集団的な恐怖(心)は群れの本能(群衆本能)を刺激する。そして、その群れの一員とみなされない人々に対する凶暴性(残忍さ)を生み出す傾向がある。フランス市民革命においても同様であり、革命時、外国の軍隊に対する恐怖(心)は、恐怖政治を生み出した(のである)。ソビエト政府は、(政権樹立後の)始めの数年間にあれほどの敵意に会わなければ、狂暴さはよりすくなっていたであろう。
(注:。Unpopular Essays(1950年刊)に収録された時には、「ソビエト政府」に関する一文に差し替えられているが、第二次世界大戦中の1943年に始めて出版された時には、次の一文が挿入されていた。
And it is to be feared that the Nazis, as defeat draws nearer, will increase the intensity of their campaign for exterminating Jews.)
恐怖心は残酷な衝動を生み出す。そうして、それゆえに、残忍行為を正当化すると思われるような迷信を助長する。 強い恐怖心の影響下では、個人も群衆も国家も、人道的に振る舞ったり、正気でものを考えたりすることは、信頼できない。そういうわけで、臆病者(poltroons)の方が勇敢な人間よりも残忍になりがちであり、また迷信に陥りがちでもある。私がこのように言う時、私の考えているのは、ただ死に直面した場合だけでなく、あらゆる点で勇敢な人のことである。多くの人が、勇敢に死ぬ勇気を持っているだろうが、自分が死ぬことを求められる理由(大義)は無価値のものであると言ったり、あるいはそう考えたりさえする勇気は持っていないだろう。恥辱(Obloquy)は大部分の人々にとって死よりも苦痛である。これが、集団が興奮している時に、支配的な意見にあえて反対する人がほとんどいないの一つ理由である。カルタゴ人でモロク(崇拝)を否認したものは一人もなかった。それはモロクを否認することは戦闘において死に直面するよりもさらに多くの勇気を必要としたであろうからである。
Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.58
Collective fear stimulates herd instinct, and tends to produce ferocity toward those who are not regarded as members of the herd. So it was in the French Revolution, when dread of foreign armies produced the reign of terror. The Soviet Government would have been less fierce if it had met with less hostility in its first years. Fear generates impulses of cruelty, and therefore promotes such superstitious beliefs as seem to justify cruelty. Neither a man nor a crowd nor a nation can be trusted to act humanely or to think sanely under the influence of a great fear. And for this reason poltroons are more prone to cruelty than brave men, and are also more prone to superstition. When I say this, I am thinking of men who are brave in all respects, not only in facing death. Many a man will have the courage to die gallantly, but will not have the courage to say, or even to think, that the cause for which he is asked to die is an unworthy one. Obloquy is, to most men, more painful than death; that is one reason why, in times of collective excitement, so few men venture to dissent from the prevailing opinion. No Carthaginian denied Moloch, because to do so would have required more courage than was required to face death in battle.
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強い恐怖(心)の影響下では、ほとんどの人が迷信的になる。ヨナ(注:旧約聖書なかの予言書の一つであるヨナ書の主人公/ここでは「ヨナ書」そのもの)を船外に投棄した船員達は、ヨナの存在が嵐の原因であり、自分達の船を難破させようとしていると想像した(のである)。これと同様の精神状態で、日本人は東京の震災(注:関東大震災)の時、朝鮮人と自由主義者(例:大杉栄)を虐殺をした。ローマ人がポエニ戦争(注:紀元前264年から146年の間に、三次にわたって行われた、ローマとカルタゴの戦い)で勝利した時、カルタゴ人は、自分達の不運は、モロク崇拝(注:Molochは、古代の中東地域で崇拝されたとされる神格で、主にカナン人やその周辺の民族によって崇拝され、子供の生け贄を捧げる儀式を行っていた)に忍び込んだある種のだらしなさ(laxity)によるものだ、と確信するにいたった。 モロクは子供を犠牲として捧げられることを好み、貴族の子供をより好んだ。しかし、カルタゴの貴族の家族は、自分達の子供のかわりに平民の子供を使うという慣行を採用した。これが神の不興を買った(機嫌を損ねた)と考えられたのである。そうして、最悪の瞬間においては、最も高位の貴族の子供達でさえ、火のなかで適切に(duly)焼かれてしまった。 不思議なことに、ローマ人は敵側におけるこのような民主的改革にもかかわらず勝利したのである。
