ラッセル『結婚論』第二十一章 結論 n.1

 第二十一章 結論 n.1

 これまでの議論の過程で,我々は,いくつかの結論に到達した。あるものは歴史的なもの(結論)で,あるものは倫理的なもの(結論)である。歴史的には,文明社会に存在する性道徳は,まったく異なる二つの源泉に由来しており,一方では,誰が父親であるか(父性)をはっきりさせたいという欲求,他方では,性は繁殖に必要な場合を除いて邪悪なものであるという禁欲的な信念に由来していることを発見した。キリスト教以前の時代の,また,極東では今日にいたるまでの,道徳には,前者の源泉しかなかった。ただし,インドとペルシアは例外で,そこを中心地として,禁欲主義が広がったように思われる。

 父性をはっきりさせたいという欲求は,もちろん,男性も生殖に役割をもっているという事実を知らない後進的な種族には存在していない。彼ら(後進種族)の間では,男性の嫉妬(心)のために女性の性的放縦(female licence) はある程度制限されはするが,女性は,概して,初期の家父長制社会におけるよりもずっと自由である。明らかに,過渡期にはかなりの摩擦があったにちがいないし,また,女性の自由を抑制することは,自分の子供の父親であることに関心を持つ男たちが必要だと考えたということは明らかである。(歴史上の)この段階においては,性道徳は,女性のためだけに存在していた。男性は,既婚女性と姦通してはならなかったが,その他の点では自由であった。

Chapter 21: Conclusion, n.1

 キリスト教(の出現)とともに,罪を避けるという新しい動機が入ってくる。そうして,道徳的基準は,理論上,男性の場合も女性の場合と同じになる。ただし,実際上は,男性に(女性と)同じ道徳基準を押しつけることはむずかしいので,常に,男性の道徳違反(fallings 堕落)は,女性の場合よりもずっと大目に見られることになった。初期の性道徳には,明白な生物学的な目的があった。即ち,子供が幼い時期は,片親だけでなく,ふた親の保護を確実に受けられるようにすることである。この目的は,キリスト教の実践ではともかく,理論では見失われた(のである)。

In the course of our discussion we have been led to certain conclusions, some historical, some ethical. Historically, we found that sexual morality, as it exists in civilized societies, has been derived from two quite different sources : on the one hand desire for certainty as to fatherhood, on the other an ascetic belief that sex is wicked, except in so far as it is necessary for propagation. Morality in pre-Christian times, and in the Far East down to the present day, had only the former source, except in India and Persia, which are the centres from which asceticism appears to have spread. The desire to make sure of paternity does not, of course, exist in those backward races which are ignorant of the fact that the male has any part in generation. Among them, although masculine jealousy places certain limitations upon female licence, women are on the whole much freer than in early patriarchal societies. It is clear that in the transition there must have been considerable friction, and the restraints upon women,s freedom were doubtless considered necessary by men who took an interest in being the fathers of their own children. At this stage, sexual morality existed only for women. A man might not commit adultery with a married woman, but otherwise he was free.

With Christianity, the new motive of avoidance of sin enters in, and the moral standard becomes in theory the same for men as for women, though in practice the difficulty of enforcing it upon men has always led to a greater toleration of their fallings than of those of women. Early sexual morality had a plain biological purpose, namely to ensure that the young should have the protection of two parents during their early years and not only of one. This purpose was lost sight of in Christian theory, though not in Christian practice
 出典: Marriage and Morals, 1929.
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ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.11

 第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.11:

 これまで言ってきたことが正しいなら,芸術家以外の最も偉大な人びとの大部分は,性と関連のない動機によって重要な活動をしてきた(のである)。もしも,このような活動を持続させるべきと思うならば(したければ),また,もっとつつましい形で一般的なものになるべきだとするならば(したければ),性が,人間の(性以外の)他の情緒的及び情熱的な性質に影を投げかけさせないようにすることが必要である。

