ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.25

 もし,我々が肉体の死後に(自分という)人格が生き残ることを信じようとするなら,我々は記憶の継続性(注:死後も生前と同じ記憶を保有していること)あるいは少なくとも習慣の継続性を想定しなければならない。なぜなら,もしそうでないとしたら,同一人物が継続して存在する(存続する)と想定する理由がまったくないからである。しかし,この点において,生理学上,難点がある。習慣と記憶は,両方とも,肉体,特に脳に及ぼされた影響に起因している(due to 起因する,~のせい)。(即ち)習慣の形成は,水路の形成に類似したものと考えてよいだろう。さて,習慣と記憶を生じさせる肉体への影響は(肉体の)死と腐敗によって消失する。また -ほとんど奇跡であるが(short of miracle)-それらの肉体への影響が,我々があの世でその中に住むと想定される新しい肉体にどのようにして移されるかを理解することは困難である。もし,我々が肉体から遊離した霊(肉体なしに存在する霊)(disembodied spirits)であるとすると困難は増すのみである。実際,現代の物質観のもと,肉体から分離した霊というものが論理的に可能か(ありうるか)は疑問である。物質とは事象をグルーピングする(ひとまとめにする)一つの方法にすぎず,従って,事象の存するところには物質が存在する。もし私が主張するように,その人物の肉体が生きている間を通して、その人物(人格)の継続性が習慣形成に依存するのなら,それはまた,肉体の継続性にも依存しなければならない(ことになる)。(従って)ある人物を何ら同一性を失うことなく天(天国/あの世)に移すことは(もし可能であるなら),水路を何ら同一性を失うことなく天に移すのと同様に容易であろう。(反語的言い方。つまり、水路を同一性を失うことなく天国に移すことは困難なので,ある人物を同一性を失うことなく天国に移すことは困難であろう。)

Chapter V Soul and Body, n.25 If we are to believe in the survival of a personality after the death of the body, we must suppose that there is continuity of memories or at least of habits, since otherwise there is no reason to suppose that the same person is continuing. But at this point physiology makes difficulties. Habit and memory are both due to effects on the body, especially the brain ; the formation of a habit may be thought of as analogous to the formation of a water-course. Now the effects on the body, which give rise to habits and memories, are obliterated by death and decay, and it is difficult to see how, short of miracle, they can be transferred to a new body such as we may be supposed to inhabit in the next life. If we are to be disembodied spirits, the difficulty is only increased. Indeed I doubt whether, with modern views of matter, a disembodied spirit is logically possible. Matter is only a certain way of grouping events, and therefore where there are events there is matter. The continuity of a person throughout the life of his body, if, as I contend, it depends upon habit-formation, must also depend upon the continuity of the body. It would be as easy to transfer a water-course to heaven without loss of identity as it would be to transfer a person.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-250.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.24

 「人物(人格)」を定義するこれらの二つの方法は,二重人格と呼ばれるものの場合において衝突する(conflict 衝突する,矛盾する)。そのような場合,外側から観察すると,一人の人物と思われるものが,主観的には(主観としては),二人の人物(人格)に分裂する。(即ち)時には(2つの人格の)どちらももうひとつの人物(人格)について何も知ることなく,時にはもうひとつの人物(人格)について知る。しかし,その逆はない(注:2つの人格が存在し、お互いの人格を知っていることはない)。 どちらの人格も他方の人格について何も知らない場合においては,もし記憶が人物(人格)の定義として使われるのなら,二人の人物が存在することになる。しかし,もし肉体が人物(人格)の定義として用いられるならば,一人の人物のみが存在する(ことになる)。放心状態(absent-mindedness),催眠状態(hypnosis),夢遊状態を経て二重人格の極端な状態に至るまで(には),規則的な諸段階が存在している。このことが記憶を人物(人格)の定義として用いることにおいて困難(問題)を生じさせる。しかし,失った記憶も,催眠術によって,あるいは精神分析の過程において回復できるように思われる。こうして,この困難(な問題)も克服できないものではないかも知れない。  実際の想起(思い出すこと)の他に,多少とも記憶に類似した種々の他の要素 -例えば,過去の経験の結果形成されてきた習慣- が人格に加わってくる。「経験」が単なる出来事と異なるのは,生命のあるところでは事象が習慣を形成できるからである。動物は,また人間はもっと,生命のない物質にはないやり方で経験によって形作られる。もし一つの事象が他の事象と習慣形成をもつ特別なやり方で因果的に関係しているなら(原因と結果の関係にあるのなら),その場合には,その二つの事象は同じ「人物(人格)」に属している。これは記憶だけによる定義より広い定義(法)であり,記憶による定義が含んでいる全てのもの及びそれ以上の多くのものを含んでいる。

