『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』は当初、いくらか好意的でない受け取られかたをされた。ヨーロッパ大陸における数理哲学は、形式主義者(Formalists)と直観主義者(Intuitionists)との二つの学派に分れており、いずれも、数学を論理学から導出することに全面的に反対し、その反対を正当化するのに論理的矛盾(注:ラッセルのパラドクスなど)を利用していた(take advantage of) 。 ヒルベルト(David Hilbert, 1862-1943:ドイツの数学者で多くの研究者を育成した。高木貞治もドイツ留学時代にヒルベルトの教えを受けた。)のひきいる形式主義者たちは、算術の記号は紙に書かれた印(marks)にすぎず、意味をもたず(意味を欠いており)、算術はこれらの印を操作できるようにするために恣意的に(人為的に)定められた一定の規則 -チェスの規則のようなものー から成っていると主張する。この理論は全ての哲学的論争を回避可能という長所をもつが、我々が物を数えるときに数を用いる(適用する)ということを説明できないという短所をもっている。形式主義者の与える操作規則は全て、たとえ 0 という記号が百あるいは千あるいは任意の有限数を意味すると解釈しても(訳注:”if” = “even if”)、立証される(正しいことが確かめられる)。この理論は、「この部屋には人が三人いる」とか「十二人の使徒がいた」とかいうような単純な陳述の意味するところを、説明することができない。この理論は加え算(足し算)をすることを完全に理由づけるが、数の通用を理由づけえない(注:機械的な計算は九九の足し算の規則にしたがってやるだけなので可能だが、その数自体が意味を持たないので、例えばキリスト教の三位一体説の意味を説明不可能)。数が重要だとするのはその(意味を伴った)適用によってであるので、形式主義の理論は不十分であり、問題を回避しているとみなされなければならない。
Chapter 10 The Impact of Wittgenstein, n.1
Principia Mathematica had at first a somewhat unfavourable reception. Mathematical philosophy on the Continent was divided between two schools, the Formalists and the Intuitionists, both of whom rejected totally the derivation of mathematics from logic and took advantage of the contradictions to justify their rejection. The Formalists, led by Hilbert, maintain that arithmetical symbols are merely marks on paper, devoid of meaning, and that arithmetic consists of certain arbitrary rules, like the rules of chess, by which these marks can be manipulated. This theory had the advantage of avoiding all philosophical controversy, but it had the disadvantage of failing to explain the application of numbers in counting. All the rules of manipulation given by the Formalists are verified if the symbol 0 is taken to mean one hundred or one thousand or any other finite number. The theory is unable to explain what is meant by simple statements such as ‘there are three men in this room’ or ‘there were twelve apostles’. The theory is perfectly adequate for doing sums, but not for the applications of number. Since it is the applications of number that make it important, the Formalists’ theory must be regarded as an unsatisfactory evasion.
Source: My Philosophical Development, chap. 10:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_10-010.HTM
月別アーカイブ: 2021年10月
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.9
私は上述の理論を事実を説明する唯一の理論として、あるいはまた、必ずしも真なるものとして提出したのではなかった(注: necessarily 否定構文においては「必ずしも~ではない」 Learned men are not necessarily wise. 学者は必ずしも賢明とは限らない)。私はその理論(学説)を、それまでに知られていたあらゆる事実と一致しており、かつそれまでのところ、そのように主張してよい唯一の理論として、提出した(のである)。この点では、(注:諸事実と一致し主張できるという点では)、たとえばアインシュタインの一般相対性理論と同一水準のものである。そういった理論は、事実の証明しうる範囲を超えていても、その理論が難問を解決し、既知の諸事実といかなる点でも矛盾しないのであれば、少なくとも今のところは(pro tem.)、受けいれることができる(注:2つの文の接続詞は「and」であるが、ここは「しかも;ではあるが」の意味)。これが上述の理論のために私の主張(要求)するところの全てで、それはあらゆる科学的理論が当然主張(要求)すべきものと同程度のものである(以上のものではない)。 点を事象の集合として構成するホワイトヘッドの方法は、私が上の理論に到達するためにとても大きな助けとなった。けれども、事象(というもの)が、実際に、幾何学的な点について我々が期待するような特質を完全に具えている何ものかを構成するのに役立つかどうかは疑わしい、と私は考えている(lend themselves to ~に役立つ)。ホワイトヘッドは、あらゆる事象は有限な広がりをもつが、しかしひとつの事象のひろがりには極小(値)は存在しないと仮定(前提と)した。私は、どれもある一定の極小値より小さくないところの事象の集合から(幾何学的な)点を構成する方法を見つけた。しかしホワイトヘッドの方法も私の方法も、ある一定の前提(仮定)にもとづいてのみ有効となる。そういう前提(仮定)がなければ、非常に小さな領域には至ることはできても、(幾何学の)点に至ることはできないであろう。(注:幾何学における点は面積をもっていない!)上の説明では「点」と言うよりむしろ「極小の領域」と言ったのはこのためである。しかし、私は、このことが何か重大な相違を生じさせるとは考えない。
