同国人(英国人)によるドレスデンの完全破壊のおぞましさ

私は,昔のベルリンをよく知っていた。それで,この時見たベルリンのぞっとするような見るも恐ろしい破壊(の光景)は,とてもショックだった。(ホテルの)部屋の窓からは,立っている家はほとんど一軒も見あたらなかった。(また)ドイツ人が住んでいるところを見つけ出すこともできなかった。この徹底的な破壊は,一部は英国人(軍)が行い,一部はロシア人(軍)が行ったものであって,極悪非道な行為だと思われた。
dresden_razing (ベルリンの破壊よりも)いっそう弁解できない同国人(英国人)によるドレスデンの完全破壊(抹消)を熟視し,私は胸が悪くなった
((YouTube 動画(ドレスデン空襲: http://youtu.be/SU3wkOGXlcY)。私は,ドイツが明らかに降伏しようとしていたのであるからそれで十分だと思うとともに,135,000人のドイツ人(注:ドレスデン市民)を殺すだけでなく,ドイツ人の住居全てと無数の財産を破壊することは野蛮行為であると思った。
私は,連合国によるドイツの取り扱い方は,ほとんど信じがたいほど愚かであると思った。勝利をおさめた国々の政府は,ドイツの一部をロシアに与え,一部を西側に与えることによって -特に,ベルリンが分割され,西側からベルリンの(西側の)部分(=西ベルリン)にアクセスするには空路によるほか何の保証もなかったので- 東西間の争いの継続を確かなものにした。彼らは,ロシアと西側の同盟国の間の平和的協力を想像していた。しかし,そんな結果は起こりそうもないことを予見すべきだった。感情面に限っても,実際に起こったのは,西側諸国の共通の敵としてのロシアとの戦いの継続ということであった。第三次世界大戦のための舞台が準備された。そしてそれは,諸政府の全く愚かな行為によって念入りになされたであった。

I had known Berlin well in the old days, and the hideous destruction that I saw at this time shocked me. From my window I could barely see one house standing. I could not discover where the Germans were living. This complete destruction was due partly to the English and partly to the Russians, and it seemed to me monstrous. Contemplation of the less accountable razing of Dresden by my own countrymen sickened me. I felt that when the Germans were obviously about to surrender that was enough, and that to destroy not only 135,000 Germans but also all their houses and countless treasures was barbarous.
I felt the treatment of Germany by the Allies to be almost incredibly foolish. By giving part of Germany to Russia and part to the West, the victorious Governments ensured the continuation of strife between East and West, particularly as Berlin was partitioned and there was no guarantee of access by the West to its part of Berlin except by air. They had imagined a peaceful co-operation between Russia and her Western allies, but they ought to have foreseen that this was not a likely outcome. As far as sentiment was concerned, what happened was a continuation of the war with Russia as the common enemy of the West. The stage was set for the Third World War, and this was done deliberately by the utter folly of Governments.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-070.HTM

[寸言}
二度と戦争を起こさせないようにしないといけないという口実で、敵国の領土や人々に対する徹底的な破壊が行われる。第一次世界大戦の時には、ドイツが支払いきれない天文学的な賠償金も課された。そういうことをすれば「いつかは見返してやる(やっつけてやる)」という気持ちが敗れた国民の間に広がってしまい、また新たな戦争の種となる。その反省で、第二次世界大戦は後は過大な賠償金を課さなかったのはよいが、ベルリンの分割統治や、中東に勝手に国境線を引くなどして、対立や戦争の種をまた作ってしまった。国力を強めるため(国益の確保!)にといって、他国(特に石油などのエネルギー資源)に対する利権をできるだけ確保しようとする愚かな政治家たち

記憶違いから、言ったことを言ったことはないと主張する恥ずかしい行為

img それにもかかわらず,私は,その助言 (注:1948年暮れに,核軍備廃棄をソ連に強制するためにアメリカがソ連に対し,開戦の脅威を与えて核を廃棄させる矯正策をラッセルがプライベートな手紙で示唆/ラッセル76歳の時) をした時は,それが実際とりあげられるという望みもなく,’不用意に‘その助言を行なったので,その助言をしたことを間もなく忘れてしまった。私は,その考えを私信に書き,また演説でも -どの演説だったか覚えていない- 述べたが,その演説は新聞によってあれこれと吟味(解剖)される問題となった。後になって,その手紙の受信者が,それを出版することを許可してほしいと私に頼んで来た。私は,いつのように,その内容のことは少しも考えずに,そうしたいのなら出版してもかまわない,と言ってやった。それでその人は,出版をした。そうして私は,自分が先にそういう’示唆’をしたことに気付き,驚いた。また私は,それと同じことを前述の演説でも述べていることをまったく忘れていた。嘆かわしいことに,私は,この疑いの余地のない証拠を目の前につきつけられるまで,その間,そのような提言を自分が以前にしたということを断固として否定していたのである。遺憾なことであった。分が実際に言ったことを言っていないと否定するのは,恥ずべきことである。そういった場合は,その言をあくまでも押し通すか,あるいは間違いを認めて撤回するか,二つに一つしか方法はない。このケースでは,私は自分の発言を押し通すこと(=正しいと主張し続けること)が可能であり,実際押し通し,自己弁護した。もっと早くそうすべきだったが,長年の径験に基づく自分の記憶の誤りにより,あまりにも自分の記憶に信頼を置きすぎるようになっていたのである。

