第18章 権力を手懐けること, n.17

 第一に,「所有(権)」は「支配(権)」と同じもの(概念)ではない。仮に,たとえば,国家が鉄道を所有していて(注:国有),しかも国家は市民全体である(市民全体から国家は成っている)と考えられる場合,それは(それだからといって)ひとりでに一般市民が(国が所有している)鉄道に対して何らかの権力を持つであろうということを保証するものではない。(ここで)しばらくの間,バーリー氏とミーンズ氏がアメリカの大規模な株式会社(corporations 法人)の所有権と支配権について述べていることに,戻ってみよう。彼らの指摘によれば,そういった株式会社の大多数において,全ての理事を合計しても,彼らは通常(株式全体の)たった1~2%しか株を保有していないにもかかわらず,事実上,彼らは(当該法人に対して)完全な支配権を握っている。 「(株式会社の)取締役会(注:board 役員会,理事会)の(役員)選挙において,株主は,通常,3つの選択肢(alternatives)をもっている。(即ち)投票をやめるか,年次総会に出席して個人的に自分が保有している株の権利分について投票するか,あるいは株式会社の経営者(management)や投票委員会(a proxy committee)によって選ばれた特定の人たちに自分の投票権を譲る委任状に署名するか,そのいずれかを選ぶことができる。その人がよほどの大株主でないかぎり,一株主の個人的投票権(議決権)などは株主総会においてはほとんどとるに足らないものなので,株主は,実際には,まったく(総会に出席して)投票しないという選択肢か,あるいは,彼がまったく支配権(影響力)を持っていない人に,またその人を選ぶことに関与できなかった人に,自分の投票権(議決権)を手渡すという選択肢へと陥らされる(reduced to 切り詰められる)。いずれの選択肢を選んでも,彼にはまったく支配する手段をふるうことはできないであろう。むしろ,支配権は投票委員会(の委員)を選出する人々の手中にある傾向があるであろう。・・・投票委員会は,現在の経営陣(経営幹部)が指名するものである以上,経営陣(経営幹部)は,事実上,自分たちの後継者を指図することができるわけである。」(前掲書,pp.86-87)

Chapter 18: The taming of Power, n.17
In the first place, ‘ownership’ is not the same thing as ‘control’. If (say) a railway is owned by the State, and the State is considered to be the whole body of the citizens, that does not insure, of itself, that the average citizen will have any power over the railway. Let us revert, for a moment, to what Messrs Berle and Means say about ownership and control in large American corporations. They point out that, in the majority of such corporations, all the directors together usually own only about one or two per cent of the stock, and yet, in effect, have complete control : ‘In the election of the board the stock holder ordinarily has three alternatives. He can refrain from voting, he can attend the annual meeting and personally vote his stock, or he can sign a proxy transferring his voting power to certain individuals selected by the management of the corporation, the proxy committee. As his personal vote will count for little or nothing at the meeting unless he has a very large block of stock, the stock holder is practically reduced to the alternative of not voting at all or else of handing over his vote to individuals over whom he has no control and in whose selection he did not participate. In neither case will he be able to exercise any measure of control. Rather, control will tend to be in the hands of those who select the proxy committee. … Since the proxy committee is appointed by the existing management, the latter can virtually dictate their own successors (* note: op. cit., pp. 86-87.)
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること, n.16

