「ラッセル哲学の発展」カテゴリーアーカイブ

知的戯言の概要(1943) n.48

 けれども、多くの事柄(問題)は経験というテスト(検査/試験)にかけることがもっと容易ではない。もしあなたが大部分の人類と同様に、多くのそういった(経験というテストにかけることが容易でない)事柄について情熱的な確信をもっているとしたら 、あなたが自分自身の偏見に気づくこと(気づかせること)ができる方法がいくつかある。もしあなた自身の意見に反するある意見があなたを立腹させるとしたら、それはあなたがそのように考える十分な理由を持っていないことをあなたは意識下では気づいている印(兆候)である。もし誰かが、2かける2は5であるとか、アイスランドは赤道の上にあるとか主張すれば、あなた怒りよりもむしろ哀れみを(相手に)感じる(であろう)。ただし、あなたが算数(算術)あるいは地理をほとんど知らないためにその人の意見があなた自身の反対の確信を揺さぶることがないならばの話である(が)。もっとも殺伐とした(野蛮な)論争は、どちらの側にも十分な証拠がないような事柄に関する論争である。迫害は神学では使用されるが、算数(算術)では使用されない。なぜなら、算数(算術)においては(事実確認できる)知識が存在している、神学においてははただ意見が存在しているだけだからである。それゆえ、あなたが意見の相違に怒りを抱いているのがわかった時にはいつも、用心しなさい。多分、吟味してみれば、あなたの信念が、証拠の保証する以上にまで進んでいることに気づくであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.48
Many matters, however, are less easily brought to the test of experience. If, like most of mankind, you have passionate convictions on many such matters, there are ways in which you can make yourself aware of your own bias. If an opinion contrary to your own makes you angry, that is a sign that you are subconsciously aware of having no good reason for thinking as you do. If some one maintains that two and two are five, or that Iceland is on the equator, you feel pity rather than anger, unless you know so little of arithmetic or geography that his opinion shakes your own contrary conviction. The most savage controversies are those about matters as to which there is no good evidence either way. Persecution is used in theology, not in arithmetic, because in arithmetic there is knowledge, but in theology there is only opinion. So whenever you find yourself getting angry about a difference of opinion, be on your guard; you will probably find, on examination, that your belief is going beyond what the evidence warrants.
 Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943) Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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知的戯言の概要(1943) n.47

 人類が陥りやすい種々の愚かな見解を避けるためには、超人間的な才能は必要ではない。2,3の単純な規則で(規則を守るだけで)、あなたは全ての誤りをさけることはできないが、愚かな誤りから逃れることができるであろう。

 もし問題が観察によって決着できるものであるならば、自分自身で観察をしなさい。 アリストテレスは、女性は男性よりの歯の数が少ないと考える過ちを、アリストテレス夫人に、彼が彼女の歯の数を数えている間,口を開けていてくれるよう頼むという単純な工夫によって、さけることができたであろう。(しかし)彼はそうしなかった。自分は(既に)知っていると考えていたからである。実際知っていないのに知っていると考えることは致命的な誤りであり、我々は皆、この誤りをしがちである。私は自分では、 ハリネズミ(hedgehogs)は黒いカブトムシを食べると信じているが、それはハリネズミはカブトムシを食べると人から(これまでずっと)聞いてきたからである。しか、しもし私がハリネズミの習性について一冊の本を執筆していたとしたら、このあまりおいしそうに思えない食事をしているハリネズミを見るまでは、私は立場を明らかにする(commit myself)べきではない。けれども、アリストテレス は、少し注意が不足していた。古代及び中世の著者達は、一角獣(ユニコーン)と火蛇(サラマンダー)についてあらゆることを知っていた(=知っているとされていた)。それらについて一度も見たことがないからという理由で、独断的な陳述をさけることが必要だと考える者は、彼らの内に誰もいなかった。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.47
To avoid the various foolish opinions to which mankind are prone, no superhuman genius is required. A few simple rules will keep you, not from all error, but from silly error. If the matter is one that can be settled by observation, make the observation yourself. Aristotle could have avoided the mistake of thinking that women have fewer teeth than men, by the simple device of asking Mrs. Aristotle to keep her mouth open while he counted. He did not do so because he thought he knew. Thinking that you know when in fact you don’t is a fatal mistake, to which we are all prone. I believe myself that hedgehogs eat black beetles, because I have been told that they do; but if I were writing a book on the habits of hedgehogs, I should not commit myself until I had seen one enjoying this unappetizing diet. Aristotle, however, was less cautious. Ancient and medieval authors knew all about unicorns and salamanders; not one of them thought it necessary to avoid dogmatic statements about them because he had never seen one of them. Source: Outline of Intellectual Rubbish (1943) Reprinted in: Unpopular Essays, 1950 More info.: https://russell-j.com/cool/UE_07-470.HTM