Chapter 9 The External World, n.9
I did not offer the above theory as the only theory which would explain the facts, or as necessarily true. I offered it as a theory which is consistent with all the known facts and as, so far, the only theory of which this can be said. In this respect it is on the same level as, for example, Einstein’s General Theory of Relativity. All such theories go beyond what the facts prove and are acceptable, at least pro tem., if they solve puzzles and are not at any point incompatible with known facts. This is what I claim for the above theory, and it is as much as any general scientific theory ought to claim. Whitehead’s method of constructing points as classes of events was a great help to me in arriving at the above theory. I think, however, that it is doubtful whether events do, in fact, lend themselves to the construction of anything having quite the characteristics that we expect of a geometrical point. Whitehead assumed that every event is of finite extent, but that there is no minimum to the extent of an event. I found a way of constructing a point out of classes of events none of which is smaller than an assigned minimum; but both his method and mine will only work on certain assumptions. Without these assumptions, although one can arrive at very small regions, one may be unable to arrive at points. It is for this reason that in the above account I have spoken of ‘minimal regions’ rather than points. I do not think that this makes any important difference.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-090.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.8
前述したように(上で言及したように)、事象を(一つに)集めて束にするもうひとつの方法(やり方)がある。この方法においては、ひとつの物(thing もの)の「現われ」である全ての事象を集める代わりに、ひとつの物理的場所における「現われ」であるところの全ての事象を集める。(そうして)ひとつの物理的場所における事象の全体を,私はひとつの「パースペクティブ(視野)」と名付ける(名付けている)。一定の時刻における私の知覚(percepts)の全体はひとつのパースペクティブ(視野)を形づくる(訳注:これは私的なもの)。機器(instruments 器具)がある一定の場所で記録することができる全ての事象の全体もひとつのパースペクティブ(視野)を形づくる。前の(第一の)(事象の)束ね方では、我々は太陽の多くの「現われ」から成る(一つの)束を得た。しかし(この)第二の方法(事象の束ね方)では、ひとつの束は、その場所から知覚しうる各々の「物」のそれぞれの「現われ」と結びついている太陽のただひとつの「現われ」を含んでいるだけである。(事象の)束をつくるこの第二のやり方は、特に心理学において適切なやり方である。ひとつのパースペクティブ(視野)は、それがたまたまひとつの脳内(特定の個人の脳内)で起こる時は(happen to be)、その脳の持主である人間の持つその瞬間の知覚(percept)の全てからなっているであろう。これらすべてのパーセプト(知覚)は、物理学の見地から言えばひとつの場所にあるが、当のパースペクティブ(視野)内では空間的諸関係があり、それにより(そのせいで) 、物理学にとってはひとつの場所であるものが、三次元の複合体となる(訳注:前述の理由からです。) ひとつの物(もの)について異なる人がもつ知覚(perceptions)の相違についての全ての難問(puzzles)、またひとつの物理的対象とそれの異なる場所における現われとの間にある因果関係についての難問、最後には(おそらくこれが最も重要であろうが)精神と物質との間の因果関係についての難問は、全てこの理論によって一掃される。それら難問は全て、与えられた知覚像に関係する三つの場所を区別しえなかったことによって引き起こされたものである。繰り返すと、その三つの場所とは、(1)物理的空間においてその「物(もの)」がある場所、(2)物理的空間において私のいる場所、(3)私のパースペクティブ(視野)の中で私のその知覚(像)(パーセプト)が他(者)の知覚(像)との関係において占める場所、(の3つ)である。
Chapter 9 The External World, n.8