 政治運動としての社会主義は,諸産業の賃金労働者の利益を促進することを目指してきた。社会主義の技術的な強み(長所)は,比較的人目につかないままとなってきた。社会主義の信条は,民間資本家の経済的権力は彼らが貸金労働者を抑圧することを可能にするということであり,貸金労働者は,昔の手工業者のように,個人的に自らの生産手段を所有することはできないので,貸金労働者を解放する唯一の道(方法)は,労働者全体による(生産手段の)集団所有以外にはない,というものである。(また)民間の資本家が(生産手段や資本などを)没収されるならば,労働者の全体が国家を構成することになるだろうと,また,その結果,経済的権力の問題は,土地と資本の国有化によって完全に解決できるが,それ以外の方法では解決できない,と論じられている(主張されている)。これは,経済的権力を手懐けるための一つの提案であり,従って,我々の当面の議論の範囲内のものである(within the purview of ~の範囲内)。  この論拠(議論)を吟味する前に,これ(労働者全体による土地と資本の国有化)が十分に守られ拡大されるならば妥当(な論拠)であると考えると,率直に言いたい。これに反して,そのように(労働者全体による土地と資本の国有化が)守られ,拡充されることがなければ,それは非常に危険なものであると考えるものであり,経済的暴政からの解放を求める人々を完全に誤り導いて,経済的であるとともに政治的な新しい暴政を,これまでに知られているいかなるものよりも激烈なしかも恐るべき暴政を、自分たちがうっかり(注:inadvertently 不注意にも)打ち樹ててしまっていることに気づくということもありそうだと,私は考える(注:つまり,労働者全体による政治を目指したつもりが,少数独裁者が支配する共産主義国のようになってしまう危険性があるということ)。このような新しい暴政は,今までに知られているどのような暴政より,激烈なしかも恐るべきものである。

Chapter 18: The taming of Power, n.16
Socialism as a political movement has aimed at furthering the interests of industrial wage-earners; its technical advantages have been kept comparatively in the background. The belief is that the economic power of the private capitalist enables him to oppress the wage-earner, and that, since the wage-earner cannot, like the handicraftsman of former times, individually own his means of production, the only way of emancipating him is collective ownership by the whole body of workers. It is argued that, if the private capitalist were expropriated, the whole body of the workers would constitute the State ; and that, consequently, the problem of economic power can be solved completely by State ownership of land and capital, and in no other way. This is a proposal for the taming of economic power, and therefore comes within the purview of our present discussion. Before examining the argument, I wish to say unequivocally that I consider it valid, provided it is adequately safeguarded and amplified. Per contra, in the absence of such safeguarding and amplifying I consider it very dangerous, and likely to mislead those who seek liberation from economic tyranny so completely that they will find they have inadvertently established a new tyranny at once economic and political, more drastic and more terrible than any previously known.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること, n.15

 土地の国有化及び大規模な経済組織の国有化に賛成する論拠(arguments 議論;論拠,理由)は,一部は技術的なものであり,一部は政治的なものである。(注:みすず書房版の東宮訳では,「土地は国有にするが,経済組織はなるべく大きなほどいいとする議論」と訳されている。即ち、”State ownership of” は “land” にだけかかり,”the large economic organizations” にはかからず, “in favour of the large organaizations” と解釈/誤訳している。しかし,それでは,この後に書かれているように,大規模な民間企業(私企業)が政府を無視したり,政府を操るようになったら大変だというラッセルの主張と合わなくなってしまう。日本では日本国有鉄道(国鉄)が民営化されJRができたり、郵便などの国有事業が民営化されたりして、何でも民営化したほうがよいと思っている人が多いので東宮氏の訳が正解と思う人もけっこういるかも知れない。しかし,当時の日本政府が国鉄を民営化した時に6つの地域別の「旅客鉄道会社」と1つの「貨物鉄道会社」に分割したのは,民営化する以上競争させる必要があると考えたからであろう。公共性の高いものは民営化に適さない。官公庁も民営化され,税金や手数料を多く払う者には手厚いサービスをするが、非課税の世帯には最低限のサービスしかしなくなったら大変である。金持ちは兵役免除、貧乏人は優先して最前線に派遣するとか・・・!?) 技術的な論拠(理由)は,イギリスのフェビアン協会によるものを除いて,また,アメリカにおいては,TⅤA(注:Tennessee Valley Authority テネシー川流域開発公社)との関連で強調されたのを除いて,(これまで)あまり強調されてこなかった。にもかかわらず,(大規模な経済組織の国有化の)技術的論拠(理由)は,特に電力と水力に関しては,非常に強力なものであり,(そのために)保守党の政府にさえ,技術的な見地から,社会主義的な方策を導入させている(保守党政府は社会主義的政策を導入している)。我々は,近代技術の(発達・導入の)結果,いかにして組織(体)が成長し,合体し,そうして(対象)領域を増していく傾向があるかについて見てきた。(即ち,技術的な見地からの)必然の結果は,政治的国家(political State :治世が主な役割である国家)がしだいに経済的機能を引き受けなければならないか,あるいは,国家を無視したり国家を支配・制御するに足る力をもった巨大な民間企業のために国家が部分的にその機能を放棄しなければならないか,いずれかである。国家がそれらの企業に対する覇権(支配権)を獲得しなければ,国家はそれらの企業のあやつり人形(傀儡)となり,それらの企業が真の国家になる(であろう)。いずれにせよ(In one way or another),近代技術が存在しているところではどこでも,経済的権力と政治的権力は統合化されざるを得ない(must become ならざる得ない/「されなければならない」と訳すと意味がちがってきてしまう!)。このような統合化への動きは,抵抗できない非人間的な性質を有しており,その性質はマルクスが自分が予言した展開(発展)の属性であるとしたものである。しかし,そのような動きは,階級闘争(the class war)あるいはプロレタリア(無産階級)の悪行とはまったく関係がないものである。

