(ラッセルの16歳になったばかりの時の鍵付き日記帳から) <1888年6月3日>
「私が確信できるようになった原理や信条がいかにわずかであるかは驚くべきことである。以前には疑っていなかった信念が次から次へと私からすり抜けて疑いの中に落ちて行くのを,私は発見している。たとえば、以前には真理を手に入れることは良いことだということを一瞬たりとも(never for a moment)疑ったことはなかった。しかし今では、それをこの上なく疑い、それは確実ではないと思っている。なぜなら、真理の探究は、この帳面(this book)に記したような結果に私を導いたのであり、一方(whereas)もし幼い時代に教えられたことを受け入れることで満足していたなら、心地よいままでいられたからである。真理の探究は、私の古い信念の大部分を粉砕してしまい、真理を探求しさえしなければ犯さなくてもすんだと思われる(ところの)罪らしきものを犯さざるを得ないようにしてしまった。真理の探究が私を何らかの点で以前よりも幸福にしたとは思わない。もちろんそれは、私により深い人格を与え、ささいなこと(trifles)や見せかけだけのごまかし(mockery)を軽蔑するようにさせた。しかし同時にそれは私から陽気さを奪い去り、親友(bosom friends)を作ることをより困難にした。そうして,とりわけ悪いことに、私の家族との自由な交わりを妨げ(debarred me from)、私の心の最も奥にある思考(考え)のいくらかのもの - 私が運悪く(by any mischance)それを口にすれば、即座に家族の嘲笑の的となり、その嘲笑が意地悪からではないにしても、私にとって言葉で表現できないほどつらく感ぜられるもの - に関して,彼らをよそ者(他人)にしてしまった(のである)。このようにして、私という個人の場合には、真理の探究の結果は、(これまでのところ)良かったというよりはむしろ悪かったと言わなければならない。しかし,私が真理として受けいれているものは、実は真理でなく,もし本当の真理に到達するなら、私はそれでより幸福になるはずだと人は言うかもしれない。しかし,それはとても疑わしい命題である。従って,私は,真理の純粋な利点(長所)(unmixed advantages)については、大いなる疑問を抱いている。確かに、生物学の真理は、我々(人類)が人間(人類)についてもつ観念を低下させ,それは我々に苦痛を与えるに違いない。さらに、真理は以前の友を疎遠にし,新たな友を作ることをさまたげ,それもまた悪いものである。もしかすると,これら全てのことは一種の殉教と見るべきであるかもしれない。なぜなら、一人の人の達した真理が、その人自身の幸福は増やさなくても、しばしば,多くの他の人々の幸福の増進へと導くかもしれないからである。概して,やはり私は真理を追求したいと思う。ただ、この帳面(this book)に書いたような種類の真理(それがまことに真理であるならば)を私は広めようとは思わない。いや、むしろ他人に知られることを防ぎたい。」
Chapter : First Efforts, n.11 (From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. June third
It is extraordinary how few principles or dogmas I have been able to become convinced of. One after another I find my former undoubted beliefs slipping from me into the region of doubt. For example, I used never for a moment to doubt that truth was a good thing to get hold of. But now I have the very greatest doubt and uncertainty. For the search for truth has led me to these results I have put in this book, whereas, had I been content to accept the teachings of my youth, I should have remained comfortable. The search for truth has shattered most of my old beliefs and has made me commit what are probably sins where otherwise I should have kept clear of them. I do not think it has in any way made me happier; of course it has given me a deeper character, a contempt for trifles or mockery, but at the same time it has taken away cheerfulness and made it much harder to make bosom friends and, worst of all, it has debarred me from free intercourse with my people, and thus made them strangers to some of my deepest thoughts which, if by any mischance I do let them out, immediately become the subject for mockery which is inexpressibly bitter to me though not unkindly meant. Thus, in my individual case, I should say the effects of a search for truth have been more bad than good. But the truth which 1 accept as such may be said not to be truth, and I may be told that if I get at real truth I shall be made happier by it, but this is a very doubtful proposition. Hence I have great doubts of the unmixed advantages of truth. Certainly, truth in biology lowers one’s idea of man, which must be painful. Moreover, truth estranges former friends and prevents the making of new ones, which is also a bad thing. One ought perhaps to look upon all these things as a martyrdom, since very often truth attained by one man may lead to the increase in the happiness of many others, though not to his own. On the whole I am inclined to pursue truth, though truth of the kind in this book (if that indeed be truth) I have no desire to spread, but rather to prevent from spreading.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.10
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年5月3日> 私がその代わりとして述べなかったもうひとつのきわめて有力な議論(論拠),がある。(注:in its place / in one’s place ~の代わりに)即ち,この地上における(here below)魂は肉体とは不可分に結びついており,肉体(の成長)とともに,成長し、老衰し、眠り、(魂は)脳に影響を及ぼすと同時に、逆に(肉体の一部としての)脳の中に何か異常があれば(魂は)すぐその影響を受けるように思われる、という議論である。ワーズワース(Sir William Wordsworth, 1770-1850)の『暗示』(Intimations)(注:”Ode” :”Intimations of Immortality” )はごまかし(humbug たわごと)である。なぜなら、魂は肉体とともに成長するものであり,ワーズワースの言うように始めから(生まれたときからできあがっているものではないことは明らかだからである。 * 参考:ウィリアム・ワーズワース 「オード」(「幼少の思い出が永遠について教えてくれる」) https://blog.goo.ne.jp/gtgsh/e/10f197f0b4db485e2758ac0ea2bd6445
Chapter 3: First Efforts, n.10 (From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. May three . .
