若い時の数学に対する賛美と老年期におけるがっかり感

BR_mathematics-beauty 数学は, 正しく見れば,真理を持っているばかりではなく、最高の美を持っている。それは彫刻の美のように冷たく厳しい美しさであり、我々人間の弱々しい天性に訴えるものも、絵画や音楽のもつ豪華な飾りもなく、しかもきわめて純粋であり、最高の芸術のみが示すことができる厳格な完璧さに満ちた美である。最高の優雅さのしるしであるところの、真の歓喜、精神の高揚、人間を超えた存在の一部であるという感じが,詩の中と同じくらい確かに,数学の中にも見出すことができる。

BR_Mathematics-Beauty2Mathematics, rightly viewed, possesses not only truth, but supreme beauty - a beauty cold and austere, like that of sculpture, without appeal to any part of our weaker nature, without the gorgeous trappings of painting or music, yet sublimely pure, and capable of a stern perfection such as only the greatest art can show. The true spirit of delight, the exaltation, the sense of being more than Man, which is the touchstone of the highest excellence, is to be found in mathematics as surely as poetry.
出典:”The Study of Mathematics” In: Mysticism and Logic And Other Essays, 1918.

[寸言]
ラッセルのこの言葉は数学を賛美するものもとして,多くの数学好きに好まれ引用されます。
しかし,ゲーデルの不完全性定理や、記号論理学の知識論に果たす貢献の限界を感じるにつれ、数学に対する手放しの賛美の気持ちは少なくなっていきます。八十代後半になると,ラッセルは若い時の上記の数学i対する賛辞を「おおむね無意味だ」と考えるようになっていきました。ラッセルは 1959年(ラッセル87歳の時)に出した、 My Philosophical Development の中で次のように書いています。

「(数学は)その主題において非人間的だとは思われなくなった。きわめて不本意ながら,数学は類語反復(トートロジー)からなると信じるようになった。十分な知的能力を持つ精神にとって,数学の全体は,「四つ足の獣は動物である」という命題と同程度につまらぬ主張と見えるであろうと思われる。・・・。私はもはや数学的真理の中にいかなる神秘主義的満足をも見出すことはできない。
(Mathematics has ceased to seem to me non-human in its subject-matter. I have come to believe, though very reluctantly, that it consists of tautologies. I fear that, to a mind of sufficient intellectual power, the whole of mathematics would appear trivial, as trivial as the statement that a forth-footed animal is an animal. In* My Philosophical Development, 1959, pp.211-212.)

数学に対する期待が非常に大きかったがために、(また、この世の人間や社会の問題の解決がより重大だと思うようになったがために)数学に対する幻滅(がっかり感)も大きかったのであろう。

なお、このことについては、「R徒然草2015」(2015年5月21日付け)の中で、ジム・ホルト(著),寺町朋子(訳)「世界はなぜ’ある’のか?-実存をめぐる科学・哲学的探索」(早川書房,2013年10月)からの引用としてもご紹介しています。
http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2015.html#br2015-2

ウィトゲンシュタインとの出会いと彼に関するエピソード

Wittgenstein-L 彼(ウィトゲンシュタイン)はオーストリア人であり,また彼の父親は大富豪であった。彼は,技術者になろうと考えていて,その目的ために,マンチェスター(大学)に行っていた(で勉強していた)。数学(の本)の読書を通して,彼は数学の原理に興味を持つようになった。そこでマンチェスター大学で,数学の原理について研究している者はいないか尋ねた。誰かが私の名前に言及した。それで彼はトリニティ・コレッジに住居を定めた。
彼は,情熱的で,深遠であり,強烈で,抜きん出ており,おそらく,私が今まで知りえた人間のなかで,伝統的に思い描かれてきた天才の最も完璧な実例であったであろう。彼には一種の’純粋さ‘があり,それと匹敵するものは,G.E.ムーア以外に知らない。私は,一度彼をアリストテレス協会(注:アリストレス研究のための学界ではなく、英国哲学会のこと)の会合に連れていった時のことを記憶している。その会合には,多くの愚劣な連中が出席していたが,私は彼らに対し丁重な応待をした。私たちがその場を離れた後,彼は激怒し,彼らがいかに愚かであるか,彼らに言ってやらなかったのは道徳的堕落だと,私に怒鳴り散らした。
彼の人生は波乱にとんでおり,困難なものであった。また彼の精神力(personal force)は,並はずれていた。彼はミルクと野菜だけで生活していた。ミセス・バトリック・キャンプベル(注:Mrs. Patrick Campbell, 1865-1940:英国の著名な舞台女優)がバーナード・ショーについて「彼がビーフステーキを食べてくれたらどれだけ救われることか!」と感じたように,私はウィトゲンシュタインに対し,同様の感情を抱いた。(注:肉を主食とする人から見れば,ベジタリアン(菜食主義者)は食べたい肉を無理やりたべないようにしているため,欲求不満がたまって残酷になる,といった思いか。)
Wittgenstin_Logicomix 彼は,毎晩のように深夜午前零時(at midnight)に,私に会いにやってきて,興奮しているが何も言わず,野獣のように,3時間,部屋の中を行ったり来たりした。ある時私は彼にこう尋ねた。「あなたは,論理学について考えているのか,それとも自分自身の罪について考えているのか?」「両方です」と彼は応え,彼はなおも行ったり来たりし続けた。私は彼にもう就寝する時間だと言いたくなかった。というのは,私のそばを離れると,彼は自殺するかもしれないと,多分私にも彼にも,思われたからである。トリニティ・コレッジに来てからの最初の学期の終わりに,彼は私のところにやって来てこう言った。「あなたは,私のことをまったくの’馬鹿’だと思いますか?」 私は言った。「どうしてあなたはそのようなことを知りたがるのですか?」 彼は答えた。「もしそうだとしたら私は飛行士になります。もしそうでなかったら哲学者になります。」 そこで私は彼にこう言った。「いや,あなたがまったくの馬鹿かどうか私にはわかりません。しかし,もしあなたが休暇中に,何でもいいですから,あなたが興味を持つ哲学上の問題について論文を書いてくれたら,それを読み,あなたが馬鹿かどうかをあなたに言いましょう。」 彼はその通りにした。そしてその論文を次の学期の初めに私のところにもって来た。私はその最初の一文を読むや否や彼が’天才’であることを確信するにいたった。そして,彼はどんなことがあっても飛行士になるべきではないと納得させた。