Chapter 18: The taming of Power, n.15
The arguments in favour of State ownership of land and the large economic organizations are partly technical, partly political. The technical arguments have not been much stressed except by the Fabian Society, and to some extent in America in connection with such matters as the Tennessee Valley Authority. Nevertheless they are very strong, especially in connection with electricity and water power, and cause even Conservative governments to introduce measures which, from a technical point of view, are socialistic. We have seen how, as a result of modern technique, organizations tend to grow and to coalesce and to increase their scope; the inevitable consequence is that the political State must either increasingly take over economic functions, or partially abdicate in favour of vast private enterprises which are sufficiently powerful to defy or control it. If the State does not acquire supremacy over such enterprises, it becomes their puppet, and they become the real State. In one way or another, wherever modern technique exists, economic and political power must become unified. This movement towards unification has the irresistible impersonal character which Marx attributed to the development that he prophesied. But it has nothing to do with the class war or the wrongs of the proletariat.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること, n.14

 次に論ずべき問題は,恣意的な権力を最小限におさえるのに必要な経済的条件についてである(注:I come now to … 今や~について触れるときである)。この問題は,それ自体から言っても,またこの問題に関連して大きな混乱が生じている点から言っても,非常に重要である。  政治的民主主義は,この間題の一部を解決する一方,決してその問題の全体を解決するものではない(解決しない)。マルクスは,政治のみを通してだけでは,権力の真の平等化はありえないと指摘した。(しかるに)一方,経済的権力は依然として君主政治的あるいは寡頭政治的のままであった。従って,経済的権力は,国家の掌中になければならず,また(同時に)国家は民主的でなければならない,ということになる。今日,マルクスの信奉者(followers 追従者)であると公言している人々は,マルクスの学説(理論)の(前述の)半分を保持するのみであり,(もう半分の)国家は民主的でなければならないという要請のほうは放棄してしまっている。このようにして,彼らは,経済的権力と政治的権力とを共に寡頭政治(少数独裁者グループ)の手の中に集中化し,その結果として,この寡頭政治は,以前のいかなる寡頭政治(少数独裁者グループ)よりも強力なものとなり,暴政をふるうことができるものとなっている。  古風な(旧式の)民主主義も,流行の(新式の)マルクス主義も,両方とも,権力を手懐けること(権力の暴走を防ぐこと)を意図していた(目指していた)。前者は政治においてのみそれを目指したことから失敗し,後者は経済においてのみそれを目指したために失敗した。この両者を結びつけることなしには,問題の解決に近づくことはまったく不可能である

