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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(9)」

 我々人間が妬み(ねたみ)がちであることの最も不幸な結果の一つは,それが経済的自己利益 -個人的及び国民的(経済的自己利益)の双方の- に関するまったく誤まった考え方をもたらしてきたことである。一つの喩え話でそれを例証してみよう。むかしむかし,ある中ぐらいの大きさの町があって,そこにはかなりの肉屋,かなりのパン屋,その他が住んでいました(注:a number of かなりの/市井訳では「一定量の」と訳されている)。並外れて精力のある一人の肉屋が,他のすべての肉屋がつぶれて自分が独占業者になれば,ずっと大きな利益をあげられるだろう,と心に決意しました。そこで他の店(競争相手)より組織的に安く売ることによって,彼はその目的を達成するのに成功しました。ただし,その(厳しい競争の)間に,彼の損失はひどくなり,資本や信用をあやつる能力はほとんどなくなってしまいました。同時に,ある一人の精力的なパン屋が,同じ考えを持っていて,同様な成功をかち得るまでやりぬきました。消費者たちに品物を売ることで生計をたてているあらゆる業種(商い)で,同じことが起こりました。成功した独占業者(店主)はすべて,大金を稼げる(裕福になれる)という幸福な予想をしていました。しかし,不幸なことに,破産した肉屋たちはもはやパンが買えず,また,破産したパン屋たちはもはや肉を買えない状況でした。彼らの使用人たちは解雇されなければならず,その使用人たちはどこかに行ってしまいました。結局のところ,(消耗戦に勝った)例の肉屋やパン屋だけが独占業者となりましたが,売りあげは以前よりも減ってしまいました。自分は競争相手から被害を被るかも知れないけれども,自分のお客たちから利益を得ているのであり,繁栄の一般的水準が向上すれば,お客の数はもっと増えてくる,ということを彼らは忘れていました。妬みから彼らは注意力を競争相手に集中させ,みずからの繁栄がお客たち(顧客)に依存しているという側面をまったく忘れていたのでした。(おしまい。)
One of the most unfortunate results of our proneness to envy is that it has caused a complete misconception of economic self-interest, both individual and national. I will illustrate by a parable. There was once upon a time a medium-sized town containing a number of butchers, a number of bakers, and so forth. One butcher, who was exceptionally energetic, decided that he would make much larger profits if all the other butchers were ruined and he became a monopolist. By systematically under-selling them he succeeded in his object, though his losses meanwhile had almost exhausted his command of capital and credit. At the same time an energetic baker had had the same idea and had pursued it to a similar successful conclusion. In every trade which lived by selling goods to consumers the same thing had happened. Each of the successful monopolists had a happy anticipation of making a fortune, but unfortunately the ruined butchers were no longer in the position to buy bread, and the ruined bakers were no longer in the position to buy meat. Their employees had had to be dismissed and had gone elsewhere. The consequence was that, although the butcher and the baker each had a monopoly, they sold less than they had done in the old days. They had forgotten that while a man may be injured by his competitors he is benefited by his customers, and that customers become more numerous when the general level of prosperity is increased. Envy had made them concentrate their attention upon competitors and forget altogether the aspect of their prosperity that depended upon customers.
 Source: Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
 More info.: https://russell-j.com/beginner/0861HARM-090.HTM

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“All you need is love.”の「愛こそはすべて」は大誤訳!!

本日は、佐藤ヒロシ『関係詞の底力』の「はしがき」から少し引用しておきます
 p.2: “All you need is love.”の「愛こそはすべて」は大誤訳!!

2つの間違いがありそうです。”All”と”you”の間に関係詞が省略されていることに気づかない場合と、気づいているのに意味を取り違える場合です。私も長い間早トチリで「思い込んで」いましたが、ビートルズのこの英文の正しい日本語訳は、
君(あるいは、あなたたち)に足りないのは愛だけだ!( ← 君に必要な全ては愛だ)」となります。

佐藤氏は代々木ゼミ予備校を代表する英語講師の一人です。ラッセル関連で、一度だけお会いしたことがあります。(とても身長の高い方です。)プレイス社から『ラッセルと20世紀の名文に学ぶ(英文味 読の真相39』という本も出されているので、ご存じの方もおられると思います。

本書の裏表紙には、「All the people in Iraq want is peace and
security.」という例文が掲載されています。この場合も、「すべてのイラクの人々が欲しているのは、平和と安定だ」というのは誤訳であり、正しくは、「(現在の)イラクの人々が望んでいるのは、平和と安定だけだ!」ということになります。(したがって、平和が回復すれば、もっといろいろな欲求がでてきます。)