TP-ABRHe was an Austrian, and his father was enormously rich. Wittgenstein had intended to become an engineer, and for that purpose had gone to Manchester. Through reading mathematics he became interested in the principles of mathematics, and asked at Manchester who there was who worked at this subject. Somebody mentioned my name, and he took up his residence at Trinity. He was perhaps the most perfect example I have ever known of genius as traditionally conceived, passionate, profound, intense, and dominating. He had a kind of purity which I have never known equalled except by G. E. Moore. I remember taking him once to a meeting of the Aristotelian Society, at which there were various fools whom I treated politely. When we came away he raged and stormed against my moral degradation in not telling these men what fools they were. His life was turbulent and troubled, and his personal force was extraordinary. He lived on milk and vegetables, and I used to feel as Mrs Patrick Campbell did about Shaw: ‘God help us if he should ever eat a beefsteak.’ He used to come to see me every evening at midnight, and pace up and down my room like a wild beast for three hours in agitated silence. Once I said to him: ‘Are you thinking about logic or about your sins? ‘Both’, he replied, and continued his pacing. I did not like to suggest that it was time for bed, as it seemed probable both to him and me that on leaving me he would commit suicide. At the end of his first term at Trinity, he came to me and said: ‘Do you think I am an absolute idiot?’ I said : ‘Why do you want to know?’ He replied : ‘Because if I am I shall become an aeronaut, but if I am not I shall become a philosopher.’ I said to him: ‘My dear fellow, I don’t know whether you are an absolute idiot or not, but if you will write me an essay during the vacation upon any philosophical topic that interests you. I will read it and tell you.’ He did so, and brought it to me at the beginning of the next term. As soon as I read the first sentence, I became persuaded that he was a man of genius, and assured him that he should on no account become an aeronaut.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 1968, chap. 2: Russia]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-070.HTM

[寸言]
ラッセルは,他人におべっかを使わない、独創的な哲学者であるウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein,1889-1951)が好きであり、当初、高く評価していた。
ウィトゲンシュタインは、周知のように彼の前期と後期とでは、哲学のスタイル及び内容が大変異なっている。ラッセルが評価したのは前期のウィトゲンシュタインであり、後期のウィトゲンシュタインは「哲学すること」を放棄してしまっていると思うようになり、しだいに疎遠になっていった。
しかし、哲学的立場が異なるとしても、ラッセルはウィトゲンシュタインを暖かく見守り続けた。これに対し、ウィトゲンシュタインは、ケンブリッジ大学教授となった後は、ラッセルを初め、自分と考え方の違う研究者を周囲から排斥しがちであった。
ラッセルは、1944年に、6年におよぶ米国滞在を経て、英国に帰国したが、ケンブリッジ大学から招聘があり、ケンブリッジ大学に一時的に復帰するが、その反対運動の先頭にたったのは、ウィトゲンシュタインであった。彼は、1951年に62歳で癌のためになくなっている。

鉄道歩道橋に立ち、しばしば自殺衝動に駆り立てられるラッセル

TPJ-ABR1 1902年から1910年までの間、非常に厳しい知的な仕事と結び合わさって、不幸であることによる緊張(疲労)は、とても大きなものであった(ラッセル注:「自伝」pp.211-212 にわたって載せてある私のルーシー宛の手紙を参照)。その頃私は、自分が入りこんでいると思われるトンネルのもう一方の先(出口)からはたして抜けだすことができるかどうか、しばしば思案した。私はよく、オックスフォード近くのケニントン(Kennington)にある歩道橋の上に立ち(注:下の白黒写真は、架け替えられる前の、当時のケニントンの鉄道歩道橋/1923年に架けかえらえている。)、通過する汽車を跳め、明日こそは汽車の下に身をなげだそうと決意した。しかし、翌日になるといつも、多分『プリンキピア・マテマティカ』はいずれ完成するだろうと望んでいる自分を見出した。さらに、その困難は、私に対する挑戦状であり、それに立ち向かって克服しないのは臆病だろうと思われた。そこで私は中断せずにその仕事を続け、遂に完了した。しかし、私の知性は、緊張から完全に回復することは決してなかった。私は、それ以来、難しい抽象的な問題を扱う能力は、以前よりずっと衰えてしまった。これは --決して全ての理由ではないが-- 私の仕事の性質が変化した理由の1つであった。