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fear of others と fear for others の違い

A woman with medium length red hair, wearing a pink shirt, light blue leggings and gray shoes, kneels on a kneeler with soft beige cushion, as she closes and bows her head to pray, both hands together in praying position and resting on top of a beige confessional, that is separating her from a seated priest with balding gray hair, wearing a black clergy gown, white collar, a violet stole worn around his neck, black pants and black shoes, both of his eyes are closed in concentration

以下は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)の幸福論(The Conquest of Happiness)に出てくる英文と、DeepL、Google 翻訳、及び、私による日本語訳(合計3種類)です。
このなかで、「Fear for others」を、DeepL、Google 翻訳も、「他者への恐怖」と日本語訳していますが、これは誤訳と思われます。「Fear for others」は「他人に対し恐怖心を抱いている」のではなく、「他人について心配している」あるいは「他人に対して不安を抱いている」というのであり、従って、「他人を心配する(こと)」(注:fear 心配する)と訳すべきだと考えますが、どうでしょうか?
つまり、「fear of A」は「Aの恐れ」「Aを恐れること」(ここでは fear は名詞 noun)であるのに対し、「fear for A」は「Aを心配する」(ここでは fear は動詞verb)ということではないでしょうか?
大学受験予備校の英語の講師の立場で、わかりやすく説明してください。

<ラッセルの英文>
Fear for others is only a shade better than fear for ourselves. Moreover it is very often a camouflage for possessiveness. It is hoped that by rousing their fears a more complete empire over them can be obtained. This, of course, is one of the reasons why men have liked timid women, since by protecting them they came to own them.

<<DeepLによる日本語訳>>
他者への恐怖は、自分への恐怖に比べれば、ほんの少しましです。しかもそれは、独占欲のカモフラージュであることが非常に多い。恐怖心を煽ることで、より完全な支配を得ようとするのである。もちろん、これは男性が臆病な女性を好む理由の一つであり、彼女たちを守ることによって、彼女たちを所有するようになったからである。

<<Google 翻訳による日本語訳>>
他人への恐怖は、自分自身への恐怖よりもわずかに優れています。 さらに、それは独占欲をカモフラージュする場合が非常に多いです。 彼らの恐怖を呼び起こすことによって、彼らに対するより完全な帝国が得られることが期待されています。 もちろん、これが、男性が気弱な女性を好きになる理由の 1 つです。なぜなら、女性を守ることで彼女を自分のものにするようになるからです。

<<私の日本語訳>>
他人に対する心配(他人のために心配すること)は、自分自身について心配するよりも、ほんの少しだけ(only a shade)ましなだけである。さらに、それ(他人に対する心配)は、しばしば、所有欲のカムフラージュになっている。(即ち)他人の不安をかき立てることによって、他人をもっと完璧に支配する力を得られると期待されるからである。これは、これまで男性が臆病な女性を好んできた理由のひとつであることは言うまでもない。なぜなら、男性は女性を保護する(守る)ことによって女性を所有するに至ったからである。

<ChatGPTの回答
Fear for others」という表現は、「他人に対して心配や不安を抱く」という意味です。日本語で「恐怖」と訳されることがありますが、正確には「恐怖」ではなく、「心配」や「不安」といった感情です。

Fear of A」という表現は、「Aを恐れること」と訳されます。ここでの「fear」は名詞として使われています。例えば、「fear of heights(高所恐怖症)」のように使われます。

一方、「fear for A」は、「Aを心配する」と訳されます。ここでの「fear」は動詞として使われています。例えば、「I fear for his safety(彼の安全を心配している)」のように使われます。

したがって、Bertrand Russellの文で言及されている「Fear for others」は、「他人について心配している」という意味です。これは「他人への恐怖」と訳されることがありますが、正確には誤解を招く表現です。

その文脈では、他人を心配することが自己の独占欲を隠すためのカムフラージュであると述べられています。また、男性が臆病な女性を好む理由の一つは、女性を守ることで彼女たちを所有するようになるからだとも述べられています。

したがって、「Fear for others」は、「他人を心配する(こと)」と訳すのが適切です。

ChatGPTとの対話ー”a calm autumnal sadness”

