しかし、こういった事柄だけが唯一人間(彼/彼女)が自身を祝福しなければならない(has to congratulate himself)ものではない。というのは、人間はホモ・サピエンス(という高等な種)の一員ではなかったのか? 動物のなかで人間だけ不滅の魂を持っており、かつ、理性的である(はずだ)。即ち、人間は善悪の違いがわかり、九九の表も覚えている。神は神自身の像に似せて(in His own image)人間を創ったのではなかったか?。そうして、あらゆるものは人間の便宜のために創られたのではなかったのか? (たとえば)太陽は日中を照らすために、月は夜を照らすために創られた(のではないか)---ただし、月は何らかの手ぬかりのために(by some oversight)ただ夜間の半分の時間しか輝かないけれども。地上の生(なま)の(いろいろな)果物は人間の栄養のために創られた(のではないか?)。兎の白い尻尾でさえ、一部の神学者(達)によれば、一つの目的、即ち、狩人が兎を撃つのを容易にさせるという目的をもっている(そうである)。いくつか不便なものがあることも、確かである。(たとえば)ライオンや虎は獰猛すぎるし、 夏は暑すぎ、冬は寒すぎる。しかし、これらのことは、アダムがリンゴを食べた以降にのみ始まった(ことである)。 それ以前は、全ての動物は草食(ベジタリアン)であり、そうして、季節は常に春であった。 もしアダムが桃やブドウや西洋ナシやパインアップルだけで満足していたとしたら、これらの恩寵は依然として我々(人間)のものであるはずだろう。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.18
But these are not the only matters on which he has to congratulate himself. For is he not an individual of the species homo sapiens? Alone among animals he has an immortal soul, and is rational; he knows the difference between good and evil, and has learnt the multiplication table. Did not God make him in His own image? And was not everything created for man’s convenience? The sun was made to light the day, and the moon to light the night — though the moon, by some oversight, only shines during half the nocturnal hours. The raw fruits of the earth were made for human sustenance. Even the white tails of rabbits, according to some theologians, have a purpose, namely to make it easier for sportsmen to shoot them. There are, it is true, some inconveniences: lions and tigers are too fierce, the summer is too hot, and the winter too cold. But these things only began after Adam ate the apple; before that, all animals were vegetarians, and the season was always spring. If only Adam had been content with peaches and nectarines, grapes and pears and pineapples, these blessings would still be ours.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html https://russell-j.com/cool/UE_07-180.HTM
「知的戯言の概要」(1943年発表)」n.17
人々の抱く信念には様々な原因がある。その一つ(の信念)は、当該信念を抱くための(裏付ける)何らかの証拠があるものである。我々は、これを「誰それの電話番号は何番か」とか「(何かのスポーツの)ワールド・シリーズに誰が勝利したか?」といったような事実に関する事柄(事実問題)に適用する。しかし、問題がもっと議論の余地があるものになるいなや、その信念を引き起こす原因は擁護できないものになる。我々は、まずまっさきに、自分達はいいやつだと感じさせるものを信じる。人間様(Mr. Homo)は、胃の消化がよく(体調が良く)、十分な収入があれば、自分は、気まぐれな女房と結婚しいつも無駄遣いをしている隣人の誰それよりも何と分別があることか、と考える。彼(彼女)は、自分の(住んでいる)市(都市)は、五十マイル離れているところにある他の市よりもなんとすぐれていることか、と考える。即ち、わが市には、(その都市よりも)より大きい商工会議所(Chamber of Commerce 商業会議所)があり、より進取的なロータリー・クラブがある。 そして市長は一度も刑務所に入ったことはない、と。彼(彼女)は、 自国はいかに計り知れないほど他のあらゆる国々よりも勝っていることか、と考える。もし、彼(彼女)が英国人であれば、その気性に応じて、シェイクスピアやミルトン、あるいはニュートンやダーウィン、あるいは(海軍の)ネルソ提督や(陸軍の)ウェリントン元帥のことを考える(思い浮かべる)。もし、彼(彼女)がフランス人であれば、フランスは数世紀に渡って、文化、ファッション及び料理において世界の先頭にたってきたと得意がる(congratulate himself 自分を褒める)。もし、彼(彼女)がロシア人であれば、彼(彼女)は自分が真に国際的な唯一の国家に属していることを自覚する。 もし、彼(彼女)がユーゴスラヴィア人であれば、自国の豚を自慢する。もし、彼(彼女)がモナコ王国の生まれあれモナコがばギャンブルの件(he matter of gambling)で世界をリードしていることを自慢する。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.17