Chapter V Soul and Body, n.24
These two ways of defining a “person” conflict in cases of what is called dual personality. In such cases, what seems to outside observation to be one person is, subjectively, split into two ; sometimes neither knows anything of the other, sometimes one knows the other, but not vice versa. In cases where neither knows anything of the Other, there are two persons if memory is used as the definition, but only one if the body is used. There is a regular gradation to the extreme of dual personality, through absent-mindedness, hypnosis, and sleepwalking. This makes a difficulty in using memory as the definition of personality. But it appears that lost memories can be recovered by hypnotism or in the course of psycho-analysis ; thus perhaps the difficulty is not insuperable. In addition to actual recollection, various other elements, more or less analogous to memory, enter into personality – habits, for instance, which have been formed as a result of past experience. It is because, where there is life, events can form habits, that an “experience” differs from a mere occurrence. An animal, and still more a man, is formed by experiences in a way that dead matter is not. If an event is causally related to another in that peculiar way that has to do with habit-formation, then the two events belong to the same “person.” This is a wider definition than that by memory alone, including all that the memory-definition included and a good deal more.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-240.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.23

 この問題(注:生きている肉体に結びついた出来事と肉体が死んだ後に起る他の出来事との間に密接な関係が存在するかどうかという問題)に答えることを試みる前に,一定の諸事象を一人の人物の精神生活とするように一緒に結びつける関係は何かということをまず決定しなければならない。これらの(関係の)中で最も重要なものは明らかに記憶である。即ち,私が思い出すことができる物事(things)は「私に」起ったことである。そうして,もし私がある機会(注:occasion 特定のことが起こった時)のことを思い出すことができ,また,その機会に他の何かを想起することができたとするならと,その場合は、その,他の何かも私に起ったのである(注:要するに,現在思い出せることだけでなく、過去においてもその時起こったことを思い出すことができたのならそれも自分に起こったことのはずだ,ということ)。二人の人間が同一のことを想起するかも知れないと(もしかすると)反論される可能性があるが (It might be objected that),それは誤りだろう。二人の人間は,見る位置が異なることから,二人の人間は決して精確に同一のものを見ることはない。さらに,両者は,聞くこと,匂いを嗅ぐこと,触ること,及び味わうことにおいて,精確に同一の経験を持つことはできない。自分の経験は他人の経験とかなり似ているかも知れないが,常に両者は多少とも異なっている。各人の経験はその人だけのも(私的なもの)のであり,ひとつの経験が別の(もうひとつの)経験を回想することにある時,その2つの経験は同一の「人間」に属していると言われる。(注:たとえば、昨日朝5時に起きてNHK-BSテレビで錦織対フェデラーのテニスの試合をみたことを思い出すような場合、朝5時に起きたという記憶と試合を見たという記憶は両方とも自分の記憶である。)  身体(肉体)から導き出される,より心理学的でない,人格についての別の定義(法)がある。ある一つの生きている身体(生体)を異なる時間に同一であるとするものは何であるかについて定義することは複雑であろうが(注:たとえば、昨日の僕と今日の僕は同一人物である所以は何か),当面の間は,同一性があるのは当然だということにしておこう。また,我々の知っているあらゆる「心的」経験は何らかの生きた身体(肉体)と結びついているということもまた(当面の間)当然だと認めることにしょう。そうすると,「人物」とは,所与の身体に結びつけられた心的出来事の(諸)系列であると定義することができる。ごれは法律上の定義である。もし,ジョン・スミスの身体が殺人を犯し,後に警察がジョン・スミスの身体を逮捕したとすると,逮捕時にその身体に住んでいる(宿っている)人物が殺人犯である。(注:多重人格者の場合、この定義が生きてきます。)