Kennington_railway-bridgeThe strain of unhappiness combined with very severe intellectual work, in the years from 1902 till 1910, was very great. (See my letters to Lucy on pp.167ff.) At the time I often wondered whether I should ever come out at the other end of the tunnel in which I seemed to be. I used to stand on the footbridge at Kennington, near Oxford, watching the trains go by, and determining that tomorrow I would place myself under one of them. But when the morrow came I always found myself hoping that perhaps Principia Mathematica would be finished some day. Moreover the difficulties appeared to me in the nature of a challenge, which it would be pusillanimous not to meet and overcome. So I persisted, and in the end the work was finished, but my intellect never quite recovered from the strain. I have been ever since definitely less capable of dealing with difficult abstractions than I was before. This is part, though by no means the whole, of the reason for the change in the nature of my work.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-150.HTM

[寸言]
ラッセルは3歳までに両親がなくなり、その後、祖父母(注:祖父は2度英国首相を務めたジョン・ラッセル)に引き取られ、ずっと祖母に育てられることになる。さびしくて孤独な少年時代を過ごし、「不幸感」から何度も自殺したいという思いに駆られた。
『プリンキピア・マティマティカ(数学原理)』執筆の時も自殺衝動に駆られたが、第一次世界大戦の勃発により、自分が全身全霊を打ち込める反戦運動にかかわることにより、それ以後は、自殺衝動は消えていった。
ラッセルは貴族で裕福であり恵まれているので学問・研究にゆったりとはげむことができたのだ、というイメージを持っている人が少なくないようである。そのような方は是非『ラッセル自伝』(The Autobiography of Bertrand Russell, 3 vols. を読むことをお薦めしたい。

「記述理論」と「タイプ理論」の発見ーあとは『数学原理』を執筆するのみ!

 1905年になって,事態は好転しはじめた。アリスと私は,オックスフォードの近くに住むことを決め,バグレイ・ウッド自分たちの家を建てた。(その当時,そのあたりには一軒も家が建っていなかった。) 私たちは,1905年の春,そこに移り住み,入居してすぐに,私は「記述理論」を発見した。記述理論は,長い間私を困惑させた(私の研究の進展を阻んでいた)諸困難の克服へ向けての第一歩であった。この発見の直後にセオドール・デービスの死があったが,それについては前の方の章で述べている。
Principia_mathematica 1906年に,私は「タイプ理論」を発見した。あとやらなければならないことは,(本として出版するために)詳細に書き上げるだけであった。ホワイトヘッドは学生の教育で忙しく,この機械的な仕事をする十分な時間がなかった。(そこで)私は,1907年から1910年まで,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間,この(執筆の)仕事にあたった。原稿(の量)は,しだいに膨大になっていき,散歩に出るたびに,私は,家が火事になって原稿が焼失してしまわないかと,いつも心配になった。その原稿は,当然のこと,タイプライターで打ったり,また複写さえもできない類のものであった(注:ほとんど論理記号の羅列であったため)。原稿ができ上がって,最後にそれをケンブリッジ大学出版部にもっていく時,あまりに膨大なため,運搬用に旧式の四輸馬車を雇わなければならなかった。困難はそれで終わらなかった。大学出版部は,その本の刊行によって(出版に要した費用と売り上げ利益の差は)差し引き600ポンドの損失があるだろうと見積もった。ケンブリッジ大学の特別評議員会の委員たちは,300ポンドの欠損は喜んで負担するが,それ以上大学が負担することはできないだろうと考えた。英国学士院は寛大にも200ポンドを寄付してくれたが,残りの100ポンドば私たち二人で工面しなければならなかった。私たちは,このようにして,10年間の労働によって,一人あたりマイナス50ポンドずつかせぎ出した(注:10年間共同作業をやった結果,利益を得るどころか,一人あたり50ポンドの負債を負うことになってしまったということ。)。これは,ジョン・ミルトン(John Milton, 1608-1674:イギリスの詩人)のパラダイス・ロスト(失楽園)の記録を破っている。

priniipia_textIn 1905 things began to improve. Alys and I decided to live near Oxford, and built ourselves a house in Bagley Wood. (At that time there was no other house there.) We went to live there in the spring of 1905, and very shortly after we had moved in I discovered my Theory of Descriptions, which was the first step towards overcoming the difficulties which had baffled me for so long. Immediately after this came the death of Theodore Davies, of which I have spoken in an earlier chapter. In 1906 I discovered the Theory of Types. After this it only remained to write the book out. Whitehead’s teaching work left him not enough leisure for this mechanical job. I worked at it from ten to twelve hours a day for about eight months in the year, from 1907 to 1910. The manuscript became more and more vast, and every time that I went out for a walk I used to be afraid that the house would catch fire and the manuscript get burnt up. It was not, of course, the sort of manuscript that could be typed, or even copied. When we finally took it to the University Press, it was so large that we had to hire an old four-wheeler for the purpose. Even then our difficulties were not at an end. The University Press estimated that there would be a loss of £600 on the book, and while the syndics were willing to bear a loss of £300, they did not feel that they could go above this figure. The Royal Society very generously contributed £200, and the remaining £100 we had to find ourselves. We thus earned minus £50 each by ten years’ work. This beats the record of Paradise Lost.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-140.HTM

