我々人間が妬み(ねたみ)がちであることの最も不幸な結果の一つは,それが経済的自己利益 -個人的及び国民的(経済的自己利益)の双方の- に関するまったく誤まった考え方をもたらしてきたことである。一つの喩え話でそれを例証してみよう。むかしむかし,ある中ぐらいの大きさの町があって,そこにはかなりの肉屋,かなりのパン屋,その他が住んでいました(注:a number of かなりの/市井訳では「一定量の」と訳されている)。並外れて精力のある一人の肉屋が,他のすべての肉屋がつぶれて自分が独占業者になれば,ずっと大きな利益をあげられるだろう,と心に決意しました。そこで他の店(競争相手)より組織的に安く売ることによって,彼はその目的を達成するのに成功しました。ただし,その(厳しい競争の)間に,彼の損失はひどくなり,資本や信用をあやつる能力はほとんどなくなってしまいました。同時に,ある一人の精力的なパン屋が,同じ考えを持っていて,同様な成功をかち得るまでやりぬきました。消費者たちに品物を売ることで生計をたてているあらゆる業種(商い)で,同じことが起こりました。成功した独占業者(店主)はすべて,大金を稼げる(裕福になれる)という幸福な予想をしていました。しかし,不幸なことに,破産した肉屋たちはもはやパンが買えず,また,破産したパン屋たちはもはや肉を買えない状況でした。彼らの使用人たちは解雇されなければならず,その使用人たちはどこかに行ってしまいました。結局のところ,(消耗戦に勝った)例の肉屋やパン屋だけが独占業者となりましたが,売りあげは以前よりも減ってしまいました。自分は競争相手から被害を被るかも知れないけれども,自分のお客たちから利益を得ているのであり,繁栄の一般的水準が向上すれば,お客の数はもっと増えてくる,ということを彼らは忘れていました。妬みから彼らは注意力を競争相手に集中させ,みずからの繁栄がお客たち(顧客)に依存しているという側面をまったく忘れていたのでした。(おしまい。)
One of the most unfortunate results of our proneness to envy is that it has caused a complete misconception of economic self-interest, both individual and national. I will illustrate by a parable. There was once upon a time a medium-sized town containing a number of butchers, a number of bakers, and so forth. One butcher, who was exceptionally energetic, decided that he would make much larger profits if all the other butchers were ruined and he became a monopolist. By systematically under-selling them he succeeded in his object, though his losses meanwhile had almost exhausted his command of capital and credit. At the same time an energetic baker had had the same idea and had pursued it to a similar successful conclusion. In every trade which lived by selling goods to consumers the same thing had happened. Each of the successful monopolists had a happy anticipation of making a fortune, but unfortunately the ruined butchers were no longer in the position to buy bread, and the ruined bakers were no longer in the position to buy meat. Their employees had had to be dismissed and had gone elsewhere. The consequence was that, although the butcher and the baker each had a monopoly, they sold less than they had done in the old days. They had forgotten that while a man may be injured by his competitors he is benefited by his customers, and that customers become more numerous when the general level of prosperity is increased. Envy had made them concentrate their attention upon competitors and forget altogether the aspect of their prosperity that depended upon customers.
Source: Bertrand Russell: Ideas That Have Harmed Mankind,1946 Reprinted in: Unpopular Essays, 1950
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誤った信念を産む最も強力な源泉の一つは,妬み(ねたみ)である。いかなる小さい町においても,もし比較的裕福な人々に尋ねてみれば,彼等はみな隣人の収入を誇張して考えており,そのことから隣人をケチ(meanness)だと非難することを正当化しているのがわかる(正当化しているのを見いだす)だろう。女性の嫉妬は男たちのあいだではよく知られている。しかし,大規模な事務所ならどこにおいても,まさに男性職員の間に同様の種類の嫉妬を見いだすであろう。(その職場の)男性職員の一人が昇進すると,他の男たちは次のように言うだろう。「ふん,あいつはお偉方に取り入る術を心得ているよ。もし私が自分を堕落させて,あいつが恥知らずにやったようなへつらい術を使っていたら,私もあいつとまったく同じように早く出世できたはずだ。たしかにあいつの仕事ぶりには線香花火のような才気(a flashy brilliance,)はあるが,堅実さに欠けている。それゆえ,遅かれ早かれ(←早かれ遅かれ),お偉がたは自分らの判断(昇進させたこと)の間違いに気づくだろう」。凡庸な男性はみな,もし(たとえ)本当にできる男がその才能に値する程度に早く昇格を認められたとしてもそのようにいうだろう。(注:ラッセル『人類の将来ー反俗評論集』の中の市井三郎訳では,「このように凡庸なすべての人々は、本当にできる男がその才能の値する程度に早く昇格できるようになればよい,というだろう」となっている。all the mediocre men will say so が倒置されて ‘So’ が先頭に来ているわけだが、’if’ は ここでは ‘even if’ の意味であることを捉え損なっていると思われる。) そしてこの理由から,年功序列制度を採用する傾向があるわけであり,それは功績とはなんの関係ももたないので,同様の妬みによる不満を生じさせないからである。
我々の各々が,自分自身に重要性を付与していることによって生じる奇妙な結果の一つは,我々がみずからの幸運や非運を,他の人々の行為の目的であるかのように想像しがちである,ということである。もしあなたが,草をはんでいる(食べている)雌牛(めうし)がいる牧草地(field)を,汽車(注:現在なら「電車」や自動車)に乗車して通りすぎると,時としてその雌牛たちは汽車が通り過ぎる時に恐怖を感じて逃げ去ることがあるかもしれない。もし仮にその雌牛が形而上学者であるとすれば,次のように論じるであろう。「私自身の欲望や希望や恐怖におけるすべてのものは,私自身に関連がある。従って,帰納的推論により,宇宙のすべてのものが私自身に関連をもっている,と私は結論する。それゆえ,このやかましい汽車は,私に良きことあるいは悪しきことのいずれかをなそうとしている(に違いない)。汽車はあのように恐ろしいかっこうでやってくるのだから,それが私に良いことをするつもりだとは考えられない。従って,慎重な雌牛として,私はそれから逃れる努力をするだろう,」と。たとえ諸君が,この形而上学的な反すう動物にむかって,汽車はレールから逸脱する(脱線する)つもりはないこと,また汽車は雌牛の運命にまったく無関心であることなどを説明しても,そのあわれな動物は,そのように不自然ないかなるものにも当惑を感じるであろう。自分に善意も悪意をももっていない汽車なるものは,自分に悪意をもつ汽車よりも,もっと冷淡かつもっと底深く恐るべきものと映るであろう。