 世界を理解しようという欲求や世界を改革しようという欲求は,進歩の(ための)二大原動力であり,これがなければ,人間社会は停滞するか,後退するしかないだろう。あまりに完全すぎる幸福は,あるいは,知識と改革への衝動を衰えさせる原因になるかもしれない。コブデン(Richard Cobden,1804-1865:イギリスの政治家,実業家)が,ジョン・ブライト(John Bright,1811-1889)に,自由貿易運動への協力を求めようとしたとき,ブライトが直近に妻を亡くして悲しみに沈んでいるのにつけ込んで(based upon 頼りにして),個人的に訴えたのだった。この悲しみがなければ,ブライトは,他人の悲しみにあれほど同情しなかったかもしれない。また,現実世界に絶望して,抽象的な研究(pursuits 仕事/物事の追求)におもむいた人も多かった(多かったであろう)。精力がたっぷりある人には,苦痛も貴重な刺激になるかもしれない。もしも,我々が皆,完全に幸福であるなら,もっと幸福になろうと努力することはないだろうということを,私は否定しない。

 しかし,もしかするとよい成果を生むかもしれないということで(on the off-chance that),他人に苦痛を与えることが人間の義務の一部であるなどということは,認めることはできない。苦痛は,九分九厘,人を押しつぶすのみである。あとの一厘は,肉体が受け継ぐ自然の衝撃にまかせる(trust to 委ねる)ほうがよい。死があるかぎり,悲しみがあるだろうし,悲しみがあるかぎり,その量を増やすことが人間の義務の一部になるはずはない。たとえ,少数の稀な人間が,悲しみを高度のものに変える方法を知っている,という事実があるにしてもである。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.11

If we are right in what we have been saying, most of the greatest men, other than artists, have been actuated in their important activities by motives unconnected with sex. If such activities are to persist, and are, in their humbler forms, to become common, it is necessary that sex should not overshadow the remainder of a man’s emotional and passionate nature. The desire to understand the world and the desire to reform it are the two great engines of progress, without which human society would stand still or retrogress. It may be that too complete a happiness would cause the impulses to knowledge and reform to fade. When Cobden wished to enlist John Bright in the free trade campaign, he based a personal appeal upon the sorrow that Bright was experiencing owing to his wife’s recent death. It may be that without this sorrow Bright would have had less sympathy with the sorrows of others. And many a man has been driven to abstract pursuits by despair of the actual world. To a man of sufficient energy, pain may be a valuable stimulus, and I do not deny that if we were all perfectly happy we should not exert ourselves to become happier. But I cannot admit that it is any part of the duty of human beings to provide others with pain on the off-chance that it may prove fruitful. In ninety-nine cases out of a hundred pain proves merely crushing. In the hundredth case it is better to trust to the natural shocks that flesh is heir to. So long as there is death there will be sorrow, and so long as there is sorrow it can be no part of the duty of human beings to increase its amount, in spite of the fact that a few rare spirits know how to transmute it.
 出典: Marriage and Morals, 1929.
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 ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.10

 第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.10:

 権力は,また,この語を最も広い意味で理解すれば(注:「(様々な)力への欲求」というような広い意味にとれば),大部分の政治的活動の動機となる。私は,偉大な政治家は(権力欲求が主であって)公共の福祉に無関心であると言おうとしているのではない(言うつもりはない)。それどころか,偉大な政治家とは親としての感情が(自分の子ども以外にも)広く拡散している人であると信じている。しかし,かなりの権力愛をも持っていない限り,政治的な企てに成功するのに必要な努力を続けることはできないだろう。私は,公共の仕事(public affairs 公務)にたずさわっている高潔な人(高貴な志を持っている人)をたくさん知っている。しかし,彼らにかなりの個人的な野心がないかぎり,彼らが目的とする善を達成するだけのエネルギー持っていることはめったになかった。
 ある重要な機会に,エイブラハム・リンカーンは,頑強に反対する二人の上院議員に向かって演説をしたが,その始めと終わりに,「私は合衆国の大統領であり,偉大な権力を付与されている」という言葉を使った。リンカーンがこの事実を主張することに多少の喜びを覚えたことは,まず疑う余地がない。政治全体を通して,良きにつけ悪しきにつけ,主要な二つの力は,経済的な動機と権力愛である。フロイトの路線に従って政治を(性的な意味合いで)解釈しようとする試みは誤りである,と私には思われる。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.10

