ラッセル「人類に害を与えてきた思想(9)」

 我々人間が妬み(ねたみ)がちであることの最も不幸な結果の一つは,それが経済的自己利益 -個人的及び国民的(経済的自己利益)の双方の- に関するまったく誤まった考え方をもたらしてきたことである。一つの喩え話でそれを例証してみよう。むかしむかし,ある中ぐらいの大きさの町があって,そこにはかなりの肉屋,かなりのパン屋,その他が住んでいました(注:a number of かなりの/市井訳では「一定量の」と訳されている)。並外れて精力のある一人の肉屋が,他のすべての肉屋がつぶれて自分が独占業者になれば,ずっと大きな利益をあげられるだろう,と心に決意しました。そこで他の店(競争相手)より組織的に安く売ることによって,彼はその目的を達成するのに成功しました。ただし,その(厳しい競争の)間に,彼の損失はひどくなり,資本や信用をあやつる能力はほとんどなくなってしまいました。同時に,ある一人の精力的なパン屋が,同じ考えを持っていて,同様な成功をかち得るまでやりぬきました。消費者たちに品物を売ることで生計をたてているあらゆる業種(商い)で,同じことが起こりました。成功した独占業者(店主)はすべて,大金を稼げる(裕福になれる)という幸福な予想をしていました。しかし,不幸なことに,破産した肉屋たちはもはやパンが買えず,また,破産したパン屋たちはもはや肉を買えない状況でした。彼らの使用人たちは解雇されなければならず,その使用人たちはどこかに行ってしまいました。結局のところ,(消耗戦に勝った)例の肉屋やパン屋だけが独占業者となりましたが,売りあげは以前よりも減ってしまいました。自分は競争相手から被害を被るかも知れないけれども,自分のお客たちから利益を得ているのであり,繁栄の一般的水準が向上すれば,お客の数はもっと増えてくる,ということを彼らは忘れていました。妬みから彼らは注意力を競争相手に集中させ,みずからの繁栄がお客たち(顧客)に依存しているという側面をまったく忘れていたのでした。(おしまい。)
One of the most unfortunate results of our proneness to envy is that it has caused a complete misconception of economic self-interest, both individual and national. I will illustrate by a parable. There was once upon a time a medium-sized town containing a number of butchers, a number of bakers, and so forth. One butcher, who was exceptionally energetic, decided that he would make much larger profits if all the other butchers were ruined and he became a monopolist. By systematically under-selling them he succeeded in his object, though his losses meanwhile had almost exhausted his command of capital and credit. At the same time an energetic baker had had the same idea and had pursued it to a similar successful conclusion. In every trade which lived by selling goods to consumers the same thing had happened. Each of the successful monopolists had a happy anticipation of making a fortune, but unfortunately the ruined butchers were no longer in the position to buy bread, and the ruined bakers were no longer in the position to buy meat. Their employees had had to be dismissed and had gone elsewhere. The consequence was that, although the butcher and the baker each had a monopoly, they sold less than they had done in the old days. They had forgotten that while a man may be injured by his competitors he is benefited by his customers, and that customers become more numerous when the general level of prosperity is increased. Envy had made them concentrate their attention upon competitors and forget altogether the aspect of their prosperity that depended upon customers.
 Source: Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
 More info.: https://russell-j.com/beginner/0861HARM-090.HTM

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“All you need is love.”の「愛こそはすべて」は大誤訳!!

本日は、佐藤ヒロシ『関係詞の底力』の「はしがき」から少し引用しておきます
 p.2: “All you need is love.”の「愛こそはすべて」は大誤訳!!

2つの間違いがありそうです。”All”と”you”の間に関係詞が省略されていることに気づかない場合と、気づいているのに意味を取り違える場合です。私も長い間早トチリで「思い込んで」いましたが、ビートルズのこの英文の正しい日本語訳は、
君(あるいは、あなたたち)に足りないのは愛だけだ!( ← 君に必要な全ては愛だ)」となります。

佐藤氏は代々木ゼミ予備校を代表する英語講師の一人です。ラッセル関連で、一度だけお会いしたことがあります。(とても身長の高い方です。)プレイス社から『ラッセルと20世紀の名文に学ぶ(英文味 読の真相39』という本も出されているので、ご存じの方もおられると思います。

本書の裏表紙には、「All the people in Iraq want is peace and
security.」という例文が掲載されています。この場合も、「すべてのイラクの人々が欲しているのは、平和と安定だ」というのは誤訳であり、正しくは、「(現在の)イラクの人々が望んでいるのは、平和と安定だけだ!」ということになります。(したがって、平和が回復すれば、もっといろいろな欲求がでてきます。)

残念ながら、この2つの例文について、ラッセルの用例を見つけられませんでした。

最後に、佐藤先生の「はしがき」から少し言葉を引用しておきます。

p.2: まさに、「関係詞がわからないとビートルズも聴けない」のです。
p.3:  英語に「受験英語」とか「実用英語」といった2種類のものが存在するわけでもなく、ましてや「英会話」に「英文法」は必要ないなどとう俗説は誤りであるというのが、かねてからの私の持論です。批判されるとすれば、それは「受験英語」ではなく「英語指導法」であり、また「文法」ではなく、「どうでもいい文法用語による無意味な分類」であると私は考えます。//