. . There is another very strong argument which I did not insert in its place, namely, that the soul here below seems so inseparably bound up with the body, growing with it, weakened with it, sleeping with it and affecting the brain and affected in return by anything abnormal in the brain. Wordsworth’s Intimations are humbug, for it is obvious how the soul grows with the body, not as he says perfect from the first.
Source: My Philosophical Development, chap. 31959.
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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.9
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年4月29日> 私は,あらゆることにおいて - 一部は自分の祖先から(遺伝で)受け継ぎ,また自然陶汰によって徐々に獲得した本能ではなく,部分的に教育のおかげであるところの- 理性に従うという決意を(これまで)立ててきた。(みすず書房版の野田訳では「一部は祖先から遺伝されかつ淘汰によって漸次獲得されたものであり、一部は教育に由来するところの、本能なるものをしりぞけて、もっぱら理性に従おうという誓いを立てた」と訳出されている。「一部は教育に由来するところの、本能なるもの」と訳しておかしいと思わなかったのだろうか?) 正,不正の問題において,(こういった)本能に従うことは何と,不合理なこと(馬鹿げたことであろうか? というのは,前によく見たように(観察したように),遺伝によって受け継いだ部分は、種の保存あるいは私が所属する種(注:人類)の特定の属(注:section (ヒト属)の保存、に導く原理にすぎないからである。教育に起因する(due to)部分は、個々の教育(の内容)によって良くなったり悪くなったりする。それにもかかわらず(Yet)、この内なる声 -あの「ブラッディー・メアリー」(注:Bloody Mary :イングランドとアイルランドの女王,在位1553年7月19日 – 1558年11月17日。プロテスタントに対する過酷な迫害からブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)と呼ばれた)をして新教徒を焼き殺させたところの神から授かった良心- この良心に我々は従うべきとされるのである(従うべきとされるのである)。こういった考えは狂気の沙汰だと私は考える。そうして,私は,理性に従って行けるところまで行こうと努力する。私が自分の理想として掲げるものは、最大多数の最大幸福を究極において生み出すものである。そうして,私は,この理想に最も助けになる道(コース)を発見するために理性を用いることができる。また,そうであるけれども(however)、私という個人の場合には受けた教育が立派なものであったので、(理性だけでなく)多少とも,良心に従って進むこともできる。しかし,人々が、理性に従うために,動物的な(野蛮な)衝動を捨てることを嫌がるのは奇妙なことである。・・・(=本書では引用がここで切られている)。
Chapter 3: First Efforts, n.9 (From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 29th
In all things I have made the vow to follow reason, not the instincts inherited partly from my ancestors and gained gradually by selection and partly due to my education. How absurd it would be to follow these in the questions of right and wrong. For as I observed before, the inherited part can only be principles leading to the preservation of the species, or of that particular section of the species to which I belong. The part due to education is good or bad according to the individual education. Yet this inner voice, this God-given conscience which made Bloody Mary burn the Protestants, this is what we reasonable beings are to follow. I think this idea mad, and I endeavour to go by reason as far as possible. What I take as my ideal is that which ultimately produces greatest happiness of greatest number. Then I can apply reason to find out the course most conducive to this, and in my individual case however I can also go more or less by conscience owing to the excellence of my education. But it is curious how people dislike the abandonment of brutish impulse for reason. . . .