There is, as I remarked above, another way of collecting events into bundles. In this way, instead of collecting all the events which are appearances of one thing, we collect all the events which are appearances at one physical place. The whole of the events at one physical place, I call a ‘perspective’, ‘the total of my percepts at a given time constitutes one perspective. So does the total of all the events that instruments could record at a given place. In our previous way of making bundles, we had a bundle consisting of many appearances of the sun. But, in this second way, one bundle contains only one appearance of the sun associated with one appearance of each ‘thing’ that is perceptible from that place. It is this second way of making bundles that is especially appropriate in psychology. One perspective, when it happens to be in a brain, will consist of all the momentary percepts of the man whose brain is concerned. All these, from the standpoint of physics, are in one place, but, within the perspective concerned, there are spatial relations in virtue of which what was for physics one place becomes a three-dimensional complex. All the puzzles about the differences between different people’s perceptions of one thing, and about the causal relation between a physical thing and its appearances at different places, and, finally (perhaps most important of all), between mind and matter, are cleared away by this theory. The puzzles have all been caused by failure to distinguish the three places associated with any given percept which are (I repeat): (1) the place in physical space where the ‘thing’ is; (2) the place in physical space where I am; (3) the place in my perspective which my percept occupies in relation to other percepts.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-080.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.7
この理論によれば(この理論では)、事象(event)を(一つの)束に集めるのに二つの方法(やり方)がある。(即ち)一方で(一つは)、ひとつの「もの(thing)」の現われと見ることができる全ての事象(event)をひとつの束にすることが可能である。たとえば、その(該当する)「もの」が太陽であるとしよう。するとまず、太陽を見ている人の持つあらゆる知覚像があり、次に、天文学者たちのそのときとりつつある(撮影しつつある)あらゆる写真があり、最後に、多様な場所でそれらの出来事(occurrences)を持つので(出来事が発生するので)、それによって(in virtue of それによって;そのおかげで)、それらの場所において(今はその場所にいないが、もしいたとすれば)太陽を見たり写真に取ったりすることが可能であろう。【みすず書房版の訳書で野田氏は、”event”も”ocurrence”も両方とも「出来事」と訳出している。大部分の場合はそれでよいであろうが、この段落のように、2つの言葉が同時に出てくる場合は、”event”は「事象」、”ocurrence”は「出来事」といったように訳し分けたほうがよいと思われる。】 この事象(event)の束の全体は、物理学の太陽(物理学が扱う太陽)と因果的に結合している。それらの事象(events)は、物理的空間において太陽のある場所から外側に向かって(outward)、光速度で前進する。それら事象(events)が太陽から進むにつれて(As)、それらの(事象の)性質は二つの仕方で変化する。第一は「規則的な」仕方と呼びうるものであり、逆二乗の法則に従って大きさと強度が減少することである。この種の変化は、相当正確な近似度で、空っぽの空間においてのみ起る。しかし、物質の存在する場所において太陽が示すところの様相は、その物質の性質によって異なった仕方で変化する。霧は太陽を赤く見えるようにし、薄い雲は太陽を曇らせ(薄暗くさせ)、全く不透明な物質は太陽を何ら現われをなくする。(私が「現われ(appearance)というとき、人々の見るところのものだけでなく、知覚者のいない場所において太陽との関係において起っている出来事も考えている)。そして中間に介在する媒体が、眼や視神経を含んでいる場合、その結果生ずる太陽の「現われ」が、誰かが(もしそこに誰かがいたとしたら)現実に見るところのものである。 ひとつの与えられた対象(物)の、異なる場所から見られる種々の現われは、それらが「規則的(regular)」であるかぎり、視覚的である場合は遠近法(laws of perspective)によって結びついており、眼以外の感覚によって認められる場合は、いくらか遠近法と似かよった法則によってむすびついている。(注:たとえば、音の場合は近くにある場合は大きく、遠くにある場合は小さく、聞こえるといったところか?)