None the less, at the time I gave this advice, I gave it so casually without any real hope that it would be followed, that I soon forgot I had given it. I had mentioned it in a private letter and again in a speech that I did not know was to be the subject of dissection by the press. When, later, the recipient of the letter asked me for permission to publish it, I said, as I usually do, without consideration of the contents, that if he wished he might publish it. He did so. And to my surprise I learned of my earlier suggestion. I had, also, entirely forgotten that it occurred in the above-mentioned speech. Unfortunately, in the meantime, before this incontrovertible evidence was set before me, I had hotly denied that I had ever made such a suggestion. It was a pity. It is shameful to deny one’s own words. One can only defend or retract them. In this case I could, and did, defend them, and should have done so earlier but from a fault of my memory upon which from many years’ experience I had come to rely too unquestioningly.
発言: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-050.HTM

[寸言}
これは生涯においてラッセルが最も悔いたことの一つ(注:記憶違いから,「過去に発言したこと」を発言していないと否定してしまったこと)。この発言をしたのは、米ソが膨大な核兵器を所有している時代ではなく、アメリカについでソ連も保有するようになった直後のことであり、核兵器が世界に広まったら大変なことになるとの危機感から一連の行為のなかの一つであることに注意。米ソが核兵器をたくさん保有し、核戦争になったら文明が滅びてしまうような時代においては、もちろん、たとえ私信であっても、ラッセルはこのような発言を、しないであろう。

哲学と異なり、政治においては状況の変化に応じて言動を修正する必要がある

TPJ-CNW このような不注意な態度に抵抗して -他の少数の人間と同様に- 私はあらゆる機会を利用して核戦争の脅威(危険)を指摘した。当時私には-今でも考えは変わらないが- 迫りつつある危険を防ぐために計画をねり行動すべき時は,核戦争の脅威が迫りつつあることに最初に気がついた時である,と思われた。核戦争の脅威の進行がひとたび定着してしまえば,その進行を止めることはよりいっそう困難になる。それゆえ米国がソ連に対してバルック提案(Baruch Proposal/ Baruch Plan)をした時,望みがもてると思った。当時私は,その提案を良いと思ったし,その提案をした米国の動機も良いと思った。後にはそれほど良くはないと思うようになった。しかし,それでもなお,私は,ソ連がその提案をあの時受け入れてくれていたらよかったと思っている。けれどもソ連はその提案を受け入れなかった。ソ連は,1949年8月に(ソ連として)最初の原爆を爆発させた。また,破壊力において,あるいは上品に言えばその防衛力において,米国と同等になるために全力を尽くすだろうことは明らかであった。軍備競争は,それを回避するための根本的な方策が講じられないかぎり,避けられないものとなった。それが,1948年暮れに,核軍備廃棄をソ連に強制するために,アメリカがソ連に対し,即時開戦の脅威を与える(与えて核を廃棄させる)矯正策を私が示唆した理由である。私は,このような方策をとる理由を,『常識と核戦争』の付録にいくつかあげている。私が1948年に抱いたこの見方についての主な弁解(理由)は,ソ連は西側の要求を受け入れる可能性がかなりあると当時私は考えていたということである。しかし,ソ連が,核兵器を搭載した飛行機を積んだかなりの規模の艦隊をもつようになってからは,その可能性もなくなった。
私がこうした助言をしたことが,いまなお持ち出されては私を非難する材料として使われている。共産主義国がそのような助言に反対する理由は理解しやすい。けれども,私に対するよくある批判は,私が平和主義者でありながらかつてソ連を戦争で脅かすこと唱導したという点にあった。私は,平和’主義者’ではなく,ごくまれではあるが,戦争のうちには正当化されるものや,必要でさえあるものもあると信じていることを,いくら繰り返し言っても,何の効果もないようである。いろいろな問題がこれまで,いかなる平和的手段ではまったく止められなくなるまで,明らかに悪い方向に引き摺られてきたことから,ある種の戦争は通常必要である。そして,私を批判する者は,’冷戦’継続の結果として増大した諸悪(松下注:たとえば,後戻りできないほど大規模な産軍複合体制が出来上がってしまったことなど),また1948年に戦争でソ連を脅かすという私の助言が採用されていたならば,冷戦そのものと共に,回避することができたであろう諸悪について,考慮していないように思われる。もし私の意見が採用されていたとしても,その結果はあくまでも仮説に基づいたもののままであるが,私の見るかぎり,その助言をしたということは,決して私にとって恥辱ではないし,また,私の思想の「矛盾」を表わすものでは決してないのである。