残念ながら、この2つの例文について、ラッセルの用例を見つけられませんでした。

最後に、佐藤先生の「はしがき」から少し言葉を引用しておきます。

p.2: まさに、「関係詞がわからないとビートルズも聴けない」のです。
p.3:  英語に「受験英語」とか「実用英語」といった2種類のものが存在するわけでもなく、ましてや「英会話」に「英文法」は必要ないなどとう俗説は誤りであるというのが、かねてからの私の持論です。批判されるとすれば、それは「受験英語」ではなく「英語指導法」であり、また「文法」ではなく、「どうでもいい文法用語による無意味な分類」であると私は考えます。//

ラッセル「人類に害を与えてきた思想(8)」

 誤った信念を産む最も強力な源泉の一つは,妬み(ねたみ)である。いかなる小さい町においても,もし比較的裕福な人々に尋ねてみれば,彼等はみな隣人の収入を誇張して考えており,そのことから隣人をケチ(meanness)だと非難することを正当化しているのがわかる(正当化しているのを見いだす)だろう。女性の嫉妬は男たちのあいだではよく知られている。しかし,大規模な事務所ならどこにおいても,まさに男性職員の間に同様の種類の嫉妬を見いだすであろう。(その職場の)男性職員の一人が昇進すると,他の男たちは次のように言うだろう。「ふん,あいつはお偉方に取り入る術を心得ているよ。もし私が自分を堕落させて,あいつが恥知らずにやったようなへつらい術を使っていたら,私もあいつとまったく同じように早く出世できたはずだ。たしかにあいつの仕事ぶりには線香花火のような才気(a flashy brilliance,)はあるが,堅実さに欠けている。それゆえ,遅かれ早かれ(←早かれ遅かれ),お偉がたは自分らの判断(昇進させたこと)の間違いに気づくだろう」。凡庸な男性はみな,もし(たとえ)本当にできる男がその才能に値する程度に早く昇格を認められたとしてもそのようにいうだろう。(注:ラッセル『人類の将来ー反俗評論集』の中の市井三郎訳では,「このように凡庸なすべての人々は、本当にできる男がその才能の値する程度に早く昇格できるようになればよい,というだろう」となっている。all the mediocre men will say so が倒置されて ‘So’ が先頭に来ているわけだが、’if’ は ここでは ‘even if’ の意味であることを捉え損なっていると思われる。) そしてこの理由から,年功序列制度を採用する傾向があるわけであり,それは功績とはなんの関係ももたないので,同様の妬みによる不満を生じさせないからである。

One of the most powerful sources of false belief is envy. In any small town you will find, if you question the comparatively well-to-do, that they all exaggerate their neighbors’ incomes, which gives them an opportunity to justify an accusation of meanness. The jealousies of women are proverbial among men, but in any large office you will find exactly the same kind of jealousy among male officials. When one of them secures promotion the others will say: ‘Humph! So-and so knows how to make up to the big men. I could have riser quite as fast as he has if I had chosen to debase myself by using the sycophantic arts of which he is not ashamed. No doubt his work has a flashy brilliance, but it lacks solidly, and sooner or later the authorities will find out their mistake.’ So all the mediocre men will say if a really able man is allowed to rise as fast as his abilities deserve, and that is why there is a tendency to adopt the rule of seniority, which, since it has nothing to do with merit, does not give rise to the same envious discontent.

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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(7)」

