪であると告げる。第一次世界大戦中,政府当局者たちは -その中には倫理を研究した者はほとんどいなかったが- (人間の)良心はとても人をまごつかせるものだと気づき -人は自分自身と闘うことには良心の呵責を感ずるが(自分以外の)他人を徴兵することを可能にするために野外で働くことには(working on the fields 戦場で働く?)良心の呵責は感じない- といったいくらか奇妙な(いくつかの)決定(descisions)に導かれた。彼ら(政府当局者たち)は,また,良心はあらゆる戦争を非とするかもしれないが,極端な状況でなければ(?)(注:failing that そうでなければ),良心はその当時進行中の戦争(第一大戦)に非を唱えることはできなかった,と考えた。どんな理由であれ(for whatever reason),戦うことは正しくないと考える者は,自分の立場を,このようにいくらか原始的かつ非科学的な「良心」という概念で説明せざるをえなかった。 良心の判断/評決の多様性は,その超源が理解される時には,予想されること(予想できること)である。若い頃(青年期の初期)においては,ある種(classes 種類)の行為は是認され,他の種(種類)は否認される。そして,通常の(記憶の)連合の過程によって,快,不快(の感情)は徐々にそれらの行為に付着し,行為によって生み出される是認あるいは否認のそれぞれに対してだけ付着するのではなくなる(訳注:是認には快,否認には不快という感情が付着するだけでなく、個々の行為にもそういった感情が付着する、つまり、個々の行為に対して先入観が形成されていくということ)。時が進むにつれ,我々は若いときの道徳上の鍛錬(moral training 道徳指導,修身)については全て忘れてしまうかも知れないが,いまだ,ある種の行為を居心地悪さを感じる一方,他のものは徳(有徳であること)の紅潮(感)(a glow of virtue)を我々に与えるだろう。内省(という行為)にとって,これらの感情は神秘的なものに思われる。なぜなら,我々は,最初にそれらの感情を生じさせた状況をもはや思い出さないからである。また,従って,それらを,心の内における神の声に帰するのは自然なことである。しかし,大部分の人においては,良心は教育の産物であり,教育者たちが適切だと思うように(思う方向に)、肯定あるいは否定のどちらへも訓練可能である。従って,倫理を外的な(形式的な)道徳律から解放することは正しいが,「良心」という観念によっては,ほとんどなしとげることはできない。 |
Chapter 9: Science and Ethics, n.2
As to the different deliverances of conscience : George III's conscience told him that he must not grant Catholic Emancipation, as, if he did, he would have committed perjury in taking the Coronation Oath, but later monarchs have had no such scruples. Conscience leads some to condemn the spoliation of the rich by the poor, as advocated by communists ; and others to condemn exploitation of the poor by the rich, as practised by capitalists. It tells one man that he ought to defend his country in case of invasion, while it tells another that all participation in warfare is wicked. During the War, the authorities, few of whom had studied ethics, found conscience very puzzling, and were led to some curious decisions, such as that a man might have conscientious scruples against fighting himself, but not against working on the fields so as to make possible the conscription of another man. They held also that, while conscience might disapprove of all war, it could not, failing that extreme position, disapprove of the war then in progress . Those who, for whatever reason, thought it wrong to fight, were compelled to state their position in terms of this somewhat primitive and unscientific conception of "conscience." The diversity in the deliverances of conscience is what is to be expected when its origin is understood. In early youth, certain classes of acts meet with approval, and others with disapproval ; and by the normal process of association, pleasure and discomfort gradually attach themselves to the acts, and not merely to the approval and disapproval respectively produced by them. As time goes on, we may forget all about our early moral training, but we shall still feel uncomfortable about certain kinds of actions, while others will give us a glow of virtue. To introspection, these feelings are mysterious, since we no longer remember the circumstances which originally caused them ; and therefore it is natural to attribute them to the voice of God in the heart. But in fact conscience is a product of education, and can be trained to approve or disapprove, in the great majority of mankind, as educators may see fit. While, therefore, it is right to wish to liberate ethics from external moral rules, this can hardly be satisfactorily achieved by means of the notion of "conscience." |