ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.9

 (これまで)私が主張してきた理論(説)は,価値の「主観性」と呼ばれる学説(注:価値情緒説)の一形態である。この説は,もし二人の人が価値について見解を異にするなら,それは何らかの種類の真理についての(意見の)不一致ではなく(両者の)好みの不一致である,ということを主張することにある(consist in ~で成り立っている)。もしある人が「牡蠣は旨い」と言い,他の人が「私はまずいと思う」と言えば,我々は(趣味の問題なので)そこには議論すべき何も存在しない,と認める。今問題にしている理論(説)は,価値に関するあらゆる相違は,こういった種類のものだと考える。ただし,牡蠣よりもっと高尚だと思われる事柄を扱っている時には,当然,そのようには考えられない(けれども)。このような見解がとられる主な原因は,これかあれかどちらかが本質的な価値を持つことを証明する根拠(理由)を見つけ出すことがまったくできないということにある。もし,我々全てが意見が一致しているのであれば,我々は価値を(何が価値を持っているかを)直観によって知る(知っている)と考えるかも知れない。我々は,色盲の人に対して,草は緑色をしていて赤色をしていないということを証明することはできない。しかし,色盲の人に対して,ほとんどの人が持っている識別能力をその人(色盲の人)は持っていないということを証明する多様な方法が存在している。しかるに,価値の(問題の)場合においては,そのような方法は存在しておらず,(意見の)不一致は色彩の場合よりもずっと頻繁である。価値に関する意見の不一致に判決を下す(deciding)方法は想像することさえできないので,その(意見の)相違趣味の相違によるものであって,何ら客観的な真理に関するもの(相違)ではない,という結論にならざるを得なくなる。

Chapter 9: Science and Ethics, n.9
The theory which I have been advocating is a form of the doctrine which is called the “subjectivity” of values. This doctrine consists in maintaining that, if two men differ about values, there is not a disagreement as to any kind of truth, but a difference of taste. If one man says “oysters are good” and another says “I think they are bad,” we recognize that there is nothing to argue about. The theory in question holds that all differences as to values are of this sort, although we do not naturally think them so when we are dealing with matters that seem to us more exalted than oysters. The chief ground for adopting this view is the complete impossibility of finding any arguments to prove that this or that has intrinsic value. If we all agreed, we might hold that we know values by intuition. We cannot prove, to a colour-blind man, that grass is green and not red. But there are various ways of proving to him that he lacks a power of discrimination which most men possess, whereas in the case of values there are no such ways, and disagreements are much more frequent than in the case of colours. Since no way can be even imagined for deciding a difference as to values, the conclusion is forced upon us that the difference is one of tastes, not one as to any objective truth.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-090.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.8

 ある人が「これはそれ自体で善である(善い)」という時,彼(その人)には「これは正方形(square 四角)である」とか「これは甘い」とかいうのとまったく同じ程度の陳述(発言)をしているように思われる(かもしれない)。私はそれは誤りだと信じている。実際に意味されているのは,「私は全ての人がこれを欲求することを望む,あるいは,むしろ「願わくば,全ての人がこれを欲求せんことを!(欲求せればよいのに!)」」(仮定法で用いられる文語表現)ということである,と私は考える。もし,彼が言っていることを言明(statement 陳述)として解釈されるなら,それは単なる彼自身の個人的願望の断言(an affirmation)にすぎないし,もし,一方,それが(個人的発言ではなく)一般的に(一般的な一文)として解釈されるなら,それは何ものも述べておらず(主張しておらず),単に何事かを欲求しているにすぎない(願望表現をしているだけ)。願望は -ひとつの出来事として- 個人的なものであるが,それ(願望)が欲求するところのものは普遍的である(訳注:たとえば,「全人類の幸福」「戦争廃止」)。倫理学に非常に多くの混乱を(これまで)引き起こしてきたのは,このような, 個別的なものと普遍的なものとの奇妙な連結(interlocking 連動)である。  この問題は,多分,倫理的な文(注:何かが善いとか悪いとか主張している文)と言明(陳述)をする文(statement)とを対比することによって,より明らかになるだろう。もし,私が「全ての中国人は仏教徒である」と言うならそれは中国人のキリスト教徒やマホメット教徒の提示によって(by the production of)反駁されるだろう。もし,「私は全ての中国人が仏教徒だと信ずる」と言うなら,中国人にあるいかなる証拠によっても私は反駁されず,ただ,私が言っていることを私は信じていない証拠(の提示)によってのみ反駁される。なぜなら,私が主張しているのは,(述べていることの真偽ではなく)ただ,私の心の状態(注:信じているという状態)だけについてだからである(訳注:信じている内容が間違っていようが、その間違っていることを信じていることがわかればこの一文は正しいということになる)。もし,今,ある哲学者が「美は善である」と言うなら,彼が意味していることは,「全ての人が美しいものを愛したらよいのに」(これは「全ての中国人は仏教徒である」に対応する)ということか,あるいは,「私は全ての中国人が美しいものを愛することを望む」(これは「私は全ての中国人が仏教徒であると信ずる」に対応する)ということであると,私は解釈してよいだろう。これら2つの内,前者は何らかの(個人的な)断言(assertion 主張)をしているのではなく,願望を表明している,即ち,それ(その文/表現)は何ものも断言していないので,それ(その文)を肯定したり否定したりする証拠が存在することは,あるいは,それが真理か誤謬かの証拠をもつことは,論理的に不可能である。2番めの(後者の)文は,単に願望を表しているだけではなく(instead of being merely optative),言明(陳述)をしている。だが,それは哲学者の心の状態に関しての言明(陳述)であり,彼が彼が持っていると言っている願望を(実際は)彼は持っていないという(ことを示す)証拠によってのみ反駁されうるものである。この2番めの(後者の)文は倫理学には属さず,心理学あるいは伝記に属している。倫理学に属している一番目(前者の)文は,あるものに対する願望を現わしているが,何ものも主張していない。  倫理学は -もし上述の分析が正しいなら- 真であれ偽であれ,言明(陳述)はまったく含んでおらず,ある一定の一般的な種類の,即ち,人類一般の欲求 - また,もし存在するとしたら,神々,天使,悪魔の欲求(など),と関わりを持つようなものから成り立っている。科学は欲求の原因やそれを実現する手段について論じることができるが,純粋な倫理上の文を含むことはできない。なぜなら,科学は真あるいは偽なるものに関りを持つものだからである。