Against this careless attitude I, like a few others, used every opportunity that presented itself to point out the dangers. It seemed to me then, as it still seems to me, that the time to plan and to act in order to stave off approaching dangers is when they are first seen to be approaching. Once their progress is established, it is very much more difficult to halt it. I felt hopeful, therefore, when the Baruch Proposal was made by the United States to Russia. I thought better of it then, and of the American motives in making it, than I have since learned to think, but I still wish that the Russians had accepted it. However, the Russians did not. They exploded their first bomb in August, 1949, and it was evident that they would do all in their power to make themselves the equals of the United States in destructive – or, politely, defensive – power. The arms race became inevitable unless drastic measures were taken to avoid it. That is why, in late 1948, I suggested that the remedy might be the threat of immediate war by the United States on Russia for the purpose of forcing nuclear disarmament upon her. I have given my reasons for doing this in an Appendix to my Common Sense and Nuclear Warfare. My chief defence of the view I held in 1948 was that I thought Russia very likely to yield to the demands of the West. This ceased to be probable after Russia had a considerable fleet of nuclear planes.
This advice of mine is still brought up against me. It is easy to understand why Communists might object to it. But the usual criticism is that I, a pacifist, once advocated the threat of war. It seems to cut no ice that I have reiterated ad nauseum that I am not a pacifist, that I believe that some wars, a very few, are justified, even necessary. They are usually necessary because matters have been permitted to drag on their obviously evil way till no peaceful means can stop them. Nor do my critics appear to consider the evils that have developed as a result of the continued Cold War and that might have been avoided, along with the Cold War itself, had my advice to threaten war been taken in 1948. Had it been taken, the results remain hypothetical, but so far as I can see it is no disgrace, and shows no ‘inconsistency’ in my thought, to have given it.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-040.HTM

[寸言}
ラッセル自身、自分のことを「平和主義者」と自称することがあった。しかしそれは,自然科学の分野で使われるのと同じ意味での「絶対」平和主義ではもちろんない。自国の領土にヒトラーやスターリンの軍隊が侵略してきても戦わないような「絶対」を意味してない。だから「ラッセルは平和主義者なのに,たとえ相手がヒトラーだとしても,反戦の立場を変えるのは間違っている(変節だ! ぶれている!)」といった非難はあたらない。
松元雅和氏は『平和主義とは何か 政治哲学で考える戦争と平和』(中公新書)で,ラッセルを「平和優先主義者」と規定し,ラッセルの立場を擁護している。言葉尻をとらえて「大部分の人間は平和を’優先’する」といったチャチャを入れるのは関心しない。私も松元氏の考えに共感をいだく。ただ,考えてみれば社会科学において「◯◯主義」というのは,「絶対的」な「◯◯主義」意味しないのは通常のはずである。従って,ラッセルは「平和主義者」を自称していたのに第二次世界大戦においてドイツとの戦争に賛成する(実際は賛成せざるを得ない)のはおかしいと非難するのはもともと見当はずれだといわなければならない。(注:上記のように書くと誤解が生じるかもしれない。現代においてはどんなに小規模な戦争も核兵器の使用の「可能性」のある大規模な戦争に発展する危険性があることから、現代においては、ラッセルは理論的にはそうでなくても、実質的には「絶対」平和主義者であると言えなくもないし、本人も『自伝』などでそのように言っている。)