Chapter V Soul and Body, n.23
We must first decide, before we can attempt to answer this question, what are the relations which bind certain events together in such a way as to make them the mental life of one person. Obviously the most important of these is memory : things that I can remember happened to me. And if I can remember a certain occasion, and on that occasion I could remember something else, then the something else also happened to me. It might be objected that two people may remember the same event, but that would be an error : no two people ever see exactly the same thing, because of differences in their positions. No more can they have precisely the same experiences of hearing or smelling or touching or tasting. My experience may closely resemble another person’s, but always differs from it in a greater or less degree. Each person’s experience is private to himself, and when one experience consists in recollecting another, the two are said to belong to the same “person.” There is another, less psychological, definition of personality, which derives it from the body. The definition of what makes the identity of a living body at different times would be complicated, but for the moment we will take it for granted. We will also take it for granted that every “mental” experience known to us is connected with some living body. We can then define a “person” as the series of mental occurrences connected with a given body. This is the legal definition. If John Smith’s body committed a murder, and at a later time the police arrest John Smith’s body, then the person inhabiting that body at the time of arrest is a murderer.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-230.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.22

 科学にとって困難な事態が,自我のような実体は存在しないと思われること(事実)から,生じる。既に見たように,魂や肉体を,形而上学者たちが実体概念(実体の観念)と論理的に固く結びついていると考えた(logically bound up with),永続性(注:encurence through time 時間を貫いて持続する→永続する)を持った2つの「実体」と見なすことはもはや不可能である。(注:この一文は,荒地出版社刊の津田訳では「・・・★魂と肉体とが★「実体」で,形而上学者達が実体概念に論理的に結びついていると考えた★時間の永続性をもっている★と考えることはもはやできなくなった」となっている。多分「魂と肉体とは、・・・時間の永続性をもっている」というつもりであろうが、「時間の永続性」が何を意味しているかよくわからない。「endurance through time」の「through time」の意味を取りそこねたのではないかと想像される。「時間を貫いて持続する→永続する」と解釈すべきであろう)。また,心理学においても,知覚(作用)において「対象(物)」と接触する「主観」を想定する理由はまったく存在していない。ごく最近まで,物質は不滅であると考えられていたが,これは物理学の手法(technique 一連の処理方式)によってもはや想定されていない。原子は,今日では,一定の出来事をまとめる(グルーピングする)ための便宜的な方法(の一つ)にすぎない。(また)原子を電子を伴った核(原子核と電子で成り立っているもの)と考えることはある程度までは便利であるが,ある時刻(瞬間)における電子は別の時刻(瞬間)における電子と同一のものと見なすことはできず,また,いかなる場合においても,現代の物理学者でそれらを「実在(している)」と考えている者はいない。不変である(永遠である)と考えられた物的実体が存在していた時には(間は),精神(心)も同様に不変である(永遠である)に違いないと論ずることは容易だった。だが,この論拠(理由)は(過去においても)決してごく強力なものというものではなかったが,今日ではもはや通用しない。十分な理由として,物理学者たちは,原子を一連の事象(一塊の事象の集合)に還元した。心理学者たちは,(物質の場合と)同様に十分な理由になるものとして,精神(心)は単一の持続的な「もの」としての同一性を持たない,一定の密接な関係で結びついた一連の出来事(一塊の集合)であることを見出している。従って,不死の問題は,(現在では)これらの密接な関係が,生きている肉体に結びついた出来事と肉体が死んだ後に起る他の出来事との間に存在するかどうかという問題になっている。

Chapter V Soul and Body, n.22 The difficulty, for science, arises from the fact that there does not seem to be such an entity as the soul or self. As we saw, it is no longer possible to regard soul and body as two “substances,” having that endurance through time which metaphysicians regarded as logically bound up with the notion of substance. Nor is there any reason, in psychology, to assume a “ subject ” which, in perception, is brought into contact with an “ object.” Until recently, it was thought that matter is immortal, but this is no longer assumed by the technique of physics. An atom is now merely a convenient way of grouping certain occurrences ; it is convenient, up to a point, to think of the atom as a nucleus with attendant electrons, but the electrons at one time cannot be identified with those at another, and in any case no modern physicist thinks of them as “real.” While there was still material substance which was supposed to be eternal, it was easy to argue that minds must be equally eternal ; but this argument, which was never a very strong one, can now no longer be used. For sufficient reasons, physicists have reduced the atom to a series of events ; for equally good reasons, psychologists find that a mind has not the identity of a single continuing “thing,” but is a series of occurrences bound together by certain intimate relations. The question of immortality, therefore, has become the question whether these intimate relations exist between occurrences connected with a living body and other occurrences which take place after that body is dead.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-220.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.21