Chapter 9: Science and Ethics, n.8
When a man says “this is good in itself,” he seems to be making a statement, just as much as if he said “this is square” or “this is sweet.” I believe this to be a mistake. I think that what the man really means is ; “I wish everybody to desire this,” or rather “Would that everybody desired this.” If what he says is interpreted as a statement, it is merely an affirmation of his own personal wish ; if, on the other hand, it is interpreted in a general way, it states nothing, but merely desires something. The wish, as an occurrence, is personal, but what it desires is universal. It is, I think, this curious interlocking of the particular and the universal which has caused so much confusion in ethics. The matter may perhaps become clearer by contrasting an ethical sentence with one which makes a statement. If I say “all Chinese are Buddhists,” I can be refuted by the production of a Chinese Christian or Mohammedan. If I say “I believe that all Chinese are Buddhists,” I cannot be refuted by any evidence from China, but only by evidence that I do not believe what I say ; for what I am asserting is only something about my own state of mind. If, now, a philosopher says “Beauty is good,” I may interpret him as meaning either “Would that everybody loved the beautiful” (which corresponds to “all Chinese are Buddhists”) or “I wish that everybody loved the beautiful” (which corresponds to “I believe that all Chinese are Buddhists”). The first of these makes no assertion, but expresses a wish ; since it affirms nothing, it is logically impossible that there should be evidence for or against it, or for it to possess either truth or falsehood. The second sentence, instead of being merely optative, does make a statement, but it is one about the philosopher’s state of mind, and it could only be refuted by evidence that he does not have the wish that he says he has. This second sentence does not belong to ethics, but to psychology or biography. The first sentence, which does belong to ethics, expresses a desire for something, but asserts nothing. Ethics, if the above analysis is correct, contains no statements, whether true or false, but consists of desires of a certain general kind, namely such as are concerned with the desires of mankind in general – and of gods, angels, and devils, if they exist. Science can discuss the causes of desires, and the means for realizing them, but it cannot contain any genuinely ethical sentences, because it is concerned with what is true or false.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-080.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.7

 説教者(伝道者)の観点と方法は,(立法家とは)必然的にいくらか異なったものである。なぜなら,説教者は国家機構を統括(統制・支配)することはなく,従って,自分の欲求と他人の欲求との間に人為的な調和を生み出すことはできないからである。説教者の唯一の方法は,他人の(心の)中に自分自身が感じるのと同じ欲求を起させるように試みることであり,そうしてその目的のためには,彼の訴えは他人の感情に対して向けられなければならない。そこで(Thus),J. ラスキンは,議論によってではなく,リズミカルな(律動的な)散文の心を動かす効果(moving effect)により,人々にゴシック建築を愛するようにさせた(のである)(訳注:「so, hence, therefore, thusの違い」)。「アンクル・トムの小屋」は,人々(読者)に自分自身が奴隷であるかのように思わせることによって,奴隷制度は悪であると思わせる手助けをした。あるものが単にそのもの(がもたらす)効果においてだけでなく.,それ自体で善(あるいは悪)であることを人々に説得しようとするあらゆる試みは,感情を引き起こす技術によるのであった,証拠に訴えることによるのではない。あらゆる場合において,説教者のスキル(技能)は,他人に(他人の心に)自分と同じ感情を起こさせることにあるか,あるいは,彼が偽善者である場合には,自分のと似てない感情を起させることにある(訳注:善良な心を持っていない説教者の場合は偽善者となる)。私はこのことを説教者を批判して言っているのではなく,説教者の活動の本質的性格の分析として言っているのである。
Chapter 9: Science and Ethics, n.7
The standpoint and method of the preacher are necessarily somewhat different, because he does not control the machinery of the State, and therefore cannot produce an artificial harmony between his desires and those of others. His only method is to try to rouse in others the same desires that he feels himself, and for this purpose his appeal must be to the emotions. Thus Ruskin caused people to like Gothic architecture, not by argument, but by the moving effect of rhythmical prose. Uncle Tom’s Cabin helped to make people think slavery an evil by causing them to imagine themselves as slaves. Every attempt to persuade people that something is good (or bad) in itself, and not merely in its effects, depends upon the art of rousing feelings, not upon an appeal to evidence. In every case the preacher’s skill consists in creating in others emotions similar to his own – or dissimilar, if he is a hypocrite. I am not saying this as a criticism of the preacher, but as an analysis of the essential character of his activity.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-070.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.6