 我々の各々が,自分自身に重要性を付与していることによって生じる奇妙な結果の一つは,我々がみずからの幸運や非運を,他の人々の行為の目的であるかのように想像しがちである,ということである。もしあなたが,草をはんでいる(食べている)雌牛(めうし)がいる牧草地(field)を,汽車(注:現在なら「電車」や自動車)に乗車して通りすぎると,時としてその雌牛たちは汽車が通り過ぎる時に恐怖を感じて逃げ去ることがあるかもしれない。もし仮にその雌牛が形而上学者であるとすれば,次のように論じるであろう。「私自身の欲望や希望や恐怖におけるすべてのものは,私自身に関連がある。従って,帰納的推論により,宇宙のすべてのものが私自身に関連をもっている,と私は結論する。それゆえ,このやかましい汽車は,私に良きことあるいは悪しきことのいずれかをなそうとしている(に違いない)。汽車はあのように恐ろしいかっこうでやってくるのだから,それが私に良いことをするつもりだとは考えられない。従って,慎重な雌牛として,私はそれから逃れる努力をするだろう,」と。たとえ諸君が,この形而上学的な反すう動物にむかって,汽車はレールから逸脱する(脱線する)つもりはないこと,また汽車は雌牛の運命にまったく無関心であることなどを説明しても,そのあわれな動物は,そのように不自然ないかなるものにも当惑を感じるであろう。自分に善意も悪意をももっていない汽車なるものは,自分に悪意をもつ汽車よりも,もっと冷淡かつもっと底深く恐るべきものと映るであろう。
まさにこのことが,人間の場合に起ってきている,自然の経過は,人間たちに時として幸運を,時として非運をもたらす。人間は,それが偶然に起るとは信じられないのである。前述の雌牛は,仲間の一匹が線路の上に留まり,汽車にひき殺されたことを知っており,もしも大部分の人間を特徴づけるような適度の知性をもっているならば,(その雌牛は)哲学的内省をおし進めて次のような結論を下すであろう。即ち,(汽車にひき殺された)あの不運な牛は,彼女の罪の故に,鉄道の神によって罰せられたのだ,と。司祭たちが線路にそって柵(さく)を設置すればその雌牛は喜び,若くて動き回る牛たちに,この柵にたまたま開いているところがあったとしても,それをけっして通ってはならない,(それを破った)罪の報い(wages 報酬)は死だ,と警告するであろう。人間たちはこれと類似の神話を創作することによって,自分たち人間がさらされている災難(不運)の多くを,自尊心を犠牲にすることなく,説明することに成功してきたのである。しかし時には,まったく有徳な人々にも災難がふりかかるが,その場合,我々は,どのように説明すべきだろうか? 我々は,いまだ,自分たち人間が宇宙の中心であるに違いないという感情から,災難はそれを誰も意図していないのに単に偶然にこれまで起ってきたのだということを認めることを妨げられる。そして自分たちは仮定によって邪悪ではないのであるから,自分たちの災難は誰かの悪意 -すなわち自分自身になんらかの便益を望んでではなく,ただ単に憎しみから我々に害を加えよぅとする誰か-に帰因するに違いない(と考える)。
悪魔学及び妖術や魔術への信仰を生じさせたものは,まさにこのような心の状態であった。魔女とは,利益のためではなく,まったくの憎しみから隣人たちに害を与える者である。魔女の妖術(魔法)を信じることは,17世紀の中頃まで,みずからを正義として残忍な行為をする心地よい情緒に,もっとも満足すべき吐け口を提供した。そのような信仰には,聖書による保証があった。というのは聖書は次のように言っているからである。「汝,魔女をして生かすべからず(魔女を生かしておいてはならない)」。そしてこの理由から,宗教裁判所(異端審問所)は魔女だけでなく,魔女の妖術が可能だと信じない人々をも,それが異端であるということで,罰したのである。科学は,自然の因果(作用)へ若干の洞察を与えることによって,魔術への信念(信仰)を蹴散らしたが,その信念を生じさせた恐怖や不安感をすっかり払拭することはできなかった。現代においては,同様の感情が外国を恐れるという形で吐け口を見出したのであり,この吐け口には,迷信による支えという方法は,それほど必要としない,ということを告白しなければならない。

One of the odd effects of the importance which each of us attaches to himself, is that we tend to imagine our own good or evil fortune to be the purpose of other people’s actions. If you pass in a train a field containing grazing cows, you may sometimes see them running away in terror as the train passes. The cow, if it were a metaphysician, would argue: ‘Everything in my own desires and hopes and fears has reference to myself; hence by induction I conclude that everything in the universe has reference to myself. This noisy train, therefore, intends to do me either good or evil. I cannot suppose that it intends to do me good, since it comes in such a terrifying form, and therefore, as a prudent cow, I shall endeavor to escape from it.’ If you were to explain to this metaphysical ruminant that the train has no intention of leaving the rails, and is totally indifferent to the fate of the cow, the poor beast would be bewildered by anything so unnatural. The train that wishes her neither well nor ill would seem more cold and more abysmally horrifying than a train that wished her ill. Just this has happened with human beings. The course of nature brings them sometimes good fortune, sometimes evil. They cannot believe that this happens by accident. The cow, having known of a companion which had strayed on to the railway line and been killed by a train, would pursue her philosophical reflections, if she were endowed with that moderate degree of intelligence that characterizes most human beings, to the point of concluding that the unfortunate cow had been punished for sin by the god of the railway. She would be glad when his priests put fences along the line, and would warn younger and friskier cows never to avail themselves of accidental openings in the fence, since the wages of sin is death. By similar myths men have succeeded, without sacrificing their self-importance, in explaining many of the misfortunes to which they are subject. But sometimes misfortune befalls the wholly virtuous, and what are we to say in this case? We shall still be prevented by our feeling that we must be the centre of the universe from admitting that misfortune has merely happened to us without anybody’s intending it, and since we are not wicked by hypothesis, our misfortune must be due to somebody’s malevolence, that is to say, to somebody wishing to injure us from mere hatred and not from the hope of any advantage to himself. It was this state of mind that gave rise to demonology, and the belief in witchcraft and black magic. The witch is a person who injures her neighbors from sheer hatred, not from any hope of gain. The belief in witchcraft, until about the middle of the seventeenth century, afforded a most satisfying outlet for the delicious emotion of self-righteous cruelty. There was Biblical warrant for the belief, since the Bible says: ‘Thou shalt not suffer a witch to live.’ And on this ground the Inquisition punished not only witches, but those who did not believe in the possibility of witchcraft, since to disbelieve it was heresy. Science, by giving some insight into natural causation, dissipated the belief in magic, but could not wholly dispel the fear and sense of insecurity that had given rise to it. In modem times, these same emotions find an outlet in fear of foreign nations, an outlet which, it must be confessed, requires not much in the way of superstitious support.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(6)」

