[ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から 1888年4月2日]
今や私は、我々哀れな人間にとって,多分,他の何よりも強い個人的関心事である問題に至っている(やってきている)。それは人間の不死の問題である。これは,それについて考えることによって私が最も失望し,最も苦痛を感じた問題である。その問題について探求する方法には2つのやり方がある。第一は、進化(論)により,人間を動物と比較する方法である(comparing man to animals)。第二は、人間を神と比較する方法である(comparing man with God)(注:「”compare to” と “compare with” との違い」:たとえば、人生を巡礼の旅やドラマ、戦いといったものと比べる(対照する)際は “compare to” を、アメリカの議会をイギリスの議会と比べる時は “compare with” を使う;パリと古代アテネを比べる時は “compare to” だが、パリとロンドンを比べる時は “compare with” を使う,とのこと/つまり,同じ種類や性質のもの同士の比較の場合は with を使う。/ちなみに、みすず書房刊の野田訳では、”compare to”の部分は「第一は、進化論により人間を動物に近いものと考えることによってである」となっている)。 第一の方法は第二の方法よりも科学的である。というのは、我々は動物についてはあらゆることを知っているが、神についてはそうではないからである。さて,まず自由意志をとりあげてみると、人間と原生動物(protozoon)との間には明確な境界線を引くことはできない,と私は考える。それゆえ、人間に自意意志を認めるなら、原生動物にもそれを(自由意志があることを)認めなければならない。これはかなり認めがたいことである。従って、もし我々が原生動物に自由意志を認めたくないならば、人間に対してもそれを認めることはできない。人間に(だけ)自由意志を認めることは可能かも知れないが、もし原形質(細胞の微細構造が知られていなかった時代に作られた言葉で、細胞の中にある「生きている」と考えられていた物質のこと)が、神の特別な摂理(導き)なしに、ただ自然の普通の過程によって(進化論が言うように)ともにやってきた -私には多分そうだと思われる- のであるならば、そう想像することは困難である。その場合,我々人間及び他の全ての生物は、ただ化学的なカによってのみ動かされ続けているものであり、樹木 -これが自由意志を持つなどとは誰も偽って主張しない- 以上の素晴らしい存在ではなく,同様の存在であり,また,もし我々がある時刻(時間)にある人に働く様々な力を、また賛否の動機(motives pro and con 肯定的な動機及び否定的な動機?)を、またある時刻におけるその人の脳(内)の状態を、十分によく知ることができるならば、我々はその人が(これから)何をするだろうかを正確に予測することができるであろう。再びまた、宗教的見地から言えば、自由意志を我々が持っていると主張することは非常な倣慢である。というのは、もちろん自由意志(の行使)は、当然のこと,神の法則を中断することだからであり.神の通常の法則によって,我々の全ての行為は、星の運行同様に、決まってしまっているからである。我々は、決して破られることなく万人の行為を決定するような法則を、神が最初に確立したと認めなければならない(leave to 任せる)、と私は考える。そうして,我々人間は自由意志を持っていないので,我々は不死ではありえないのである。
Chapter : First Efforts, n.4 (From Russell’s diary)
Eighteen eighty-eight. Apr. 2nd. I now come to the subject which personally interests us poor mortals more, perhaps, than any other. I mean the question of immortality. This is the one in which I have been most disappointed and pained by thought. There are two ways of looking at it. First, by evolution and comparing man to animals. Second, by comparing man with God. The first is the more scientific, for we know all about the animals but not about God. Well, I hold that, taking free will first to consider, there is no clear dividing line between man and the protozoon. Therefore, if we give free will to man, we must give it also to the protozoon. This is rather hard to do. Therefore, unless we are willing to give free will to the protozoon, we cannot give it to man. This, however, is possible, but it is difficult to imagine if, as seems to me probable, protoplasm only came together in the ordinary course of nature without any special providence from God. Then we and all living things are simply kept going by chemical forces and are nothing more wonderful than a tree, which no one pretends has free will, and, even if we had a good enough knowledge of the forces acting on anyone at any time, the motives pro and con, the constitution of his brain, at any time, then we could tell exactly what he will do. Again, from the religious point of view, free will is a very arrogant thing for us to claim, for of course it is an interruption of God’s laws, for by his ordinary laws all our actions would be fixed as the stars. I think we must leave to God the primary establishment of laws which are never broken and determine everybody’s doings. And not having free will we cannot have immortality.
Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.
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