Power is also the motive to most political activity, understanding this word in its widest sense. I do not mean to suggest that a great statesman is indifferent to the public welfare ; on the contrary, I believe him to be a man in whom parental feeling has become widely diffused. But unless he has also a considerable love of power he will fail to sustain the labours necessary for success in a political enterprise. I have known many high-minded men in public affairs, but unless they had an appreciable dose of personal ambition they seldom had the energy to accomplish the good at which they aimed. On a certain crucial occasion, Abraham Lincoln made a speech to two recalcitrant senators, beginning and ending with the words: “I am the President of the United States, clothed with great power.” It can hardly be questioned that he found some pleasure in asserting this fact. Throughout all politics, both for good and for evil, the two chief forces are the economic motive and the love of power; an attempt to interpret politics on Freudian lines is, to my mind, a mistake.
 出典: Marriage and Morals, 1929.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM20-100.HTM

ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.9

 第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.9:

 

 私は,人生で最上のものはすべて性と関わりがあると言うつもりはないし,また,決してそう信じてはいない。私自身は,応用科学にせよ,理論科学にせよ,科学が性と関わりがあるとは考えていないし,ある種の重要な社会的・政治的活動も同様に関わりはないと思っている。 成人の生活の複雑な欲望(欲求)を生み出している衝動は,2,3の単純な項目(a few simple heads 見出し/項目)のもとに整頓する(arrange 整える)ことができる。自己保存のために必要なものを別にすれば,私には,権力,性,親であること(parenthood)が,人間のすることの大部分の源泉であるように思われる。この3つのうち,権力が最初で最後である(最初に始まり,最後に終わる)。子供は,ほとんど権力を持っていないので,もっと力(権力)を持ちたいという欲求に支配される。実際,子供の活動の大部分は,この欲求に由来している。 子供の(力への欲求以外の)他の支配的な欲求は,虚栄心であり 褒められたいという願望と,叱られたり,放っておかれたりされる恐れである。子供を社会的な存在としたり,社会生活に必要な美徳(徳目)を身につけさせるのは,虚栄心である。虚栄心は,理論上は性と分離できるが(分離して考えることができるが),実は,性と密接に絡み合っている動機である。 しかし,私の見るところ,権力は,性とはほとんど関係がない。そして,子供に勉強させ(注:知識は力),その筋肉を発達させるのは,少なくとも虚栄心と同程度に,権力愛である。その点で。好奇心や知識の探求も,権力愛の一部(一枝)と見るべきだと思われる。もしも,知識が力であるなら,知識愛は権力愛である。従って,科学は,生物学や生理学のいくつかの部門を除いて,性的情緒の領域外にあるとみなさなければならない。
 皇帝フリードリヒ二世はもう生きていないので,この意見は,多少とも仮説的なものにとどまらざるをえない。もしも,皇帝がまだ生きていたなら,著名な数学者と作曲家を一名ずつ去勢し,それぞれの仕事が(去勢によって)どのように影響されるかを観察することで,このこと(仮説的なままである意見の真偽)> に決着をつけたにちがいない。私の予想では,数学者への影響は皆無(nil)であり,作曲家への影響はかなりのものだろうと予想する。知識の追求(探求)は,人間性における最も価値ある要素の一つであることから見ると(判断すると),我々に間違いがなければ,非常に重要な活動領域は,性の支配を免れている(ことになる)。

ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.8

第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.8: 刹那の快楽を求める虚しさ

芸術家が必要とする性的な自由は,愛する(恋愛する)自由であり,見知らぬ女と(で)肉体的要求を満たすような粗野な自由ではない。また(しかも),愛する自由は,とりわけ,因習的な道学者が認めようとしないものである。世界がアメリカナイズされた後に芸術を復興させたければ,アメリカが変わり,アメリカの道学者(モラリスト)がもっと道徳的でなくなり,非道徳家(モラルに問題がある人々)がもっと非道徳的でなくなることが,要するに,両者ともに,性に含まれるより高い価値を認め,また,喜びは銀行口座よりも価値を持ちうる可能性を認める必要がある(のである)。

 アメリカを旅行する者にとって,喜びがないくらい苦痛なことはない。快楽は,気違いじみたものであり,またどんちゃん騒ぎで,あっという間に忘れ去られるもの(忘却されるもの)であって,歓喜に満ちた自己表現にはならない。バルカンやポーランドの村で,笛の音に合わせてダンスした祖父を持った人たちが,タイプライターや電話に取り囲まれて,まじめに,もったいぶって(important),そしてむなしく,一日中机にへばりついている。夜になると,酒と新種の喧騒に逃避し,幸福を見つけ出している気になっているが,彼らが見つけているのは,金を生む金を稼ぐという,希望のない日々代わり映えしない仕事を(the hopeless routine of money that breeds money),狂ったように,また,不完全に忘却することだけである。また,その目的のために(金を稼ぐために),魂を奴隷(卑しい仕事)に売り渡してしまった人間の肉体を使うのである。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.8

The sexual freedom that the artist needs is freedom to love, not the gross freedom to relieve the bodily need with some unknown woman ; and freedom to love is what, above all, the conventional moralists will not concede. If art is to revive after the world has been Americanized, it will be necessary that America should change, that its moralists should become less moral and its immoralists less immoral, that both, in a word, should recognize the higher values involved in sex, and the possibility that joy may be of more value than a bank-account. Nothing in America is so painful to the traveller as the lack of joy. Pleasure is frantic and bacchanalian, a matter of momentary oblivion, not of delighted self-expression. Men whose grandfathers danced to the music of the pipe in Balkan or Polish villages sit throughout the day glued to their desks, amid typewriters and telephones, serious, important, and worthless. Escaping in the evening to drink and a new kind of noise, they imagine that they are finding happiness, whereas they are finding only a frenzied and incomplete oblivion of the hopeless routine of money that breeds money, using for the purpose the bodies of human beings whose souls have been sold into slavery.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM20-080.HTM

ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.7

第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.7: 「性=性行為」ではない

 過去の芸術は,民衆(大衆)に基礎(a popular basis)をおいていた(持っていた)。そして,民衆(大衆)に基礎があることは,生の喜びに基づいていた。生の喜びは,今度は,性に関するある種の自発性(spontaneity)に基づいている。性が抑圧されているところでは,仕事(労働)だけが残る。そして,仕事のための仕事というキリスト教の教え(gospel 福音/教義)は,やりがいのある仕事を何ひとつ生まなかった。こんな話は聞きたくないが(Let me not be told 言われたくないが)ある人が集めた統計によれば,合衆国で行われる一日あたり(それとも,一夜あたりと言うべきか)の性行為の回数の統計をとったところ,一人あたり,少なくとも他のどの国にも負けない回数だそうである。これが事実であるかどうか知らないが,また,それを否定するつもりもまったくない(そんなことに関心を持っていない)。因習的な道学者の最も危険な錯誤の一つは,性をよりいっそう攻撃(罵ること)ができるように,性を性行為に還元してしまうことである。いかなる文明人も,また,私の聞いているかぎり,いかなる未開人も ただの性行為だけでは本能の満足は得られない。その行為を生み出す衝動を満足させたければ,求愛がなければならないし,がなければならないし,親密な交わりがなければならない。これらがなければ,肉体的な飢えはしばらくの間はいやされる(appease やわらげる)かもしれないが,精神的な飢えは依然としてやわらげられないままなので,深い満足は得られない。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.7