 以下は、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)が親しい米国人女性(初婚相手の妻の友人)の Lucy Donnelly に出した手紙の一節(英文)と、DeepL、Google 翻訳、みんなの自動翻訳、及び私による日本語訳(合計4種類)です。
このなかで、「a calm autumnal sadness」(穏やかな秋の悲しみのニュアンスがあまり理解できません。「穏やかな秋の悲しみ」ですので、「物悲しいけれど穏やかである(相手に対する優しさや哀れみをもった様)」というニュアンスを込めているのでしょうが、日本語ではこのような表現はあまりしないと思われます。イギリス英語ではこのような表現をけっこうするのでしょうか? わかりやすく説明してください。また、「would put 」は、憎しみを持つ人が「意志」の力で「穏やかな秋の悲しみ」を生み出すのではなく、「自然に」でてくるものと考えられますので、その点も注意してください。

<ラッセルの英文>
Wherever one finds oneself inclined to bitterness, it is a sign of emotional failure: a larger heart, and a greater self-restraint, would put a calm autumnal sadness in the place of the instinctive outcry of pain.
(Source: The Collected Papers of Bertrand Russell: Contemplation and Action, 1902-1914)

<<DeepLによる日本語訳>>
恨み辛みに傾くのは、感情の失敗の証である。もっと大きな心で、もっと自制心があれば、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかな秋の悲哀を感じることができるだろう。

<<Google 翻訳による日本語訳>>
人が苦い思いをするところはどこでも、それは感情的な失敗の兆候です。より大きな心とより強い自制心があれば、本能的な痛みの叫びの代わりに、穏やかな秋の悲しみが置き換わるでしょう。

<<みんなの自動翻訳による日本語訳>>
自分が苦々しい思いをしそうなところはどこでも、それは感情的な失敗のしるしである。より大きな心とより大きな自制は、痛みの本能的な叫びの代わりに、穏やかな秋の悲しみをもたらすだろう。

<<私の日本語訳>>
人が他人に対し憎しむを抱く時は常に、それは感情的な失敗の印(兆候)です。
もっと広い心やもっと自制心があれば、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかな秋の悲しみに置き換わることでしょう。
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ChatGPTからの回答
「a calm autumnal sadness」(穏やかな秋の悲しみ)という表現は、イギリス英語において比較的一般的な表現です。この表現は、物悲しさや悲しみを伴いながらも、穏やかで静かな感情を指します。一般的には、大人の深い感慨や哀愁を表現するために使われます。イギリス文学や詩の中でよく見られる表現です。

「would put」は、自然に生じるものを指しています。この文脈では、自然に穏やかな秋の悲しみが現れるという意味です。憎しみを持つ人が意図的に穏やかな秋の悲しみを生み出すのではなく、より大きな心や自制心があると自然に現れる感情として描かれています。

したがって、この文脈では、「a calm autumnal sadness」は、物悲しいけれども穏やかで静かな感情を表現しています。それは、より大きな心と自制心を持つことによって自然に現れるものとされています。この表現は、イギリス英語の文学や詩で頻繁に使われるものであり、日本語では直訳するとしっくりこない表現かもしれませんが、深い感慨や哀愁を含む穏やかな悲しみを表現するために使われます。
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私からの質問2
それではそのニュアンスを込めて、日本語らしい、わかりやすい日本語訳をお願いします。

ChatGPT2
恨みや辛みに傾くことは、感情的な失敗の兆候です。もっと大きな心と自制心を持つことで、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかで優しい秋の悲しみが湧いてくるでしょう。
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私からの質問3
「恨み」という日本語訳はいいですが、「辛み」という表現はわかりにくいと思われます。もっとわかりやすい約仕方はないでしょうか?

ChatGPT3
申し訳ありません、誤解を招く表現を使ってしまいました。おっしゃる通り、「辛み」は適切な表現ではありませんでした。以下に、よりわかりやすく表現した日本語訳を提案します。

憎しみや怨みを感じる時は、感情的な失敗の兆候です。もっと大きな心と自制心を持つことで、本能的な苦痛の叫びの代わりに、穏やかでやさしい秋の悲しみが生まれるでしょう。

こちらの訳では、「憎しみや怨み」を強調し、「穏やかでやさしい秋の悲しみ」を表現しています。より分かりやすくなったかと思います。ご指摘いただき、ありがとうございました。
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私からの質問4
私の次の日本語訳を論評してください。

「人が他人への憎しみ(bitterness)に傾いていると気づく時は常に、それは感情的な失敗の兆候です。もっと大きな心ともっと強い自制心があれば、人には、本能的な痛みの叫びの代わりに、穏やかでやさしい秋の悲しみが生まれるでしょう。」