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.8
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年4月20日> こうして,私は原始的な道徳は常に種の保存の観念に由来すると考える(originate in)。しかし,それ(原始的な道徳)は、文明社会が従わなければならない規則だろうか? 私はそうは考えない。私の行為を導きかつそれから外れることを罪と考えるところの私の人生のルール(規則)は、幸福の強度と幸福になる人々の数との両方を考慮して,最大の幸福を生み出しそうだと信じるやり方で行動することである。私の祖母はこれを実行不可能な人生のルールだと考えており、人間は最大の幸福を生み出すものを決して知りえないのだから、(人間の,個々人の)内なる声に従う方がはるかに良いといつも言っているのを、私は知っている。けれども、良心は大部分の場合,教育に依存していることは容易に見てとることができ -たとえば、普通のアイルランド人は嘘をつくことを不正だとは考えない- その事実だけで(人間の)良心が神から与えられたものであることを否認するために十分である,と私には思われる。そうして、私の信ずるところによれば、良心は単に進化と教育とが結びついた産物であるに過ぎないのだから、理性よりも良心に従うということは不合理(absurdity)である。そうして,私の理性は,幸福の最大量を生みだすように行動することの方が,他のどのようなやり方よりも良い、と私に告げる。というのは,私は、(人間の幸福を最大限に増やすという目的以外の)他のいかなる目的を自分の前に立てることができるか試してきたが、(これまで)失敗に終ってきた。私は特に自分の個人的な幸福ではなく、全ての人の幸福を等しく,自分自身とか親戚とか友人とか全くの他人とかの区別せずに、である(目的とするのである)。現実の(実際の)生活においては,それは(そういう目標は)、他人が私と同意見でない限り、私にとって,ほとんど違いはない。というのは,家族に(自分の考えが)知られる機会(恐れ)がある場合には、彼ら(=他の家族)が正しいと考えることをやるほうが良いことは明らかだからである(注:最大多数の最大幸福)。こういった見方(見解)を私がとる理由は,まず(第一に) -進化についてまじめに考える人なら当然なように(as everybody must who seriously thinks about evolution),自分の良心に従うという古い考えを捨てなければならなくなったので- (私としては)それ以外の他の考えを発見できないからである。次に(第二に)、幸福は追求すべき最大のものであり、実際, 誠実な公職の人たちは全て(人々の)幸福を求めていると私には思われるからである。この理論(説)の実際生活への適用の一例として,私自身以外の誰にもまったく関係がない場合には -実際そういう場合が存在すると仮定して- 私は当然のこと,自分の快楽を求めて全く利己的に振る舞うぺきである,と私は言うだろう。もう一つの例として、ある(溺れている)男 -あなたはその男はこの世に存在しない方がよい悪人であると知っている- を救助できる機会があったと仮定すると,私は彼の後を追って水中に飛び込むことにより、明らかに自分自身の幸福をより考慮していることになる(consult ~ better)。というのは、もしそれで私が自分の生命を失うならば、それは(それで)非常に素晴らしい自分の始末の付け方であるし、もしその男を救えたならば私は限りない(終わりのない)賞讃という喜びを持つことになるからである。しかし、もし私がその男が溺れるままにしておくとすると、私は死ぬ機会を失うことになるし、また多くの非難を受けるという不幸に陥ることになるが、世界はその男が死ぬことにより、また(かつ)これは私のかすかな希望であるが、私は死なずにすむことにより,世界はより良いものとなるであろう。
Chapter 3: First Efforts, n.8 (From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 20th
Thus I think that primitive morality always originates in the idea of the preservation of the species. But is this a rule which a civilized community ought to follow? I think not. My rule of life which I guide my conduct by, and a departure from which I consider as a sin, is to act in the manner which I believe to be most likely to produce the greatest happiness considering both the intensity of the happiness and the number of people made happy. I know that my grandmother considers this an impractical rule of life and says that, since you can never know the thing which will produce greatest happiness, you do much better in following the inner voice. The conscience, however, can easily be seen to depend mostly upon education (as, for example, common Irishmen do not consider lying wrong) which fact alone seems to me quite sufficient to disprove the divine nature of conscience. And, since, as I believe, conscience is merely the combined product of evolution and education, then obviously it is an absurdity to follow that rather than reason. And my reason tells me that it is better to act so as to produce maximum of happiness than in any other way. For I have tried to see what other object I could set before me, and I have failed. Not my own individual happiness in particular, but everybody’s equally, making no distinction between myself, relations, friends, or perfect strangers. In real life it makes very little difference to me as long as others are not of my opinion, for obviously where there is any chance of being found out, it is better to do what one’s people consider right. My reason for this view is, first, that I can find no other, having been forced as everybody must who seriously thinks about evolution to give up the old idea of asking one’s conscience; next, that it seems to me that happiness is the great thing