ラッセル「人類に害を与えてきた思想(8)」

 誤った信念を産む最も強力な源泉の一つは,妬み(ねたみ)である。いかなる小さい町においても,もし比較的裕福な人々に尋ねてみれば,彼等はみな隣人の収入を誇張して考えており,そのことから隣人をケチ(meanness)だと非難することを正当化しているのがわかる(正当化しているのを見いだす)だろう。女性の嫉妬は男たちのあいだではよく知られている。しかし,大規模な事務所ならどこにおいても,まさに男性職員の間に同様の種類の嫉妬を見いだすであろう。(その職場の)男性職員の一人が昇進すると,他の男たちは次のように言うだろう。「ふん,あいつはお偉方に取り入る術を心得ているよ。もし私が自分を堕落させて,あいつが恥知らずにやったようなへつらい術を使っていたら,私もあいつとまったく同じように早く出世できたはずだ。たしかにあいつの仕事ぶりには線香花火のような才気(a flashy brilliance,)はあるが,堅実さに欠けている。それゆえ,遅かれ早かれ(←早かれ遅かれ),お偉がたは自分らの判断(昇進させたこと)の間違いに気づくだろう」。凡庸な男性はみな,もし(たとえ)本当にできる男がその才能に値する程度に早く昇格を認められたとしてもそのようにいうだろう。(注:ラッセル『人類の将来ー反俗評論集』の中の市井三郎訳では,「このように凡庸なすべての人々は、本当にできる男がその才能の値する程度に早く昇格できるようになればよい,というだろう」となっている。all the mediocre men will say so が倒置されて ‘So’ が先頭に来ているわけだが、’if’ は ここでは ‘even if’ の意味であることを捉え損なっていると思われる。) そしてこの理由から,年功序列制度を採用する傾向があるわけであり,それは功績とはなんの関係ももたないので,同様の妬みによる不満を生じさせないからである。

One of the most powerful sources of false belief is envy. In any small town you will find, if you question the comparatively well-to-do, that they all exaggerate their neighbors’ incomes, which gives them an opportunity to justify an accusation of meanness. The jealousies of women are proverbial among men, but in any large office you will find exactly the same kind of jealousy among male officials. When one of them secures promotion the others will say: ‘Humph! So-and so knows how to make up to the big men. I could have riser quite as fast as he has if I had chosen to debase myself by using the sycophantic arts of which he is not ashamed. No doubt his work has a flashy brilliance, but it lacks solidly, and sooner or later the authorities will find out their mistake.’ So all the mediocre men will say if a really able man is allowed to rise as fast as his abilities deserve, and that is why there is a tendency to adopt the rule of seniority, which, since it has nothing to do with merit, does not give rise to the same envious discontent.

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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(7)」