Chapter 9 The External World, n.7 There are, in this theory, two ways of collecting events into bundles. On the one hand, you may make a bundle of all the events which can be considered as appearances of one ‘thing’. Suppose, for example, that the thing concerned is the sun. You have, to begin with, all the visual percepts of the people who are seeing the sun. Next, you have all the photographs of the sun that are being taken by astronomers. And lastly, you have all those occurrences at various places in virtue of which it would be possible to see or photograph the sun at those places. The whole of this bundle of events is causally connected with the sun of physics. The events proceed outward with the velocity of light from the place in physical space where the sun is. As they proceed outward from the sun, their character changes in two ways. There is first what may be called a ‘regular’ way, which consists of a diminution of size and intensity in accordance with the inverse square law. To a fairly close degree of approximation, this kind of change is alone operative in empty space. But the aspects presented by the sun in places where there is matter change in ways which depend upon the nature of the matter. Mist will make the sun look red, thin clouds will make it look dim, completely opaque matter will make it cease to present any appearance at all. (When I speak of ‘appearance’, I am not thinking only of what people see, but also of occurrences connected with the sun in places where there is no percipient.) When the intervening medium contains an eye and an optic nerve, the resulting appearance of the sun is what somebody actually sees. The appearances of a given object from different places, so long as they are ‘regular’, are connected by the laws of perspective when they are visual and by not wholly dissimilar laws when they are such as would be revealed by other senses.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-070.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.6
我々(人間)の外界の知識に関する理論における、いくつかの目新しい着想(novelties 目新しさ,新規性)が、1914年の1月1日に突然、私にパットひらめいた(burst on me 襲いかかる;私の上で破裂する)。それらのなかで最も重要なものは、空間は、単に三次元でなく(三次元からなっているのではなく)、六次元を持つという理論であった。(訳注:物理学の最先端の理論である超弦理論では世界は11次元からなっていると主張されている。興味のある方は「超弦理論」で検索してみてください。) 物理学の空間において一点とみなされるもの、あるいは、もっと正確に言うと、「最小領域」(注:空間としての最小単位)とみなされるものは(count as a point)、実は、それ自身、三次元の複合体であり、その一例が一人の人間のパーセプト(知覚像)の全体である、という結論に私は至った(導かれた)。いろいろな考察(considerations)により私はこの見解にたどり着いた(導かれた)。その中で恐らく最も説得力があるものは(cogent 説得力がある、納得できる)、生きた知覚者のいない場所で、もし人間がそこに居合わせたら知覚する(知覚できる)であろうような事物を記録する機器(器具)を製作できるだろうということである。写真乾板(a photographic plate )は星空(the starry heavens)の任意に選ばれた部分の写真(像)をつくり出すことができる。ディクタホン(注:テープレコーダとヘッドホンの組み合わせたもので、米国に深く浸透している録音機。教授が録音したテープを聞きながら、秘書がワープロに入力・文字化する機械)は、その機械のそばで人の話すことを録音できる(take down 書き取る)。このようにして、人が(その機械と)同じ位置にいたなら知覚するであろうことに似たような機械的記録を作りだせることには、理論的な制限はまたく存在しない。星空を写真にとるという事例が、関連していることを(全て)例証する、恐らく最もよい例であろう。いかなる星でも、人間の眼がそこにあればそれを見ることができるであろういかなる場所からでも、写真にとることが可能である。従って、写真乾板が設置される場所で、そこから(そこにおいて)写真に写しうる全ての異なる星々と結びついている,いろいろな物事が起っている、ということになる(It follows that ~ 当然~ということになる)。(また)物理空間のひとつのちっぽけな領域において、そこで人間が見ることができる、あるいは機器によって記録することができる,あらゆるものに対応した莫大な多様な出来事が、あらゆる瞬間に存在する、ということになる。さらに、これらの出来事は、相互に空間的関係をもち、それらの関係は、物理的空間においてそれら出来事に対応する諸対象と、多少とも、正確に、対応している。星々の写真にあらわれる複合的世界の全体は、その写真がとられる場所に存在するのであり、同様に、私の知覚像の複合的世界の全体は、私のいる(私が現在いる)場所に存在するのである。ただし、いずれも、物理学の見地から見てのことである。この理論によると、私が一つの星を見るとき、3つの場所が関係してくる。(即ち、)二つは物理的空間(注:公共空間)にあり、一つは私の私的空間にある。(即ち)物理的空間において星のある場所。物理的空間において私のいる場所、及び、私のもつ星の知覚像が私の他のさまざまな知覚像の間に存在する場所(の3つ)。
Chapter 9 The External World, n.6