ChatGPT4
あなたの提案された日本語訳は非常によくまとまっており、原文のニュアンスを的確に捉えています。以下に、訳文の要点を論評します。

「人が他人への憎しみ(bitterness)に傾いていると気づく時は常に、それは感情的な失敗の兆候です。」
この部分では、「憎しみ」に傾くことを感情的な失敗の兆候として捉えており、非常に適切に表現されています。

「もっと大きな心ともっと強い自制心があれば、人は、本能的な痛みの叫びの代わりに、穏やかなでやさしい秋の悲しみが生まれるでしょう。」
この部分では、大きな心と強い自制心の重要性を強調し、それによって穏やかでやさしい秋の悲しみが生まれる可能性を示唆しています。また、「本能的な痛みの叫びの代わりに」という部分も、原文の意図を上手く反映しています。

全体として、原文のニュアンスを正確に伝えつつ、分かりやすく日本語に訳されていると感じます。素晴らしい訳文です。←ヨイショ!(笑)

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知的戯言の概要(1943) n.42

「自然」および「自然的」なものへの信念(信仰)多くの間違いの源泉である。 それは、医学(医術)において、かつては常に強力に作用しており、ある程度はいまだに作用している。人体は、何もしないでも、自らの病気を治す一定の力(自然治癒力)をもっている。 小さい切傷は通常(なにもしなくても)治り、風邪はどこかにいってしまい(治り)、重い病気さえ、時折、治療せずに消えてしまう(治る)ことがある。しかしこれらの場合でさえ、自然(の治癒力)を支援することは大変望ましい(ことである)。 消毒しなければ敗血症(septic)になるかも知れないし、風邪は肺炎(pneumonia)になるかもしれず、また重い病気も、僻地の探検家や旅行者によって手当てもなしに放っておかれるだけで、彼らに他に選択肢はまったくない(彼らはどうしようもない)。「自然である」 と思われるようになった多くの慣行(行為)、たとえば、衣服を着ること洗濯することは、当初は、「不自然もの」であった。人間は、服を着るようになる前、寒い気候のなかで生きることは不可能だと気づいたに違いない。ほんの少しの(a modicum of )清潔さもないところでは、人々(住民)はチフスなど様々な病気に苦しむが、西欧諸国民は(今では)それらの病気を免れている(exempt 免除されて)。ワクチン接種(種痘)は、「不自然」だとして反対された(現在でも一部の人々によって反対されている)。しかし、そのような反対はまったく首尾一貫したものではない。というのは、折れた骨は「自然な」振る舞いによって元通りにすることができるとは誰も思わないからである。料理された食物を食べることは「不自然」である。家を暖房することもそうである。(古代)中国の哲学者の老子は、ほぼ紀元前六百年頃の人と言い伝えられているが、彼は(人口の)道路、橋および舟を「不自然な」ものとして反対した。そうして、そのような人間の造った機械的なものを嫌悪して(in his disgust)中国をさり、西方の未開人のなかで暮らした。あらゆる文明の進歩は、それが新しいものであるうちは、、不自然なものとして非難されてきた(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.42
Belief in “nature” and what is “natural” is a source of many errors. It used to be, and to some extent still is, powerfully operative in medicine. The human body, left to itself, has a certain power of curing itself; small cuts usually heal, colds pass off, and even serious diseases sometimes disappear without medical treatment. But aids to nature are very desirable, even in these cases. Cuts may turn septic if not disinfected, colds may turn to pneumonia, and serious diseases are only left without treatment by explorers and travellers in remote regions, who have no option. Many practices which have come to seem “natural” were originally “unnatural,” for instance clothing and washing. Before men adopted clothing they must have found it impossible to live in cold climates. Where there is not a modicum of cleanliness, populations suffer from various diseases, such as typhus, from which Western nations have become exempt. Vaccination was (and by some still is) objected to as “unnatural.” But there is no consistency in such objections, for no one supposes that a broken bone can be mended by “natural” behavior. Eating cooked food is “unnatural”; so is heating our houses. The Chinese philosopher Lao-tse, whose traditional date is about 600 B.C., objected to roads and bridges and boats as “unnatural,” and in his disgust at such mechanistic devices left China and went to live among the Western barbarians. Every advance in civilization has been denounced as unnatural while it was recent.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.41