to seek after and which practically all honest public men do seek after. As an application of the theory to practical life, I will say that in a case where nobody but myself was concerned (if indeed such a case exist) I should of course act entirely selfishly to please myself. Suppose, for another instance, that I had the chance of saving a man whom I knew to be a bad man who would be better out of the world, obviously I should consult my own happiness better by plunging in after him. For, if I lost my life, that would be a very neat way of managing it, and, if I saved him, I should have the pleasure of no end of praise. But if I let him drown, I should have lost an opportunity of death and should have the misery of much blame, but the world would be better for his loss and, as I have some slight hope, for my life.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.7
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年4月18日>
それでは(then その場合)、人間は死すべきものであり自由意志をもたないという理論(説) - もちろんこういう種類のものは単なる思弁であるので,単なる理論(説)にすぎない- を受けいれる時、我々人間は正(正しい)と不正(間違っている)とについて,いかなる観念を形作ることができるだろうか? 実際、(キリスト教の)予定説(注:predestination 救済の予定説:最終的に誰を救済するかは天地創造前に決定されているとする考え方 )のような不合理な教説 - は上の説と大同小異である。ただし、人々はそうは(似通ったものだとは)考えてはいない- に言及すれば、多くの人は(それでは)予定説では,良心(の問題)はどうなるのかという理由などを言う。(彼らは,良心は神によって人間のなかに直接に植えつけられてきたと考えている)。さて(Now),私の考えは、我々人間の良心は、第一に、進化のおかげ(せい)であり、進化は当然のこと自己保存の本能を形成する。第二に,それはまた、文明と教育のおかげ(せい)であり、それらは自己保存の観念に大なる洗練を取り入れる(introduce)。たとえば,原始的な道徳の例として(モーゼの)十戒をとりあげてみよう。十戒のなかの多くのものは、種の保存(the preservation of the species)に最上の条件である共同体(社会)の平穏な暮らし(the quiet living )に資するもの(conductive to 助けとなるもの)である。そうして,常に考えられる最悪の罪でありかつ最も強い良心の呵責が感じられる罪は殺人であり、それは直接的な種の絶滅ヘ導くものだと感じられる。さらに、よく知られているように、ヘブライ人の間では、多くの子供を持つことは神のご愛顧の印であり,他方、子供のない人たちは神に呪われていると考えられた。ローマ人の間でもまた、寡婦未亡人は嫌われ、一年以上結婚せずにいることは禁ぜられていた、と私は思う。ところで,こういう独特の考えはどうして生じたのだろうか。それはただ憐れまれ,嫌われる対象(ものたち)が新たな人間を生み出さないからではなかったのか? 人間が相当分別をもつようになった時にそういう考えが発達してきた可能性を,我々は十分理解できる。というのは、もしある種族の中に殺人や自殺が常態的に行われるなら、その種族は死にたえるであろうし、従って、そういう行為が忌むべきものであると考える種族は非常に有利になるだろうからである(訳注:and hence one which held such acts in abhorrence would have a great advantage. みすず書房版の野田訳では、「one」が「a tribe」であることに気づかず、「そういう行為が忌むべきものであるという考えは、大変役に立つことになるからである」と訳出している)。もちろん、もっと文明の進んだ社会では、これらの観念は相当修正を受ける。それについての私自身の考えは、この後、述べることにする。
Chapter 3: First Efforts, n.7 (From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 18th
Accepting, then, the theory that man is mortal and destitute of free will, which is as much as ever a mere theory, as of course all these kinds of things are mere speculations, what idea can we form of right and wrong? Many say, if you make any mention of such an absurd doctrine as predestination, which comes to much the same thing though persons don’t think so, why what becomes of conscience, etc. (which they think has been directly implanted in man by God)? Now my idea is that our conscience is in the first place due to evolution which would of course form instincts of self-preservation, and in the second place to civilization and education, which introduces great refinements of the idea of self-preservation. Let us take, for example, the ten commandments as illustrative of primitive morality. Many of them are conducive to the quiet living of the community which is best for the preservation of the species. Thus, what is always considered the worst possible crime, and the one for which most remorse is felt, is murder, which is direct annihilation of the species. Again, as we know, among the Hebrews it was thought a mark of God’s favour to have many children, while the childless were considered as cursed of God. Among the Romans, also, widows were hated and, I believe, forbidden to remain unmarried in Rome more than a year. Now why these peculiar ideas? Were they not simply because these objects of pity or dislike did not bring forth fresh human beings? We can well understand how such ideas might grow up when men became rather sensible, for, if murder and suicide were common in a tribe, that tribe would die out, and hence one which held such acts in abhorrence would have a great advantage. Of course, among more educated societies, these ideas are rather modified. My own, I mean to give next time.