 科学が(人間の魂の)不死の問題について何を主張すべきかは必ずしも明確ではない。実際,少なくともその意図において(in intention)完全に科学的であろうとする死後の生存(死後の生/あの世)に関する一つの系列の議論/論拠(one line of argument)があることは確かである(注:survival after death = life after death: 「死後の生」というのは表現上おかしいが,肉体が死んだ後に魂が生き続けること)。- 私が言おうとしている(意味している)のは,心霊研究(psychical research)によって探求される現象と関連した系列の議論/論拠のことを意味している。私はこの問題について既存の証拠を判断するだけの充分な科学的知識を持っていない。しかし,理性的な人間(reasonable men)を納得させる証拠が存在しうることは明らかである(注:「合理的/理性的に考えることができる人間なら,死後の生命があるかどうかを判断できる証拠が存在する可能性がある」といった意味。荒地出版社刊の津田訳では「★理論家★を納得させるだけの証拠が存在し得たことは明らかである」となっている。こういった訳では「死後の生」があることを証明する証拠が存在した可能性が(過去に)あったとラッセルが言っているかのような誤解を与えそう。ラッセルは是非の判断ができる証拠を見つけられるはずと言っているだけであり,「死後の生」のある証拠が見つかるはずだとは言っていない)。けれども,これに対してはある程度但し書き(proviso)をつけなければならない。第一に,その証拠は,せいぜい(at the best よくても),我々(人間)は(肉体の)死後(一定期間)生存する(生き続ける)ことだけを証明するだろうが,我々(人間)が永遠に生存することを証明しないだろうということである。第二は,強い欲求をもっている場合(involved 関与している場合),普段(habitually いつも)正確である人の証言であってさえも,その証言を受入れることはとても困難である。このことについては,大戦中(注:第一次世界大戦中)に多くの証拠(と言われるもの)があったし,興奮の激しい時代には常にそうであった。第三に,もし他の根拠から,我々の人格が肉体(の死)とともに死なないということはありそうもないように思われる場合には,そういう仮説(死後の生肯定仮説)が蓋然性を持つ(可能性がある)と考える場合よりも,我々はより強力な死後の生に関する証拠を必要とするであろう,ということである(以上,3つの但し書き)。最も熱烈な精神主義者でさえ,歴史家が魔女たちがサタン(悪魔)に身を委ねたことを証明するためにあげることができるほど(as historians can adduce to prove) -しかしそのような証拠が検証に値すると考える者はほとんどいないだろうが- 死後の生(があること)についての証拠を持っているふりをすることはできなかった(のである)(注:歴史家も魔女たちがサタンに身を委ねたことを証明するための証拠をあげることはほとんどできないという事実との対比)。

Chapter 5: Soul and body, n.21
What science has to say on the subject of immortality is not very definite. There is, indeed, one line of argument in favour of survival after death, which is, at least in intention, completely scientific – I mean the line of argument associated with the phenomena investigated by psychical research. I have not myself sufficient knowledge on this subject to judge of the evidence already available, but it is clear that there could be evidence which would convince reasonable men. To this, however, certain provisos must be added. In the first place, the evidence, at the best, would only prove that we survive death, not that we survive for ever. In the second place, where strong desires are involved, it is very difficult to accept the testimony even of habitually accurate persons ; of this there was much evidence during the War, and in all times of great excitement. In the third place, if, on other grounds, it seems unlikely that our personality does not die with the body, we shall require much stronger evidence of survival than we should if we thought the hypothesis antecedently probable. Not even the most ardent believer in spiritualism could pretend to have as much evidence of survival as historians can adduce to prove that witches did bodily homage to Satan, yet hardly anyone now regards the evidence of such occurrences as even worth examining.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-210.HTM

 ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.20

 地獄(の存在)に対する信仰が衰えたのは,何か新しい神学的論拠(神学的議論)によるのではなく,(また)科学の直接的影響でさえなく(nor yet でさえなく,ですらなく),18世紀と19世紀の間に,残忍さが一般的に減少したせいである。それは(そのことは),フランス市民革命の少し前に多くの国で司法的拷問(注:judical torture 自白を得るための司法的拷問。刑罰としての拷問とは別)を廃し,また,19世紀初期に野蛮な刑法を改正せしめるに至った -野蛮な刑法ということでは英国は不名誉を被った- と同じ変化の一端(part of the same movement)である。今日では,未だ地獄(の存在)を信じている人々の間においてさえ,地獄における拷問を受ける運命にある人の数は,以前に考えられたよりもずっと少ないと考えられている。今日では,我々の凶暴な感情は,神学的方向よりむしろ政治的方向をとっている(向いているのである)。  地獄信仰がより不確かなものになるにつれて,極楽信仰も同様に生き生きとしたイメージを失ったことは,興味深い事実である。天国(極楽)は今日でもキリスト教正統信仰によって公認されているものの部分(一部)であるが,現代の議論において,天国(極楽)に関しては,進化における神の目的の証拠に関してよりも,語られることはずっと少ない。宗教を擁護するための論拠(論証)は,今日では,あの世での生活との関連でよりも,この地上での善い生活を促進することにおいて宗教が与えている影響について,詳細に述べられている(dwell upon)。以前,道徳や行為に影響を与えていたこの世の生活はあの世の生活の単なる準備にすぎないという信仰は,今日では,その信仰を意識的に拒否していない人々に対してさえ,余り影響(力)を与えなくなっている。

Chapter V Soul and Body, n.19
The decay of the belief in hell was not due to any new theological arguments, nor yet to the direct influence of science, but to the general diminution of ferocity which took place during the eighteenth and nineteenth centuries. It is part of the same movement which led, shortly before the French Revolution, to the abolition of judicial torture in many countries, and which, in the early nineteenth century, led to the reformation of the savage penal code by which England had been disgraced. In the present day, even among those who still believe in hell, the number of those who are condemned to suffer its torments is thought to be much smaller than was formerly held. Our fiercer passions, nowadays, take a political rather than a theological direction. It is a curious fact that, as the belief in hell has grown less definite, belief in heaven has also lost vividness. Although heaven is still a recognized part of Christian orthodoxy, much less is said about it in modern discussions than about evidences of Divine purpose in evolution. Arguments in favour of religion now dwell more upon its influence in promoting a good life here on earth than on its connection with the life hereafter. The belief that this life is merely a preparation for another, which formerly influenced morals and conduct, has now ceased to have much influence even on those who have not consciously rejected it.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-200.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.19

 (さて)生理学や心理学に関する現代の学説が,不死に対する正統信仰にどのような関係を持つか(持っている)か問うこと(仕事)が残っている。  魂が肉体の死後生存するというのは,これまで見てきたように,キリスト教徒によっても非キリスト教徒によっても,また文明人によっても野蛮人(未開人)によっても,広く抱かれてきた考えである。キリストの時代(キリストが生きていた時代)のユダヤ人の中でも,ファリサイ派の人たち-(注: the Pharisees 古代イスラエルの第二神殿時代後期に存在したユダヤ教内グループで,現在ではユダヤ教正統派と呼ばれている。なお,パリサイ派と表記されることがある。)は(魂の)不死を信じたが,旧来の伝統を固執したサドカイ派(注: the Sadducees 第二神殿時代の後期に現れ、ユダヤ戦争に伴うエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派)は信じなかった。キリスト教においては永遠の生命に対する信仰は,常にとても重要な(突出した)地位を保持してきた。ロマン・カトリックの信仰に従って,煉獄(purgatory れんごく:カトリックの教えによれば,煉獄は天国と地獄との間にある,死者の霊が天国にはいる前に通過しなければいけない場所で,ここで火によって浄化される。)における一定期間の(魂の)浄化の苦しみの後- 天国における至福を享受する者もいれば,地獄において無限の苦痛を受ける者もいる。今日では,自由主義的なキリスト教徒は,しばしば,地獄は永遠なものではないという見解に傾いている。この考えは,1864年に(英国)枢密院(the Privy Council)がそう考えることは非合法ではないと決定して以来,英国国教会の多くの牧師たちによって抱かれるようになった(支持されるようになった)。しかし,19世紀半まで,キリスト教信仰を公言する者(professing Christians)で,永遠の罪が実在することを疑う者はほとんどいなかった。地獄に対する恐怖は -その程度はより少なくなったが,いまだ今日でも- 最も深い不安の源(心配の種)であり,それは永遠の生命に対する信仰から導き出される心地よさを大いに減少させた。他人を地獄から救おうとする動機が,他人に対する迫害の正当化として、促された(注:ひどい迫害をしても,それはあなたを地獄行きから救うためということで,迫害の正当化のために使われた,ということ/因みに,荒地出版社刊の津田訳では「他人を地獄から救おうとする動機が,喜んで迫害を受けようとする心持ちを起こさせた」と誤訳している。「justification of persecution 迫害の正当化」の意味を取り違えたようであるが、津田訳では「自虐することの正当化」なんてことになってしまう )。なぜなら,もしある異端者が,他人を誤導することにより,彼らに天罰(damnation)を受けさせることができるとしたら,そのような恐ろしい結果を防止するため用いられるのならいかなる地上における拷問をもってしても過剰ではない(足りない)と考えられたからである(注:地獄にいかせないためにやる迫害は許される,というへ理屈)。というのも,今日ではどう考えられているにせよ,以前には(昔は),わずかな例外は別として,異端(キリスト教の正統派以外)は救済と両立しないと信ぜられていたからである。