Art in the past has had a popular basis, and this has depended upon joy of life. Joy of life, in its turn, depends upon a certain spontaneity in regard to sex. Where sex is repressed, only work remains, and a gospel of work for work’s sake never produced any work worth doing. Let me not be told that someone has collected statistics of the number of sexual acts per diem (or shall we say per noctem?) performed in the United States, and that it is at least as great per head as in any other country. I do not know whether this is the case or not, and I am not in any way concerned to deny it. One of the most dangerous fallacies of the conventional moralists is the reduction of sex to the sexual act, in order to be the better able to belabour it. No civilized man, and no savage that I have ever heard of, is satisfied in his instinct by the bare sexual act. If the impulse which leads to the act is to be satisfied, there must be courtship, there must be love, there must be companionship. Without these, while the physical hunger may be appeased for the moment, the mental hunger remains unabated, and no profound satisfaction can be obtained.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM20-070.HTM

ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.6

第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.6:

 包括的な性倫理は,性をただ単に自然な飢えであり,危険の潜在的源泉とみなすだけで済ますわけにいかない。この二つの見方はともに重要であるが,性は人生における最上の財産のいくつかと結びついていることを想い出すこと(記憶していること)の方がもっと重要である。最重要と思われる3つの財産は,叙情的恋愛 (lyric love 感情豊かな恋愛),結婚の幸福,および芸術である。(注:もちろん,性と関連のあるものについてだけあげている。) 叙情的恋愛と結婚については,既に述べている。芸術は性と無関係だと考える人もいるが,この見解の信奉者人は,今は,以前(昔)よりも少なくなっている。あらゆる種類の美的創造への衝動は,必ずしも直接的あるいは明白なかたちではないにしても,心理的に見れば求愛(courtship)と結びついていることはかなりあきらかである。だが,直接的でも明白でもないからと言って,それだけ結びつきがより少ない,ということはない(のである)。

性的衝動が芸術的表現をとるようになるためには,いくつかの条件が必要である。まず,芸術的才能がなければならない。しかし,芸術的才能は,特定の民族の内においても,ある時代には普通(凡庸)であり,別の時代には例外(非凡)であるかのように思われる。このことから,生まれつきの才能に対立するものとしての環境が,芸術的衝動の発達に重要な役割を演じている,という結論を出すほうが安全である。(芸術家には)ある種の自由がなければならないが,それは,芸術家に報酬を与えることを趣旨とする種類の自由ではなく,芸術家を強いたり勧めたりして,彼を俗物(ペリシテ人)にしてしまうような習慣に追いやらないことを趣旨とする種類の自由である

ユリウス二世(注:ローマ教皇)がミケランジュロを拘束した時,彼は,芸術家が必要とする種類の自由は一切妨げなかった。ユリウス二世がミケランジュロを拘束したのは,彼を重要な人物と考えたからであり,教皇(自分)より下の階級の者が自分を攻撃する(無礼を働くこと)ことに少しも耐えられなかった(のである)。けれども,芸術家が金持ちのパトロンや市会議員に卑屈に追従させられたり(注:原著では kowtow が kotow とミス・スペル),自分の作品を彼らの美的基準にむりやり合わせられるような場合は,その芸術的自由は失われる。そうして,社会的・経済的な迫害を恐れることによって,耐えがたくなった結婚生活を続けることを強いられる場合は,芸術的創作に必要なエネルギーを奪われる。因習的に道徳的であった社会は,偉大な芸術を生んできていない。これを生んできた社会は,アイダホ州(米国)なら断種しそうな人びとから成り立っていた。(注:第18章「優生学」のアイダホに関する記述を参照 https://russell-j.com/beginner/MM18-040.HTM)
(注:この一文「Those which have, have been composed of men such as Idaho would sterilize. 」は,省略もあって難しい。丁寧にかけば,Those societies which have produced have been composed of men such as Idaho would sterlize, といったものであろう。)