There were several novelties in the theory as to our knowledge of the external world which burst upon me on New Year’s Day, 1914 . The most important of these was the theory that space has six dimensions and not only three. I came to the conclusion that what, in the space of physics, counts as a point, or, more exactly, as a ‘minimal region’, is really a three-dimensional complex of which the total of one man’s percepts is an instance. Various considerations led me to this view. Perhaps the most cogent is that instruments can be constructed which, at places where there are no living percipients, will make records of the sort of things that a man might perceive if he were at those places. A photographic plate can produce a picture of any selected portion of the starry heavens. A dictaphone can take down what people say in its neighbourhood. There is no theoretical limit to what can be done in this way to make mechanical records analogous to what a person would perceive if he were similarly situated. The case of photographing the starry heavens is perhaps the best for illustrating what is involved. Any star can be photographed at any place from which it would be visible if a human eye were there. It follows that, at the place where a photographic plate is put, things are happening which are connected with all the different stars that can be photographed there. It follows that in one tiny region of physical space there is at every moment a vast multiplicity of occurrences corresponding to all the things that could be seen there by a person or recorded by an instrument. These things, moreover, have spatial relations to each other which correspond more or less accurately with the correlated objects in physical space. The whole complex world that appears in a photograph of stars is at the place where the photograph is taken and, likewise, the whole complex world of my percepts is where I am — speaking, in each case, from the standpoint of physics. According to this theory, when I see a star, three places are involved: two in physical space and one in my private space. There is the place where the star is in physical space; there is the place where I am in physical space; and there is the place where my percept of the star is among my other percepts.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-060.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.5
これらの理論の中の第二と第三(の理論)は、私が経験することから私の経験しない何ものかへの推論を必要とする(demand 強く要求する)。そのような推論は、論理的に証明可能なものではありえず、演繹的論理学の外にある原理を受けいれることによってのみ有効にできる(validated by 正当性が認められる)。「哲学の諸問題」(注:邦訳書名は『哲学入門』) 及びそれ以前に私の考えていた全てにおいて、私は物理学に出てくる物質をそのまま受けいれていた。しかし,このことは、物理学と知覚との間に、別の言い方で言えば、精神と物質との間に、不愉快な大きな隔たりを残した。(また)物理学者の(が前提とする)「物質」を捨て去ろうという私の初期の熱意のなかで、ある(与えられた)知覚者が知覚しない仮説的存在(hypothetical entities)を、彼(人間)が知覚する諸要素のみから組み立てられた構成物として示すことができることを望んだ。これは、(ボストンでの)ローウェル講演(連続講義)において提示したその理論(説)の最初の(詳細な)説明(exposition)において、ひとつの可能性として示された(として示した)。この最初の詳しい説明(解説)は、1914年に Scientia 誌(スキエンティア)に発表した「センス・データ(感覚所与)と物理学との関係」と第する論文の中であった。【訳注:みすず書房版の訳書で野田氏は「・・・ひとつの可能性として”暗示”された。この点を初めてはっきり述べたものは・・・」と訳している。ここは素直に「・・・で提示した(提示された)この最初の詳しい説明(解説)は、1914年に Scintia 誌(スキエンティア)に発表した。」と訳すべきではないか。ラッセルは”expositon”という言葉を2回使っており、いることに注意/なお、この論文はその後 Mysticism and Logic, 1918に収録されている。〕 この論文の中で私は次のように言った「もし物理学が検証可能(verifiable)であるべきならば、我々は次の問題に直面する。即ち、物理学はセンス・データ(感覚所与)を物理的対象の関数(functions)として示すが、しかしその検証(verification)は、物理的対象が感覚所与の関数として示されうる場合にのみ可能である。それゆえ、我々は感覚所与(データ)を物理的対象の言葉で与える(説明する)方程式を解かなければならず、それどころか(indtead その代わりに)、物理的対象を感覚所与(データ)の言葉で与える(表現する)方程式にしなければならない」。けれども、間もなく私は、これは実現不可能な企て(programme 計画)であり、物理的対象は現実に経験された諸要素からなる構成物と解釈できないと信ずるようになった。この同じ論文のなかで、その後の方の部分で、二種類の推論を許容すると説明している。即ち、(自分の感覚所与だけでなく)(a)他人の感覚所与(を認めること)(注:自分の感覚所与の延長)、また(b)私が「センシビリア」と呼ぶもの、つまり(感覚所与を)知覚する心がまったく存在しない場所において事物が存在している「現れ」(appelarance)であると私が想定するもの(を認めること)(である)。そしてさらに続けて,これら二種の推論なしにすますことができ、「また、そうして、物理学を独我論的基礎の上に立てることができればよいと思うが、論理的な無駄の無さ(logical economy)よりも人間的愛情(注:他人の存在を認めたいという感情)の方を強くもっている人々は --そういった人が大多数だと思うが-- きっと、独我論を学問的(科学的)に十分なものとしたいという私の欲求には、同感しないであろう」と言っている(書いている)。そういうわけで私は(自分が)経験するデータ(所与)のみから「物質」を構成しようとする企てを断念した。そうして、物理学と知覚とを、調和的に、ひとつの全体に適合させる世界像で満足した(のである)。