People’s beliefs have various causes. One is that there is some evidence for the belief in question. We apply this to matters of fact, such as “what is so-and-so’s telephone number?” or “who won the World Series?” But as soon as it comes to anything more debatable, the causes of belief become less defensible. We believe, first and foremost, what makes us feel that we are fine fellows. Mr. Homo, if he has a good digestion and a sound income, thinks to himself how much more sensible he is than his neighbor so-and-so, who married a flighty wife and is always losing money. He thinks how superior his city is to the one 50 miles away: it has a bigger Chamber of Commerce and a more enterprising Rotary Club, and its mayor has never been in prison. He thinks how immeasurably his country surpasses all others. If he is an Englishman, he thinks of Shakespeare and Milton, or of Newton and Darwin, or of Nelson and Wellington, according to his temperament. If he is a Frenchman, he congratulates himself on the fact that for centuries France has led the world in culture, fashions, and cookery. If he is a Russian, he reflects that he belongs to the only nation which is truly international. If he is a Yugoslav, he boasts of his nation’s pigs; if a native of the Principality of Monaco, he boasts of leading the world in the matter of gambling. . Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html
ChatGPT に Google 翻訳やDeepL翻訳よりもよい訳を示してくれと頼んだら秀逸な回答がありました!
ChatGPT への質問
次の英文は Bertrand Russell が1932年に出版した Education and the Social Order の中の一文です。
Orthodoxy is the grave of intelligence, no matter what orthodoxy it may be. And in this respect the orthodoxy of the radical is no better than that of the reactionary.
この英文を Google translations で日本語に訳してもらうと次のようになります。
「正統性は、それがどんな正統性であろうと、知性の墓場です。 そしてこの点で、過激派の正統性は反動派の正統性より優れているわけではない。」
また、DeepL で訳してもらうと次のようになります。
「正統性は、それがどんな正統性であっても、知性の墓場である。そしてこの点で、急進派の正統性は反動派の正統性に勝るとも劣らない。」
どちらも「Orthodoxy」を「正統性」と訳しています。
「Orthodoxy」には日本語の「正統性」とか「正説」が訳語としてあてられますが、上記の英文をもっとわかりやすく日本語に訳せないでしょうか? また、上記の英文を具体的に説明するとどういう意味内容になるでしょうか?
ChatGPTの回答!
「Orthodoxy」という言葉は、一般的には特定の信念や考え方に対する従順さや正統さを指すことがありますが、Bertrand Russellの文章での「Orthodoxy」は、あらゆる形の従順さや固定観念、伝統的な思考パターンを指しています。つ
つまり、この文章は「どんな形の固定観念であろうと、それに従うことは知性の死につながる。そして、急進派の固定観念も反動派のそれと同じくらい問題がある」という意味です。Russellは、人々が自分たちの信念に疑問を持ち、常に批判的に考えることが重要だと主張しています。上記の文章をよりわかりやすく日本語に訳すと、以下のようになります。
「どんな教義や固定観念にも従うことは知性を破壊する。急進派の信念も反動派のそれと同様に問題がある。」
ChatGPT との対話:ラッセルの英文の日本語訳をお願いし、誤訳ではないかと指摘したら謝った上で正しい訳を提示してくれました(笑)
質問
次のバートランド・ラッセルの英文(Bertrand Russell : History as an art (1954年))を正確に日本語に訳してください。
I suppose the trend will remain until the world settles down to some form of progress less helter-skelter than the present race toward the abyss.