[寸言]
Logicomix_Principia20 「1907年から1910年までの5年間,毎日10時間から12時間,毎年約8ヶ月間、論理記号ばかりの学術書の執筆に専念」なんていう根気や知力は、せちがらい現代の学者・研究者にはとうてい無理であろう。
今はコンピュータを活用でき論理計算の部分は瞬間的に処理可能であるために、ラッセルの知力があれば、5年間を1年間くらいに大幅に時間短縮できるであろう。実際、後の学者がそれを実行して、下記のページにあるように、そのことについて、ラッセルに手紙を出している。
http://russell-j.com/beginner/DBR4-45.HTM 「プリンキピア・マテマティカ 対 コンピュータ」
しかし、勘違いしてはいけないが、重要なのは機械的に論理計算する部分ではなく、問題意識を持つことであり、また、その問題を解くための発想力や創造力である。
(なお、この手紙の主も「博識な人間と賢者とは、必ずしも同一ではないということを示している我々のこの論文の証拠に興味をもたれることと思います」と,ラッセルに敬意を評している。)

完全な’知的行き詰まり’の時期 - 白紙だけを毎日見続け・・・

・・・。当時(注:1903年~1904年)私は、前述したパラドクス(論理的矛盾)を解決しようと懸命に努力していた。毎朝私は、1枚の白紙の前に坐った。途中に短い昼食の時間がはいるだけで、後はずっと1日中、その白紙をみつめていた。しばしば、夕方になっても、紙は依然として白紙のままであった。

br_paradox その2年間の冬は、私たち(夫婦)はロンドンで過ごした。冬の間中、私は、全然仕事をしようとしなかった。しかし、1903年と1904年の2度の夏は、完全な’知的行き詰まりの時期’として、私の記憶に残っている。パラドクスを解決しないことには先に進めないことは明らかであった。そこで、いかなる困難があっても『プリンキピア・マテマティカ』の完成だけはなしとげようと決意していた。しかし、私のその後の人生のすべては、あの白紙のみを見つめることに費やされることはまったくありそうなことだと思われた。さらに一層私をいらいらさせたのは、そのパラドクスは取るにたらないものであり、私の貴重な時間が、まじめな注意を払うに値いしないと思われるような事柄について考えることに費やされるということであった。

deaclockI was trying hard to solve the contradictions mentioned above. Every morning I would sit down before a blank sheet of paper. Throughout the day, with a brief interval for lunch, I would stare at the blank sheet. Often when evening came it was still empty. We spent our winters in London, and during the winters I did not attempt to work, but the two summers of 1903 and 1904 remain in my mind as a period of complete intellectual deadlock. It was clear to me that I could not get on without solving the contradictions, and I was determined that no difficulty should turn me aside from the completion of Principia Mathematica, but it seemed quite likely that the whole of the rest of my life might be consumed in looking at that blank sheet of paper. What made it the more annoying was that the contradictions were trivial, and that my time was spent in considering matters that seemed unworthy of serious attention.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-130.HTM

[寸言]
shoji_wani 若い頃には、誰もが、こんな非生産的なことばかりしていたくないと気が焦ることがあるであろう。若い時、安穏に暮らし、そのようなことを思ったことがない人間は、年をとってから、若い時にもっと勉強しておくべきだった(もっと努力すべきだった)と思うことになる。 (「え? そんなこと思ったことない? 若い時に、裕福かつ環境にめぐまれていた人は、今は、あっちに行っていてください」 by SHOJI Sadao

 偉大な知的業績は簡単にあげられるものではない。ラッセルは自分が可能な限り、知的貢献をしたいと思ったがゆえに、大きな障害にぶつかり格闘することになる。長い努力の結果、その後一応の解決が得られたが、解決できず、挫折し、その後の人生が苦いものになった可能性もあったかも知れない状況であった。

ラッセルの最も不幸な時期-情緒的にも、知的にも行き詰まり・・・

ALYS1905 その間,アリス(注:ラッセルの初婚相手/右写真)は私以上に不幸であり,また,彼女が不幸であることが私自身の不幸の原因の大きな部分をしめていた。私たち夫婦は,過去きわめて多くの時を,彼女の家族と一緒に過ごした。しかし,私は彼女に,もうこれ以上彼女の母にがまんができないのでファーンハーストを去らなければならないと告げた。私たちは,その年(1902年)の夏を,ウスターシャー州にあるブロードウェイの近くで過ごした。私は,心痛のため感傷的になり,「我々の心は,死せる希望の廃墟のために立派な霊廟を建てる(Our hearts build precious shrines for the ashes of dead hopes)」といったような文句をよく作った。メーテルリンクの作品を読むこと「さえ」した(注:ラッセルは元来「神秘主義」を好まないためこのような表現になっていると思われる)。この頃以前に,グランチェスターにおいて,私は,悲惨の頂点と危機のうちに,『数学の原理)』(The Principles of Mathematics, 1903)を書き上げた。原稿を書き終えたのは,(1902年)5月23日(注:ラッセルがちょうど30歳の時)のことであった。ブロードウェイで私は,後に『プリンキピア・マテマティカ』になる,数学の精密化に専念した。それまでは,この仕事でホワィトヘッドの協力を得ていたが,自分自身なるがままにしていた非現実的で,不誠実で,感傷的な気分が,私のこの数学の仕事に対してさえも影響を与えていた。私は,草稿の初めの部分をホワイトヘッドに送ったこと,また「すべてが,この本の目的さえも,証明を簡単できちんとしたものに見えるようにするために,犠牲にされている。」という返事を受け取ったことを記憶している。私の仕事上のこの欠点は,当時の私の精神状態における道徳的欠陥によるものであった。