Chapter 9 The External World, n.5
The second and third of these theories demand inferences from what I experience to something which I do not experience. Such inferences cannot be logically demonstrative and can only be validated by accepting principles which lie outside deductive logic. In the Problems of Philosophy and in all my previous thinking, I had accepted matter as it appears in physics. But this left an uncomfortable gulf between physics and perception, or, in other language, between mind and matter. In my first enthusiasm on abandoning the‘ matter’ of the physicist, I hoped to be able to exhibit the hypothetical entities that a given percipient does not perceive as structures composed entirely of elements that he does perceive. This was suggested as a possibility in my first exposition of the theory that I advanced in the Lowell Lectures. This first exposition was in a paper called ‘The Relation of Sense-Data to Physics’, published in Scientia in 1914. In this paper I said: ‘If physics is to be verifiable we are faced with the following problem: Physics exhibits sense-data as functions of physical objects, but verification is only possible if physical objects can be exhibited as functions of sense-data. We have therefore to solve the equations giving sense-data in terms of physical objects, so as to make them instead give physical objects in terms of sense-data.’ I soon, however, became persuaded that this is an impossible programme and that physical objects cannot be interpreted as structures composed of elements actually experienced. In this same paper, in a later passage, I explain that I allow myself two sorts of inferences: (a) the sense-data of other people and, (b), what I call ‘sensibilia’, which I suppose to be the appearances that things present in places where there are no minds to perceive them. I go on to say that I should like to be able to dispense with these two kinds of inferences ‘and thus establish physics upon a solipsistic basis; but those — and I fear they are the majority — in whom the human affections are stronger than the desire for logical economy, will, no doubt, not share my desire to render solipsism scientifically satisfactory’. Accordingly, I gave up the attempt to construct ‘matter’ out of experienced data alone, and contented myself with a picture of the world which fitted physics and perception harmoniously into a single whole. Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959. More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-050.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.4
′この問題と取り組むことが可能な方法(やり方)にはいろいろある。もっとも単純なのは独我論のやり方である。(ここで)私は,独我論を一つ仮説として考えており、信条(dogma 教義)として考えてはいない。即ち、私が(今)念頭においている独我論は自分自身の経験(すること)以外には、何事かを主張したり否定したりする合理的な理由(論拠)は存在しないという説(doctrine 理論/学説)である。私はこの理論が論駁可能とは思わないが、誰かがそれを真面目に信じることができるとも考えない。 (また)自分自身のものであれ、他人のものであれ、経験(すること/したこと)を受けいれることは合理的(分別がある)が、誰もが経験しない出来事の存在を(人間が)信じることは合理的ではないという考えを持っている人もいる。この理論は、他人の証言(testimony)は受けいれるが、生命のない物質の存在を信ずることを拒否する。 最後は、素朴実在論者と物理学者とが意見が一致しているところの成熟した説(full-fledged theory 羽毛のはえそろった=成熟した理論)があり、それによれば、生きているもの、経験の集合、及び生命を持たないもの(の3種類)が存在している。(訳注:経験の集合のなかには、チンパンジーなど、感覚器官をもっている動植物=生命体が含まれる。)
Chapter 9 The External World, n.4
There are various ways in which we may attempt to tackle this problem. The simplest is that of solipsism. I am thinking of solipsism as a hypothesis and not a dogma. That is to say, I am considering the doctrine that there is no valid reason either to assert or to deny anything except my own experiences. I do not think this theory can be refuted, but I also do not think that anybody can sincerely believe it. There are some who hold that it is reasonable to accept experiences, whether one’s own or other people’s, but that it is not reasonable to believe in events which no one experiences. This theory accepts testimony from other people but refuses to believe in lifeless matter. Lastly, there is the full-fledged theory in which the naive realist and the physicist are agreed, according to which some things are alive and are sets of experiences and others are lifeless.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-040.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.3