 倫理(と)は,我々(人間)の欲求のなかのある一定の欲求に対して,普遍的であって単に個人的なものではない重要性を与えようとする試みである。私が,我々の欲求のなかの「一定の(欲求)」と言うのは,強盗の欲求の事例で見たように,欲求のある種のものに関してはこのこと(重要性を与えること)は明らかに不可能だからである。何らかの秘密の知識を使って株式取引(市場)で金儲けをした人は,他人も自分と同じようにそれらの秘密情報に通ずることを望まない。真理(真理を価値あるものと評価する限りにおいて)は,彼にとっては私的所有物であり,哲学者にとってそうであるように晋遍的な,人類にとっての,善ではない。哲学者は,事実(実際),ある(哲学的)発見に対して先取権(優先権)を主張する時のように,相場師(a stock-jobber)のレベルにまで成り下がる(落ち込む)かもしれない。しかし,これは(哲学者にとって)ひとつの堕落(a lapse)である。純粋の哲学的能力において,哲学者はただ真理について熟考することだけを楽しみ,そうすることにおいて,同様に熟考したい人たちの邪魔(人たちへの干渉)は決して(in no way)しない。  我々(人間)の欲求に普遍的な重要性を与える(重要視する)と思われること -それは倫理(学)の仕事である(が)- は,二つの観点から試みられよう(訳注:To seem to give universal importance ~ may be attempted/ 「To seem to give」 はわかりにくいが 「attempted」 は「先頭の to」に掛かっていると解釈)。即ち,立法家(legislater)の観点及び(宗教の)説教家(preachewr)の観点である。まず,立法家の観点から取上げてみよう。  議論の都合上(ために),立法家個人的に私利私欲がない(personally disinterested)と仮定しよう。即ち,彼(立法家)の欲求の一つが彼自身の幸福にだけ関りをもつと認識した場合には,(私利私欲のない)彼は立法(法案づくり)において,その欲求が自分に影響させない。例えば,彼の作る法律や規則(code)は彼の個人的な財産(富)を増加させるように意図されることはない(と仮定する)。だが,彼は(欲求が全然ないのではなく)非個人的と思われる他の欲求を持っている。彼は,王から小作人に至るまでの,あるいは鉱山主から黒人の契約労働者(注:indentured labourer いわゆる非正規の契約労働者/季節労働者など)に至るまでの,秩序だった階層制(の必要性)を信じているかも知れない。彼は,女性は男性に従属すべきだと信じているかも知れない。彼は,下層階級における知識の普及は危険だと考えている(考える)かも知れない。その他,いろいろ同様のことを信じているかも知れない。その場合,彼は,可能であれば,彼が価値があると評価する目的を増進する行為が,できるだけ個人の利益と一致するように法律や規則を構築するであろう。また,彼は,それが成功すれば,彼が価値があるとする目的(*原注)以外の目的を追求することは邪悪であると人々に感じせるような道徳教育の体系を確立するであろう。 (原注:アリストテレスと同時代人(ギリシア人ではなく中国人だが)の次のようなアドバイスと(上記の立法者の考えとを)比較してみよ。「支配者(統治者)は,自分自身の考えを持っていると信じている人々や,個人の重要性を信じているような人々の言うことに耳を傾けるべきではない。そのような教えは,人々をして静かな場所に退き,洞窟や山に隠れ,時の政府(the prevailing government 支配的な政府)をはげしく非難したり,権威あるものを冷笑したり,位階や報酬(給与)の重要性を軽んじたり,官職にある者を全て軽蔑させたりする。」(A. ウェイリー(著)「『The Way and Its Power』(老子、道徳経)」p.37 こうして,「徳(美徳)」は,実際に,立法家が自分の欲求が普遍化される価値があると考える限り,主観的評価ではないけれども,立法家の欲求に従属するようになるであろう。

Chapter 9: Science and Ethics, n.6
Ethics is an attempt to give universal, and not merely personal, importance to certain of our desires. I say “certain” of our desires, because in regard to some of them this is obviously impossible, as we saw in the case of the burglar. The man who makes money on the Stock Exchange by means of some secret knowledge does not wish others to be equally well informed ; Truth (in so far as he values it) is for him a private possession, not the general human good that it is for the philosopher. The philosopher may, it is true, sink to the level of the stock-jobber, as when he claims priority for a discovery. But this is a lapse : in his purely philosophic capacity, he wants only to enjoy the contemplation of Truth, in doing which he in no way interferes with others who wish to do likewise. To seem to give universal importance to our desires – which is the business of ethics – may be attempted from two points of view, that of the legislator, and that of the preacher. Let us take the legislator first. I will assume, for the sake of argument, that the legislator is personally disinterested. That is to say, when he recognizes one of his desires as being concerned only with his own welfare, he does not let it influence him in framing the laws ; for example, his code is not designed to increase his personal fortune. But he has other desires which seem to him impersonal. He may believe in an ordered hierarchy from king to peasant, or from mine-owner to black indentured labourer. He may believe that women should be submissive to men. He may hold that the spread of knowledge in the lower classes is dangerous. And so on and so on. He will then, if he can, so construct his code that conduct promoting the ends which he values shall, as far as possible, be in accordance with individual self-interest ; and he will establish a system of moral instruction which will, where it succeeds, make men feel wicked if they pursue other purposes than his.(* note) * note: Compare the following advice by a contemporary of Aristotle (Chinese, not Greek) : “ A ruler should not listen to those who believe in people having opinions of their own and in the importance of the individual. Such teachings cause men to withdraw to quiet places and hide away in caves or on mountains, there to rail at the prevailing government, sneer at those in authority, belittle the importance of rank and emoluments, and despise all who hold official posts.” Waley, The Way and its Power, p. 37. Thus “virtue” will come to be in fact, though not in subjective estimation, subservience to the desires of the legislator, in so far as he himself considers these desires worthy to be universalized.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-060.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.5