“If you can’t take it with you, this must be Hell.”

この心理様式(注:人間を正しい人間と罪人とに分けて、罪人に罰を与えようとする心性など)は,非常に持続性があり,またまったく新しい教義の装いをまとうことができると思われることから,その根源はいくらか人間性の深いところにあるに違いない。これは,精神分析学者(精神分析家)たちによって研究されている性質の事柄(問題)である。私は彼等の主張のすべてに賛意を表するといった立場からははるかに遠い立場にあるが,悪の源泉を我々人間のもっとも深い部分に求めたいと思うならば,精神分析学者たちの一般的方法は重要である,と考える。罪と報復的な罰という一対の概念は,宗教および政治の(世界の)双方において,最も精力的な多くのものの根源にあるように思われる。私は,罪悪感情は,幼少期のごく初期に形成されるものだと信じるが,精神分析学者の何人かが言うように,その感情が生得的なものであるとは信じない。もし仮に,その感情を根絶することができるならば,世界中の残酷さの分量は劇的に減少するだろう,と私は考える。我々人間全ては罪人(原罪を負っている者)であり,我々は全て処罰に値する,と(仮定)すれば,処罰が自分(たち)以外の人々に下されるような組織を弁護することが,明らかに容易となる。カルヴァン主義者たち(or カルヴィン主義者たち)は,自ら値しない慈悲を受けて,天国へゆくことになろうが,その場合,罪が罰に値する彼等(カルヴァン主義者たち)の感情は,ただ単に代償的な満足を得るだけである。共産主義者たちも,同様な考え方をもっている。我々は生まれるときに,資本家あるいはプロレタリアの家に生まれるべきか否かの選択を行うわけではない(選択できない)が,もし後者であれば,(共産主義の思想においては)我々は選ばれた者(集団)に属し,前者であればそうではない(ということになる)。我々の側での選択がまったくなしに,経済的決定論の働きによって,我々は一方の場合には正義の側にあり,他方の場合には間違っている側に立つ運命にあるのである。マルクスの父は,マルクスが幼児であったころにキリスト教徒となっており,そのときに受け容れたに違いない教義の少なくともいくらかは,その息子(マルクス)の心理の中で実を結んだように思われる。

As this psychological pattern seems so persistent and so capable of clothing itself in completely new mantles of dogma, it must have its roots somewhat deep in human nature. This is the kind of matter that is studied by psycho-analysts, and while I am very far from subscribing to all their doctrines, I think that their general methods are important if we wish to seek out the source of evil in our innermost depths. The twin conceptions of sin and vindictive punishment seem to be at the root of much that is most vigorous, both in religion and politics. I cannot believe, as some psycho-analysts do, that the feeling of sin is innate, though I believe it to be a product of very early infancy. I think that, if this feeling could be eradicated, the amount of cruelty in the world would be very greatly diminished. Given that we are all sinners and that we all deserve punishment, there is evidently much to be said for a system that causes the punishment to fall upon others than ourselves. Calvinists, by the fiat of undeserved mercy, would go to heaven, and their feelings that sin deserved punishment would receive a merely vicarious satisfaction. Communists have a similar outlook. When we are born we do not choose whether we are to be born capitalists or proletarians, but if the latter we are among the elect, and if the former we are not. Without any choice on our own parts, by the working of economic determinism, we are fated to be on the right side in the one case, and on the wrong side in the other. Marx’s father became a Christian when Marx was a little boy, and some, at least, of the dogmas he must have then accepted seem to have borne fruit in his son’s psychology.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(5)」