市井三郎氏の日本語訳では「この傾向は,現在の人類が深淵に向ってあわてふためいているのがなくなってきて世界がある種の進歩の形式に落ち着くまで,続くと思っています。」と、「race」を「人類」と訳しています。
しかし、「race」はここでは「競争」の意味であり、「この傾向は,奈落の底に向かう現在の競争よりもあわてふためいているのがなくなってきて、世界がある種の進歩の形態に落ち着くまで,続くと思っています。」といった意味ではないでしょうか?
よろしくお願いいたします。 以下のページにこの英文があります。 https://russell-j.com/beginner/1057_HasA-180.HTM
ChatGPTからの回答
「このような傾向は、世界が現在の混沌から少しでも進歩のある形式に落ち着くまで、現在の深淵に向かう競争よりも少し落ち着いた進歩に向かうと思われます。」
質問(続き)
ありがとうございます。race はどういった時に「競争」と訳し、どういった時に「人類」と訳すのでしょうか?
(とりあえず、お礼を述べて、後から誤訳を指摘します!)
ChatGPTからの回答(続き)
「Race」は、文脈によって異なる訳語が適用されます。一般的に、「race」が「競争」と訳される場合は、競争や競争相手としての意味合いが含まれます。一方、「race」が「人類」と訳される場合は、人種や民族といった意味で用いられます。しかし、文脈によっては、両方の意味を持つ場合もあります。そのため、「race」の正確な意味は、文脈に応じて判断する必要があります。
質問(ChatGPTの誤訳を指摘)
I suppose the trend will remain until the world settles down to some form of progress less helter-skelter than the present race toward the abyss.
の日本語訳として、次の訳文を示していただきました。
「このような傾向は、世界が現在の混沌から少しでも進歩のある形式に落ち着くまで、現在の深淵に向かう競争よりも少し落ち着いた進歩に向かうと思われます。 」
しかし、これは誤訳ではないでしょうか? 「混沌状況は・・・まで続くだろう」と言っている意味が提示された日本語訳にはありません。提示された日本語訳では「・・・落ち着くまで・・・進歩に向かうと思われます。」と論理的におかしな文章になっています。
ChatGPTからの回答(謝罪及び正解の提示)
申し訳ありません。確かに、私が提供した日本語訳には誤りがあります。正しい日本語訳は以下のようになります。
「このような傾向は、現在の深淵に向かう競争よりも少し落ち着いた進歩に向かう形式に世界が落ち着くまで続くと思われます。」
これによって、「race」が「競争」と訳され、「helter-skelter」が「深淵に向かう」と訳されたことが明確になります。再度訳文の提供にご協力いただきありがとうございました。
『ラッセル自伝』でよくわかない箇所をCHATGPT に質問その2
『ラッセル自伝』にでてくる文章なかで、(ずいぶん前のことですが)ある英語のできる人と解釈が異なった英文について、ChatGPTに質問し、以下の回答を得ました。結局、私の解釈がよかったようです。
質問
以下の英文は Bertrand Russell の Autobiography の一節です。この文章のなかで、 「The three days and nights that I spent at Studland remain in my memory as among the few moments when life seemed all that it might be, but hardly ever is.」の意味がいまひとつよくわかりません。 「私がスタッドランドで(オットリンとともに)過ごした3日3晩(3昼夜)は、人生がおよそ可能なかぎり素晴らしいものであるように思われた貴重なひととときの一つとして、私の記億に残っている。実際は、人生はその可能性の全てを開花させることなどめったにないのだが。」と私は訳しました。 特に、「when life seemed all that it might be, but hardly ever is.」の部分の意味合いがよくわかりません。「実際は、人生はその可能性の全てを開花させることなどめったにないのだが。」は誤訳ではないかという人もいます。 この英文はどういう構文なのか、どのように解釈すべきか教えてください。 From this scene I went straight to Studland, still believing that I had cancer. At Swanage, I obtained an old-fashioned fly with an incredibly slow horse. During his leisurely progress up and down the hills, my impatience became almost unendurable. At last, however, I saw Ottoline sitting in a pine-wood beside the road, so I got out, and let the fly go on with my luggage. The three days and nights that I spent at Studland remain in my memory as among the few moments when life seemed all that it might be, but hardly ever is. Source: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 7: Cambridge Again, 1967 http://russell-j.com/beginner/AB17-040.HTM#r366-c109
ChatGPTからの回答 (2,3秒で回答あり!)