それにしても,最近の日本では「ぶれない」ことを自慢する政治家が少なくないが,間違っていると気づいたら(ラッセルのように)その間違いを認めて「ぶれて」ほしい。

1945年11月28日,ラッセルは英国上院での演説で水爆の出現を予測し警告

KIHIRA-E 1940年代と1950年代の初期を通して,私の精神状態は,核の問題に関して混乱と動揺の状態にあった。私にとって,核戦争が起これば,人類の文明に終焉をもたらすだろうということは明らかだと思われた。もし東西の両陣営に政策の変化がなければ,遅かれ早かれ核戦争は確実に起こるということもまた明らかだと思われた。そうした危険(の認識)は,実は1920年代の初期から私の頭の片隅にあった(松下注:ラッセルは The ABC of Atoms, 1925 及び The ABC of Relativity, 1925 の著者であることに注意)。しかし,当時は,少数の学識のある物理学者たち来るべき危険についての鑑識眼を持っていたが,大多数の人々は -街頭の人々だけでなく科学者たちでさえも-「人間はそれほど馬鹿ではないだろう」などと気楽に言いながら,原子力戦争(核戦争)の見通しから目をそらしてきた。
1945年の広島と長崎への原爆投下は,初めて科学者と少数の政治家たちの注意を核戦争の可能性に向けさせた。日本のこの2つの都市への原爆投下の2,3ケ月後に,私は,英国国会の上院で演説をし,全面的核戦争が起こる可能性があること,そしてもし核戦争が起これば,全世界に惨事をもたらすことはまちがいないこと,を指摘した(松下注:1945年11月28日に演説)。私は,広島と長崎に投下された原爆よりもはるかに強力な核爆弾,すなわち従来の原子核分裂方式ではなく核融合方式の爆弾,つまり事実上現在の水素爆弾が製造されることを予言し,説明した。あの当時であったら,私が恐れていた軍拡競争はまだ始まっていなかったので,このような怪物を,戦争目的にではなく平和目的のために使用するようある種の統制を強いることもできた。・・・。

Throughout the forties and the early fifties, my mind was in a state of confused agitation on the nuclear question. It was obvious to me that a nuclear war would put an end to civilisation. It was also obvious that unless there were a change of policies in both East and West a nuclear war was sure to occur sooner or later. The dangers were in the back of my mind from the early ‘twenties. But in those days, although a few learned physicists were appreciative of the coming danger, the majority, not only of men in the streets, but even of scientists, turned aside from the prospect of atomic war with a kind of easy remark that ‘Oh, men will never be so foolish as that’. The bombing of Hiroshima and Nagasaki in 1945 first brought the possibility of nuclear war to the attention of men of science and even of some few politicians. A few months after the bombing of the two Japanese cities, I made a speech in the House of Lords pointing out the likelihood of a general nuclear war and the certainty of its causing universal disaster if it occurred. I forecast and explained the making of nuclear bombs of far greater power than those used upon Hiroshima and Nagasaki, fusion as against the old fission bombs, the present hydrogen bombs in fact. It was possible at that time to enforce some form of control of these monsters to provide for their use for peaceful, not war like, ends, since the arms race which I dreaded had not yet begun.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB31-030.HTM

[寸言}
1945年11月28日,ラッセルは英国上院(貴族院)での演説で★水爆の出現を予測し警告した。(演説内容の全文 http://russell-j.com/cool/SP194511.HTM )だが大衆だけでなく科学者たちでさえも「人間はそれほど馬鹿ではないだろう」などとあまり気に留めなかった。その結果は、米ソによる各軍備競争だけでなく、現在では(わかっているだけでも)核保有国は8ケ国にのぼっており、いずれテロリストが強奪により保有するようになるのではないかと恐れられている。広島型(程度の)原爆であれば、バズーカ砲で撃てるほど小型化が進んでおり、ニューヨークやパリなどの大都会で使用されたら大変悲惨なことになってしまう。世界政府的な強力な核兵器の管理組織がないかぎり、数十年後かもしれないが、いずれ後悔する事態が発生するのではないか・・・!?

理性と感性(あるいは情熱)との葛藤 - 第一次大戦と第二次大戦との相違

BR-REVRS 私は,物事を誇張したいとは思わない。1932年から1940年までの間,(戦争と平和の問題に関する)私の意見は徐々に変わっていったが,それは大変革というようなものではなかった。それは量的な変化及び強調点の変化に過ぎなかった。私は,無抵抗の信条を絶対的なものとして抱いたことはなかったし,今や絶対的に拒否するということもしなかった。しかし,第一次大戦に反対したことと第二次大戦を支持したこととの間にある実際上の相違は,事実存在した(戦争と平和の問題に関する自分の意見の)理論的な一貫性をほとんど覆い隠してしまうほど非常に大きかった。
私は,自分の理性には全面的に確信を持っていたが,自分の感情は不承不承理性に追従した。第一次大戦に反対した時は,(自己に分裂はなく)自分の全精力がつぎ込まれていた。一方,第二次大戦に賛成(支持)した時の自己は分裂していた。
私が1914年から1918年までの間(第一次世界大戦中)に持っていたのと同程度の,’意見と感情の一致(調和)‘というものを,1940年以後は一度もまだ回復していない。そのような一致を以前自分に許した時は,科学的な知性が正当化する以上,自分自身に対し,一つの信条を容認させたのだと思う。科学的知性が導くところどこまでもそれに従うということが,私には常に,自分にとって,道徳的教訓のうちで最も肝要であると思われた。そうして,私は,深い精神的洞察力と自分で考えていたものを失うことが伴う時ですら,この教訓に従ったのである。