 残忍性の禁欲主義的な形態は,不幸にもキリスト教の教義のより激しい(狂暴な)形態に限定されておらず,そのようなキリスト教教義の激しい(狂暴な)形態は,現在では,以前のような狂暴さで信じられることはめったになくなっている。(そうして)世界は,同じ心理的様式の新しくまた威嚇的な形態をうみだしてきている。ナチズムの信奉者たちは,権力を掌握する前の時代においては,苦労の多い生活を送っており,精力的であることをよしとする信念や,「人間はみずからを鍛えるべきだ 」(注:One should make oneself hard/ニーチェの超人思想)というニーチェの格言への信念,に服従して,安楽や目前の快楽の多くを犠牲にしていた。彼等が権力を獲得した後においても,「バターよりも大砲を」というスローガンは,なおも将来の勝利という精神的快楽 -- のために,感覚の快楽を犠牲にすることを含んでいた(意味していた/伴っていた)。そのような精神的快楽は,まさに,ミルトンの(『失楽園』の)悪魔が地獄の炎で苦しめられたときにみずからを慰めたものである。同じ心性(メンタリティ)は,熱心な共産主義者の間にも見出しうるもので,彼等にとって,贅沢は悪であり,はげしい労働が主要な義務であり,また,貧困が普遍的に存在することは至福千年(millennium)への手段なのである。禁欲主義と残忍性との結合は,キリスト教教義が柔軟化するにつれて消えさったわけではなく,キリスト教に敵対する新らしい形態をとるようになったのである。今もなお,同様な心性は強く存在する。(即ち)人間は聖者と罪人とにわけられ,聖者は、ナチスあるいは共産主義者の天国で祝福を受けることになっており、一方,罪人たちは粛清されてしまうか,強制収容所で人間が加えることができるような苦痛にさらされなければならない(といった心性である。)。もちろん,それは,全能なる神が地獄で課される(罪人に加えられる)と考えられた苦痛(責め苦)と比較すればまだましであるが,限りある力をもつ人間になしうることができる,最悪の苦痛(責め苦)である。また,聖者たちには,厳しい試練の期間があり,そのあとに,キリスト教の賛美歌が天上の歓喜について描写して言っているように,「勝利の叫び声,楽しき歌声・・・」が続くのである。

The ascetic form of cruelty is, unfortunately, not confined to the fiercer forms of Christian dogma, which are now seldom believed with their former ferocity. The world has produced new and menacing forms of the same psychological pattern. The Nazis in the days before they achieved power lived laborious lives, involving much sacrifice of ease and present pleasure in obedience to the belief in strenuousness and Nietzsche’s maxim that one should make oneself hard. Even after they achieved power, the slogan ‘guns rather than butter’ still involved a sacrifice of the pleasures of sense for the mental pleasures of prospective victory – the very pleasures, in fact, with which Milton’s Satan consoles himself while tortured by the fires of hell. The same mentality is to be found among earnest Communists, to whom luxury is an evil, hard work the principal duty, and universal poverty the means to the millennium. The combination of asceticism and cruelty has not disappeared with the softening of Christian dogma, but has taken on new forms hostile to Christianity. There is still much of the same mentality: mankind are divided into saints and sinners; the saints are to achieve bliss in the Nazi or Communists heaven, while the sinners are to be liquidated, or to suffer such pains as human beings can inflict in concentration camps – inferior, of course, to those which Omnipotence was thought to inflict in hell, but the worst that human beings with their limited powers are able to achieve. There is still, for the saints, a hard period of probation followed by ‘the shout of them that triumph, the song of them that feast’, as the Christian hymn says in describing the joys of heaven.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(4)」

 過去の歴史において(←関して)もっとも明白な(有害な信念の)事例は,人間の個人的な偏見に応じて宗教的あるいは迷信と呼べるような,いろいろな信念によって成り立っている。人間を生贄(いけにえ)として(神に)捧げれば収穫が増える,とかつて考えられていた。それは,最初は純粋に呪術的な理由のためであったが,その後,生贄の血が神々 -それは崇拝する人々が持つイメージで創られたものだが- を喜ばす,と考えられたからである。旧約聖書の中には,征服した民族を完全に絶滅させることが宗教的義務であり,彼等の(彼らの飼っている)牛や羊でさえ容赦することは神への不信心(不敬)になる,と書かれている。来世(あの世)における暗い恐怖(地獄の責め苦)や災難(という考え)は,エジプト人やエトルリア人(注:イタリア半島中部の先住民族)に圧迫感を与えていたが,そのような考えはキリスト教の勝利によって絶頂に達したのである(参考:キリスト教の地獄思想)。陰うつな聖者たちは,感覚的な快楽をすべてひかえ,砂漠の中に孤独に暮らし,肉や酒や女性と接触(交際)することを避けていたが,それにもかかわらず,あらゆる快楽をひかえることを義務付けられていたわけではなかった。(即ち)精神の快楽は肉体の快楽よりも優れたものと考えられ,異教徒や異端者に対し来世(あの世)で加えられる永遠の責め苦を冥想することは精神の快楽のうちで高い位置を与えられてた。禁欲主義が,感覚的なもの以外の快楽は無害だととしたのは,禁欲主義の欠点の一つであり,実際のところ,最善の快楽ばかりではなくまさに最悪の快楽もまた,純粋に精神的なもの(肉体的な要素がまったくないもの)なのである。ミルトンの描いた悪魔(ミルトン『失楽園』の中の悪魔)が,人間にどのような害悪を加えうるかを考えている時の悪魔の快楽を,検討してみよう。ミルトンはその悪魔に,次のように言わせている。