Chapter 18: The taming of Power, n.14
I come now to the economic conditions required in order to minimize arbitrary power. This subiect is of great importance, both on its own account, and because there has been a very great deal of confusion of thought in relation to it. Political democracy, while it solves a part of our problem, does not by any means solve the whole. Marx pointed out that there could be no real equalization of power through politics alone, while economic power remained monarchical or oligarchic. It followed that economic power must be in the hands of the State, and that the State must be democratic. Those who profess, at the present day, to be Marx’s followers, have kept only the half of his doctrine, and have thrown over the demand that the State should be democratic. They have thus concentrated both economic and political power in the hands of an oligarchy, which has become, in consequence, more powerful and more able to exercise tyranny than any oligarchy of former tines. Both old-fashioned democracy and new-fashioned Marxism have aimed at the taming of power. The former failed because it was only political, the latter because it was only economic. Without a combination of both, nothing approaching to a solution of the problem is possible.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること n.13

 法律を遵守する市民が,警察の不当な迫害から保護されるべきだとすれば,二つの警察権力と,二つのスコットランド・ヤード(注:ロンドン警視庁/実際に警察権力を行使する市民警察)がなければならない。(即ち)一つは現在のように犯罪を立証する意図をもった警察権力,いま一つは無罪を立証するための警察権力の二つが存在しなければならない。さらに,検事に加えてこれと匹敵する法律上卓越した弁護士がいなくてはならない。これは(このことは),無実の人を無罪放免することは罪を犯した人に有罪の判決を出すことに劣らず公共の利益になるということが認められるやいなや明らかになることである。その上,弁護の(役割を果たす)警察権力は,ある種の犯罪に関する場合には,即ち,検察側の警察が自らの「義務」の遂行において犯す罪に関する場合には,起訴を行う警察権力にならなければならない(立場を変えなければならない)。このような方法(手段)によって,いや,このような方法によって以外,(私の見る限り),現在の圧政的な警察権力を和らげる(権力の暴走を防ぐ)ことはできないであろう。

Chapter 18: The taming of Power, n.13
If law-abiding citizens are to be protected against unjust persecution by the police, there must be two police forces and two Scotland Yards, one designed, as at present, to prove guilt, the other to prove innocence; and in addition to the public prosecutor there must be a public defender, of equal legal eminence. This is obvious as soon as it is admitted that the acquittal of the innocent is no less a public interest than the condemnation of the guilty. The defending police force should, moreover, become the prosecuting police force where one class of crimes is concerned, namely crimes committed by the prosecuting police in the execution of their ‘duty’. By this means, but by no other (so far as I can see), the present oppressive power of the police could be mitigated.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_130.HTM

第18章 権力を手懐けること n.12

 けれども,この改革(改善)は必要ではあるが,(それだけでは)決して十分ではない。あらゆる国々の警察制度は,容疑者(被疑者)に不利な証拠を集めることは公共の利益になることであるが,容疑者(被疑者)にとって有利な証拠を集めることは容疑者(被疑者)の私的な事柄であるという仮定にその基礎(存立基盤)を置いている。罪を犯した人間が有罪の判決を受けることよりも,無実の人間を無罪とすることのほうがより重要である,とよく言われる。しかし,どこでも,警察の責務(義務)は,犯罪の証拠を探すことであって,無罪の証拠を探すことではない。仮に,あなたが不当にも殺人罪で告訴され,しかもあなたに不利な,一見したところ明白である十分な証拠があるとしてみよう(注:prima facie case :「prima facie 一見すると」「case 事実」/反証が提示されない限り立証あるいは判決の根拠となiりうる十分な証拠)。そうなると,国家資源(人的及び財政的)の全てがあなたの不利になる可能性のある目撃者や証拠(wittness)を探し出すために動員され,最も有能な法律家が(国によって)雇われ,陪審員たちの心の中にあなたにとって不利な偏見を植えつける。その間,あなたは,まったく公的な組織の支援なしに,自分の無実を示す証拠を,私財を投じて収集しなければならない。もしあなたが貧乏だと申し立てれば,弁護士(Counsel 国選弁護人など)が割当てられるであろうが,しかし,その弁護人は恐らく検察官ほど有能ではないであろう。たとえあなたが無罪放免になったとしても(If = even if),映画(映画化の権利を売ること)やサンデー・プレス(から体験談を本として出すこと)で破産を免れることができるに過ぎないであろう。(注:みすず書房版の東宮訳では、Sunday Press を「日曜新聞」と訳されている。しかし Sunday Press というのは出版社のことであろう。新聞に載るくらいでは報酬は僅かであろうし、出版社から「(無実の者の)不当逮捕」を題材に本を出してベストセラーになればかなりの収入になるのはどこの国も同じであろう。ちなみに、Sunday Press (Books) のホームページはこちら:https://www.sundaypressbooks.com/) しかし,あなたが不当にも有罪となるだろうことは,残念ながら(only too),よくあることである。