I do not wish to exaggerate. The gradual change in my views, from 1932 to 1940, was not a revolution; it was only a quantitative change and a shift of emphasis. I had never held the non-resistance creed absolutely, and I did not now reject it absolutely. But the practical difference, between opposing the First War and supporting the Second, was so great as to mask the considerable degree of theoretical consistency that in fact existed.
Although my reason was wholly convinced, my emotions followed with reluctance. My whole nature had been involved in my opposition to the First War, whereas it was a divided self that favoured the Second. I have never since 1940 recovered the same degree of unity between opinion and emotion as I had possessed from 1914 to 1918. I think that, in permitting myself that unity, I had allowed myself more of a creed than scientific intelligence can justify. To follow scientific intelligence wherever it may lead me had always seemed to me the most imperative of moral precepts for me, and I have followed this precept even when it has involved a loss of what I myself had taken for deep spiritual insight.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB25-040.HTM

[寸言}
事実をよく見ずに感情に流されるのは危険だが、残酷な事実を眺めているだけで何もしないというのも一人の人間として恥ずべきことである。どうすべきかはっきりと割り切れる時には疑いをはさまずに行動を起こすことができるが、判断に迷う事態である時には、理性と感性(情熱)とか調和せずに苦悩することになる。ナチスの残虐さを見るにつけ、「絶対」平和主義の立場をとることができず、ついに、ナチス打倒に協力するように立ち上がるラッセル。それに対し、第一次世界大戦の時に反戦の立場だったのに、第二次世界大戦の時には主戦論に立ったラッセルを「変節(者)」呼ばわりをした「絶対」平和主義者たち。ナチスを黙認した彼らは戦後反省したかどうか?

ナチスは何としても倒さなければならないという決意

Mein-Kampf-by-Adolf-Hitler けれども,この態度(注:「良心的兵役忌避」)は,知らず知らずのうちに,誠意のないものになっていった。(第一次大戦の時)私は,カイゼル(ドイツ皇帝ウィルヘルムII世, 1859-1941)のドイツによる覇権の可能性を不本意ながらも黙認するという考えを持つこともできた。即ち,たとえそれが悪だとしても,世界戦争とそれによってひきおこされるものほど,大きな害悪ではないだろうと考えた。しかし,ヒトラーのドイツは別問題だった。ナチスは,実に不快であり,残酷で頑迷で愚劣だということがわかった。道徳的にも知的にも,同様に,憎むべき存在であった。私は,平和主義者としての信念’を固守していたが,そうすることの困難さがしだいに増していった。1940年に英国が侵略の脅威を受けた時,第一次大戦の間中はまったく(英国の)完全なる敗北の可能性というものを心に描いていなかった,ということを実感した。このような可能性は堪え得られないと思った。そしてついに,第二次大戦においては,勝利を達成することがいかに困難なものであっても,そしてその結果がいかに苦痛なものであろうとも,勝利のために必要なことは全て支持しなければならないということを,意識的に,そしてはっきりと決意した。
これが,1901年の「回心」に際して私が持つにいたった多くの信念を,徐々に放棄していく最後の段階であった。私は,無抵抗の信条を完全に固執してきたわけでは決してなかった。即ち,私は常に,警察と刑法の必要性を認識していた。第一次大戦中においてさえ,戦争の中には正当化できるものもあるということを公に主張していた。けれども,その後の経験が容認する以上に,無抵抗という手段,あるいはむしろ非暴力による抵抗という手段に大きな領分を許容していた。非暴力による抵抗は確かに重要な役割をもっている。たとえばガンジーが反英国闘争においてインドを勝利に導いたようにである。しかしながら,それは,その無抵抗手段,もしくは非暴力抵抗手段が適用されるその相手に対して何らかの確実な効果があるかどうかにかかっている。インド人が鉄道線路に身を横たえ,襟き殺されようと当局に挑んだ時,英国人はそのような残酷な行為はとても堪えられないと考えた。しかしナチスはそれと類似の情況にあっても何のためらいも示さなかった。トルストイは,権力の保持者も無抵抗手段にあえば道徳的に再生させられるだろうということを,非常に偉大な説得力をもって説いたが,1933年以降のドイツに対してはそれは明らかに真理ではなかった。トルストイは,権力の保持者がある点を越えてまで冷酷ではないという場合にのみ正しい。しかし,ナチスの冷酷さはこの限界点をはるかに越えていた。