心にはそれ自身のための場所がある。
そして心は自らのうちに地獄から天国をつくり,
また天国から地獄を作り出す。

また,この悪魔の心理は,呪われた人々の苦しみを天国から眺められるだろうという想いに大喜びしたテルトゥリアヌス(注:Tertullian カルタゴの神学者)の心理と,それほど異なっているわけではない。感覚的快楽を禁欲主義的に軽視することは,親切心や寛容な心,あるいは人間性に関する非迷信的な考え方が我々を望むように導くような,その他のいかなる美徳をも助長したことはこれまでなかった。それとは逆に,人間が自分自身に責め苦を課する場合には,そのことによって自分は他の人々を苦しませる権利をもつのだと感じ,その権利を強化させるような教義(ドグマ)なら,いかなるものも受け容れようという気にさせるのである。

The most obvious case as regards past history is constituted by the beliefs which may be called religious or superstitious, according to one’s personal bias. It was supposed that human sacrifice would improve the crops, at first for purely magical reasons, and then because the blood of victims was thought pleasing to the gods, who certainly were made in the image of their worshippers. We read in the Old Testament that it was a religious duty to exterminate conquered races completely, and that to spare even their cattle and sheep was an impiety. Dark terrors and misfortunes in the life to come oppressed the Egyptians and Etruscans, but never reached their full development until the victory of Christianity. Gloomy saints who abstained from all pleasures of sense, who lived in solitude in the desert, denying themselves meat and wine and the society of women, were, nevertheless, not obliged to abstain from all pleasures. The pleasures of the mind were considered to be superior to those of the body, and a high place among the pleasures of the mind was assigned to the contemplation of the eternal tortures to which the pagans and heretics would hereafter be subjected. It is one of the drawbacks to asceticism that it sees no harm in pleasures other than those of sense, and yet, in fact, not only the best pleasures, but also the very worst, are purely mental. Consider the pleasures of Milton’s Satan when he contemplates the harm that he could do to man. As Milton makes him say:
The mind is its own place, and in itself
Can make a heaven of hell, a hell of heaven.
and his psychology is not so very different from that of Tertullian, exulting in the thought that he will be able to look out from heaven at the sufferings of the damned. The ascetic depreciation of the pleasures of sense has not promoted kindliness or tolerance, or any of the other virtues that a non-superstitious outlook on human life would lead us to desire. On the contrary, when a man tortures himself he feels that it gives him a right to torture others, and inclines him to accept any system of dogma by which this right is fortified.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(3)

残酷な行為を正当化する意見は残酷な衝動によって吹き込まれる(引き起こされる),という主張(thesis 命題)を支持する事例を(さらに)たくさんあげることは容易であろう。現在では馬鹿げていると認識されている昔のいろいろな見解を再考してみると,十中八,九,それらが,苦しみを加えることを正当化するような見解であることがわかるであろう。たとえば,医療行為(診療行為)の例をとってみよう(注:安藤訳では medical practice を「医師の慣行」と訳している。これは「医師の行為」即ち,医療行為(診療行為)が適訳であろう)。麻酔剤(anethetics)が発明された時,それは神の意向を妨害する試みなので邪悪である,と考えられた。また狂気は悪魔がとりついたせいだと考えられ,狂人の心に住みついた悪魔は,狂人に苦痛を加えて悪魔の居心地を悪くさせることによって追い出すことができる,と信じられていた。このような見解が追求され,狂人たちは長い間引き続き(on end),組織的かつ’良心的な’残忍さをもって扱われたのである。誤った医学的治療(法)で,患者にとって不快であるよりむしろ快適だった,というような事例を,私は一つとして考えつくことができない。あるいはまた,道徳教育の例をとってみよう。次の詩によって,これまでどれだけ多くの残忍な行為が正当化されてきたかを考えてみよう。
犬や女房やクルミの樹は,
打てば打つほど良くなる