この文章は、Bertrand Russell ががんを患ったと思い込んでいた時期に、彼の友人 Ottoline Morrell に会いに行ったときの経験を描写しています。彼が「スタッドランド」という場所で過ごした3日間と3晩は、人生が本来持っている可能性を実感できた貴重な瞬間だったと述べています。
「when life seemed all that it might be, but hardly ever is.」という表現は、人生が本来持っている可能性を全て実現したような感覚を表しています。しかしながら、このような状態は現実にはめったに起こりません。つまり、人生が本来持っている可能性を実現することは、困難なものであるということを示唆しています。
「実際は、人生はその可能性の全てを開花させることなどめったにないのだが。」という部分は、人生が本来持っている可能性をすべて実現することが難しいことを強調しています。つまり、Russell は、スタッドランドでの経験が現実的なものではなく、人生における特別な瞬間だったと思っていることが読み取れます。
『ラッセル自伝』でよくわかない箇所をChatGPT に質問
質問
以下の英文は、バートランド・ラッセルの自伝の第2巻の文章ですが、「I said that I should like to disappear like the man in Arnold Bennett’s Buried Alive, provided I could be sure of discovering a widow in Putney as he did.」(私は、アーノルド・ベネットの(小説)「生き埋めにされて」(Buried Alive)の中に出て来る男のように(ロンドン郊外の高級住宅地の)パットニーの未亡人を確実に見つけることができるならば-、 彼のように消え去りたいと思う、と言った。)」は何を言おうとしているのかわかりません。アーノルド・ベネットの小説である「生き埋めにされて」を読んだことのある英国人なら理解できるでしょうが、日本人の私にはわかりません。どういうことを言っているのか、日本人にもわかるように教えてください。 Dora Black, whom I had not seen before, interested me at once. We spent the evening at Shere, and to beguile the time after dinner, I started by asking everybody what they most desired in life. I cannot remember what Dorothy and Nicod saids; I said that I should like to disappear like the man in Arnold Bennett’s Buried Alive, provided I could be sure of discovering a widow in Putney as he did. Dora, to my surprise, said that she wanted to marry and have children. Until that moment I had supposed that no clever young woman would confess to so simple a desire, and I concluded that she must possess exceptional sincerity.
ChatGPTからの回答 たった2,3秒で返事あり!
この文章は、バートランド・ラッセルが、新しい人物であるDora Blackと会った際のエピソードを描写したものです。バートランド・ラッセルは、夕食後に時間を潰すため、全員に人生で最も望むことを尋ねました。ドロシーとニコドは何を言ったか覚えていないが、バートランド・ラッセルはアーノルド・ベネットの小説「生き埋めにされて」に出てくる男のように消え去りたいと述べました。ただし、その男が未亡人を探し出したように、彼自身もパットニーに住む未亡人を探し出すことができることが条件でした。
この発言は、バートランド・ラッセルが自分の人生についてどのように考えていたかを示しています。彼は、自分が理想とする人生に到達できなかった場合、消えてしまうことを望んでいたようです。この発言は、ドラマチックで、アーノルド・ベネットの小説に登場するキャラクターにちなんでいますが、本質的には、バートランド・ラッセルが自分の生き方に不満を抱いていたことを示しています。一方で、Dora Blackは、簡単な望みを持っていたことで、彼女の素直さと正直さを感じたようです。
Regenerate response
知的戯言の概要(1943) n.16
他方、罪とは神への不服従であると真剣に考える人々は、神は全能ではないと言わざるをえなくなる。これなら(これまでにあげた)論理的な難問を全て逃れる(get out of all … 抜け出す)。 そうして、これは自由神学者(自由主義的な神学者)達の某一派によって採用されている見解である。けれども、この見解もそれ自身の難点をもっている。(たとえば)神の意志が真に何であるかを我々はいかにして知ることができるだろうか? もし(全能の神だけでなく)邪悪な勢力が一定の権力のわけまえをもっているなら、本当は彼ら(邪悪な勢力)の作品であるものを経典(聖書)として受け入れるように、彼らは我々をあざむくことができるかも知れない(ではないか)。これは、(キリスト教の)グノーシス派の見解であり、彼らは旧約聖書は悪霊の作品であると考えたのである。