Chapter 5: Soul and body, n.19
It remains to inquire what bearing modern doctrines as to physiology and psychology have upon the credibility of the orthodox belief in immortality. That the soul survives the death of the body is a doctrine which, as we have seen, has been widely held, by Christians and non-Christians, by civilized men and by barbarians. Among the Jews of the time of Christ, the Pharisees believed in immortality, but the Sadducees, who adhered to the older tradition, did not. In Christianity the belief in the life everlasting has always held a very prominent place. Some enjoy felicity in heaven – after a period of purifying suffering in purgatory, according to Roman Catholic belief. Others endure unending torments in hell. In modern times, liberal Christians often incline to the view that hell is not eternal ; this view has come to be held by many clergymen in the Church of England since the Privy Council, in 1864, decided that it is not illegal for them to do so. But until the middle of the nineteenth century very few professing Christians doubted the reality of eternal punishment. The fear of hell was – and to a lesser extent still is – a source of the deepest anxiety, which much diminished the comfort to be derived from belief in survival. The motive of saving others from hell was urged as a justification of persecution ; for if a heretic, by misleading others, could cause them to suffer damnation, no degree of earthly torture could be considered excessive if employed to prevent so terrible a result. For, whatever may now be thought, it was formerly believed, except by a small minority, that heresy was incompatible with salvation.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-190.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.18

 最後に述べておくべきことは,魂と肉体との旧来の区別は,「心」がその霊性(霊的性格)を失ったと同様に「物質」もその旧来の堅固さまったく失ってしまったために,消失してしまったということである。物理学のデータは誰もが見ることができるという意味において公的なもの(人間共通のもの)である一方(whereas しかるに,これに反し),心理学のデータは(個々人の)内省(内観)によって得られるという意味で個人的(私的)なものであると今でも時々考えられており,また,従来広く考えられていた。けれども,この(両者の)差(相違)は程度の差(相違)にすぎない。二人の人間が同時に厳密に同じ対象を知覚することは出来ない。なぜなら,二人の視点の差(違い)が,彼らが見るもの対する差(差異,違い)を生じさせるからである。(従って/即ち/このように)物理学のデータも,厳密に検証すれば(吟味すれば),心理学のデータと同様の種類の個人的性質(privacy 私的性質)を持っている(のである)。そして,物理学のデータが持っている準周知性(quasi-publicity)は心理学においても必ずしも不可能ではない(注:個々の人間が採取する物理学のデータはどうしても一部個人的な性質が含まれてしまい、心理学のデータはかなり個人的な性質がある。しかし,心理学のデータも,物理学のデータ同様に,「準」周知性(人間共通の知識)をもたせることも不可能ではないだろう,といったニュアンスか?)。  これら二つの科学(物理学と心理学)の出発点を形作る(諸)事実は,少なくとも一部は,同一のものである。(たとえば)我々が見る色の付いた布片(patch of colour )は,物理学と心理学にとって,等しく,データである。物理学はある種の文脈のなかで一連の推論をすすめ,心理学は別の文脈のなかで一連の推論をすすめる。非常に雑な言い方であるが,物理学は脳の外部の因果関係を取扱い,心理学は脳の内部の因果関係を取扱う,と言ってもよいかも知れない。ただし,後者の場合,脳を調べる生理学者の外的観察によって発見されるものは除外する(必要がある)。物理学と心理学の両方に共通したデータは,ある意味で,脳内で起こる(生じる)出来事(events 事象)である。それらの出来事(事象)は,物理学によって探求される外的な原因の連鎖と,心理学によって探求される内的な結果 -記憶や習慣など- の連鎖を有している。しかし,物理学的世界(物的世界)と心理学的世界(心的世界)の構成要素の間に何らか根本的な相違(違い)が存在するという証拠はまったくない。我々は両者について,以前にそう思われていたほど,知識をもっていない。しかし,我々は「魂」も「肉体(身体)」も(両方とも,現代科学の中に存在する余地がないことは,かなり確実であることを充分知っている。(注:たとえば,物理学においては,人間であろうが,石ころであろうが,同じ原子の集合にすぎない。)