This attitude, however, had become unconsciously insincere. I had been able to view with reluctant acquiescence the possibility of the supremacy of the Kaiser’s Germany; I thought that, although this would be an evil, it would not be so great an evil as a world war and its aftermath. But Hitler’s Germany was a different matter. I found the Nazis utterly revolting – cruel, bigoted, and stupid. Morally and intellectually they were alike odious to me. Although I clung to my pacifist convictions, I did so with increasing difficulty. When, in 1940, England was threatened with invasion, I realized that, throughout the First War, I had never seriously envisaged the possibility of utter defeat. I found this possibility unbearable, and at last consciously and definitely decided that I must support what was necessary for victory in the Second War, however difficult victory might be to achieve, and however painful in its consequences.

This was the last stage in the slow abandonment of many of the beliefs that had come to me in the moment of ‘conversion’ in 1901. I had never been a complete adherent of the doctrine of non-resistance; I had always recognized the necessity of the police and the criminal law, and even during the First War I had maintained publicly that some wars are justifiable. But I had allowed a larger sphere to the method of non-resistance or, rather, non-violent resistance than later experience seemed to warrant. It certainly has an important sphere; as against the British in India, Gandhi led it to triumph. But it depends upon the existence of certain virtues in those against whom it is employed. When Indians lay down on railways, and challenged the authorities to crush them under trains, the British found such cruelty intolerable. But the Nazis had no scruples in analogous situations. The doctrine which Tolstoy preached with great persuasive force, that the holders of power could be morally regenerated if met by non-resistance, was obviously untrue in Germany after 1933. Clearly Tolstoy was right only when the holders of power were not ruthless beyond a point, and clearly the Nazis went beyond this point.
[From: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 5: Later Years of Telegraph House, 1968]
http://russell-j.com/beginner/AB25-030.HTM

[寸言}
ラッセルが第二次世界大戦を支持したことについて、「平和主義者」なのに「変節」したと非難する評論家がたまにいる。しかし、ラッセルは「‘絶対’平和主義者」であったことはない。原則的には「平和主義者」であることを公言はしても、民族絶滅を平気で行うようなナチス政権を見て見ぬふりをすることはできなかった。ナチスは600万人ものユダヤ人を毒ガス室で殺害したが、「絶対」平和主義者はそのような残虐行為も、自国が戦争に巻き込まれないためには、見て見ぬふりをすべきと言うのであろうか?

人間は破壊的な怒りに’はけ口’を与えるような底深い不幸にとりつかれている

CV-NOEP 1914年から1918年までの第一次世界大戦は,私のあらゆるものを変えてしまった。私は学究的であること(大学人であるこよ)をやめ,新しい性格の本の執筆を始めた(後注参照)。人間性についての私の考え(理解)も一変した。ピューリタニズム(清教徒主義)は人間の幸福のためになるものではない,と初めて心から確信するようになった。(注:ラッセルが学んだトリニティ・コレッジはピューリタニズム発祥の地)(大戦による)死の(目を覆う)光景を通して,生きとし生けるもの全てに対する新しい愛を手に入れた。また,大部分の人間は破壊的な怒りに’はけ口’を与えるような底深い不幸にとりつかれており,本能的な喜びを(多くの人に)広めることによってのみ良い世界をもたらすことができる,と深く確信するようになった。
現代世界の改革者も反動主義者も同様に,種々の残酷な行為によって,歪んだ考えを持つようになっている,と思った。厳しい規律を要求するようなあらゆる目的や意図に対し疑いを持つようになった。私は共同社会のあらゆる目的に反対し,日常の(ありふれた)美徳が(敵国)ドイツ人殺戮の手段として利用されているのを発見し,完全な無律法主義者(立法廃棄論者)にならないことは非常に困難である,と経験して思った。しかし,私は,世界の不幸に対して感じた深い同情(憐憫の情)によって,この危機から救われた。

The War of 1914-18 changed everything for me. I ceased to be academic and took to writing a new kind of books. I changed my whole conception of human nature. I became for the first time deeply convinced that Puritanism does not make for human happiness. Through the spectacle of death I acquired a new love for what is living. I became convinced that most human beings are possessed by a profound unhappiness venting itself in destructive rages, and that only through the diffusion of instinctive joy can a good world be brought into being. I saw that reformers and reactionaries alike in our present world have become distorted by cruelties. I grew suspicious of all purposes demanding stern discipline. Being in opposition to the whole purpose of the community, and finding all the everyday virtues used as means for the slaughter of Germans, I experienced great difficulty in not becoming a complete Antinomian. But I was saved from this by the profound compassion which I felt for the sorrows of the world.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-330.HTM