クルミの樹を鞭打つことによる道徳的効果について,私はまったく経験したことはない。しかし,文明人であるならば,この詩の妻に関するところを正当化する人は一人もいないであろう。罰による改善効果は,なかなか消えてなくならない信念であるが、その主な理由は,罰することがわれわれのサディズム的衝動を非常に満足させる,ということにある,と私は考える。
しかし,信念よりは情熱の方が,人間生活における不都合なものに,より多くの関連をもっているけれども,それでもなお,信念は,特に古代からのもので,体系化され,いろいろな組織の中に具体化されたものである場合には,意見の望ましい変化を遅らせるか,さもなければ,いずれの方向にも強い感情を持たないような人々に誤まった方向へと影響を及ぼす,大きな力をもっている。「人類に害を与えてきた思想」というのが私の(ここでの)主題であるので,特に有害な信念の諸体系について考察することにしよう。
It would be easy to multiply instances in support of the thesis that opinions which justify cruelty are inspired by cruel impulses. When we pass in review the opinions of former times which are now recognized as absurd, it will be found that nine times out of ten they were such as to justify the infliction of suffering. Take, for instance, medical practice. When anesthetics were invented they were thought to be wicked as being an attempt to thwart God’s will. Insanity was thought to be due to diabolic possession, and it was believed that demons inhabiting a madman could be driven out by inflicting pain upon him, and so making them uncomfortable. In pursuit of this opinion, lunatics were treated for years on end with systematic and conscientious brutality. I cannot think of any instance of an erroneous medical treatment that was agreeable rather than disagreeable to the patient. Or again, take moral education. Consider how much brutality has been justified by the rhyme:
A dog, a wife, and a walnut tree,
The more you beat them the better they be.
I have no experience of the moral effect of flagellation on walnut trees, but no civilized person would now justify the rhyme as regards wives. The reformative effect of punishment is a belief that dies hard, chiefly I think, because it is so satisfying to our sadistic impulses.

But although passions have had more to do than beliefs with what is amiss in human life, yet beliefs, especially where they are ancient and systematic and embodied in organizations, have a great power of delaying desirable changes of opinion and of influencing in the wrong direction people who otherwise would have no strong feelings either way. Since my subject is ‘Ideas that have Harmed Mankind,’ it is especially harmful systems of beliefs that I shall consider.
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バートランド・ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(2)

 人間が相互に加える害悪,そしてそれがはね返ることによって,自分自身に加える害悪の,主要な源泉は,思想あるいは信念にあるというよりは,むしろいろいろな悪しき情熱にある,と私は考える。しかし,害をなす(有害であるような)思想や原理は,常にではないが,概して,悪しき情熱の仮面(口実)である。異端者たちが公衆の面前で焼かれた(火あぶりの刑に処せられた)頃のリスボンでは,時々,異端者のうちで,特に人を啓発するような変説(異端信仰撤回)をしたものには,炎の中に入れられる前に絞め殺すという恩恵が認められる事態が起こった。しかしこのことは,観衆を非常に激怒させ,そのため当局者たちは,懺悔した者(異端者)に観衆が私刑(リンチ)を加えるのを妨止し,当局者側で(規定通りの)焚刑(ふんけい)をおこなうのに非常に苦労したのである。犠牲者がもだえ苦しむのを眺めることが,事実,民衆の主な楽しみの一つだったのであり,それによって,彼等はいくらか単調な暮らしを活気づけることを期待したのである。こういった楽しみが,異端者を焚殺の刑に処するのは正しい行為であるという一般的な信念に,多大の寄与をしたことを,私は疑うことができない。同じようなことが,戦争についても当てはまる。精力にあふれた残忍な人々は,しばしば戦争を楽しめるものだと考える。ただし,それは,勝利した戦争であり,レイプ(婦女暴行)や掠奪にあまり邪魔が入らないという条件付きである。戦争は正しい(正義のためだ),ということを人々に納得させるに当って,このことは多大の助けとなっている。『トム・ブラウンの学校時代』の主人公であり,(英国の)パブリック・スクールの改革者だと賞讃されたアーノルド博士は,少年(生徒)を鞭で打つ罰は誤まっているという意見を持つ変人(cranks)に出あうが,その意見に対して)怒りを爆発させているアーノルド博士のとこを読めば,誰もが,博士は鞭打ちの刑を楽しんでいたのであり,その楽しみを奪われたくないと考えていたのだ,と結論を下さざるえないであろう。
I think that the evils that men inflict on each other, and by reflection upon themselves, have their main source in evil passions rather than in ideas or beliefs. But ideas and principles that do harm are, as a rule, though not always, cloaks for evil passions. In Lisbon when heretics were publicly burnt, it sometimes happened that one of them, by a particularly edifying recantation, would be granted the boon of being strangled before being put into the flames. This would make the spectators so furious that the authorities had great difficulty in preventing them from lynching the penitent and burning him on their own account. The spectacle of the writhing torments of the victims was, in fact, one of the principal pleasures to which the populace looked forward to enliven a somewhat drab existence. I cannot doubt that this pleasure greatly contributed to the general belief that the burning of heretics was a righteous act. The same sort of thing applies to war. People who are vigorous and brutal often find war enjoyable, provided that it is a victorious war and that there is not too much interference with rape and plunder. This is a great help in persuading people that wars are righteous. Dr Arnold, the hero of Tom Brown’s Schooldays, and the admired reformer of Public Schools, came across some cranks who thought it a mistake to flog boys. Anyone reading his outburst of furious indignation against this opinion will be forced to the conclusion that he enjoyed inflicting floggings, and did not wish to be deprived of this pleasure.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(1946)n.1

