・・・。 この国(英国)の新しい大学には,無数の講義を聴くことを強要する嘆かわしい傾向がある。ひとりで勉強するほうがよいという意見は,モンテッソーリ式の学校の幼児の場合には強く認められている(主張されている)が(allowed = admitted),二十歳の青年の場合は,私達が想定しているように,特に彼らが熱心で例外的な能力を持っている場合は,ずっと強く主張されてよい(認められてよい)。私が大学生であった頃,私も,私の大半の友人たちも,講義(を聴くこと)はまったく時間の浪費であると感じていた。疑いもなく,私たちは誇張していたが,誇張しすぎていたわけではない。講義を支持する真の理由は,それが(外部から見た場合)あきらかな労働(obvious work)だということにある。だからこそ,実業家たちは,講義のために(講義という教員の労働のために)喜んで金(寄付金)を支払うのである。
【安藤訳では “The real reason for lectures is that they are obvious work, and therefore business men are willing to pay for them”は「講義をする真の理由は,誰の目にもはっきりわかる仕事だということにある。だからこそ,実業家たちも講義のために喜んで金を出すのだ」と訳されている。この訳文を読んで理解できる人はどれだけいるだろうか。 実利目的第一の実業家から見れば,わかりやすい,情報量の多い講義は望ましいが,講義で馬鹿丁寧に説明しないでできるだけ学生に考えさせるようなやり方は「手を抜いていると見えてしまう,ということで,前者の講義なら進んで寄付をすると言っていると思われる(今で言えば,いわゆる,企業による冠講座)。即ち reason for lectures は「講義をする理由」ではなく,「講義を良しとする理由=講義を支持する理由」であろう。】
もしも,大学の教師たちが最上の方法を採用したならば(注:一方通行的な講義ではなく,学生に考えさせるような’一見不親切な’講義をした場合),実業家たちは,彼ら(大学教師たち)は怠けていると考え,教職員の数を減らすことを要求することだろう。オクスフォード大学やケンブリッジ大学は,その威信のゆえに,ある程度正しい(講義)方法を用いることができる。しかし,(英国の)新しい大学は,実業家に抵抗することはできないし,アメリカの大学の大部分も同様である。
In the newer universities in this country, there is a regrettable tendency to insist upon attendance at innumerable lectures. The arguments in favour of individual work, which are allowed to be strong in the case of infants in a Montessori school, are very much stronger in the case of young people of twenty, particularly when, as we are assuming, they are keen and exceptionally able. When I was an undergraduate, my feeling, and that of most of my friends, was that lectures were a pure waste of time. No doubt we exaggerated, but not much. The real reason for lectures is that they are obvious work, and therefore business men are willing to pay for them. If university teachers adopted the best methods, business men would think them idle, and insist upon cutting down the staff. Oxford and Cambridge, because of their prestige, are to some extent able to apply the right methods ; but the newer universities are unable to stand up against business men, and so are most American universities.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 3: Intellectual education, chap.18: The University.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE18-060.HTM
<寸言>
昔に比べて,現代の学生は授業(講義の聴講)に熱心に出席していると聞きます。昔は,講義が教員の都合で中止(休校)になると学生の大部分が喜びました。しかし,現在では,頻繁に講義を中止した場合は授業料をその分、学生に返せという声がかなり出るそうです。
一見、現代の学生の態度のほうが大学及び学生のあるべき姿のように思われますが,昔の大学では、教師がルーズであった反面、学生に自分の頭で考える重要性を強調している教師がけっこういました。つまり、大学での授業(講義)は学ぶべきことのほんの一部にすぎないのであるから、一生自分で進んで勉強する(研究調査する)習慣を大学時代に身につけることのほうが、大学の授業を聞くだけ(余り考えずに覚えるだけ)という態度よりずっと優れている、という理屈です。
もちろん,職業教育の場合は、大量の知識や技術を身につける必要があります。しかし,すぐに成果があがらない学問を教える学部や学科はなどは廃止か改組するようにとの通達を出した文科省のような考え方が世の中に蔓延したら、自分の頭でいろいろ考えたい人間にとってとても生きづらい世の中になりそうです。(従順な国民が増えれば政府としては楽でしょうが・・・。)哲学科などは即廃止の対象となりそうです。