[寸言}
1916年に,Justice in War Time と The Principles of Social Reconstruction を出版。それ以前は,哲学の入門書 The Problems of Philosophy, 1912 以外,一般の人が興味を持ちそうな popular books は書いていなかった。

「私が首謀者(犯人)です!」とタイムズ紙に投稿(第一次大戦時)

DOKUSH97 この頃には,私と英国政府との関係は,非常に悪化していた。1916年に,私は,良心条項(注:良心的兵役拒否を認める条項)があるにも拘わらず,禁固刑の判決を受けたある良心的兵役拒否者に関するリーフレット(ラッセル注:その全文は『ラッセル自伝』pp.76-78に載っている) -このリーフレット徴兵反対協会によって出版された。- を 執筆した。そのリーフレットは私の名前を載せないで発行された。そうしてそのリーフレットを配布した人たちが投獄されたことを知り,非常に驚いた。それゆえ私は,『タイムズ』紙に,そのリーフレットの著者は自分であると書いて送った。私は,ロンドン市長(注:大ロンドンの首長ではなく,City of London の市長)公邸で,市長の前で起訴され,私は自分の弁護のため,長い演説を行なった。この時私は,百ポンドの罰金刑が科された
私はその金額を支払らわなかった。そのために,その罰金額を満たす額になるまで,ケンブリッジ大学(の自分の居室)にある私の持ち物が売られた。けれども,親切な友人たちがそれを買い戻し,私に返してくれたので,私の抵抗もやや無駄になってしまったと感じた。とかくするうちにトリニティ・コレッジでは,若いフェロー(特別研究員)たちは全員,将校任命の辞令をもらい,また年配のフェローたちも,当然のこととして,その責務を果たすことを望んだ。彼ら(年配のフェローたち)は,私から講師の職を奪いとった。
第一次世界大戦が終わり,若い人たち(=若いフェローたち)がトリニティ・コレッジに戻ってくると,コレッジに復帰するよう要請されたが,この頃には,もう私には戻りたいという願望はまったくなくなっていた。

By this time my relations with the Government had became very bad. In 1916, I wrote a leaflet which was published by The No Conscription Fellowship about a conscientious objector who had been sentenced to imprisonment in defiance of the conscience clause. The leaflet appeared without my name on it, and I found rather to my surprise, that those who distributed it were sent to prison. I therefore wrote to The Times to state that I was the author of it. I was prosecuted in the Mansion House before the Lord Mayor, and made a long speech in my own defence. On this occasion I was fined £100. I did not pay the sum, so that my goods at Cambridge were sold to a sufficient amount to realise the fine. Kind friends, however, bought them in and gave them back to me, so that I felt my protest had been somewhat futile. At Trinity, meanwhile, all the younger Fellows had obtained commissions, and the older men naturally wished to do their bit. They therefore deprived me of my lectureship. When the younger men came back at the end of the War I was invited to return, but by this time had no longer any wish to do so.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-250.HTM

(訳注: このリーフレットは ‘Rex v. Bertrand Russell: Report of the Proceedings Before the Lord Mayor at the Mansion House Justice Room, 5 June 1916’)。
http://catalog.hathitrust.org/Record/002433198

[寸言}
唯一のホームグラウンド(心のよりどころ)だと思っていたケンブリッジ大学(トリニティ・コレッジ)さえも、知的良心には限界があることがわかり、愕然とする。
反戦を唱えていた仲間さえも,いったん戦争が始まれば、母国が戦争に負けたら(敗けたら)大変だと、戦争に協力(あるいは少なくとも黙認)するようになる。
どこの国も自国が戦うのはあくまでも防衛のためと言いながら(戦場になりそうにない大国にあっては自由を守るため/大事な基本的価値を守るため、という名目で)他国に攻め入っていく。
つまり、いったん戦争が始まってしまえば、どの国民も「集団的狂気」の陥りやすいということ。