我々(人間)の物理的知識の源泉としての知覚の問題は、私にとって、大変厄介な問題(perplexing 厄介な)に思われた。二人の人がある対象を見るとき、視野と光がやってくる方向(he way the light falls)とのせいで(の違いのため)、二人が見るものには(いろいろ)差が存在している。そうして,事物をあるがままにみている知覚者を(誰か)一人選びだす(選び出すことができる)根拠(reason)はまったく存在していない(訳注:そんな知覚者は存在しない)。従って、我々は物理的なもの(物的対象)が任意の誰かの見る通りのものであると想定することはできない。これは物理学者にとってはあたりまえのことである。我々は、原子や分子 -それらは、物理学者が物理的対象の構成要素(constituents 成分)であると保証するところのもの- を見ない(裸眼で見ることはできない)。さらに、生理学者もまた等しく我々を落胆させる(discouraging)。(即ち)眼から脳への複雑な因果の連鎖が存在し(眼から入った刺激が神経を通って大脳に到達)、我々が見るところのものは大脳において起ることに依存していることを、生理学者は明らかにする。もし仮に、通常の原因によって生ずるのと同様の大脳の状態が、何か異常な原因によって生ずるならば、我々はいつものように物理的対象とつながりを持っていない視覚を持つことがありうる(訳注:大脳の特定の部分に電気的刺激を与えると、たとえば、犬が襲ってくる幻覚を見るかも知れない)。もちろん、こういったたぐいのものは、特に視覚に結びついてはいない(視覚に限られるものではない)。(たとえば)脚がすでに切断されているのに足の親指に痛みをを感じるというよく知られた実例によっても例証される。そういった(いろいろな)論拠から明らかになることは、我々が直接経験することは物理学が扱う外的対象ではありえないということであり、しかも,我々が直接に経験することのみが物理学の世界の存在を我々が信ずる根拠だということである。
Chapter 9 The External World, n.3
The problem of perception as the source of our physical knowledge seemed to me very perplexing. When two people look at a given object there are differences between what they see owing to perspective and the way the light falls. There is no reason to single out one percipient as seeing the thing as it is. We cannot, therefore, suppose that the physical thing is what anybody secs. To the physicist this is a commonplace: we do not see atoms and molecules, which, the physicist assures us, are the constituents of physical objects. The physiologist is equally discouraging. He makes it clear that there is an elaborate causal chain from the eye to the brain and that what you see depends upon what happens in the brain. If the same state of brain can be produced by other than the usual causes, you may have a visual sensation not connected in the usual way with a physical object. This sort of thing is not specially concerned with the sense of sight. It is illustrated by the familiar example of the man who feels pain in his great toe although his leg has been amputated. Such arguments make it clear that what we directly experience cannot be the external object with which physics deals, and yet it is only what we directly experience that gives us reason to believe in the world of physics.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-030.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.2
点と瞬間と粒子とに関して、私はホワイトヘッドによって、「独断的まどろみ」(dogmatic slumbers)から目覚めさせられた。ホワイトヘッドは、各々有限なびろがりでなっている出来事(事象)の集合として点や瞬間や粒子を構成する方法を考え出した。これによって、我々(ラッセルとホワイトヘッド)が(先に)算術において用いたと同種の方法で、物理学においてもオッカムの剃刀を用いることが可能となった(注:最小の装置や道具で最大の成果を得ること)。私は数学的論理学の手法のこの新たな適用を大いに喜んだ。そしてこれは、理論物理学における諸概念の円滑さ(smoothness ひっかかりのなさ)は全て世界の本性(性質)よりはむしろ数学者の技巧(ingenuity 発明の才)に起因する(attributed to ~に帰属する)ことを示しているように思われた。それはまた、知覚の問題に関して(も)全く新たな展望を開くように思われた。1914年の春、ボストンにおいて「ローウェル講義(ローウェル記念連続講義)」をするように依頼をを受けたとき、私は講義の題目として「外界に関する我々の知識」を選び、そうして、この問題に関してホワイトヘッドの新しい道具(apparatus 装置)を活用する仕事にとりかかった。
Chapter 9 The External World, n.2