Chapter 18: The taming of Power, n.12
This reform, however, though necessary, is by no means sufficient. The police system of all countries is based upon the assumption that the collection of evidence against a suspected criminal is a matter of public interest but that the collection of evidence in his favour is his private concern. It is often said to be more important that the innocent should be acquitted than that the guilty should be condemned, but everywhere it is the duty of the police to seek evidence of guilt, not of innocence. Suppose you are unjustly accused of murder, and there is a good prima facie case against you. The whole of the resources of the state are set in motion to seek out possible witnesses against you, and the ablest lawyers are employed by the State to create prejudice against you in the minds of the jury. You, meanwhile, must spend your private fortune collecting evidence of your innocence, with no public organization to help you. If you plead poverty, you will be allotted Counsel, but probably not so able a man as the public prosecutor. If you succeed in securing an acquittal, you can only escape bankruptcy by means of the cinemas and the Sunday Press. But it is only too likely that you will be unjustly convicted.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_120.HTM

第18章 権力を手懐けること n.11

全ての民主主義(体制/社会)において,一定の明確に定義された執行機能(exective function 実行機能)のみを持つように意図された個人や組織は(も),チェックがなされないと,非常に望ましくない独立した権力(注:independent power 他から拘束されない自立した権力)を獲得する傾向がある。これは特に警察(組織)にあてはまる。監督不十分の警察権力から生ずる弊害は(については),アメリカ合衆国の例に関して,アーネスト・ジュローム・ホプキンス(著)『我が国(米国)の無法警察』の中で,カをこめて述べられている(記載されている)。本書の骨子(要点)は(注:the matter この印刷物=本書),警察官は犯罪者(犯人ん)を有罪判決(conviction)に導くような行為(行動)を助長されること,裁判所(裁判官)は自白を犯罪の証拠とすること,その結果,個々の警察官は自分の利益のために逮捕した人間を拷問にかけて自白させようとすること,である。このような弊害は,程度の差こそあれ,どの国にも存在している。インドではこの害悪がはびこっている(rampant)。告白(自白)をさせたいという欲求は,(カトリック)異端審問における拷問の基礎になった(ものであった)。古代中国においては,被疑者を拷問にかけることは慣習であったが,それはある人道主義の皇帝がいかなる者も自白したのでなければ有罪の判決を受けることはないと布告したからであった。警察権力を手なずけるために、必須のことの一つは,どのような状況においても,自白を証拠として決して採用してはならないということである。