第一次世界大戦時に,英国内の窮乏に陥った敵国のドイツ人を助ける

hikokumin_kairakutei-black 第一次大戦の期間中,クリスマスを迎えるごとに,私は,発作的な暗い絶望感に襲われた。それは,ただ無為に椅子に坐っているだけで,何もすることができず,人類が何かの役に立つものかどうか疑うほどの,(一抹の光もないような)完璧な絶望(感)であった。1914年のクリスマスの時期に,オットリンの助言で,この絶望感を堪え難いものにしない方法を見つけた。(すなわち)私は,慈善委負会を代表して,ひどく貧しいドイツ人を訪問し,その境遇を調査し,必要があれば彼らを窮地から救済する,という仕事にとりかかった。この仕事をしているうちに,激しい戦争の最中に,注目すべき思いやり(親切)のいろいろな実例に遭遇した。稀なことではないが,貧しい人たちの住んでいる近隣で,女家主たちは --自分たち自身もけっして裕福ではないが-- まったく家賃をとらずに,彼らを住まわせてあげていた。なぜなら,彼女たちは,(英国と戦争状態にある)ドイツ人が職を見つけることは不可能である,ということがわかっていたからである。この問題は--ドイツ人がことごとく拘禁されてしまったので,その後まもなく消えてしまった。しかし,第一次大戦の最初の数ケ月間は,ドイツ人の境遇は非常に惨めなものであった。

Every Christmas throughout the War I had a fit of black despair, such complete despair that I could do nothing except sit idle in my chair and wonder whether the human race served any purpose. At Christmas time in 1914, by Ottoline’s advice. I found a way of making despair not unendurable. I took to visiting destitute Germans on behalf of a charitable committee to investigate their circumstances and to relieve their distress if they deserved it. In the course of this work, I came upon remarkable instances of kindness in the middle of the fury of war. Not infrequently in the poor neighbourhoods landladies, themselves poor, had allowed Germans to stay on without paying any rent, because they knew it was impossible for Germans to find work. This problem ceased to exist soon afterwards, as the Germans were all interned, but during the first months of the War their condition was pitiable.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-070.HTM

[寸言}
戦争が始まると,たまたま自国に住んでいて迫害されている敵国人を助けると非国民として糾弾される。しかし、それが逆の場合(敵国にいる同邦人が敵国人に助けられる場合)は戦後に褒めたたえられる。まったく身勝手だ。
多くの人間は、戦争になればたやすく「集団的狂気」に陥入る。
ラッセルは、この時の経験,「幸福論」の執筆に反映することになる。即ち、「絶望に陥った時はくよくよ考えても救われない,何か有益だと思われるような「行動」をしてみることが一番である」と。

人間性の名誉のために-非国民と罵られても抗議の声をあげる

BRAINS-B  このような最中,私は自分の愛国心によってひどく苦しめられたマルヌの戦い(第一次世界大戦初期の1914年9月5~12日,フランスのマルヌ河畔で行われた独仏の戦いでフランスが勝利した。)以前の,ドイツの数々の成功(勝利)は,私にとって,大変恐ろしいものであった。私は,いかなる退役した陸軍大佐にもおとらないくらい熱烈にドイツの敗北を願った。(母国)英国に対する愛情,私のもっている感情のなかで最も強いものであるといってよいが,そのため,そのような時期において,愛国心が沸いてきたらそれをわきに追いやるという,困難な自制の努力をしていた。それにもかかわらず,私は何をなさなければならないかということについて,一瞬たりとも疑いを持たなかった。私は,大戦以前には,時々懐疑主義に陥って無力になったり,時々冷笑的になったり,それ以外の時には無関心になったりしたが,第一次大戦が勃発した時には,あたかも神の声を聞いたかのように感じた。
私の抗議がどんなに無益なものであろうとも,戦争に抗議することは私の役割(責務)であると理解していた。私の人間としての全ての本質が関係していた。
(第一に)真理を愛するものとして,全交戦国の(自国本位の)国家宣伝にむかむかさせられた。
(第二に)文明を愛するものとして,野蛮への復帰にぞっとさせられた。
(第三に)若者たちに対する親としての感情を損なわれたものとして,青年に対する大虐殺に心を苦しめた。(第一次)大戦に反対しても,自分にとって良いこと(自分の利益になること)はほとんど出てこないだろうと思ったが,★人間性の名誉のために★,少なくとも足下をすくわれていない人々は,しっかりと(自分の足で)立っていることを示すべきであると思った。

[寸言}
非国民と言われ孤立することは非常に辛い。そこで、どうしても、戦争に賛成しないまでも、黙認することになりやすい。国民みんながそう思うようになれば、「愛国無罪」ということになり、歯止めが無くなってしまう。ラッセルには、それは「人間性に対する屈辱」に映る。「人間は本来残酷なんだよ」と’大人の態度’で対処しても、戦争に勝利すれば反省することなく(うぬぼれを強くし)、また、負ければ、自分の責任は最小限にして国家(指導者)だけの責任にしようとする(のが人間性!?)

2022年はラッセル生誕150年