 我々の各々が,自分自身に重要性を付与していることによって生じる奇妙な結果の一つは,我々がみずからの幸運や非運を,他の人々の行為の目的であるかのように想像しがちである,ということである。もしあなたが,草をはんでいる(食べている)雌牛(めうし)がいる牧草地(field)を,汽車(注:現在なら「電車」や自動車)に乗車して通りすぎると,時としてその雌牛たちは汽車が通り過ぎる時に恐怖を感じて逃げ去ることがあるかもしれない。もし仮にその雌牛が形而上学者であるとすれば,次のように論じるであろう。「私自身の欲望や希望や恐怖におけるすべてのものは,私自身に関連がある。従って,帰納的推論により,宇宙のすべてのものが私自身に関連をもっている,と私は結論する。それゆえ,このやかましい汽車は,私に良きことあるいは悪しきことのいずれかをなそうとしている(に違いない)。汽車はあのように恐ろしいかっこうでやってくるのだから,それが私に良いことをするつもりだとは考えられない。従って,慎重な雌牛として,私はそれから逃れる努力をするだろう,」と。たとえ諸君が,この形而上学的な反すう動物にむかって,汽車はレールから逸脱する(脱線する)つもりはないこと,また汽車は雌牛の運命にまったく無関心であることなどを説明しても,そのあわれな動物は,そのように不自然ないかなるものにも当惑を感じるであろう。自分に善意も悪意をももっていない汽車なるものは,自分に悪意をもつ汽車よりも,もっと冷淡かつもっと底深く恐るべきものと映るであろう。
まさにこのことが,人間の場合に起ってきている,自然の経過は,人間たちに時として幸運を,時として非運をもたらす。人間は,それが偶然に起るとは信じられないのである。前述の雌牛は,仲間の一匹が線路の上に留まり,汽車にひき殺されたことを知っており,もしも大部分の人間を特徴づけるような適度の知性をもっているならば,(その雌牛は)哲学的内省をおし進めて次のような結論を下すであろう。即ち,(汽車にひき殺された)あの不運な牛は,彼女の罪の故に,鉄道の神によって罰せられたのだ,と。司祭たちが線路にそって柵(さく)を設置すればその雌牛は喜び,若くて動き回る牛たちに,この柵にたまたま開いているところがあったとしても,それをけっして通ってはならない,(それを破った)罪の報い(wages 報酬)は死だ,と警告するであろう。人間たちはこれと類似の神話を創作することによって,自分たち人間がさらされている災難(不運)の多くを,自尊心を犠牲にすることなく,説明することに成功してきたのである。しかし時には,まったく有徳な人々にも災難がふりかかるが,その場合,我々は,どのように説明すべきだろうか? 我々は,いまだ,自分たち人間が宇宙の中心であるに違いないという感情から,災難はそれを誰も意図していないのに単に偶然にこれまで起ってきたのだということを認めることを妨げられる。そして自分たちは仮定によって邪悪ではないのであるから,自分たちの災難は誰かの悪意 -すなわち自分自身になんらかの便益を望んでではなく,ただ単に憎しみから我々に害を加えよぅとする誰か-に帰因するに違いない(と考える)。
悪魔学及び妖術や魔術への信仰を生じさせたものは,まさにこのような心の状態であった。魔女とは,利益のためではなく,まったくの憎しみから隣人たちに害を与える者である。魔女の妖術(魔法)を信じることは,17世紀の中頃まで,みずからを正義として残忍な行為をする心地よい情緒に,もっとも満足すべき吐け口を提供した。そのような信仰には,聖書による保証があった。というのは聖書は次のように言っているからである。「汝,魔女をして生かすべからず(魔女を生かしておいてはならない)」。そしてこの理由から,宗教裁判所(異端審問所)は魔女だけでなく,魔女の妖術が可能だと信じない人々をも,それが異端であるということで,罰したのである。科学は,自然の因果(作用)へ若干の洞察を与えることによって,魔術への信念(信仰)を蹴散らしたが,その信念を生じさせた恐怖や不安感をすっかり払拭することはできなかった。現代においては,同様の感情が外国を恐れるという形で吐け口を見出したのであり,この吐け口には,迷信による支えという方法は,それほど必要としない,ということを告白しなければならない。

One of the odd effects of the importance which each of us attaches to himself, is that we tend to imagine our own good or evil fortune to be the purpose of other people’s actions. If you pass in a train a field containing grazing cows, you may sometimes see them running away in terror as the train passes. The cow, if it were a metaphysician, would argue: ‘Everything in my own desires and hopes and fears has reference to myself; hence by induction I conclude that everything in the universe has reference to myself. This noisy train, therefore, intends to do me either good or evil. I cannot suppose that it intends to do me good, since it comes in such a terrifying form, and therefore, as a prudent cow, I shall endeavor to escape from it.’ If you were to explain to this metaphysical ruminant that the train has no intention of leaving the rails, and is totally indifferent to the fate of the cow, the poor beast would be bewildered by anything so unnatural. The train that wishes her neither well nor ill would seem more cold and more abysmally horrifying than a train that wished her ill. Just this has happened with human beings. The course of nature brings them sometimes good fortune, sometimes evil. They cannot believe that this happens by accident. The cow, having known of a companion which had strayed on to the railway line and been killed by a train, would pursue her philosophical reflections, if she were endowed with that moderate degree of intelligence that characterizes most human beings, to the point of concluding that the unfortunate cow had been punished for sin by the god of the railway. She would be glad when his priests put fences along the line, and would warn younger and friskier cows never to avail themselves of accidental openings in the fence, since the wages of sin is death. By similar myths men have succeeded, without sacrificing their self-importance, in explaining many of the misfortunes to which they are subject. But sometimes misfortune befalls the wholly virtuous, and what are we to say in this case? We shall still be prevented by our feeling that we must be the centre of the universe from admitting that misfortune has merely happened to us without anybody’s intending it, and since we are not wicked by hypothesis, our misfortune must be due to somebody’s malevolence, that is to say, to somebody wishing to injure us from mere hatred and not from the hope of any advantage to himself. It was this state of mind that gave rise to demonology, and the belief in witchcraft and black magic. The witch is a person who injures her neighbors from sheer hatred, not from any hope of gain. The belief in witchcraft, until about the middle of the seventeenth century, afforded a most satisfying outlet for the delicious emotion of self-righteous cruelty. There was Biblical warrant for the belief, since the Bible says: ‘Thou shalt not suffer a witch to live.’ And on this ground the Inquisition punished not only witches, but those who did not believe in the possibility of witchcraft, since to disbelieve it was heresy. Science, by giving some insight into natural causation, dissipated the belief in magic, but could not wholly dispel the fear and sense of insecurity that had given rise to it. In modem times, these same emotions find an outlet in fear of foreign nations, an outlet which, it must be confessed, requires not much in the way of superstitious support.
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