TP-AOBR1Meanwhile Alys was more unhappy than I was, and her unhappiness was a great part of the cause of my own. We had in the past spent a great deal of time with her family, but I told her I could no longer endure her mother, and that we must therefore leave Fernhurst. We spent the summer near Broadway in Worcestershire. Pain made me sentimental, and I used to construct phrases such as ‘Our hearts build precious shrines for the ashes of dead hopes’. I even descended to reading Maeterlinck. Before this time, at Grantchester, at the very height and crisis of misery, I finished The Principles of Mathematics. The day on which I finished the manuscript was May 23rd. At Broadway I devoted myself to the mathematical elaboration which was to become Principia Mathematica. By this time I had secured Whitehead’s cooperation in this task, but the unreal, insincere, and sentimental frame of mind into which I had allowed myself to fall affected even my mathematical work. I remember sending Whitehead a draft of the beginning, and his reply: ‘Everything, even the object of the book, has been sacrificed to making proofs look short and neat.’ This defect in my work was due to a moral defect in my state of mind.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-110.HTM

[寸言]

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 ラッセルは生涯において最も不幸な時期(1901年頃)をグランチェスター(のホワイトヘッドの家/右写真)で過ごした。すぐ近くにある水力製粉所の水車のカタコトという音がラッセルの悲痛な思いを倍加していった。そうして、有名なエッセイ「自由人の信仰(崇拝するもの)」を執筆し始めた。
http://russell-j.com/beginner/AB16-090.HTM

哲学者の最高の義務 - 神や権威に訴えずに少しずつ真理に近づいていく

TPJ-MPD2 (私の)気持のこの変化において,失われたものがあったが,(新たに)得られたものもあった。失われたものは,完全性と確定性(最終的な結論)と確実性とを見つけ出す希望であった。得られたものは,私の嫌いなあるいくつかの真理への新たな服従であった。けれども,以前のいくつかの信念の放棄は決して完全なものではなかった。(それらのなかの)いくつかのものは私のもとに残り,いまでも残り続けている。(即ち,)私は今でも,真理は事実への関係に依存しており,しかも,一般的に言って,事実は非人間的なものである,と考えている。(また)私は今でも,人間は宇宙的にはとるに足りないものであり,ここと今(今という時間とこの場所)によって歪められずに宇宙を公平に見渡すことのできる「存在者」(注:神あるいは絶対者) -そういうものがあるとして- ならば,恐らく,書物の終り近くにつける脚注以外では,人間についてほとんど言及しないであろう,と考える。しかし,私はもはや,人間的要素の存在する場所からそれら(の人間的要素)を追い払おうとは望まない。私はもはや,知性が感覚よりすぐれており,プラトンのイデヤの世界のみが「真実の」世界に近づくことができる,という感じ(感覚的意見)はもっていない。私は,以前は,感覚や,感覚の上にきずかれた思想を,ひとつの牢獄と考え,そこから我々人間は,感覚から解放された(感覚に束縛されない)思考によって自由になることができる(自由にされうる),と考えていた。現在ではまったくそのような感じ(感覚的意見)は持っていない。(現在では)感覚と,感覚の上に築かれた思想を,牢獄の格子としてでなく,窓として考えている。我々人間は,不完全であるけれども,ライプニッツの単子のように,世界を映し出すことができる,と私は考える。そうして,自分を物を歪めない鏡となることに出来る限り努めることが,哲学者の義務である,と考える。しかし,我々人間の本性から,そういった歪曲は不可避であるとはっきり認めることもまた,哲学者の義務である。そういう歪曲のうちで最も根本的なものは,我々人間は世界をここと今(今という時間とこの場所)の見地から見るのであり,有神論者が神に帰するような広い公平さで見るのではない,ということである。そのような公平な見方に達することは我々人間には不可能であるが,それに向ってある確実なかつ一定の距離を歩むことはできる。そうして,この目標への道案内をすることこそ哲学者の最高の義務なのである。