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.6
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年4月14日>
けれども,人間は不死も自由意志も魂も持っていないという説、要するに(in short)人間は巧みに作られた一種の機械が意識を与えられたものであるという説に関しては(in the way of ~の点については)、大きな困難がいろいろ存在している。というのは,意識は、それ自体、人間を無生物からはっきり区別する一つの性質であり、そうして,もし人間がこのように無生物とは異なったひとつのものをもつのならば、何故,もう一つの,自由意志を持たないのだろうか? 自由意志によって私の意味することは、人間は、たとえば、運動の第一法則に従わないということであり、あるいは少なくとも,人間の持っているエネルギーが使用される(用いられる)方向は全く外部環境によってのみ決定されるのではないということである。さらにまた、人間が,つまり理性や宇宙に関する知識や正邪の観念をもつところの、偉大な人間が、(また)様々な感情,つまり愛や憎悪といった感情、それから宗教を持つところの人間が、単なる朽ちやすい化合物(化学的な合成物)であり、その性質や善悪に対する影響力が、ただ単に,また全く脳の分子の特殊な運動に依存しており、従ってすべての偉大な人々は、どれか一つの分子が他の分子に衝突する回数が他の人々においてよりも少し多い(oftener)ということによって偉大であった,などと考えることは不可能なように思われる。こういうことは全く信じられないことであり、そういう馬鹿げたことを信ずる人は気が狂っているのではないか(← いかなる人も気が狂っていないというのか?) しかし,この説に代るものとしていかなる説があるのだろうか? 実際上証明されているといってよい進化論を受けいれるとすると、あの猿たちが徐々に知能を増して行っている時に、神は(どういうわけか)突然奇跡によって我々人類がどのようにして持ついたったか知らないところのあの驚くべき理性を一頭(一匹)の猿に与えた(という説)。その場合、人間は本当に神の素晴らしい作品と呼ばれてよいのか? また、人間は、非情に長い年月を進化に費やした後に完全に滅び去る運命にあるのか? それは我々人間にはわからない。しかし、私としては、このように神が人間を作り出すのに奇蹟を必要とし、そうして,現在は、人間に自分の好むところを自由にさせていると考えるよりも、そういった考え(進化論の考え方)の方がよいと思う。
Chapter III: First Efforts, n.6 (From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 14th
Yet there are great difficulties in the way of the doctrine that man has not immortality nor free will nor a soul, in short that he is nothing more than a species of ingenious machine endowed with consciousness. For consciousness, in itself, is a quality quite distinguishing men from dead matter, and if they have one thing different from dead matter why not another, free will.? By free will I mean that they do not, for example, obey the first law of motion, or at least that the direction in which the energy they contain is employed depends not entirely on external circumstances. Moreover, it seems impossible to imagine that man, the great Man, with his reason, his knowledge of the universe and his ideas of right and wrong, Man with his emotions, his love and hate, and his religion, that this Man should be a mere perishable chemical compound, whose character and his influence for good or for evil depends solely and entirely on the particular motions of the molecules of his brain and that all the greatest men have been great by reason of some one molecule hitting up against some other a little oftener than in other men! Does not this seem utterly incredible, and must not any one be mad who believes in such an absurdity? But what is the alternative.? That, accepting the evolution theory which is practically proved, apes having gradually increased in intelligence, God suddenly by a miracle endowed one with that wonderful reason which it is a mystery how we possess. Then is man, truly called the glorious Work of God, is man destined to perish utterly after he has been so many ages in evolving.? We cannot say, but I prefer that idea to God’s having needed a miracle to produce man and now leaving him free to do as he likes.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-060.HTM
ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.5
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から)
