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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展 第3章 (松下彰良 訳)- My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell

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第3章 最初の努力 n.3 - 神の存在の証明法

(ラッセルの15~16歳の時の鍵付き日記帳から)
<1888年3月22日日>

 この前の課題検討(exercise 課題.練習問題)では、私は、神の存在自然の斉一説(さいいつせい)及び,自然の全ての面においてある一定の法則が貫徹していることによって、証明した。そこで,この推論(推理)妥当性(reasonableness )について探求(吟味 look into)してみよう。我々が今見ている宇宙が、一部の人たちが言うように,単なる偶然によって成長してきたと想定(仮定)してみよう。その場合、すべての個々の原子が、ある一定の条件下では、他の原子と全く同じように振る舞うと(act),我々は予想(expect 期待)すべきだろうか? もし原子生命をもたないならば、それらが外からの統制力なしに何ごとかをなすと期待(予想)する理由はまったくない,と私は考える。他方,もし原子自由意志が備わっていると想定(仮定)するなら、我々は、宇宙にある全ての原子が結合して(いわば)一つの連邦国家のもとに結合し、しかもどのひとつの原子も決して犯すことのない理想的な法律(law 法則)を作った、という結論にいたらざるをえない。これは明らかに馬鹿げた仮説である。従って,我々は神の存在を信じざるをえない。しかし,こういう神の存在の証明法は、同時に、奇蹟やその他のいわゆる神的なカの顕現(manifestation 現れ)なるものの存在を反証する(誤りであることを証明する)ことになる。けれども,それらの可能性を反証することはない。と言うのは,法を作った者は、もちろん,法を破棄することもまた可能だからである。(また)我々は別のやり方で奇蹟の存在の反証(否認)にたどりつけるかも知れない。と言うのは、もし神が法(法則)を作ったのだとするとその法(法則)が時々改訂(変更)されねばならないのであれば、間違いなく(surely 確実に)、その法(法則)には不完全な点があるということを意味し、また、聖書には神は(世界)創造の仕事について自ら後悔した(注:「創世記」六の七:「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。」)とあるように、不完全性を神的な存在者のせいにすることは決してできないからである。

Chapter : First Efforts, n.3

(From Russell's Diaries]

Eighteen eighty-eight. March 22nd.


ラッセル英単語・熟語1500
In my last exercise I proved the existence of God by the uniformity of nature and the persistence of certain laws in all her ways. Now let us look into the reasonableness of the reasoning. Let us suppose that the universe we now see has, as some suppose, grown by mere chance. Should we then expect every atom to act in any given conditions precisely similarly to another atom? I think, if atoms be lifeless, there is no reason to expect them to do anything without a controlling power. If, on the other hand, they be endowed with free will, we are forced to the conclusion that all atoms in the universe have combined in the commonwealth and have made laws which none of them ever break. This is clearly an absurd hypothesis, and therefore we are forced to believe in God. But this way of proving his existence at the same time disproves miracles and other supposed manifestations of divine power. It does not, however, disprove their possibility, for, of course, the maker of laws can also unmake them. We may arrive in another way at a disbelief in miracles, for, if God is the maker of the laws, surely it would imply an imperfection in the law if it had to be altered occasionally, and such imperfection we can never impute to the divine nature, as in the Bible God repented him of the work.
(掲載日:2019.05.14/更新日: )