DOKUSH97In this change of mood, something was lost, though some thing also was gained. What was lost was the hope of finding perfection and finality and certainty. What was gained was a new submission to some truths which were to me repugnant. My abandonment of former beliefs was, however, never complete. Some things remained with me, and still remain: I still think that truth depends upon a relation to fact, and that facts in general are non-human; I still think that man is cosmically unimportant, and that a Being, if there were one, who could view the universe impartially, without the bias of here and now, would hardly mention man, except perhaps in a footnote near the end of the volume ; but I no longer have the wish to thrust out human elements from regions where they belong; I have no longer the feeling that intellect is superior to sense, and that only Plato’s world of ideas gives access to the ‘real’ world. I used to think of sense, and of thought which is built on sense, as a prison from which we can be freed by thought which is emancipated from sense. I now have no such feelings. I think of sense, and of thoughts built on sense, as windows, not as prison bars. I think that we can, however imperfectly, mirror the world, like Leibniz’s monads; and I think it is the duty of the philosopher to make himself as undistorting a mirror as he can. But it is also his duty to recognize such distortions as are inevitable from our very nature. Of these, the most fundamental is that we view the world from the point of view of the here and now, not with that large impartiality wrhich theists attribute to the Deity. To achieve such impartiality is impossible for us, but we can travel a certain distance towards it. To show the road to this end is the supreme duty of the philosopher.
出典: My Philosophical Development, 1959,chap..17: Language.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1301.HTM

[寸言]
ラッセルが自らの哲学の発展を顧みて、総括した言葉

軽信せず、神や権威に訴えず、人間としての限界のなかで少しずつ真理に近づいていくことの重要性。人間の感覚器官の間違い易さを酷評する哲学者も少なくないが、たとえ人間の知覚が誤りやすいものであったとしても、それはちっぽけな人間が罰を受ける「牢獄」ではなく、世界を理解するための「窓」だ考えるべきだとするラッセル。

哲学は倫理学や宗教学ではないのであり、単なる人生哲学でもない。人間の感覚器官が不十分だとしても認識論をおろそかにしてはいけない。しかし、日本人が愛読する独・仏の哲学や思想(やそういったものを知的背景にもつ評論家など)には論理的に甘いものが少なくなく・・・。

「言語」に関する迷信的な見解-言語の本質とその限界に無知な哲学者?

fishontable 哲学者読書人(読書家)は一般的に,言葉によって支配される生活を送る傾向があり,また,一般的に,非言語的であるところの事実と何らかの関係を有することは,言葉の本質的な機能である,ということを忘れる傾向さえある。現代の哲学者のなかには,言葉は決して事実とつきあわせてはならず,純粋な(言葉以外のものとまざらない)自律的な世界に生きるべきであり,他の言葉とのみ比較されるべきだ,とまで言う者もいる。(たとえば)「猫は肉食動物である」と言うとき,それは,現実の猫が現実の肉を食べるということを意味しているのではなく,動物学の本では猫は肉食動物の中に分類されている,ということを意味するにすぎない(というしだいである)。こう考えている著者たちは,言語と事実とつき合せる試みは「形而上学」であり,それゆえ非難されるべきである,と我々に告げる。これは,きわめて馬鹿げた見解であり,恐らく,非常に学問のある者だけが採用できる見解であろう。それを特に馬鹿げたものにしているのは,事実の世界における言語の位置に盲目であることである。言語は,食べたり歩いたりすることと全く同様に,知覚できる現象から成り立っている。もし,我々(人間)が事実について何も知りえないとしたならば,我々は他人の言うことを知りえないはずであるし,また,自分自身が何を言っているかも知ることができないはずである。言語は,後天的に獲得された他の行動様式と同様,有用な習慣から成り立っており,しばしばそれに取り囲まれている神秘性をまったく持っていない(のである)。言語に関する迷信的な見解には何の新しい点もない。それは有史以前の時代から我々に伝えられてきたものである。
我々が歴史的記録を有する最古の時代以来,言葉は迷信的な畏怖の対象であった。敵の名を知っている者は,それにより敵に対する魔力を手に入れることができた。そして今でもなお,我々は「法律の名において」というような句を用いている。「はじめに言葉ありき」という主張に同意することは容易である。この見解は,プラトンとカルナップおよびその間に出た大多数の形而上学者たちの,哲学の根底をなしている。」(『意味と真理との研究』,p.23

TP-MPDPhilosophers and bookish people generally tend to live a life dominated by words, and even to forget that it is the essential function of words to have a connection of one sort or another with facts, which are in general non-linguistic. Some modern philosophers have gone so far as to say that words should never be confronted with facts but should live in a pure, autonomous world where they are compared only with other words. When you say, ‘the cat is a carnivorous animal’, you do not mean that actual cats eat actual meat, but only that in zoology books the cat is classified among carnivora. These authors tell us that the attempt to confront language with fact is ‘metaphysics and is on this ground to be condemned. This is one of those views which are so absurd that only very learned men could possibly adopt them. What makes it peculiarly absurd is its blindness to the position of language in the world of fact. Language consists of sensible phenomena just as much as eating or walking, and if we can know nothing about facts we cannot know what other people say or even what we are saying ourselves. Language, like other acquired ways of behaving, consists of useful habits and has none of the mystery with which it is often surrounded. There is nothing new in the superstitious view of language, which has come down to us from pre-historic ages:
‘Words from the earliest times of which we have historical records, have been objects of superstitious awe. The man who knew his enemy’s name could, by means of it, acquire magic powers over him. We still use such phrases as “in the name of the Law”. It is easy to assent to the statement “in the beginning was the Word”. This view underlies the philosophies of Plato and Carnap and of most of the intermediate metaphysicians (An Inquiry into Meaning and Truth, page 23).
出典: My Philosophical Development, 1959,chap..13: Language.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/54T-1301.HTM