最も洗練された宗教は -たとえばマルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius. 121-180 後期ストア派の哲学者)やスピノザの宗教ー 依然として、恐怖心の克服に関心を持っている。 ストア派の教義は単純だった。(即ち)それは、唯一の真なる善は徳(美徳)であり、いかなる敵も私(自分)から徳を奪い取ることはできないと主張した。その結果、敵を恐れる必要はまったくない(ということになる)。困難な問題は、誰も徳(美徳)が唯一の善であるとは信じることができなかったということであり、マルクス・アウレリウスでさえもそうであり、彼は皇帝として、自分の臣下を有徳的たらしめようとしただけでなく、彼らを異邦人(barbarians)、悪疫(pestilences) 及び飢饉から保護しようと努めたのである。スピノザもいくらかこれと似た教義を教えた。 彼によれば、我々の真の善(幸福)は世俗的な運命(運不運)に対して無関心であることにある。アウレリウスもスピノザもともに、肉体的苦痛のようなものは真の悪ではないと装うことによって、恐怖心から逃れようと努めた。これは恐怖から逃れる立派な方法である。しかし、依然として誤った信念に基づいている。そうして、仮に心から(本当に)受け入れてしまえば、人は自分の苦しみだけでなく、他人の苦しみに対しても無関心にさせるという悪い結果をもたらすであろう。
あなたの自尊心に媚びへつらう(お世辞をいう)意見にはくれぐれも用心(警戒)しよう(be wary of)。 男女とも、十中八九、自分自身の性のほうが(自分と異なる性よりも)優れていると堅く信じている。両方(両性)の側に証拠は豊富にある。もし、あなたが男性であれば、大部分の詩人や科学者は男性であると指摘することができる。もし、あなたが女性であれば大部分の犯罪者は男性であるとやり返すことができる。 これは本質的に解決不能な問題である。自尊心が(は)このこと(事実)を大部分の人々に気づかせない(conceal 隠す)。私達は皆、世界のどの部分(地域)からやってきたにせよ、自国民が他の全ての国民よりも優れていると信じている。各々の国民がそれぞれ特有の長所と短所( its characteristic merits and demerits)を持つことから(seeing that)、私達は、自分達の価値基準を調整し、自国民が持つ長所は真に重要なものであり、一方、その短所は比較的とるにたらないものであるとする(make out みせかける、ふりをする)。ここで再び理性的な人間は(なら)これは明白な正解のない問題だということを認めるであろう。人間が人間としての自尊心(self esteem)を扱うことはなおいっそう困難である。 なぜなら我々は何らかの人間でない精神(例:地球外の高等生命の精神/知性)でこの問題を徹底的に論じることができないからである。この一般的な人間のうぬぼれを扱う方法で私の知っている唯一のものは、人間(に関すること)は、宇宙の片隅の小さな惑星の生命における一つの短いエピソードにすぎないこと、そうして、詳しいことはわからないが(for aught we know)、宇宙の他の部分には、私達がクラゲよりもすぐれているのと同様に、私達よりも優れた存在(注:彼らからみれば人類はクラゲ程度)を含んでいるかもしれない(可能性がある)ということを自分に言い聞かせる(remind ourselves)ことである。
心理的想像力が十分ある人にとっては、自分と異なるバイアス(偏見/先入見)を持つ人との議論を想像することは良い案(plan)である。これは、論敵と実際に会話することと比較して、一つの、また、唯一の利点がある。(つまり)この一つの利点というのは、この方法は相手と時と場所とを同一にしなければならないという制限に服しなくてもよいということである。 マハトマ・ガンジーは鉄道や蒸気船や機械を嘆いている。(即ち)彼は(可能であれば)産業革命全体を御破算にしたい(なかったことにしたい/産業革命以前にもどりたい)のである。あなたはこのような意見を抱く人間にはまったく実際に会う機会を決してないかも知れない。なぜなら、西欧の国々ではたいていの人々は 近代技術を当たり前のここととして活用しているからからである。しかし、もしあなたがこの支配的な意見に同意するのが正しいかどうか確かめたいのであれば、あなたの心にうかんでくる論拠(arguments)を、ガンジーがそれらの論拠に反発していったかもしれない(可能性のある)ことを考慮してみることによって、テストするのが一つの良案であると気づくであろう。私はこの種の想像上の対話の結果として、実際に、自分の考えを変えさせられたことが時々あった。そして、そうでなくとも(short of this)、私は仮想の論敵が持っている可能性がある道理(reasonableness 合理性)を理解することによって、しだいにより独断的でなくなり、また過度な確信を持つことがより少なくなっていく自分を発見した(自分に気づいた)ことがしばしばあった(のである)。
けれども、外国の慣習を知るようになることは、 常に有益な効果(effect 結果/影響)をもつとは限らない。 17世紀に満州人(the Manchus)が中国を征服した時、] 中国人の間では女性が小さな足をもつこと(纏足 てんそく)が、また満州人の間では男性が辮髪(べんぱつ)にすること(wear pigtails)が慣習となっていた。各々がそれぞれの愚かな慣習をたちきるかわりに、お互いに相手の愚かな慣習をとりいれ、中国人は、1911年の革命において満洲人の支配をふりきるまで、 辮髪を続けた(のである)。