我々が自らの理性を捨て、権威(権力)によりかかることに満足するやいなや、我々は際限なくいろいろな困難(問題)にぶつかる。 誰の権威によりかかればよいのか? 旧約聖書か? 新約聖書か? コーランか? 実際には、人々は自分たちが産まれた社会によって神聖だと考えられている書物を選び、その書物から自分達が好む部分を選び、他の部分は無視する。ある時期においては、聖書のなかでもっとも影響力のある文句は「魔女をして生かしむるなかれ」であった。今日では、人々は、この句を、可能であれば黙って、そうでなければ謝罪して、通り過ぎる。そうして、このように、我々は、神聖な書物を持っていても、なお我々自身の偏見(先入見)にあうものであれば何でも真理として選ぶのである。たとえば、司教(a bishop)は一人の妻の夫であるべきである(妻は一人しかもってはならない)という句(テキスト)を本気でとりあげるカソリックは 一人もいないのである。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.16 On the other hand, those who are in earnest in thinking that sin is disobedience to God are compelled to say that God is not omnipotent. This gets out of all the logical puzzles, and is the view adopted by a certain school of liberal theologians. It has, however, its own difficulties. How are we to know what really is God’s will? If the forces of evil have a certain share of power, they may deceive us into accepting as Scripture what is really their work. This was the view of the Gnostics, who thought that the Old Testament was the work of an evil spirit. As soon as we abandon our own reason, and are content to rely upon authority, there is no end to our troubles. Whose authority? The Old Testament? The New Testament? The Koran? In practice, people choose the book considered sacred by the community in which they are born, and out of that book they choose the parts they like, ignoring the others. At one time, the most influential text in the Bible was: “Thou shalt not suffer a witch to live.” Nowadays, people pass over this text, in silence if possible; if not, with an apology. And so, even when we have a sacred book, we still choose as truth whatever suits our own prejudices. No Catholic, for instance, takes seriously the text which says that a bishop should be the husband of one wife.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html
知的戯言の概要(1943) n.15
罪の概念(notion)には論理的な難点がある(訳注:concept = 客観的な概念;notion = 主観的概念)。我々は、罪は神の命令に服従しないことにある(従わないことで成り立っている)と言われるが、神は全能であるとも言われる。 (しかし)もし仮に神が全能であるならば、神の意志に反することは何も起こり得ないだろう(神は全能なんだから起こり得るはずはない)。従って、罪人(つみびと)が神の命令に服従しない場合には、神はそうなることを意図したのであるに違いない(ということになる/はずである)。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年- 430年:西ローマ帝国時代のカトリック教会の司教、神学者、哲学者)は大胆にもこの見解を受け入れ、そうして、神が人々(人間)に課することに盲目であることによって、彼ら(人間)は罪へと導かれるのだ、と主張する。しかし 現代の神学者の大部分は、もし神が人々(人間)の罪を犯す原因であるならば、人々(人間)がなさざるをえないことを理由にして彼ら(人間)を地獄に送ることは公正(フェア)ではない、と感じてきている。(また)我々は、 罪は神の意志に反して行動することにある(おいて成り立つ)と言われる。けれども、これは(これも)(罪の概念に含まれている)論理的難点を取り除かない。スピノザのように、神の全能を真面目に取る人々は 罪などというものは存在し得ない(ありえない)と推論(演繹)する。これは恐ろしい結果へと導く。スピノザの同時代人は言った。「何だと!? ネロが自分の母親を殺したのは邪悪ではないと言うのか!? アダムが(神が禁止していた)リンゴを食べたのはアダムの罪ではないというのか!? ある行為は別の行為と同様に良いというのか?(=行為に良し悪しはないというのか?) スピノザはそれにより身悶えするが、(他に)満足できる答えを見出すことができない。 もし仮に、あらゆることが神の意志に一致して生じるのだとすれば、神はネロがその母親を殺すことを望んでいたに違いない。従って、神は善であるのであるから、ネロの母殺しは良いことであったのにちがいない。 この議論から逃れることはまったくできない。