「価値」についての(いろいろな)問題「問い)は -即ち,その(及ぼす)影響とは独立に,それ自身で善あるいは悪であるものについての問題は- 宗教を弁護/擁護する人々が力強く主張するように,科学の領域の外にある。私は,この点において,彼らは正しいと考えるが,私は更に,「価値」に関する問題は全く知識の領域外にあるという結論 -彼らは導き出していない結論- を導き出す。即ち,我々が,あれこれが価値がある(価値をもっている)と主張する時,我々は自分自身の感情を表現している(感情に表現を与えている)のであって,我々の個人的感情が違ってもなお(if = even if)真理であるような事実を表現している(事実を言っている)のではない。このことを明らかにするために,我々は善の概念を分析してみなければならない。  第一に,善とか悪とかいう全ての概念は,(人間の)欲求と何らかの結びつきを持っていることは明らかである。一見したところ(Prima facie),我々全てが望むものは「善」であり,我々全てが恐れるものは「悪」である。我々全てがその欲求において一致するなら放っておくことができるが(the matter could be left there),不幸にも我々の欲求は衝突する。もし私が「私の欲する(望む)ことは善である」と言うなら,私の隣人は,「そうじゃない。私が欲する(望む)ことが善だ」と言うであろう。倫理学は,このような主観性から脱却しようとする試み -私はそれは(脱却に)成功するとは思わないけれどもー である。私は自然と(当然のこと),隣人との論争において,私の欲求(望んでいること)は隣人の欲求よりもより尊敬に値する性質を持っていることを示そうとする。もし,私は通行権(a right of way)を守ろうと思えば,(通行しようとする)地区の土地を所有していない住民(landless inhabitants)に訴えるだろう(アピールするだろう)。しかし,彼(通行対象の土地の所有者)は,自分の立場に立って,土地の所有者たち(地主たち)に訴えるだろう。私は「誰も見なければ,田園の美しさが何になるのだ」と言うだろう。彼は「もし旅行者(trippers 日帰り旅行者)があふれて荒廃が広がったら一体どんな美しさが残るというのだ」と言い返すだろう。いずれの側の人も,自分の欲求の方が第三者(当事者以外の人々)の欲求と調和する(一致する)ことを示すことによって,支持を得よう(←自軍に入隊させよう)とする。強盗の場合(事例)のように,こういう説得が明らかに不可能である時には,世論によって非難され,その倫理上の立場(地位)は罪人の立場(地位)になる。  倫理学はこのように政治と密接に関係している。即ち,政治は,ある集団の集団的欲求を(集団内の)各個人に影響を与えようとする試みである,あるいは,逆に,個人の欲求を(自分が属している)集団の欲求になるようにしようとする試みである。後者は,もちろん,その人の欲求が一般の利益に明らかに反していない場合にのみ可能である。泥棒(住居侵入窃盗犯)(burglar)は,人々に対し,自分はあなたたちに善をなしているのだと説得することはほとんどしないだろう。もっとも(ただし),金権政治家(plutocrat)は同じような試みをしてしばしば成功している(けれども)。我々の欲求が全ての人々が共通に享受できるものに向けられている場合には,他の人々も意見が一致する可能性があると望んでも不合理ではない(=合理的である)と思われる。こうして,真,善,美を評価する哲学者は,自分のために単に自分自身の欲求を表現しているのではなく,全人類の幸福への道を指し示しているように思われる。強盗とは違い,彼は自分の欲求が個人を超えた意味で価値を持っているものに対するものだと信ずることができる(のである)。
Chapter 9: Science and Ethics, n.5
Questions as to “values” – that is to say, as to what is good or bad on its own account, independently of its effects – lie outside the domain of science, as the defenders of religion emphatically assert. I think that in this they are right, but I draw the further conclusion, which they do not draw, that questions as to “values” lie wholly outside the domain of knowledge. That is to say, when we assert that this or that has “value,” we are giving expression to our own emotions, not to a fact which would still be true if our personal feelings were different. To make this clear, we must try to analyse the conception of the Good. It is obvious, to begin with, that the whole idea of good and bad has some connection with desire. Prima facie, anything that we all desire is “good,” and anything that we all dread is “bad.” If we all agreed in our desires, the matter could be left there, but unfortunately our desires conflict. If I say “what I want is good.” my neighbour will say “No, what I want.” Ethics is an attempt – though not, I think, a successful one – to escape from this subjectivity. I shall naturally try to show, in my dispute with my neighbour, that my desires have some quality which makes them more worthy of respect than his. If I want to preserve a right of way, I shall appeal to the landless inhabitants of the district ; but he, on his side, will appeal to the landowners. I shall say : “What use is the beauty of the countryside if no one sees it?” He will retort : “What beauty will be left if trippers are allowed to spread devastation?” Each tries to enlist allies by showing that his own desires harmonize with those of other people. When this is obviously impossible, as in the case of a burglar, the man is condemned by public opinion, and his ethical status is that of a sinner. Ethics is thus closely related to politics : it is an attempt to bring the collective desires of a group to bear upon individuals ; or, conversely, it is an attempt by an individual to cause his desires to become those of his group. This latter is, of course, only possible if his desires are not too obviously opposed to the general interest ; the burglar will hardly attempt to persuade people that he is doing them good, though plutocrats make similar attempts, and often succeed. When our desires are for things which all can enjoy in common, it seems not unreasonable to hope that others may concur ; thus the philosopher who values Truth, Goodness and Beauty seems, to himself, to be not merely expressing his own desires, but pointing the way to the welfare of all mankind. Unlike the burglar, he is able to believe that his desires are for something that has value in an impersonal sense.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-050.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.4