現在,アメリカは,芸術的才能の大部分をヨーロッパから輸入している。ヨーロッパでは,いまだ,自由が(わずかながら)生き残っているからである。しかし,ヨーロッパもアメリカナイズされてきて,(芸術的才能は)黒人に頼らなければならなくなってきている。芸術の最後の棲みかは,チベット高原でないとすれば,コンゴ上流のどこかになりそうに思われる。しかし,芸術が最終的に消滅するのは,そう遠い先のことではありえない。なぜなら,アメリカが外国人の芸術家に物惜しみしないで用意している報酬は,否応なしに,彼らの芸術の死をもたらすに違いないからである。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.6

A comprehensive sexual ethic cannot regard sex merely as a natural hunger and a possible source of danger. Both these points of view are important, but it is even more important to remember that sex is connected with some of the greatest goods in human life. The three that seem paramount are lyric love, happiness in marriage, and art. Of lyric love and marriage we have already spoken. Art is thought by some to be independent of sex, but this view has fewer adherents now than it had in former times. It is fairly clear that the impulse to every kind of aesthetic creation is psychologically connected with courtship, not necessarily in any direct or obvious way, but none the less profoundly. In order that the sexual impulse may lead to artistic expression, a number of conditions are necessary. There must be artistic capacity ; but artistic capacity, even within a given race, appears as though it were common at one time and uncommon at another, from which it is safe to conclude that environment, as opposed to native talent, has an important part to play in the development of the artistic impulse. There must be a certain kind of freedom, not the sort that consists in rewarding the artist, but the sort that consists in not compelling him or inducing him to form habits which turn him into a Philistine. When Julius II imprisoned Michelangelo, he did not in any way interfere with that kind of freedom which the artist needs. He imprisoned him because he considered him an important man, and he would not tolerate the slightest offence to him from anybody whose rank was less than papal. When, however, an artist is compelled to kowtow to rich patrons or town councillors, and to adapt his work to their aesthetic canons, his artistic freedom is lost. And when he is compelled by fear of social and economic persecution to go on living in a marriage which has become intolerable, he is deprived of the energy which artistic creation requires. Societies that have been conventionally virtuous have not produced great art. Those which have, have been composed of men such as Idaho would sterilize. America at present imports most of its artistic talent from Europe, where, as yet, freedom lingers ; but already the Americanization of Europe is making it necessary to turn to the negroes. The last home of art, it seems, is to be somewhere on the Upper Congo, if not in the uplands of Tibet. But its final extinction cannot be long delayed, since the rewards which America is prepared to lavish upon foreign artists are such as must inevitably bring about their artistic death.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM20-060.HTM

ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.5

第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.5: 性における自制が必要な側面

 私は,食物についてと同様,についても道徳や自制はまったくなくてよい,と言っている(示唆しようとしている)のではない。食物については,(我々には)3種類の拘束がある。法律による拘束(restraints 束縛;抑制するもの),作法による拘束健康による拘束である。我々は,食物を盗んだり,共同の食事(at a common meal 会食)で一人前以上取ったり,病気になるような仕方で食べたりするのは,良くないことだと考えている。性に関する場合も,同様の拘束(束縛/抑制)が不可欠であるが,性に関する場合は,拘束(束縛/抑制)はずっと複雑で,はるかに多くの自制が必要とされる。さらに,一人の人間が他人を所有することは許されないので,盗みに似ているのは不貞ではなく,強姦であり,これは,明らかに法律で禁じられなければならない。健康に関して起こる問題は,ほとんどまったく性病にかかわるものであるが,この問題は,既に売春に関連して触れている。職業的売春を減らすことは,医学を別とすれば,この害悪に対処する最善の方法であることは明白であり,また,職業的売春を減らすことは,最近若い人たちの間に育ちつつある,より大きな(性的)自由によるのが最も効果的である。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.5