<1888年4月9日 月曜>
・・・私は(人間の)生命が永遠であったらと(強く)願う。(I do wish I believed in the life eternal.仮定法「if I believed」の「if」が省略された形か?) というのは、人間は単なる一種の機械であり、(しかも)自分自身にとって不幸なことに(unhappily for himself),意識を与えられている(機械である)と考えることは、私をまことにみじめな気持にさせるからである(訳注:意識がなければ不幸に感じることはない)。しかし,(人間機械説以外の)他のいかなる理論も神の全知全能(説)(the complete omnipotence 完全な全能) -これは科学が十分に明らかにしていると私は考える- と両立しない。こうして,私は,無神論者となるか,不死を信じない者となるか、どちらかをとるより他ない(のである)。第一のもの(無神論者)を私が採ることは不可能であるので、不死の否定を私は受けいれ、そうして私は誰にもそのことを知らせずにおく。こういった人間観は失望を与えるものであるかもしれないけれども、神が(世界の)始めに,単なる星雲状物質の塊- 恐らく宇宙のその部分に拡がっているエーテルにすぎないもの- に働きかけることによって、我々自身のような生物を、即ち,自らの存在を意識するだけでなく,ある程度まで神の神秘を推測する生物を生みだすことのできる法則を創り出すことができると考えることは、神の偉大さについての素晴らしい観念を我々人間に与える(のである)。(そうして)これら全てのことは神が(更に)まったく手を加えることなしになのである! さて,この自由意志の否定説(不存在説)がそれほど不合理か(馬鹿げているか)どうか考えてみよう。もし我々が誰かにその説(自由意志不存在説)を語れば、聞かれた人々は自分の足を蹴るか、他の何かそういったようなことをして、応えるであろう(訳:「このように、私には自由意志があります」と)。しかし,この場合も(自由に蹴っているのではなく)そうせざるをえないからである。なぜならばこの場合その人はそれをせざるを得ないことを証明するものを持っており、従ってそれがその人が足で蹴るということの動機を与えているからである。このようにして,我々が何をなす場合においても,我々は常に何らかの動機を持っており、その動機が我々を決定しているのである。ここでもまた、シェイクスビアやハーバート・スペンサーやパプアニューギニア人(パプア人/土人)との間に明確な境界線はないのである。しかし(我々の眼には)二人(=シェイクスビア及びハーバート・スペンサー)とパプア人との間の相違(差)はパプア人と猿との相違(差)ほど大きいように見える。
Chapter 3: First Efforts, n.5
(From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 9th Monday, . … I do wish I believed in the life eternal, for it makes me quite miserable to think man is merely a kind of machine endowed, unhappily for himself, with consciousness. But no other theory is consistent with the complete omnipotence of God of which science I think gives ample manifestations. Thus, I must either be an atheist or disbeliever in immortality. Finding the first impossible, I accept the second and let no one know. I think, however disappointing may be this view of man, it does give us a wonderful idea of God’s greatness to think that he can, in the beginning, create laws which, by acting on a mere mass of nebulous matter, perhaps merely ether diffused through this part of the universe, will produce creatures like ourselves, conscious not only of our existence but even able to fathom to a certain extent God’s mysteries! All this with no more intervention on his part! Now let us think whether this doctrine of want of free will is so absurd. If we talk about it to anyone they kick their legs or something of that sort. But perhaps they cannot help it, for they have something to prove and therefore that supplies a motive to them to do it. Thus, in anything we do we always have motives which determine us. Also, there is no line of demarcation between Shakespeare or Herbert Spencer and a Papuan. But between them and a Papuan there seems as much difference as between a Papuan and a monkey.
Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-050.HTM
ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.4
[ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から 1888年4月2日]
今や私は、我々哀れな人間にとって,多分,他の何よりも強い個人的関心事である問題に至っている(やってきている)。それは人間の不死の問題である。これは,それについて考えることによって私が最も失望し,最も苦痛を感じた問題である。その問題について探求する方法には2つのやり方がある。第一は、進化(論)により,人間を動物と比較する方法である(comparing man to animals)。第二は、人間を神と比較する方法である(comparing man with God)(注:「”compare to” と “compare with” との違い」:たとえば、人生を巡礼の旅やドラマ、戦いといったものと比べる(対照する)際は “compare to” を、アメリカの議会をイギリスの議会と比べる時は “compare with” を使う;パリと古代アテネを比べる時は “compare to” だが、パリとロンドンを比べる時は “compare with” を使う,とのこと/つまり,同じ種類や性質のもの同士の比較の場合は with を使う。/ちなみに、みすず書房刊の野田訳では、”compare to”の部分は「第一は、進化論により人間を動物に近いものと考えることによってである」となっている)。 第一の方法は第二の方法よりも科学的である。というのは、我々は動物についてはあらゆることを知っているが、神についてはそうではないからである。さて,まず自由意志をとりあげてみると、人間と原生動物(protozoon)との間には明確な境界線を引くことはできない,と私は考える。それゆえ、人間に自意意志を認めるなら、原生動物にもそれを(自由意志があることを)認めなければならない。これはかなり認めがたいことである。従って、もし我々が原生動物に自由意志を認めたくないならば、人間に対してもそれを認めることはできない。