Chapter 18: The taming of Power, n.11
In every democracy, individuals and organizations which are intended to have only certain well-defined executive functions are likely, if unchecked, to acquire a very undesirable independent power. This is especially true of the police. The evils resulting from an insufficiently supervised police force are very forcibly set forth, as regards the United States, in Our Lawless Police, by Ernest Jerome Hopkins. The gist of the matter is that a policeman is promoted for action leading to the conviction of a criminal, that the Courts accept confession as evidence of guilt, and that, in consequence, it is to the interest of individual officers to torture arrested persons until they confess. This evil exists in all countries in a greater or less degree. In India it is rampant. The desire to obtain a confession was the basis of the tortures of the Inquisition. In Old China, torture of suspected persons was habitual, because a humanitarian Emperor had decreed that no man should be condemned except on his own confession. For the taming of the power of the police, one essential is that a confession shall never, in any circumstances, be accepted as evidence.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること, n.10

 民主主義が存在している場合においても,それでもなお,個人や少数派(マイノリティ)を暴政から保護する必要があるのは,暴政がそれ自体望ましくないからとともに,暴政はどうしても秩序の破壊へ導きやすいからである。モンテスキューが立法,行政,司法の三権分立を唱導したこと,チェック&バランス(牽制と均衡)に対する英国人の伝統的な信念,ベンサムの政治上の諸原理(教説),及び,十九世紀の自由主義の全ては,権力の恣意的な行使を防止することを意図していた。しかし,そのようなやり方(方法)は,効率性(能率)とは相容れないと(今日)えられるようになってきている。英国陸軍省と英国陸軍近衛師団(騎兵連隊)とを分離したことは,疑いもなく,軍部独裁に対する安全措置であったが,それはクリミア戦争で悲惨な結果を招いた。昔は,立法府と行政府との意見の一致しない場合は,その結果はとても不都合な行き詰まり状態になった。現在,英国においては,実際上(to all intents and purposes 事実上,実際上,どの点から見ても),両方の権力を内閣のなかで結びつけることによって,効率性(能率)は確保されている。18世紀と19世紀に行われた,恣意的な権力を防止する方法は,現代の状況には合わない(そぐわない)とともに,また,今日存在しているような新しい方法もまだあまり有効(効果的)とは言えない。いろいろな形態の自由を保護するとともに,権力を凌駕する官僚や警察や治安判事(注:magistrate 軽微な事件を扱う判事)や裁判官に対して迅速な批判を伝えるための(いろいろな)連携(associations 連合/協会)が必要である。さらにまた,あらゆる重要な公共サービス部門において,ある一定の政治的均衡が必要である。たとえば,警察や空軍内部では普通の意見は,国内全般の(一般的/平均的)意見と比べるとはるかに反動的であるということ(事実)には,民主主義に対する危険が存在している(のである)。

Chapter 18: The taming of Power, n.6 Where democracy exists, there is still need to safeguard individuals and minorities against tyranny, both because tyranny is undesirable in itself, and because it is likely to lead to breaches of order. Montesquieu’s advocacy of the separation of legislative, executives, and judiciary, the traditional English belief in checks and balances, Bentham’s political doctrines, and the whole of nineteenth-century liberalism, were designed to prevent the arbitrary exercise of power. But such methods have come to be considered incompatible with efficiency. No doubt the separation of the War Office and the Horse Guards was a safeguard against military dictatorship, but it had disastrous results in the Crimean War. When, in former times, the legislature and the executive disagreed, the result was a highly inconvenient deadlock; now in England, efficiency is secured by uniting both powers, to all intents and purposes, in the cabinet. The eighteenth and nineteenth century methods of preventing arbitrary power no longer suit our circumstances, and such new methods as exist are not yet very effective. There is need of associations to safeguard this or that form of liberty, and to bring swift criticism to bear upon officials, police, magistrates, and judges who exceed their powers. There is need also of a certain political balance in every important branch of the public service. For example, there is danger to democracy in the fact that average opinion in the police and the air force is far more reactionary than in the country at large.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること n.9