I am not suggesting that there should be no morality and no self-restraint in regard to sex, any more than in regard to food. In regard to food we have restraints of three kinds, those of law, those of manners, and those of health. We regard it as wrong to steal food, to take more than our share at a common meal, and to eat in ways that are likely to make us ill. Restraints of a similar kind are essential where sex is concerned, but in this case they are much more complex and involve much more self-control. Moreover, since one human being ought not to have property in another, the analogue of stealing is not adultery, but rape, which obviously must be forbidden by law. The questions that arise in regard to health are concerned almost entirely with venereal disease, a subject which we have already touched upon in connection with prostitution. Clearly, the diminution of professional prostitution is the best way, apart from medicine, of dealing with this evil, and diminution of professional prostitution can be best effected by that greater freedom among young people which has been growing up in recent years.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM20-050.HTM

ラッセル『結婚論』第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.4

第二十章 人間の価値の中の性の位置 n.4:

 けれども,できるかぎり声を大にして,繰り返し述べたいのは,私はこの(性の)話題に不当に専心(専念)するのは害悪だと見なしていること,また,この害悪は,現在,特にアメリカで広まっているように思われるということであるアメリカでは,この害悪は,厳格な道学者(モラリスト)の間に特に顕著に認められており(pronounced 宣告されて),自分の敵とみなす人に関することであれば嘘であってもすぐに信じてしまう彼らの態度にはっきりと現れている。大食漢(貪食者),酒色にふける人,禁欲主義者は皆,満足によって,あるいは断念によって,自分の欲望によって視野を狭くしてしまった自己陶酔者である

心身ともに健康な人は,このように自分の関心を自分自身に集中するようなことはしないだろう。彼は,外界を見わたし,外界の中に自分にとって注意に値すると思われる対象を見つけるだろう。

 自己陶酔は,一部の人が想像したように,罪深い人(unregenerate man 再生できない人)の自然な状態(罪人が自然に陥る状態)ではない。自己陶酔は,ほとんど常に,自然の衝動を妨げられたためにもたらされる病気である。性的な満足を思ってほくそえむ好色な人間は,通例,何かを奪われた結果生まれるのである。それは,あたかも,食料をため込む(hoards 秘蔵する)人が,通例,飢饉や欠乏の時期を生き延びてきた人であるのと同様である。健康で外界に目を向けるような男女は,自然な衝動を妨げることによって生み出されることはなく,幸福な生活に不可欠なすべての衝動を,平等にバランスよく発達させることによって生み出されるのである。

Chapter XX: The Place of Sex among Human Values, n.4

I wish to repeat, however, as emphatically as I can, that I regard an undue preoccupation with this topic as an evil, and that I think this evil widespread at the present day, especially in America, where I find it particularly pronounced among the sterner moralists, who display it markedly by their readiness to believe falsehoods concerning those whom they regard as their opponents. The glutton, the voluptuary, and the ascetic are all self-absorbed persons whose horizon is limited by their own desires, either by way of satisfaction or by way of renunciation. A man who is healthy in mind and body will not have his interests thus concentrated upon himself. He will look out upon the world and find in it objects that seem to him worthy of his attention. Absorption in self is not, as some have supposed, the natural condition of unregenerate man. It is a disease brought on, almost always, by some thwarting of natural impulses. The voluptuary who gloats over thoughts of sexual gratification is in general the result of some kind of deprivation, just as the man who hoards food is usually a man who has lived through a famine or a period of destitution. Healthy, outward-looking men and women are not to be produced by the thwarting of natural impulse, but by the equal and balanced development of all the impulses essential to a happy life.
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/MM20-040.HTM