人間に(だけ)自由意志を認めることは可能かも知れないが、もし原形質(細胞の微細構造が知られていなかった時代に作られた言葉で、細胞の中にある「生きている」と考えられていた物質のこと)が、神の特別な摂理(導き)なしに、ただ自然の普通の過程によって(進化論が言うように)ともにやってきた -私には多分そうだと思われる- のであるならば、そう想像することは困難である。その場合,我々人間及び他の全ての生物は、ただ化学的なカによってのみ動かされ続けているものであり、樹木 -これが自由意志を持つなどとは誰も偽って主張しない- 以上の素晴らしい存在ではなく,同様の存在であり,また,もし我々がある時刻(時間)にある人に働く様々な力を、また賛否の動機(motives pro and con 肯定的な動機及び否定的な動機?)を、またある時刻におけるその人の脳(内)の状態を、十分によく知ることができるならば、我々はその人が(これから)何をするだろうかを正確に予測することができるであろう。再びまた、宗教的見地から言えば、自由意志を我々が持っていると主張することは非常な倣慢である。というのは、もちろん自由意志(の行使)は、当然のこと,神の法則を中断することだからであり.神の通常の法則によって,我々の全ての行為は、星の運行同様に、決まってしまっているからである。我々は、決して破られることなく万人の行為を決定するような法則を、神が最初に確立したと認めなければならない(leave to 任せる)、と私は考える。そうして,我々人間は自由意志を持っていないので,我々は不死ではありえないのである。
Chapter : First Efforts, n.4 (From Russell’s diary)
Eighteen eighty-eight. Apr. 2nd. I now come to the subject which personally interests us poor mortals more, perhaps, than any other. I mean the question of immortality. This is the one in which I have been most disappointed and pained by thought. There are two ways of looking at it. First, by evolution and comparing man to animals. Second, by comparing man with God. The first is the more scientific, for we know all about the animals but not about God. Well, I hold that, taking free will first to consider, there is no clear dividing line between man and the protozoon. Therefore, if we give free will to man, we must give it also to the protozoon. This is rather hard to do. Therefore, unless we are willing to give free will to the protozoon, we cannot give it to man. This, however, is possible, but it is difficult to imagine if, as seems to me probable, protoplasm only came together in the ordinary course of nature without any special providence from God. Then we and all living things are simply kept going by chemical forces and are nothing more wonderful than a tree, which no one pretends has free will, and, even if we had a good enough knowledge of the forces acting on anyone at any time, the motives pro and con, the constitution of his brain, at any time, then we could tell exactly what he will do. Again, from the religious point of view, free will is a very arrogant thing for us to claim, for of course it is an interruption of God’s laws, for by his ordinary laws all our actions would be fixed as the stars. I think we must leave to God the primary establishment of laws which are never broken and determine everybody’s doings. And not having free will we cannot have immortality.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-040.HTM
ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.3
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年3月22日日> この前の課題検討(exercise 課題.練習問題)では、私は、神の存在を自然の斉一説(さいいつせい)及び,自然の全ての面においてある一定の法則が貫徹していることによって、証明した。そこで,この推論(推理)の妥当性(reasonableness )について探求(吟味 look into)してみよう。我々が今見ている宇宙が、一部の人たちが言うように,単なる偶然によって成長してきたと想定(仮定)してみよう。その場合、すべての個々の原子が、ある一定の条件下では、他の原子と全く同じように振る舞うと(act),我々は予想(expect 期待)すべきだろうか? もし原子が生命をもたないならば、それらが外からの統制力なしに何ごとかをなすと期待(予想)する理由はまったくない,と私は考える。他方,もし原子が自由意志が備わっていると想定(仮定)するなら、我々は、宇宙にある全ての原子が結合して(いわば)一つの連邦国家のもとに結合し、しかもどのひとつの原子も決して犯すことのない理想的な法律(law 法則)を作った、という結論にいたらざるをえない。これは明らかに馬鹿げた仮説である。従って,我々は神の存在を信じざるをえない。しかし,こういう神の存在の証明法は、同時に、奇蹟やその他のいわゆる神的なカの顕現(manifestation 現れ)なるものの存在を反証する(誤りであることを証明する)ことになる。けれども,それらの可能性を反証することはない。と言うのは,法を作った者は、もちろん,法を破棄することもまた可能だからである。(また)我々は別のやり方で奇蹟の存在の反証(否認)にたどりつけるかも知れない。と言うのは、もし神が法(法則)を作ったのだとするとその法(法則)が時々改訂(変更)されねばならないのであれば、間違いなく(surely 確実に)、その法(法則)には不完全な点があるということを意味し、また、聖書には神は(世界)創造の仕事について自ら後悔した(注:「創世記」六の七:「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。」)とあるように、不完全性を神的な存在者のせいにすることは決してできないからである。
Chapter : First Efforts, n.3