 種々の哲学者種々の善の概念を(これまで)形成してきた。とは神についての知識及び神を愛することだと考える者がいれば,普遍的な愛にあると考える者や,美を楽しむことにあると考える者がおり,またその一方で,快楽にあると考える者がいた。善の定義がなされるとすぐに,倫理の他の部分は以下のようになる。即ち,我々は,できるだけ善を多く生み出し,できるだけ(善と)相関関係のある悪を生むだすことが少ないと信ずるやり方で行為すべきである。究極的な(最高の)善がもし知られていると想定(仮定)される限り,道徳律の骨組みを作ること(framing)は,科学の(科学が取り組むべき)問題である。例えば,死刑(capital punishment)を窃盗に対して科すべきか;殺人に対してのみ科すべきか,あるいは(何に対しても)全く科すべきでないか?等の問題である。快楽は善であると考えたジェミー・ベンサムは,どのような刑法が最も快楽を増進させるかを解明すること(working out)に専心し,そうして,刑法は当時行なわれていたものよりもずっとゆるやかなものであるべきだとの結論を出した。これらの全ては - 快楽は善であるという命題を除いて- 科学の領域に属している。  しかし,我々があれこれは善であると言う時,何を意味しているのか明確にしようとする場合,我々は非常に大きな困難に巻きこまれる。快楽が善であるというベンサムの信条は激しい反対を引き起こし、そうして,豚の哲学だと言われた。彼も,彼の敵も,まったく議論を前進させることができなかった。科学上の問い(問題)においては(であれば),証拠は(賛成/反対の)両方の側から出すことができ,最後には一方の側がよりよいとが判定されるか、あるいは,そうでなければ,問い(問題)は未解決のままとされる。しかし,これやあれば究極的な善であるかどうかという問いについては,どちらにしても(either way)、証拠は存在しない各論者は自身の感情に訴えることしか,また,相手に同じような感情を呼び起こすような修辞的技巧(rhetorical devices 修辞的比喩表現)を用いることしかできない。  たとえば,現実政治(practical politics 実際政治)において重要になってきている問題を一つ取上げてみよう。J. ベンサムは,一人の人間の快楽は -その量が等しいときには- 他の人の快楽と同等の倫理的重要さがあると考えた。そうして,それを根拠に,彼は民主主義制度を擁護するようになった。ニーチェは,それに反し,超人(the great man)だけがそれ自体で重要であり,大部分の人間は超人の幸福のための手段にすぎないと考えた。彼は,普通の人々(ordinary men 普通で平凡な人々/大衆)を,多くの人々が動物を見るように,眺めた(注:超人から見れば大衆は動物レベル)。(即ち)彼は,大衆を彼ら自身の利益(good 幸福,利益)のためでなく,超人の利益のために利用することを正当化できると考えた。そして,この見解は,それ以来,民主主義の放棄を正当化するために採用されてきた。ここには,実践上極めて重要性のある鋭い(意見の)不一致がある。しかし,我々は,どちらの党派も,相手が正しいことを説得する科学的あるいは知的な手段をまったく持っていない()>(訳注:つまり,どちらも自分たちが正しいと信じきっている,ということ/to persuade either party that the other is in the right)。そのような問題に関する人々の意見を変える(いろいろな)方法があるのは事実であるが,それらはすべて情緒的なものであって,知的なものではない。
Chapter 9: Science and Ethics, n.4
Different philosophers have formed different conceptions of the Good. Some hold that it consists in the knowledge and love of God ; others in universal love ; others in the enjoyment of beauty ; and yet others in pleasure. The Good once defined, the rest of ethics follows : we ought to act in the way we believe most likely to create as much good as possible, and as little as possible of its correlative evil. The framing of moral rules, so long as the ultimate Good is supposed known, is matter for science. For example : should capital punishment be inflicted for theft, or only for murder, or not at all? Jeremy Bentham, who considered pleasure to be the Good, devoted himself to working out what criminal code would most promote pleasure, and concluded that it ought to be much less severe than that prevailing in his day. All this, except the proposition that pleasure is the Good, comes within the sphere of science. But when we try to be definite as to what we mean when we say that this or that is “the Good,” we find ourselves involved in very great difficulties. Bentham’s creed that pleasure is the Good roused furious opposition, and was said to be a pig’s philosophy. Neither he nor his opponents could advance any argument. In a scientific question, evidence can be adduced on both sides, and in the end one side is seen to have the better case – or, if this does not happen, the question is left undecided. But in a question as to whether this or that is the ultimate Good, there is no evidence either way ; each disputant can only appeal to his own emotions, and employ such rhetorical devices as shall rouse similar emotions in others. Take, for example, a question which has come to be important in practical politics. Bentham held that one man’s pleasure has the same ethical importance as another man’s, provided the quantities are equal ; and on this ground he was led to advocate democracy. Nietzsche, on the contrary, held that only the great man can be regarded as important on his own account, and that the bulk of mankind are only means to his well-being. He viewed ordinary men as many people view animals : he thought it justifiable to make use of them, not for their own good, but for that of the superman, and this view has since been adopted to justify the abandonment of democracy. We have here a sharp disagreement of great practical importance, but we have absolutely no means, of a scientific or intellectual kind, by which to persuade either party that the other is in the right. There are, it is true, ways of altering men’s opinions on such subjects, but they are all emotional, not intellectual.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-040.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.3