564 Credulity Images, Stock Photos & Vectors | Shutterstock 運の良い日運の悪い日についての迷信はほとんどどこにもみられる(universal)。古代においては、それらの迷信が将軍達(generals)の行動を支配した。(現代の)我々の間でも、金曜日と13という数に対する偏見は非常に強い。(たとえば)、船乗りは金曜日には船に乗りたがらない多くのホテルには13階がない。金曜日と13についての迷信はかつて、賢いと評判の人達によって信じられたが、現在ではそのような賢い人達は、それらの迷信を無害で愚かなもの(harmless follies)とみなす。しかし、今から 二千年もたてば、我々の時代の賢い人達がもっている多くの信念も、恐らく、愚かなものに思われるようになるであろう。人間は信じやすい動物(a credulous animal,)であり、何かを信じていなければならない。(つまり)信念に対する十分な根拠がない場合には、人間は不十分な根拠で満足するであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.41
Superstitions about lucky and unlucky days are almost universal. In ancient times they governed the actions of generals. Among ourselves the prejudice against Friday and the number thirteen is very active; sailors do not like to sail on Friday, and many hotels have no thirteenth floor. The superstitions about Friday and thirteen were once believed by those reputed wise; now such men regard them as harmless follies. But probably 2,000 years hence many beliefs of the wise of our day will have come to seem equally foolish. Man is a credulous animal, and must believe something; in the absence of good grounds for belief, he will be satisfied with bad ones.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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知的戯言の概要(1943) n.40

未開人あるいは古代のバビロニア人やエジプト人の信仰について(本を)読むと、それらの信仰はきまぐれな不合理な点によって、多くの人が驚かされるように思われる。 しかし それとまさに同じような(いろいろな)不合理な信念が、最も近代的で文明化された社会においてさえ、無教養な人々によっていまだ心に抱かれている(entertained 楽しまれている)。 私は、アメリカでは、3月に生まれた者は運が悪く、5月に生まれた者は特に足に魚の目ができやすい(liable to corns 魚の目になりやすい/角質になりやすい)と、重々しい口調で保証されたことがある I have been gravely assured,。 私はこれらの(上記)迷信の歴史は知らないが、恐らくバビロニアとかエジプトの司祭の伝承(priestly lore)に由来するものであろう。信仰は上位の社会階層で始まり、その後、川の泥のように、教育の階層(in the educational scale)を徐々にくだっていく。すっかり沈み切るには三千年から四千年かかるかも知れない。(アメリカでは)黒人の女中(your colored help)がプラトンから直接由来するなんらかの言葉を口にするのに気づくかも知れない。それは学者達がプラトンから引用するような部分ではなく、プラトンが明らかに無意味なことを口にしている部分、たとえば、この世で知恵を求めない男は女として生まれ変わるでろう、といったようなものである。偉大な哲学者の思想を註釈する人々は、いつも哲学者の愚かな発言を無視する(見て見ぬふりをする)ものである。

アリストテレスにフラれたプラトンが残した言葉。「私を蹴飛ばし ... アリストテレスはその名声(評判)にもかかわらず、不合理(な発言)に満ちている。彼は、子供は冬、風が北から吹く時に授かるべきだ(妊娠すべきだ)とか、人々があまり若くして結婚すると女の子が生まれるだろう、と述べている。彼はまた、次のように語っている。即ち、女性の血液は男性の血液よりも黒い;豚はハシカにかかりやすい唯一の動物である;不眠症にかかっている象はその肩を塩やオリーブ油やお湯でこするべきである;、女性は男性よりも歯の本数が少ない、等々を我々に教える。それにもかかわらず、アリストテレスは大多数の哲学者によって知慧の典型だと考えられている(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.40
When one reads of the beliefs of savages, or of the ancient Babylonians and Egyptians, they seem surprising by their capricious absurdity. But beliefs that are just as absurd are still entertained by the uneducated even in the most modern and civilized societies. I have been gravely assured, in America, that people born in March are unlucky and people born in May are peculiarly liable to corns. I do not know the history of these superstitions, but probably they are derived from Babylonian or Egyptian priestly lore. Beliefs begin in the higher social strata, and then, like mud in a river, sink gradually downward in the educational scale; they may take 3,000 or 4,000 years to sink all the way. You may find your colored help making some remark that comes straight out of Plato — not the parts of Plato that scholars quote, but the parts where he utters obvious nonsense, such as that men who do not pursue wisdom in this life will be born again as women. Commentators on great philosophers always politely ignore their silly remarks.