[寸言]
illusion_sakusi みなさんもミューラー・リヤー錯視という言葉をご存知だと思われます。すなわち、同じ長さの線分であっても、先頭に矢印をつけると、付け方によっては長さが違って見えるというあれ(錯視)です。このように人間の眼に見えるというのはひとつの「事実」です。それは間違っているといっても、そう見えること自体は間違っていません。
しかし、実際は、両線分は同じ長さであることは間違いないので、言葉(論理)によって、人間の眼には同じように見えるが、実際にはかってみればわかるように、2つの線分は同じ長さだ、と修正してあげる必要があります。
このように、事実と言葉(論理)は相補関係にありますので、どちらか一方だけではこの世界を正しくとらえることはできません。従って、世界に関する感覚器官によって得られた知識(視覚、臭覚・触覚等の五感で得られる事実)も、それを言葉(論理)で必要に応じ解釈をほどこして、より正しい世界像を作り上げていく必要があります。
人間は年をとるにつれて、膨大な間違った情報を身につける可能性があるとともに、言葉(論理)だけでは世界に対する正しい認識は得られないということを、十分認識する必要があります
そのことを十分理解していない哲学者や現実主義者(体験主義者)も少なくなく、過信に陥る人間も少なくありません。権力をもっていなければ「お互い様だ」と笑い飛ばすことができますが、「確信過剰」の政治家は国民に大きな被害をもたらす可能性があり、そうもいっておられません。たとえば、◯△□(適当に名前をあてはめてください)・・・。

酷い知的後退-(ラッセルの) パラドクスの発見

R-JUKEN (ケンブリッジ大学の)春学期が終わると,アリスと私はファーンハーストに戻り,そこで数学の論理的導出(論理学から数学を演繹・導出) --後に『プリンキピア・マテマティカ』となったもの-- を書き上げる仕事に着手した。その仕事も,ほぼ終了したと私は考えていたが,5月になって,同じ年(1901年)の2月に起こった感情的な後退(注:妻アリスに愛情を持てなくなったこと)とほとんど同じくらい酷い知的後退があった。カントール(Georg Cantor, 1845-1918)は,’最大の数は存在しない’という証明をしていた。(しかし)私には,(当時)世界に存在するあらゆるものの数(世界に存在するすべてのものを合計した数)は,可能な最大の数であるはずだと思われた。そこで私は,彼の証明をいくらか詳細に吟味した。そうして,それを存在する全てのものの集合(クラス)に適用しようと努めた。それによって,自己自身の要素でないところの諸集合(クラス)について検討するとともに,そのような集合の集合が,はたしてそれ自身の要素であるか否かについて問わなければならなくなった。私は,その答え(要素であるという答えと要素でないという答え)のいずれも矛盾に陥ることを発見した。当初私は,その矛盾(論理的パラドクス)はきわめて容易に克服できるだろう,また,推論のうちに何かつまらぬ誤りがあるに違いない,と思った。しかし,徐々にそうではないことが明らかになった。ブラリ・フォルティ(Cesare Burali Forti(ブラリ・フォルティ), 1861-1931: イタリアの論理学者。 )もすでに同様の矛盾を発見しており,それは,論理分析において,クレタ人であるエピメニデス(Epimenides, 生没年不詳。ギリシア七賢人の一人で,クレタ島生まれ)が,「すべてのクレタ人は嘘つきである」と言った古代ギリシアの’矛盾’と類似したものであることが明らかになった。本質的にエピメニデスの矛盾と同様の矛盾は,「この紙の裏面に述べられていることは誤りである。」と書かれた紙を人に渡すことによって創り出せる。その人が今度はその紙を裏返せば,紙の裏面には,「この紙の裏面(即ちさきほどの表面)に書かれていることは正しい」と書いてあるのを発見する。大人がそのようなとるに足らないことに時間を費やす価値はないように思われたが,しかしそれなら私は一体何をすればよかったのか。そのような矛盾が通常の(正規の)諸前提から避けられないのであるなら,何かがまちがっていたのである。つまらないものであろうとなかろうと,この問題は(私に対する)1つの挑戦であった。1901年の後半いっぱい,この問題の解決は容易であろうと思っていた,1901年末になって,それは大仕事であるという結論に達した。そこで私は,その解決を一時とりやめて,(まず)『数学の原理』(The Principles of Mathematics)を終えてしまおうと決心した。記号論理学の講義を2学期に渡ってするように(トリニティ・コレッジから)招請を私は受けていたので,アリスと私は,その年の秋,ケンブリッジに戻った。その講義には,後に『プリンキピア・マテマティカ』の概要を含んでいたが,私は,(数理論理学における)矛盾を取り扱う方法については,いっさいふれなかった。