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.15 There are logical difficulties in the notion of Sin. We are told that Sin consists in disobedience to God’s commands, but we are also told that God is omnipotent. If He is, nothing contrary to His will can occur; therefore when the sinner disobeys His commands, He must have intended this to happen. St. Augustine boldly accepts this view, and asserts that men are led to sin by a blindness with which God afflicts them. But most theologians, in modern times, have felt that, if God causes men to sin, it is not fair to send them to hell for what they cannot help. We are told that sin consists in acting contrary to God’s will. This, however, does not get rid of the difficulty. Those who, like Spinoza, take God’s omnipotence seriously, deduce that there can be no such thing as sin. This leads to frightful results. What! said Spinoza’s contemporaries, was it not wicked of Nero to murder his mother? Was it not wicked of Adam to eat the apple? Is one action just as good as another? Spinoza wriggles, but does not find any satisfactory answer. If everything happens in accordance with God’s will, God must have wanted Nero to murder his mother; therefore, since God is good, the murder must have been a good thing. From this argument there is no escape.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.14
現代の道徳は二つの要素の混合物である。即ち、一方には、一つの社会のなかで平和に暮らす方法についての理性的な規範(rational precepta)[という要素]があり、他方には、もともとは何らかのの古代の迷信に由来するが,直接的にはキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教の聖典に由来する伝統的タブー[という要素]がある。ある程度まではこの二つ[の要素]は一致[同意]する。たとえば殺人や窃盗の禁止は、人間の理性によっても神の命令によっても支持される。しかし、豚肉や牛肉[を食べること]を禁止するのはただ経典(聖典)の権威だけであり、しかも、若干の宗教にみられるだけである。現代人は、あたらしい知識をもたらし、社会生活の諸条件 を変更する道程において、科学がはたしてきたことがらを知っているのだが、その現代人がはるか古 代の、そして、きわめて無知な遊牧民あるいは農民の物の見方を具現化したものである 。神聖な性格をこのように無批判に認められている規範の多くが全く不必要な不幸を多く与えるものであることは、人を落胆させる。もし、人間の親切心がもっと強いものであるならば、人々はこれらの戒律は文字どおりにとられるべきではないと説明する何らかのの方法を発見することであろう。(たとえば)「汝の持てるものの全てを売り、貧しき者に与えよ」という(聖書の)命令も文字通りに受け取るべきではないのと同じである。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.14
Modern morals are a mixture of two elements: on the one hand, rational precepta as to how to live together peaceably in a society, and on the other hand traditional taboos derived originally from some ancient superstition, but proximately from sacred books, Christian, Mohammedan, Hindu, or Buddhist. To some extent the two agree; the prohibition of murder and theft, for instance, is supported both by human reason and by Divine command. But the prohibition of pork or beef has only scriptural authority, and that only in certain religions. It is odd that modern men, who are aware of what science has done in the way of bringing new knowledge and altering the conditions of social life, should still be willing to accept the authority of texts embodying the outlook of very ancient and very ignorant pastoral or agricultural tribes. It is discouraging that many of the precepts whose sacred character is thus uncritically acknowledged should be such as to inflict much wholly unnecessary misery. If men’s kindly impulses were stronger, they would find some way of explaining that these precepts are not to be taken literally, any more than the command to “sell all that thou hast and give to the poor.”