Aristotle, in spite of his reputation, is full of absurdities. He says that children should be conceived in the Winter, when the wind is in the North, and that if people marry too young the children will be female. He tells us that the blood of females is blacker than that of males; that the pig is the only animal liable to measles; that an elephant suffering from insomnia should have its shoulders rubbed with salt, olive-oil, and warm water; that women have fewer teeth than men, and so on. Nevertheless, he is considered by the great majority of philosophers a paragon of wisdom.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943

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Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
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https://russell-j.com/cool/UE_07-400.HTM

知的戯言の概要(1943) n.39

 大雑把に言えば、罰(を与えること)は正気で行われる犯罪を防ぐことはできそうであるが、何らかの心理的異常から生じる犯罪を防ぐことはできそうにない。このことは現在では部分的には認識されている。 (即ち)我々は、合理的な私利私益(自己利益)と言ってよいものから生じる単純な窃盗と、何らかの気が変なことの印である窃盗症とを区別する。また殺人狂(homicidal maniacs)は通常の殺人のように扱うことはできない。 しかし 性的逸脱(sexual aberrations)は非常に多くの嫌悪感をかきたてるために、懲罰的に扱うよりも医学的に扱うことは、いまだ(依然として)、不可能である。(侮辱・不当な扱い・不正などに対する)憤慨(indignation)は、概して、有用な社会的な力(の一つ)であるが、医療技術のみが治すことができる病気(maladies)の犠牲者に対してそれ(憤慨)がむけられる場合には有害なものとなる。

同様なことは全ての国民に起こる。先の戦争中(第一次世界大戦中)、自然なことであるが、人々(国民)の報復的な感情がドイツ人に対してかきたてられ、ドイツ人は敗戦後、厳しく処罰された。(しかし)現在(注:このエッセイは1943年発表なので、第二次大戦中)、ヴェルサイユ条約は馬鹿らしいほど(ドイツに対して)優しく(穏健)であった、なぜなら、ヴェルサイユ条約はドイツに対して教訓を与えなかったからだ、と多くの人が論じているこんどは(注:第二次大戦後に)は真の厳しさがなければならない、と我々は言われている。私の考えでは(To my mind)、もし 我々がナチスの兵卒(the rank and file 一般兵士)を、ただ単純に犯罪者とみなすよりも、心神喪失者(lunatics 精神錯乱者)と見なせば、ドイツの侵略の再発をもっとよく防ぐことができそうである。心神喪失者(精神錯乱者)は、もちろん、拘束されなければならない。(即ち)彼らに銃器の所持を認めてはならない。同様に、ドイツ国民は武装解除されなければならないだろう(訳注:理想社刊の日本語訳は、このあたりの誤訳はひどいものです。)しかし、心神喪失者(精神錯乱者)は分別から(分別を持って)拘束されるのであって、刑罰として拘束されるのではない。そうして、分別が許す限り、我々は彼らを幸福にするように務める。殺人狂は、彼がより悲惨なものにされるときはじめて、いっそう殺人的になるものであることは、全ての人の認めるところである。 もちろん、ナチス党員のなかにも単純な犯罪人だった人も多いが、多かれ少なかれ、気が狂っている人も多いに違いない。( [訳注] この後の原文が、1943年初出のものと、1950年に Unpopular Essays に収録されたものとでは以下のように異なっています!  「There are …」「who are …」であったとでは以下のように異なっています!  「There are …」「who are …」であったものが、第二次世界大戦終了後の1950年は「There were …」「who are …」に変えられているだけでなく、少し表現が変えられています。(Unpopular Essays には、そのことについて注はつけられていません。)

(1950年版
もちろん、ナチスの中には単なる犯罪者も多かったが、多かれ少なかれ狂気じみた者も多かったにちがいない。ドイツを西ヨーロッパにうまく組み入れるには、特別な罪悪感を植え付けようとするあらゆる試みを完全に排除しなければならない。罰せられる側の人間は、罰する側の人間に対して親切な気持ちを持つようになることはめったにない。そうして、ドイツ人が他の人類を憎んでいる限り、平和は不安定なものになるであろう。

(1943年版)
戦争指導者のことはさておき(私はドイツの戦争指導者に対して寛容を要求しない)、ドイツ国民の大部分は、 諸国民から追放者とみなされるよりも、親切だがしっかりした治療を施されたほうが、世界の他の国々との協力をずっと学ぶ可能性が高そうである。処罰された人々は、自分たちを処罰した人々に対して、優しい感情を抱くことを学ぶというようなことはめったにない。そうして、ドイツ人達が自分達以外の人類を憎む限り平和は不安定なものになるであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.39

Broadly speaking, punishment is likely to prevent crimes that are sane in origin, but not those that spring from some psychological abnormality. This is now partially recognized; we distinguish between plain theft, which springs from what may be called rational self-interest, and kleptomania, which is a mark of something queer. And homicidal maniacs are not treated like ordinary murderers. But sexual aberrations rouse so much disgust that it is still impossible to have them treated medically rather than punitively. Indignation, though on the whole a useful social force, becomes harmful when it is directed against the victims of maladies that only medical skill can cure.