Chapter 5: Soul and body, n.18
Finally, it should be said that the old distinction between soul and body has evaporated quite as much because “matter” has lost its old solidity as because “mind” has lost its spirituality. It is sometimes still thought, and it used to be thought universally, that the data of physics are public, in the sense that they are visible to anyone, whereas those of psychology are private, being obtained by introspection. This difference, however, is only one of degree. No two people can perceive exactly the same object at the same time, because the difference in their point of view makes some difference to what they see. The data of physics,”when closely examined, are seen to have the same kind of privacy as those of psychology. And such quasi-publicity as they possess is not wholly impossible in psychology. The facts which form the starting-point of the two sciences are, at least in part, identical. The patch of colour that we seel is a datum for physics and psychology equally. Physics proceeds to one set of inferences in one sort of context, psychology to another set in another sort of context. One might say, though this would be putting it too crudely, that physics is concerned with causal relations outside the brain and psychology with causal relations inside the brain – excluding, in the latter case, those which are discovered by the external observation of the physiologist inspecting the brain. The data for both physics and psychology are events which, in some sense, happen in the brain. They have a chain of external causes, which are investigated by physics, and a chain of internal effects – memories, habits, etc. – which are investigated by psychology. But there is no evidence of any fundamental difference between the constituents of the physical and the psychological world. We know less of both than was formerly thought, but we know enough to be fairly sure that neither “soul” nor “body” can find a place in modern science.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-180.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.17

 「意識」という概念のより重要な役割(part)は,我々が内省によって発見することと関係(関連)がある。我々(人間)は外界の対象(物)に反応するだけでなく,自分が反応するということを知っている。石は自らがいつ反応するかを知らないと我々は考えるが,もし(万一)石が反応するとしたら,石は(も)「意識」を持っている(ということになる)。ここでもまた,分析によって(論理的に突き詰めてゆけば),その相違(人間と石の反応の相違)は程度の差であることがわかるであろう。我々があるものを見ていることを知ることは,それが記憶でないなら(記憶されたものでないなら),見ることを越えて(over and above the seeing 見ること以上の),新しい(一片の)知識には実際にはならない。もし我々があるものを見て,その直後に我々はそれを見ていると思案(reflect 熟考,内省)するなら,内観的(introspective 内省的)に見えるその思案(するもの)(reflection)は直接的記憶(即時記憶)である。記憶は,明らかに「心的(精神的)」なものだと言われるかも知れないが,それも否定されるかも知れない(注:unwound : unwind の 過去分詞形)。(即ち)記憶は習慣の一形態であり -習慣は,例えば,巻紙(ロールペイパー)が解かれた時に再び丸まるように(注:記憶合金を思い出すとよい),他の場所で起こる可能性があるが- 習慣は神経組織の一つの特徴である。私は,上述したことが,我々が漠然と「意識」と呼んでいることの完全な分析だと言うつもりはない。(また)この問題は大きな問題であり,(説明には)一冊の書物を必要とするだろう。私はただ,一見して精確な概念に思われるものも,実際は全くその逆であり,科学的心理学者にとっては別の用語(terminology 専門用語)が必要である,ということを示唆したかっただけである