 哲学者たちは,異なった道をたどって,異なった立場 -その立場においては,同様に(also また,同様に)道徳律は従属的地位にある- に達した。彼「善」という概念を組立て,それ(「善」という概念)によって(大ざっばに言えば),それ自体でまたその結果とは独立して,我々が存在していることを望むもの,あるいは,もし彼ら(哲学者たち)が有神論者であれば神を喜ばすようなもの,を(彼ら=哲学者たちは)意味している。大部分の人は,幸福は不幸よりも好ましいこと,友好的であることは友好的でないことよりも好ましい等々のことに,賛成するだろう。この(哲学者達の)見解によると,道徳律は,それ自身で(「善」という概念)善なるものの存在を促進(助長)する場合は正当化されるがそうでない場合は正当化されない。殺人の禁止は,その結果からみて,ほとんどの場合正当化できるが,寡婦(未亡人)をその夫の葬式の火葬の薪の上で焼く行為は正当化できない(訳注:ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることを言っている)。従って,前者の規則は維持されるべきであるが,後者は維持されるべきではない。けれども,最善の道徳律にも,「いくらか」例外はあるだろう。なぜなら,「常に」悪い結果をもつような行為はないからである。このようにして,ある行為が論理的に推奨されるということには,(以下の)3つの異なった意味がある。(即ち)(1)その行為は,一般に受け入れられている道徳律に一致している(か),(2)その行為は,よい結果をもつようにまじめに意図されている(か),(3)その行為は事実(実際に)良い結果をもつ(か)。けれども,三番目の意味は,一般に,道徳には入らないと考えられている。正統派神学によると,イスカリオテのユダの裏切行為はよい結果をもたらしたが、なぜならそれは贖罪(訳注:Atoment しょくざい:「キリストによる償い」 《キリストがその受難と死によって全人類に代わって罪をあがなったとする信仰>>)に必要であったからである。しかし,それを理由にして,ユダの裏切りを賞賛すべきではない。
Chapter 9: Science and Ethics, n.3
Philosophers, by a different road, have arrived at a different position in which, also, moral rules of conduct have a subordinate place. They have framed the concept of the Good, by which they mean (roughly speaking) that which, in itself and apart from its consequences, we should wish to see existing – or, if they are theists, that which is pleasing to God. Most people would agree that happiness is preferable to unhappiness, friendliness to unfriendliness, and so on. Moral rules, according to this view, are justified if they promote the existence of what is good on its own account, but not otherwise. The prohibition of murder, in the vast majority of cases, can be justified by its effects, but the practice of burning widows on their husband’s funeral pyre cannot. The former rule, therefore, should be retained, but not the latter. Even the best moral rules, however, will have some exceptions, since no class of actions always has bad results. We have thus three different senses in which an act may be ethically commendable : (i) it may be in accordance with the received moral code ; (2) it may be sincerely intended to have good effects ; (3) it may in fact have good effects. The third sense, however, is generally considered inadmissible in morals. According to orthodox theology, Judas Iscariot’s act of betrayal had good consequences, since it was necessary for the Atonement ; but it was not on this account laudable.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-030.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.2

 外部の行動規範(行為の規則)の必要性に訴えることが回避されてきた方法の一つは「良心」(の存在)に対する確信であった(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「external rules of conduct」は「行為の外的法則」と訳されている。この近辺では「rule」は全て「法則」と訳されてしまっている)。それは,とくにプロテスタントの倫理において重要であった。神が各人の心に何が正しく何が誤りであるかを啓示すると,また,それゆえ,罪を避けるには,我々は自分の内なる声だけを聴けばよいと,考えられてきた。けれども,この説には二つの困難(問題)がある。第一に,良心は異なった人に異なったことを言う(人が違えば良心は異なる)。第ニに,(精神分析による)潜在意識の研究は,良心的な感情の世俗的な原因(良心的な感情の背後には世俗的な原因があること)についての理解を我々にもたらしてきた。  良心の異なった判断/評決(different deliverances 異なった判断/評決をすること)について(次のような例がある)。(例えば,)ジョージ三世の良心は,カトリック教徒の解放を認めたら自分の戴冠式の誓いで偽証(perjury)を行ったことになるので,そうしてはならないと告げた(訳注:カトリック教徒解放というのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて英国において起こったローマ・カトリック教徒にかけられた多くの制約を減らし、取り除こうとする運動)。しかし,その後の君主たちはそのような良心の呵責(scruples)は持たなかった。良心は,共産主義者によって主張されているように,貧しい者による富める者からの略奪についてある者には非難させ,また,資本家によって言われているように,富める者による貧しい者からの搾取について他の者には非難させる。良心はある者には,自国が侵略された際には国家を守るべきだと告げ,また,別の者には戦争に参加する者は全て邪悪であると告げる。第一次世界大戦中,政府当局者たちは -その中には倫理を研究した者はほとんどいなかったが- (人間の)良心はとても人をまごつかせるものだと気づき -人は自分自身と闘うことには良心の呵責を感ずるが(自分以外の)他人を徴兵することを可能にするために野外で働くことには(working on the fields 戦場で働く?)良心の呵責は感じない- といったいくらか奇妙な(いくつかの)決定(descisions)に導かれた。彼ら(政府当局者たち)は,また,良心はあらゆる戦争を非とするかもしれないが,極端な状況でなければ(?)(注:failing that そうでなければ),良心はその当時進行中の戦争(第一大戦)に非を唱えることはできなかった,と考えた。どんな理由であれ(for whatever reason),戦うことは正しくないと考える者は,自分の立場を,このようにいくらか原始的かつ非科学的な「良心」という概念で説明せざるをえなかった。  良心の判断/評決の多様性は,その超源が理解される時には,予想されること(予想できること)である。若い頃(青年期の初期)においては,ある種(classes 種類)の行為は是認され,他の種(種類)は否認される。そして,通常の(記憶の)連合の過程によって,快,不快(の感情)は徐々にそれらの行為に付着し,行為によって生み出される是認あるいは否認のそれぞれに対してだけ付着するのではなくなる(訳注:是認には快,否認には不快という感情が付着するだけでなく、個々の行為にもそういった感情が付着する、つまり、個々の行為に対して先入観が形成されていくということ)。時が進むにつれ,我々は若いときの道徳上の鍛錬(moral training 道徳指導,修身)については全て忘れてしまうかも知れないが,いまだ,ある種の行為を居心地悪さを感じる一方,他のものは徳(有徳であること)の紅潮(感)(a glow of virtue)を我々に与えるだろう。内省(という行為)にとって,これらの感情は神秘的なものに思われる。なぜなら,我々は,最初にそれらの感情を生じさせた状況をもはや思い出さないからである。また,従って,それらを,心の内における神の声に帰するのは自然なことである。しかし,大部分の人においては,良心は教育の産物であり,教育者たちが適切だと思うように(思う方向に),肯定あるいは否定のどちらへも訓練可能である。従って,倫理(学)を外的な(形式的な)道徳律から解放することは正しいが,「良心」という観念によっては,ほとんどなしとげることはできない。