The same sort of thing happens as regards whole nations. During the last war, very naturally, people’s vindictive feelings were aroused against the Germans, who were severely punished after their defeat. Now many people are arguing that the Versailles Treaty was ridiculously mild, since it failed to teach a lesson; this time, we are told, there must be real severity. To my mind, we shall be more likely to prevent a repetition of German aggression if we regard the rank and file of the Nazis as we regard lunatics than if we think of them as merely and simply criminals. Lunatics, of course, have to be restrained; we do not allow them to carry firearms. Similarly the German nation will have to be disarmed. But lunatics are restrained from prudence, not as a punishment, and so far as prudence permits we try to make them happy. Everybody recognizes that a homicidal maniac will only become more homicidal if he is made miserable.

<1950年に Unpopular Essays に収録された原文>
There were, of course, many men among the Nazis who were plain criminals, but there must also have been many who were more or less mad. If Germany is to be successfully incorporated in Western Europe, there must be a complete abandonment of all attempt to instil a feeling of special guilt. Those who are being punished seldom learn to feel kindly toward the men who punish them. And so long as the Germans hate the rest of mankind peace will be precarious.

<1943年の初出時の原文>
In Germany at the present day, there are, of course, many men among the Nazis who are plain criminals, but there must also be many who are more or less mad. Leaving the leaders out of account (I do not urge leniency toward them), the bulk of the German nation is much more likely to learn cooperation with the rest of the world if it is subjected to a kind but firm curative treatment than if it is regarded as an outcast among the nations. Those who are being punished seldom learn to feel kindly toward the men who punish them. And so long as the Germans hate the rest of mankind peace will be precarious.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html
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知的戯言の概要(1943) n.38

通俗的な信念(世間に流布している信念)と常に闘いながら前進してこなければならなかった科学は(注:fight one’s way (困難と)戦いながら前進する)、今やその最も困難な闘いの一つを、心理学の領域において行っている

人間の本性(人間性)について全てを知っていると思っている人々は、何らかの異常なもの(abnormality)を取り扱わなければならない場合には、常にどうしようもないほど(hopelessly)、途方にくれて(at sea)しまう。少年達のなかには、動物において躾けると呼ばれているような、「家庭の躾」と呼ばれるものを決して学ぼうとしない者がいる。ナンセンスなことはどんなことも容赦しない(won’t stand any nonsense)種類の人は、そのような場合(cases 事例、問題)は罰を加えることによって処理する(処罰する)。(即ち)少年は殴られ、そうして、そのような違反(the offense)を繰り返せば、よりひどく殴られる。この問題を研究した医者はみな、処罰は問題を悪化させるだけだということを知っている(子供が言うことを聞かない)原因は、身体的なものであることも時折あるが、通常は心理的なものであり、何か根深い、また、多分無意識的である不平・不満のもと(grievance)を取り除くことによってはじめて治す(治療する)ことができる(ものである)。しかし、たいていの人々は、自分をいらいらさせる者は誰であっても罰を与えることを喜び、そうして、そうした医学的見解は空想的なナンセンスだとして退けられる。同様のことは露出狂の人達にもあてはまる。(即ち)彼らは何度も刑務所に送られるが、出所するやいなや違反を繰り返す。そのような慢性的な病気(ailments )専門の某医者は、露出症の人は前ボタンではなく後ろボタンのズボンをはかせれるというちょっとした工夫で治すことができると、私に断言した(assured 請け負った)。 しかしこの方法は、人々の懲罰的な(人を罰したいという)衝動を満足させることができないという理由で試みられていない。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.38
Science, which has always had to fight its way against popular beliefs, now has one of its most difficult battles in the sphere of psychology.