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.13
「神の御前に」( in the sight of God 神の眼前で)という文句は私を当惑させる。人は、神はあらゆるものを見ていると想像するであろう。しかし、これはどうやら(apparently 見たところ;一見したところ)誤っているようである。(たとえば)神はレノ(訳注:アメリカのネバダ州の都市で、簡単に離婚ができることで有名)を見ていない。というのは、神が見ているところではあなたは離婚することができないからである(注:レノにおいても見ているのなら神が許すはずはないではないか)。登記所(Registry offices )というの はおかしなところである。 公然と罪をおかして生きているような人を(決して)訪ねようとはしないだろう尊敬すべき人々が、(宗教的儀式を行わないで)登記所に届けるだけの略式結婚(a civil marriage)しかしていない人々を喜んで訪ねていることに私は気がついている。従って、どうやら、神は登記所を(も)みているようである。(← この理屈が今一つわかりませんが・・・?)
著名人のなかには、カソリック教会の教義でさえ性の問題に関してはなげかわしいほど緩い(lax だらしがない)と考える者がいる。 トルストイやマハトマ・ガンジーは、高齢になってから、性交は全て、結婚していて子供を生む目的としたものであってさえ、邪悪であると規定した(laid it down)。マニ教徒(注:精神を善、肉体を悪とする二元論を信仰)も同様に考え、人間の生来の罪深さに頼り、絶えず新しい信徒の群を供給した(のである)。けれども、この教義は異端である。ただし、結婚は独身と同様、称賛に値すると主張することも等しく異端である。トルストイは、タバコ(シガレット)は、ほとんど性同様に悪だ、と考える。彼のある小説のなかで、殺人のことを思い巡らしているある男が、殺人に必要な狂暴さを生み出すために、まず一本のタバコ(シガレット)吸う。けれども、タバコは、サムエル・バトラー(Samuel Butler 1612-)が指摘しているように、 聖書(経典)のなかでは禁止されてはいない。サムエル・バトラーが指摘しているように、もし聖パウロがタバコを知っていたなら、きっと疑いもなく、彼はそれを公然と非難したに違いない。 教会も、それから現代の世論も、愛撫(ペッティング)を、もしそれがある一定の線で留まるならば非難しない、というのは不思議である(奇妙である)。どの線から罪になるのかという問題については、決疑論者(casuist)によって意見が異なる。ある著名な正統派カソリックの神学者は、もし邪悪な意図がなければ贖罪司祭(a confessor)が修道女の胸を愛撫してもよいと規定した。しかし、現代の教会当局がこの点でその神学者の意見に 賛成するかどうかは疑わしい。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.13
The phrase “in the sight of God” puzzles me. One would suppose that God sees everything, but apparently this is a mistake. He does not see Reno, for you cannot be divorced in the sight of God. Registry offices are a doubtful point. I notice that respectable people, who would not call on anybody who lives in open sin, are quite willing to call on people who have had only a civil marriage; so apparently God does see registry offices. Some eminent men think even the doctrine of the Catholic Church deplorably lax where sex is concerned. Tolstoy and Mahatma Gandhi, in their old age, laid it down that all sexual intercourse is wicked, even in marriage and with a view to offspring. The Manicheans thought likewise, relying upon men’s native sinfulness to supply them with a continually fresh crop of disciples. This doctrine, however, is heretical, though it is equally heretical to maintain that marriage is as praiseworthy as celibacy. Tolstoy thinks tobacco almost as bad as sex; in one of his novels, a man who is contemplating murder smokes a cigarette first in order to generate the necessary homicidal fury. Tobacco, however, is not prohibited in the Scriptures, though, as Samuel Butler points at, St. Paul would no doubt have denounced it if he had known of it. It is odd that neither the Church nor modern public opinion condemns petting, provided it stops short at a certain point. At what point sin begins is a matter as to which casuists differ. One eminently orthodox Catholic divine laid it down that a confessor may fondle a nun’s breasts, provided he does it without evil intent. But I doubt whether modern authorities would agree with him on this point.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html