Chapter 9: Science and Ethics, n.2
One of the ways in which the need of appealing to external rules of conduct has been avoided has been the belief in “conscience,” which has been especially important in Protestant ethics. It has been supposed that God reveals to each human heart what is right and what is wrong, so that, in order to avoid sin, we have only to listen to the inner voice. There are, however, two difficulties in this theory : first, that conscience says different things to different people ; secondly, that the study of the unconscious has given us an understanding of the mundane causes of conscientious feelings. As to the different deliverances of conscience : George III’s conscience told him that he must not grant Catholic Emancipation, as, if he did, he would have committed perjury in taking the Coronation Oath, but later monarchs have had no such scruples. Conscience leads some to condemn the spoliation of the rich by the poor, as advocated by communists ; and others to condemn exploitation of the poor by the rich, as practised by capitalists. It tells one man that he ought to defend his country in case of invasion, while it tells another that all participation in warfare is wicked. During the War, the authorities, few of whom had studied ethics, found conscience very puzzling, and were led to some curious decisions, such as that a man might have conscientious scruples against fighting himself, but not against working on the fields so as to make possible the conscription of another man. They held also that, while conscience might disapprove of all war, it could not, failing that extreme position, disapprove of the war then in progress . Those who, for whatever reason, thought it wrong to fight, were compelled to state their position in terms of this somewhat primitive and unscientific conception of “conscience.” The diversity in the deliverances of conscience is what is to be expected when its origin is understood. In early youth, certain classes of acts meet with approval, and others with disapproval ; and by the normal process of association, pleasure and discomfort gradually attach themselves to the acts, and not merely to the approval and disapproval respectively produced by them. As time goes on, we may forget all about our early moral training, but we shall still feel uncomfortable about certain kinds of actions, while others will give us a glow of virtue. To introspection, these feelings are mysterious, since we no longer remember the circumstances which originally caused them ; and therefore it is natural to attribute them to the voice of God in the heart. But in fact conscience is a product of education, and can be trained to approve or disapprove, in the great majority of mankind, as educators may see fit. While, therefore, it is right to wish to liberate ethics from external moral rules, this can hardly be satisfactorily achieved by means of the notion of “conscience.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-020.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.1

 直前の二つの章で見たように,科学は不充分であることを主張する人々は,科学は「価値」については述べるべき何をも持たない(価値については何も主張できない)という事実に訴える。このことを私は認める。しかし,倫理は科学によっては証明も反証(反駁)もできない真理を含んでいると推論するなら私は同意しない(その意見には反対する)。この問題は,明晰に考えることはまったく容易だということはなく,それに関する私自身の見解は,30年前の私の見解とは全く異なっている(訳注:本書 Religon and Science が出版されたのは1935年)。しかし,もし我々が宇宙の目的(の存在)を支持する議論(論拠/論証のようなもの)を評価(値踏み)しなければならないのなら,そのこと(訳注:倫理は科学によっては証明も反証もできない真理を含んでいるかどうか)を明らかにしておく必要がある。倫理についてはコンセンサス(意見の一致)がないので,以下に述べることは私の個人的な信念であり,科学の言明(公式見解)(the dictum of science)ではないことを理解されなければならない(理解していただく必要がある)。  倫理の研究(倫理学)は,伝統的に言って,2つの部分から成っている。即ち,ひとつは道徳律に関すること),もうひとつは,それ自体(自身)で善なるものに関すること(訳注:他に理由がなくても善なるものに関すること)である。行為の規則(行動規範)はその多くが儀式に起源を持っており,未開人や原始人の生活においては大きな役割を果している。族長の皿から(皿にあるものを)食べることや,仔山羊(子ヤギ)を母ヤギの母乳で煮ることは禁じられている。(また,)神々に生贄(いけにえ)を捧げるように命ぜられるが,それも,一定の成長段階においては,生贄は人間であれば最も神々に喜ばれるものだと考えられる。人や窃盗の禁止のようなその他の道徳律は,もっと明白な社会的効用をもっており,それら(の禁止規則)は,当初結びついていた原始的な神学体系が衰退した後も生き残る(生き残っている)。しかし,人々が内省的になるにつれ,規則にはより重きを置かなくなり,心理状態(人間の気持ち)により重きを置くようになる傾向がある。これは2つの源 - 即ち,哲学と神秘的宗教- に由来する。我々は全て,(キリスト教の)予言者や福音書の章句に通じているが(親しんでいるが),それらの中では,心の清さが,小心な(神の)法の遵守(meticulous observance of the Law)よりも上に置かれている(尊重されている)。そうして,聖パウロの有名な慈悲や愛の讃美は,同じ原則を教えている。同様なことが,キリスト教徒であれ、非キリスト教徒であれ、全ての偉大な神秘主義者の中に見出される。彼らが価値を置くのは心の状態であり,そこから,彼らが主張したように,正しい行為が(結果として)出てこなければならない(注:邪な心から行為してはならない,ということ)。彼らにとって,規則は外的なものであり,環境に充分適応することができないと思われる(のである)。