As regards points, instants, and particles, I was awakened from my ‘dogmatic slumbers’ by Whitehead. Whitehead invented a method of constructing points, instants, and particles as sets of events, each of finite extent. This made it possible to use Occam’s razor in physics in the same sort of way in which we had used it in arithmetic. I was delighted with this fresh application of the methods of mathematical logic. It seemed to suggest that all the smoothness of the concepts used in theoretical physics could be attributed to the ingenuity of mathematicians rather than to the nature of the world. It seemed, also, to open an entirely new vista on the problems of perception. Having been invited to deliver the Lowell Lectures in Boston in the spring of 1914, I chose as my subject ‘Our Knowledge of the External World’ and, in connection with this problem, I set to work to utilize Whitehead’s novel apparatus.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-020.HTM
バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第9章 「外界」 n.1
『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』の執筆が終わるとすぐに、その本がまだ印刷中に、ギルバート・マレー(George Gilbert A. Murray, 1866-1957: 英国の古典学者で、オックスフォード大学及びハーバード大学の教授を務めた。)から、私の哲学の概要を通俗的な言葉(in popular terms 通俗的な用語を使って)で述べる(setting out)小著を「家庭大学叢書」(The Home University library オクスフォード大学出版局のシリーズもの)のために書いてみないかと誘われた。この誘いは幸運な時にやってきて、私は記号的演繹推理の厳格さから逃れるのが嬉しく、また、当時の私の見解は、それ以前にも以後にもなかったほどのはっきりした(クリアカットの)明確な形をもち、単純な(simple 複雑でない)やり方で述べることが容易であった。この本は大きな成功を収め、現在でも広範囲に売られている(読まれている)。大部分の哲学者(たち)はいまでもこの本を私の見解を考えを十分に述べたものだと考えているように思われる。 読み返してみるとその中で述べた多くのことを今でも私は真だと(正しいと)信じていることに気づく(見い出す)。「知識」は正確な概念でなく、「蓋然的意見」(probable opinion)と分離できるものではない(merge into ~と融合する)ということに、私は今でも同意する(注:科学も含め、疑えないような「確実な知識」というようなものはないということ)。自明性は程度をもつということ、またびとつの一般的命題を、それの真理を示すただびとつの例をも知ることなしに、知りうる。たとえば、「いままで掛け合わされたことのなかったいかなる二つの数(数のペア)も、1,000より大である積(products)をもつ」(という一般命題)を知りうるということに、私は今でも同意する(注:わかりにくいかも知れない。5×3=15ですが、これは「今まで掛け算されたことがなかった」ものではありません。いままで想像されてことのない2つの数字を掛け合わせて1,000以下の例をあげることは不可能です)。しかし、私の見解が(その後)重要な(重大な)変化を受けた他の事柄があります。私はもはや論理の法則が事物の法則であるとは考えない。私は現在では論理の法則を単に言語的なものだと見なしている。(また)私はもはや点や瞬間や粒子(particles)を世界を作る素材(原材料)の一部とは考えない。また、この小さな本で私が帰納(induction)について述べたことは、今ではとても粗雑であると考える。またこの本では、普遍者及び普遍者についての我々の知識について、強い確信をもって述べたが、そういう確信をいまではもはやもっていない。もっとも(though)、私は同じくらいの確信をもって今主張できると思う何か新たな意見(見解)をこの問題(帰納の問題)についてもっているわけではない。
Chapter 9 The External World, n.1 Shortly after the writing of Principia Mathematica was finished, and while the book was still printing, I was invited by Gilbert Murray to write a little book for The Home University Library setting out in popular terms a general outline of my philosophy. This invitation came at a fortunate moment. I was glad to escape from the rigours of symbolic deductive reasoning, and my opinions at that moment had a clear-cut definiteness which they did not have earlier or later and which made them easy to expound in a simple manner. The book had a great success and still sells widely. I think that most philosophers still regard it as an adequate exposition of my opinions. I find, on re-reading, that there is a great deal in it which I still believe in. I still agree that ‘knowledge’ is not a precise conception, but merges into ‘probable opinion’. I still agree that self-evidence has degrees and that it is possible to know a general proposition without knowing any single instance of its truth – e.g. ‘all the pairs of numbers that have never been multiplied together have products greater than 1,000’. But there are other matters on which my views have undergone important changes. I no longer think that the laws of logic are laws of things ; on the contrary, I now regard them as purely linguistic. I no longer think of points, instants, and particles as part of the raw material of the world. What I said about induction in this little book now seems to me very crude. I spoke about universals and our knowledge of them with a confident assurance which I no longer feel, though I have not any new opinions on the subject which I feel prepared to advocate with equal confidence.
Source: My Philosophical Development, chap. 9:1959.
More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_09-010.HTM