BR-REVRSAt the end of the Lent Term, Alys and I went back to Fernhurst, where I set to work to write out the logical deduction of mathematics which afterwards became Principia Mathematica. I thought the work was nearly finished, but in the month of May I had an intellectual set-back almost as severe as the emotional set-back which I had had in February. Cantor had a proof that there is no greatest number, and it seemed to me that the number of all the things in the world ought to be the greatest possible. Accordingly, I examined his proof with some minuteness, and endeavoured to apply it to the class of all the things there are. This led me to consider those classes which are not members of themselves, and to ask whether the class of such classes is or is not a member of itself. I found that either answer implies its contradictory. At first I supposed that I should be able to overcome the contradiction quite easily, and that probably there was some trivial error in the reasoning. Gradually, however, it became clear that this was not the case. Burali-Forti had already discovered a similar contradiction, and it turned out on logical analysis that there was an affinity with the ancient Greek contradiction about Epimenides the Cretan, who said that all cretans are liars. A contradiction essentially similar to that of Epimenides can be created by giving a person a piece of paper on which is written: ‘The statement on the other side of this paper is false.’ The person turns the paper over, and finds on the other side: ‘The statement on the other side of this paper is true’. It seemed unworthy of a grown man to spend his time on such trivialities, but what was I to do? There was something wrong, since such contradictions were unavoidable on ordinary premisses. Trivial or not, the matter was a challenge. Throughout the latter half of 1901 I supposed the solution would be easy, but by the end of that time I had concluded that it was a big job. I therefore decided to finish The Principles of Mathematics, leaving the solution in abeyance. In the autumn Alys and I went back to Cambridge, as I had been invited to give two terms’ lectures on mathematical logic. These lectures contained the outline of Principia Mathematica, but without any method of dealing with the contradictions.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-050.HTM

[寸言]
このラッセルのパラドクスがわかりにくいようであれば、三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』(岩波新書)をお読みください。この本は、ラッセルのパラドクスだけでなく、ラッセルの論理学全体を扱っており、大変参考になります。

知的陶酔の時期-知的側面については1900年9月(28歳の時)が我が生涯の最高点

PLAS05-2W ホワイトヘッド夫妻は,ファーンハースト(Fernhurst)の私たちの家(Millhanger)に滞在した。そこで私は,私の新しい考えを彼に説明した。毎晩議論のあと何かしら難点が残り,そうして毎朝,前夜のその難点が寝ているうちに自然に解決されているのを発見した。それは,一種の知的陶酔の時期であった。私のその時の感動は,霧の中を登山し山頂に達すると,突然霧がなくなり,田舎の景色が全方角40マイルにわたって眺望できた時に体験する’感動’に似ていた。(写真:,ラッセルが晩年に住んだプラス・ペンリンの自宅の庭からポートマドックを望む)
長年の間,私は,順序数(序数)とか基数とかいったような数学の基礎概念を分析する努力を続けていた。突如として2,3週間のうちに,長年にわたって私を悩ませてきた諸問題に対する決定的な解答と思われるものを発見した。そうして,それらの解答を発見する過程で,私は,新しい数学上のテクニックを取り入れ,それによって,それまで哲学者の(考えや表現の)不明瞭さのもとに見捨てられていた領域は,精確な公式の精密さによって,克服されたのである。 知的には,1900年9月は私の生涯の最高の頂点であった。今遂に自分は,為す価値のある何ごとかを為し遂げたのだと自分に言い聞かせ,そうして,論文を書き下ろす前に通りで車にひかれないないよう注意しなければならないという感情をいだいた。私の新しい考え方を具体的に記述した論文(Sur la logique des relations avec des applications a la theorie des series)を,ペアノが編集刊行している雑誌((Peano’s) Rivista di Matematica [=Revue de Mathematiques](Turin),v.7: 1900/1901, p. 115-148)のために送った。

The Whiteheads stayed with us at Fernhurst, and I explained my new ideas to him. Every evening the discussion ended with some difficulty, and every morning I found that the difficulty of the previous evening had solved itself while I slept. The time was one of intellectual intoxication. My sensations resembled those one has after climbing a mountain in a mist, when, on reaching the summit, the mist suddenly clears, and the country becomes visible for forty miles in every direction. For years I had been endeavouring to analyse the fundamental notions of mathematics, such as order and cardinal numbers. Suddenly, in the space of a few weeks, I discovered what appeared to be definitive answers to the problems which had baffled me for years. And in the course of discovering these answers, I was introducing a new mathematical technique, by which regions formerly abandoned to the vaguenesses of philosophers were conquered for the precision of exact formulae. Intellectually, the month of September 1900 was the highest point of my life. I went about saying to myself that now at last I had done something worth doing, and I had the feeling that I must be careful not to be run over in the street before I had written it down. I sent a paper to Peano for his journal, embodying my new ideas.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 6: Principia Mathematica, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB16-020.HTM

[寸言]
20代や30代前半に世界的な業績をあげる数学者が多い。ラッセルの場合も、1900年(28歳)の頃から、数学や論理学の分野において,世界的な(画期的な)業績を上げ始めている。
ただし、ラッセルが言うように、知的(ラッセルの場合は、「論理的」)な側面において、最も創造的な時代であったということであり、社会との関係が重要な社会科学の分野については、中年時代以降に円熟さや幅の広さが増していく。
その辺の区別を自覚しないと、能力のある若い人は、多くの年配者が馬鹿(おろか)に見え、良いアドバイスがないと大きな失敗をしてしまいやすい。もちろん、数学などの純理論的な分野については、他人や社会との関係で失敗するなんてことはないので、安心して突っ走れるけれども・・

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