 統治領域(統治範囲)がとても広くなることは現代世界においては全く避けがたい,と思われるであろう。実際,最重要な目的のうちの若干の目的のためには -特に戦争と平和という目的のためには- 世界全体のみが唯一の適切な領域(範囲)である。対象領域(範囲)が広いことの心理的な短所 - 特に一般の有権者が抱く無力感及び(関係する)諸問題の大部分に関する無知- は認めなくてはならない。また,前述したように,一部は異なる利害を組織化すること(体系づけること)によって,一部は連邦(政府)によってあるいは(各国政府への)権限委譲によって,できるだけこの短所は最小化されなければならない。個人が幾分従属的になることは,社会の組織化の増大による避けられない結果である。しかし,戦争の危険が除去されるならば,地方的な問題も,再び前面に現れてくるであろうし,人々の政治的関心は,現在以上に,彼ら(一般選挙民)が知識と影響を与えられる声(発言権)とをあわせて持った問題に一層関連したものになるであろう。というのは,戦争の恐れ(戦争に対する恐怖心)が,何よりも,人々の注意を,遠隔の国々や自国政府の対外活動に,強いるからである。

Chapter 18: The taming of Power, n.9
Very large governmental areas are, it would seem, quite unavoidable in the modern world; indeed, for some of the most important purposes, especially peace and war, the whole world is the only adequate area. The psychological disadvantages of large areas — especially the sense of impotence in the average voter, and his ignorance as to most of the issues — must be admitted, and minimized as far as possible, partly, as suggested above, by the organization of separate interests, and partly by federation or devolution. Some subjection of the individual is an inevitable consequence of increasing social organization. But if the danger of war were eliminated, local questions would again come to the fore, and men’s political interests would be much more concerned than at present with questions as to which they could have both knowledge and an effective voice. For it is the fear of war, more than anything else, which compels men to direct their attention to distant countries and to the external activities of their own government.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること n.8

 地方の利害や構成単位(種々の構成員)の感情,連邦と結びついた利害や感情よりも強い時には常に,連邦制が望ましい(注:一つの国家ではなく,ドイツや米国のような連邦制にする方がよい,ということ)。仮に国際的な政府が存在するならば,それは明らかに(権力が及ぶ範囲が)厳密に定義された権力をもつ,国民政府の連合体(a federation 連邦政府)でなければならないであろう。すでに,郵便などの,若干の目的のための国際的な機構(authorities 権威,当局)が存在している。しかし,そうした目的は,国際政府によって扱われる諸目的ほど公衆を益するものではない。そのような条件が欠けている場合には,連邦政府は,連邦を構成する単位であるいくつかの政府(the governments of the several units)を侵害しがちである。 アメリカ合衆国においては,憲法が制定されて以降,連邦政府は,諸州の犠牲によって力を増してきた。同様の傾向は,1872年から1918年に至るまでのドイツにも存在した。(一つの)世界連邦政府でさえ - 内乱の可能性はそこそこあるので(as might well happen)- もし(世界)連邦からの分離離脱の問題で内乱に巻き込まれていることに気がつくなら、連邦政府が勝利する場合には,多くの国民政府に対して,測り知れないほど強化される(強化する)であろう。このように,一つの方法としての連邦の効能は,非常に明確な限界を有している。しかしこの限界の枠内において,連邦(方式)は望ましくかつ重要である。

Chapter 18: The taming of Power, n.8
A federal system is desirable whenever the local interests and sentiments of the constituent units are stronger than the interests and sentiments connected with the federation. If there were ever an international government, it would obviously have to be a federation of national government, with strictly defined powers. There are already international authorities for certain purposes, e.g. postage, but these are purposes which do not interest the public so much as do those dealt with by national governments. Where this condition is absent, the federal government tends to encroach upon the governments of the several units. In the United States, the federal government has gained at the expense of the States ever since the Constitution was first enacted. The same tendency existed in Germany from 1871 to 1918. Even a federal government of the world, if it found itself involved in a civil war on the question of secession, as might well happen, would, if victorious, be immeasurably strengthened as against the various national governments. Thus the efficacy of federation, as a method, has very definite limits ; but within these limits it is desirable and important.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_080.HTM