(種々の)人間の不幸(災い)は,二種類に分けることができるだろう。第一に,非人間的な環境によって被る不幸であり,第二には,他の人間によって被る不幸である。人類は知識や技術においてこれまで進歩をとげてきているので,第二の種類の不幸は,不幸(災難)全体の中で占める割合(パーセンテージ)を,絶え間なく増大させるようになっている。昔は,たとえば飢饉は自然のいろいろな原因によるものであり,それと闘うために人々は最善をつくしたが,多数の人々が飢えのために亡くなった。現在(も),世界の広大な地域が飢饉の恐れに直面しており,そのような状況は自然の諸原因によるところが大きいけれども,(飢饉の)主たる原因は人間的なものである。(過去)6年間にわたって,世界の文明諸国民は,みずからの最良のエネルギーをすべて相互殺戮に捧げた(注:第二次世界大戦のこと)。また,(現在)お互いに生かしあうことへ急に方向転換することは困難であると認めている。収穫をダメにし,農業機械類を取り壊し(注:兵器製造のための材料として?),船舶輸送の組織をこわしてしまった文明諸国民は,ある地域における農作物の不足を,他の地域における過剰作物によって救済する,ということがけっして容易でないことを認識(発見)している。もしも経済組織が,正常(通常)の機能を発揮しているとしたならば,そういった救済は容易にできたであろう。この例が示すように,人間(人類)の最悪の敵は今や(自然ではなく)人間(人類)である。たしかに,自然は,我々人間を今なお死すべき存在としている(遅から早かれ死ななければならない)。しかし,医学の進歩とともに,我々人間が天寿をまっとうするまで生きることが,ますます普通であるようになるだろう。我々は,永遠に生きることを願い,天国の終わりのない喜び -(つまり)神の奇蹟によってその単調さがけっしてうんざりするものにまでならない喜び- を期待するものだ,と想定されている。しかし,実際,もはや若くない正直な人に質問すれば,誰もが,たいてい次のように答えそうである。(即ち,これまで)この世の生活を味わってきたので,あの世で再び「新人(new boy)」として,生活を始めようとは思わない,と。従って,今後のことについては,(あの世のことではなく)人類が考慮すべきもっとも重大な害悪は,人類が自らの愚かさや悪意,あるいはその両方によって互いに他の上に生じさせる害悪であると,言ってよいであろう。
The misfortunes of human beings may be divided into two classes: First, those inflicted by the non-human environment and, second, those inflicted by other people. As mankind have progressed in knowledge and technique, the second class has become a continually increasing percentage of the total. In old times, famine, for example, was due to natural causes, and although people did their best to combat it, large numbers of them died of starvation. At the present moment large parts of the world are faced with the threat of famine, but although natural causes have contributed to the situation, the principal causes are human. For six years the civilized nations of the world devoted all their best energies to killing each other, and they find it difficult suddenly to switch over to keeping each other alive. Having destroyed harvests, dismantled agricultural machinery, and disorganized shipping, they find it no easy matter to relieve the shortage of crops in one place by means of a superabundance in another, as would easily be done if the economic system were in normal working order. As this illustration shows, it is now man that is man’s worst enemy. Nature, it is true, still sees to it that we are mortal, but with the progress in medicine it will become more and more common for people to live until they have had their fill of life. We are supposed to wish to live for ever and to look forward to the unending joys of heaven, of which, by miracle, the monotony will never grow stale. But in fact, if you question any candid person who is no longer young, he is very likely to tell you that, having tasted life in this world, he has no wish to begin again as a ‘new boy’ in another. For the future, therefore, it may be taken that much the most important evils that mankind have to consider are those which they inflict upon each other through stupidity or malevolence or both.
Source: Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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