Chapter 9: Science and Ethics, n.1
Those who maintain the insufficiency of science, as we have seen in the last two chapters, appeal to the fact that science has nothing to say about “values.” This I admit ; but when it is inferred that ethics contains truths which cannot be proved or disproved by science, I disagree. The matter is one on which it is not altogether easy to think clearly, and my own views on it are quite different from what they were thirty years ago. But it is necessary to be clear about it if we are to appraise such arguments as those in support of Cosmic Purpose. As there is no consensus of opinion about ethics, it must be understood that what follows is my personal belief, not the dictum of science. The study of ethics, traditionally, consists of two parts, one concerned with moral rules, the other with what is good on its own account. Rules of conduct, many of which have a ritual origin, play a great part in the lives of savages and primitive peoples. It is forbidden to eat out of the chief’s dish, or to seethe the kid in its mother’s milk ; it is commanded to offer sacrifices to the gods, which, at a certain stage of development, are thought most acceptable if they are human beings. Other moral rules, such as the prohibition of murder and theft, have a more obvious social utility, and survive the decay of the primitive theological systems with which they were originally associated. But as men grow more reflective there is a tendency to lay less stress on rules and more on states of mind. This comes from two sources – philosophy and mystical religion. We are all familiar with passages in the prophets and the gospels, in which purity of heart is set above meticulous observance of the Law ; and St. Paul’s famous praise of charity, or love, teaches the same principle. The same thing will be found in all great mystics, Christian and non-Christian : what they value is a state of mind, out of which, as they hold, right conduct must ensue ; rules seem to them external, and insufficiently adaptable to circumstances.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-010.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.24

 今や私は,宇宙の目的に関する議論における最後の問い -即ち,「これまでに起きてきたことは宇宙の善い意図を保障する証拠だろうか?(という問い)」- (をする段階)にやってきている(やってきた)。それ(宇宙の善い意図)を信ずる根拠として主張されていることは,既にこれまで見てきたように,宇宙が「(心を持った)我々人間」を生み出したということである。私はそのことを否定することはできない。しかし,(人類誕生までの)そんなに長いプロローグを正当化するほど,我々はそんなに素晴らしい存在だろうか? 哲学者(たち)は価値(というもの)を強調する。彼らはこう言う。(即ち)我々(人間)は一定の物事を善と考えるし、それらのものは(実際)善であるのでそれらについてそう考えるためには、我々はとても善でなければならない、と哲学者達は主張する。しかし,これは循環した議論である。(これとは違う)他の価値観を持った存在者は,我々(人間)はきわめて残酷な存在であり,その残酷さは我々が悪魔によって鼓舞されている証拠であるほどである,と考えるかも知れない。自分の前に鏡をかざし,宇宙の目的はずっとそれ(人間の誕生)を目指してきたことを証明するほど,自分たちは優れていると考える人間の光景のなかに,ささいで馬鹿げたものはないのだろうか? いずれにせよ,どうしてこれが人間の栄光なのだろうか? ライオンや虎についてはどうだろうか? 彼らは我々人間ほど,動物や人間の生命を滅ぼすことは少ないし,また,人間よりもずっと美しい。蟻についてはどうだろうか? 彼らはいかなるファシストたちよりもずっとよく全体主義国家を管理運営する(訳注:ラッセルは蟻の社会を全体主義国家にたとえている)。ナイチンゲール(サヨナキドリ),ひばり,鹿等の世界は,人類の残酷,不正,戦争(があふれる)社会よりももっと優れてるのではないだろうか? 宇宙の目的(の存在)を信ずる人々は,人間がもっているとされる知性(our supposed intelligence)を重視するが(make much of),彼らの著述は人間の知性について人に疑いをもだせる(their writings make one doubt it)。仮に,私に全能の力及び実験のための数百万年の時間を与えられたとしたら,私の全努力の最終結果として人間(の誕生)を大いに自慢すること(自慢できること)とは,私は考えないであろう。  淀み(backwater 逆流;淀み)の中における興味深い偶然の出来事(a curious accident)としての人間(の出現)は理解できる(intelligible 理解しやすい)。人間の美徳と悪徳との混合(物)は,偶然の起源から生じると予想されるようなものである。しかし、底知れない自己満足(うぬぼれ)(abysmal self-complacency)のみが 全能者(神)が創造主にとっての動機として十分だと考えることができる(ひとつの)理由(a reason)を人間(の誕生)のなかに見ることができる。コペルニクス的革命は,人間を宇宙の目的(の存在)の十分な証拠だと考えている人々の間に今日見出される以上の謙虚さを教えるまでは,その効果はもたないであろう。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.24
I come now to the last question in our discussion of Cosmic Purpose, namely : is what has happened hitherto evidence of the good intentions of the universe? The alleged ground for believing this, as we have seen, is that the universe has produced US. I cannot deny it. But are we really so splendid as to justify such a long prologue? The philosophers lay stress on values ; they say that we think certain things good, and that since these things are good, we must be very good to think them so. But this is a circular argument. A being with other values might think ours so atrocious as to be proof that we were inspired by Satan. Is there not something a trifle absurd in the spectacle of human beings holding a mirror before themselves, and thinking what they behold so excellent as to prove that a Cosmic Purpose must have been aiming at it all along? Why, in any case, this glorification of Man? How about lions and tigers? They destroy fewer animal or human lives than we do, and they are much more beautiful than we are. How about ants? They manage the Corporate State much better than any Fascist. Would not a world of nightingales and larks and deer be better than our human world of cruelty and injustice and war? The believers in Cosmic Purpose make much of our supposed intelligence, but their writings make one doubt it. If I were granted omnipotence, and millions of years to experiment in, I should not think Man much to boast of as the final result of all my efforts. Man, as a curious accident in a backwater, is intelligible : his mixture of virtues and vices is such as might be expected to result from a fortuitous origin. But only abysmal self-complacency can see in Man a reason which Omniscience could consider adequate as a motive for the Creator. The Copernican revolution will not have done its work until it has taught men more modesty than is to be found among those who think Man sufficient evidence of Cosmic Purpose.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-240.HTM

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