Chapter 5: Soul and body, n.17
The more important part of the notion of “consciousness” is concerned with what we discover by introspection. We not only react to external objects, but we know that we react. The stone, we think, does not know when it reacts, but if it does it has “consciousness.” Here also, on analysis, the difference will be found to be one of degree. To know that we see something is not really a new piece of knowledge, over and above the seeing, unless it is a memory. If we first see something, and then, immediately afterwards, reflect that we saw it, the reflection, which seems introspective, is an immediate memory. Memory, it may be said, is something distinctively “mental,” but this again may be denied. Memory is a form of habit, and habit is characteristic of nervous tissue, though it may occur elsewhere, for example in a roll of paper which rolls itself up again if it is unwound. I do not suggest that the above is a complete analysis of what we vaguely call “consciousness” ; the question is a large one, and would require a volume. I mean only to suggest that what at first sight seems a precise concept is really quite the opposite and that a different terminology is required by scientific psychologists.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-170.HTM

ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.16

「意識」の問題は,ことによると,もっと難しい問題かも知れない。我々(人間)は「意識を持っている」が棒切れや石は意識を持っていない,と言う。我々は目が覚めている時には「意識を持っている」が,眠っている時には意識を持っていないと言う。我々がこのように言う時,何かを意味していることは確かであり,また,何か真実であることを意味している。しかし,真実であることは何かについて,いくらかでも正確にその内容を述べることは困難であり,また,そのためには説明の仕方を変える必要がある。  我々が「意識を持っている」という時には,二つのことを意味している。即ち,一方ではある一定のやり方で(我々は我々の)環境に反応するということを意味し,他方では内省によって(on looking within)我々の思考や感情の中に,無生物の中には見出されないある種の質(性質)を発見するように思われるということを意味している(我々をとりまく)環境に対する我々の反応について言えば,それは何か「について(関して)」(現在)意識していることにある(で成り立っている)。もしあなたが「へい(おい)」と叫ぶなら,人間は周囲を見回すが,石はそうしない。そのような場合に,あなたが周囲を見回す時,それはあなたが音が聞こえたからだということをあなたは知っている(理解している)。人が外界にある事物を「知覚する」ことを想定できた限り(において),人は知覚においてそれらを「意識した」という事ができる。現在,我々が(確実に)言うことができるのは,我々(人間)は刺激に反応するし -石が反応する刺戟はより少ないが- 石もまた反応する,ということだけである(注:ここでは,刺激にもいろいろな種類があり,石に話しかけるという刺激をしても石は反応しない,ということを言っている。つまり「fewer」というのは量的な問題というよりもどちらかというと「質的」な問題である,ということなので訳し方に要注意)。従って,外的「知覚」に関する限り,我々(人間)と石との相違は程度の差にすぎない。(注:人間からみれば「質的な」問題に見えるが,人間よりずっと高度な生命体から見れば(人間とは異なる)「質的な問題」かもしれない、と言えそう)。

Chapter 5: Soul and body, n.16
The question of “consciousness” is perhaps rather more difficult. We say that we are “conscious,” but that sticks and stones are not ; we say that we are “conscious” when awake but not when asleep. We certainly mean something when we say this, and we mean something that is true. But to express with any accuracy what it is that is true is a difficult matter, and requires a change of language. When we say we are “conscious,” we mean two things ; on the one hand, that we react in a certain way to our environment ; on the other, that we seem to find, on looking within, some quality in our thoughts and feelings which we do not find in inanimate objects. As regards our reaction to the environment, this consists in being conscious “of” something. If you shout “Hi,” people look round, but stones do not. You know that when you yourself look round in such a case, it is because you have heard a noise. So long as it could be supposed that one “perceives” things in the outer world, one could say that, in perception, one was “conscious” of them. Now we can only say that we react to stimuli, and so do stones, though the stimuli to which they react are fewer. So far, therefore, as external “perception” is concerned, the difference between us and a stone is only one of degree.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-160.HTM

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