けれども、多くの事柄(問題)は経験というテスト(検査/試験)にかけることがもっと容易ではない。もしあなたが大部分の人類と同様に、多くのそういった(経験というテストにかけることが容易でない)事柄について情熱的な確信をもっているとしたら 、あなたが自分自身の偏見に気づくこと(気づかせること)ができる方法がいくつかある。もしあなた自身の意見に反するある意見があなたを立腹させるとしたら、それはあなたがそのように考える十分な理由を持っていないことをあなたは意識下では気づいている印(兆候)である。もし誰かが、2かける2は5であるとか、アイスランドは赤道の上にあるとか主張すれば、あなた怒りよりもむしろ哀れみを(相手に)感じる(であろう)。ただし、あなたが算数(算術)あるいは地理をほとんど知らないためにその人の意見があなた自身の反対の確信を揺さぶることがないならばの話である(が)。もっとも殺伐とした(野蛮な)論争は、どちらの側にも十分な証拠がないような事柄に関する論争である。迫害は神学では使用されるが、算数(算術)では使用されない。なぜなら、算数(算術)においては(事実確認できる)知識が存在している、神学においてははただ意見が存在しているだけだからである。それゆえ、あなたが意見の相違に怒りを抱いているのがわかった時にはいつも、用心しなさい。多分、吟味してみれば、あなたの信念が、証拠の保証する以上にまで進んでいることに気づくであろう。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.48
Many matters, however, are less easily brought to the test of experience. If, like most of mankind, you have passionate convictions on many such matters, there are ways in which you can make yourself aware of your own bias. If an opinion contrary to your own makes you angry, that is a sign that you are subconsciously aware of having no good reason for thinking as you do. If some one maintains that two and two are five, or that Iceland is on the equator, you feel pity rather than anger, unless you know so little of arithmetic or geography that his opinion shakes your own contrary conviction. The most savage controversies are those about matters as to which there is no good evidence either way. Persecution is used in theology, not in arithmetic, because in arithmetic there is knowledge, but in theology there is only opinion. So whenever you find yourself getting angry about a difference of opinion, be on your guard; you will probably find, on examination, that your belief is going beyond what the evidence warrants.
Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943) Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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