People who think they know all about human nature are always hopelessly at sea when they have to do with any abnormality. Some boys never learn to be what, in animals, is called “house trained.” The sort of person who won’t stand any nonsense deals with such cases by punishment; the boy is beaten, and when he repeats the offense he is beaten worse. All medical men who have studied the matter know that punishment only aggravates the trouble. Sometimes the cause is physical, but usually it is psychological, and only curable by removing some deep-seated and probably unconscious grievance. But most people enjoy punishing anyone who irritates them, and so the medical view is rejected as fancy nonsense. The same sort of thing applies to men who are exhibitionists; they are sent to prison over and over again, but as soon as they come out they repeat the offense. A medical man who specialized in such ailments assured me that the exhibitionist can be cured by the simple device of having trousers that button up the back instead of the front. But this method is not tried because it does not satisfy people’s vindictive impulses.
Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943
Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7:
More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html
https://russell-j.com/cool/UE_07-380.HTM

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知的戯言の概要(1943) n.37

しかし、意見の一致(注:conformity 意見がみな一致して一様化してしまうこと)が危険であるならば、意見の不一致(注:nonconformity 意見がパラパラで一致しないこと)も危険である。

Crank (person) - YouTube「先進的な思想家」のなかには、従来の意見と異なる者なら誰でも正しいに違いないという考えの人もいる。これは妄想である。 もしそうでない(妄想でない)としたら、真理は現実よりももっと容易に手にいることだろう。誤りをおかす可能性は無限にあり、また、流行遅れの真理(unfashionable truths)よりも流行遅れの誤りをとりあげる変人(注:crank つむじ曲がりの人)のほうがより多い(more ~ than に注意)。 私はかつて一人の電気技師にあったことがあるが、彼が最初に私に言ったのは次の言葉であっ た。「今日は! 信仰療法(faith-healing)には二つの方法がありましてね、一つはキリストによって行われたもので、もう一つは大部分のクリスチャンサイエンスの信者によって行われたものです。私はキリストによって行われた方法をやります(注:つまり、大多数の人たちがやらないもののほうがより正しいとその電気技師は考えていたようだ、ということ)」。 間もなくして、彼は不正な貸借対照表(fraudulent balance-sheets)を作成した罪で刑務所に入れられた。法律は、信仰が会計の領域に侵入するのを親切に見てくれない(のである)。私はまた、哲学に傾倒して一つの新しい論理学を教えた、ある著名な精神科医(ドクター)を知っていたが、彼はその論理学を自分の精神病の患者から学んだと、率直に告白した。彼が亡くなった時、彼はその新しい科学的方法を教えるための教授職(講座)を創設したいという遺言(will)を遺したが、不幸なことに、財産をまったく遺さなかった(no assets)。算術は精神錯乱者の論理学に反抗的であることがわかった(のである)。ある時、一人の男がやってきて、自分は哲学に興味をもっているので、私の書いた本のなかから何冊かを推薦んしてくれと求めた。私は何冊かを推せんしてあげた。しかし、彼は、翌日やってきて、推薦された本のうち一冊を読んだが理解できる陳述はたった一つしかないということがわかった、また、その一つは、自分には間違いのように思われる、と言った。私はそれは何かと尋ねると、それはジュリアス・シーザーは死んだという陳述だと言った。どうしてそれに同意できないのかと聞くと、彼はきっとなって言った。「それは、私がジュリアス・シーザーだからです」。これらの例は、風がわり(eccentric)であることでそれが正しいことの確認はできない、ということを十分示しているであろう。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.37 But if conformity has its dangers, so has nonconformity. Some “advanced thinkers” are of the opinion that any one who differs from the conventional opinion must be in the right. This is a delusion; if it were not, truth would be easier to come by than it is. There are infinite possibilities of error, and more cranks take up unfashionable errors than unfashionable truths. I met once an electrical engineer whose first words to me were: “How do you do? There are two methods of faith-healing, the one practised by Christ and the one practised by most Christian Scientists. I practice the method practiced by Christ.” Shortly afterwards, he was sent to prison for making out fraudulent balance-sheets. The law does not look kindly on the intrusion of faith into this region. I knew also an eminent lunacy doctor who took to philosophy, and taught a new logic which, as he frankly confessed, he had learnt from his lunatics. When he died he left a will founding a professorship for the teaching of his new scientific methods, but unfortunately he left no assets. Arithmetic proved recalcitrant to lunatic logic. On one occasion a man came to ask me to recommend some of my books, as he was interested in philosophy. I did so, but he returned next day saying that he had been reading one of them, and had found only one statement he could understand, and that one seemed to him false. I asked him what it was, and he said it was the statement that Julius Caesar is dead. When I asked him why he did not agree, he drew himself up and said: “Because I am Julius Caesar.” These examples may suffice to show that you cannot make sure of being right by being eccentric. Source: Bertrand Russell : An Outline of Intellectual Rubbish, 1943  Reprinted in: Unpopular Essays, 1950, chapter 7: More info.: http://www.ditext.com/russell/rubbish.html       https://russell-j.com/cool/UE_07-370.HTM

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