Eighteen eighty-eight. March 22nd. In my last exercise I proved the existence of God by the uniformity of nature and the persistence of certain laws in all her ways. Now let us look into the reasonableness of the reasoning. Let us suppose that the universe we now see has, as some suppose, grown by mere chance. Should we then expect every atom to act in any given conditions precisely similarly to another atom? I think, if atoms be lifeless, there is no reason to expect them to do anything without a controlling power. If, on the other hand, they be endowed with free will, we are forced to the conclusion that all atoms in the universe have combined in the commonwealth and have made laws which none of them ever break. This is clearly an absurd hypothesis, and therefore we are forced to believe in God. But this way of proving his existence at the same time disproves miracles and other supposed manifestations of divine power. It does not, however, disprove their possibility, for, of course, the maker of laws can also unmake them. We may arrive in another way at a disbelief in miracles, for, if God is the maker of the laws, surely it would imply an imperfection in the law if it had to be altered occasionally, and such imperfection we can never impute to the divine nature, as in the Bible God repented him of the work.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-030.HTM
ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.2
(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年3月19日> 今日は私が神の存在を信ずる理由(根拠)を書き下ろすつもりである(mean to)。まず,私は神の存在を信じており、もし自分の信条に名前をつけなければならないとすれば、私は自分を有神論者(a theist)と名乗るべきである、と言ってよいであろう。さて(Now ここで)神を信ずる理由(根拠)を見つけるに際し,私はただ科学的な議論のみを考慮に入れることにする。これは、私の立てた誓いであり、これを守り(保ち)かつあらゆる感情を退けることには大変な犠牲を私に払わせる(私に大きな負荷をかける)。神(の存在)を信ずる科学的根拠を発見するためには、我々(人間)は全ての物事の始めに戻らなければならない。もし現在の自然法則が常に働いてきたとするなら(効力を持ってきたとするなら)、現在宇宙にある(のとまったく同じ)量の物質とエネルギーが常に存在してきたことになるということを,我々は(科学的知識として)知っている。しかし、星雲仮説(the nebular hypothesis 星雲説:太陽の周囲を回る星間物質が固まって惑星ができたという説。紆余曲折があったが、結局、現在でも「新しい」星雲説が標準仮説となっている。)によると、全宇宙が未分化の星雲状の物質(注:宇宙塵のようなもの)で満たされていた時期は、遠くない過去の一時点である(注:ビッグバン理論が認められたのは,1929年のエドウィン・ハッブによる宇宙の膨張を示す観測結果の報告であり,それまでは定常宇宙が定説であった/従ってこの辺の記述はあくまでも当時の科学理論を元にした考え)。従って現在存在する物質や(様々な)カがある時に明らかに神的な力によってのみ可能な(世界の)創造(行為)があったという可能性は十分にある(quite possible)(注:キリスト教では世界は神によって創造されたとされる)。しかし,物質や力が常に存在してきたと仮に認めるとしても、物質に対するカの作用(action)を規則づけている原因はどこから来ているのだろうか? 私は、それら(物質と力)は力を統御する神的なものにみに起因しており,私は従ってそれを神と呼ぶ(名付ける)。
Chapter : First Efforts, n.2 (From Russell’s Diary] Eighteen eighty-eight. March 19th. I mean today to put down my grounds for belief in God. I may say to begin with that I do believe in God, and that I should call myself a theist if I had to give my creed a name. Now in finding reasons for believing in God I shall only take account of scientific arguments. This is a vow I have made, which costs me much to keep, and to reject all sentiment. To find the scientific grounds for a belief in God we must go back to the beginning of all things. We know that, if the present laws of nature have always been in force, the exact quantity of matter and energy now in the universe must always have been in existence, but the nebular hypothesis points to no distant date for the time when the whole universe was filled with undifferentiated nebulous matter. Hence it is quite possible that the matter and force now in existence may have had a creation which clearly could be only by divine power. But even granting that they have always been in existence, yet whence comes the cause which regulates the action of force on matter? I think they are only attributable to a divine controlling power which I accordingly call God.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-020.HTM