孤独だったラッセルが自分の子どもを持つことになり感じた幸福感

(以下は,1920年秋から1921年夏までの間、ラッセルが北京大学客員教授として北京にいっていた時にインフルエンザにかかり、生死をさまよった時の経験です。下の記事は、日本の新聞記者が誤解して打電した「ラッセル氏逝く」の誤報です。)

R-GOHO・・・。私は,自分が生き残っただけでなく,子供を持つことになったことがわかると,回復期間中,もろもろの一連の軽い病気を併発していたにもかかわらず,自分が回復の途上にあるということにはまったく無頓着になった。主要な病名は,両側肺炎であったが,それに加えて心臓病,腎臓病,赤痢,静脈炎併発していた。けれども,そのいずれも,私の申し分のない幸福感を妨げることはなかった。そうして,これらあらゆる陰気な徴侯にもかかわらず,回復後は,いかなる悪い影響も後に残らなかった。
もう死なないということを感じながらベットに横たわっていることは,驚くほど愉快なことであった。その時まで私は,自分は根本においては悲観的な人間であり,生きていることに大きな価値をおいていない,と常に想っていた。しかしそのように考えることは完全な間違いであり,人生は無限に甘美なものだということを,私は発見した。

<寸言>
ラッセルが命をとりとめたのは,皮肉なことに,ラッセルがあまりよく思っていなかったロックフェラーが北京に設立した血清研究所のおかげであった。

幼い時に両親が亡くなり、自分は生涯,幸福になれないだろうとずっと思っていたラッセル。しかし、ラッセルは、異郷の地で病床にあっても、恋人のドーラが妊娠して自分にも子供を持てることがわかり、50歳近くになって初めて幸福感にひたることができた。
1911年秋以降、(初婚相手の)アリスとは別居していたが、当時の英国の法律では、どちらかに結婚生活を継続できない重大な事実(違反)がない限り、離婚ができなかった。しかし、日本経由で帰国が、「不倫の罪で」晴れて離婚が成立し、ドーラと再婚できることになった。