まず肉体を取り上げよう。実体の概念が保持されている限り,肉体の復活は地上に生きていた時に肉体を構成していた実際の物質の再構成(組み立て直し)を意味していた。(その人の肉体の)実体は多くの変様を受けた可能性があるが,(その実体は)同一性を保持していた(と実体を信じる人は考える)。けれども,もしひとまとまりの物質が諸属性の集成にすぎないのなら,それらの属性が変化する時,その同一性は失われ,肉体の復活の後,天上の肉体がかつて地上の肉体であった「もの」と同一であると言うことには何の意味もない。とても奇妙な話であるが,このような困難は現代物理学において起っている困難とまさに同等である(exactly paralleled )。一つの原子はそれに随伴する電子とともに,突然の変換(注:sudden transformations エネルギーを失ってより外側の軌道に移るなど)を受けやすいが,変換後に現れる電子を以前現われていた電子と同一視することはできない。(変換前及び変換後の)各々の原子は観察可能な現象をグルーピングする(まとめる)一つの方法にすぎず,変化を通して同一性を保持するのに必要な「実在性」というようなものは有していない。 「実体」を捨てた結果生ずる影響は肉体に関してよりも魂に関して(の影響の方が)より深刻であった。けれども,その結果は非常にゆっくりと現れた。なぜなら,多数の(多様な)古い理論(説)を欠点を減らした(attenuated 弱毒化した)形態のものが,しばらくの間,なおも擁護できるものだと考えられていたからであった。(欠点を修正したものとして)まず,神学的な意味をさけているように見えるようにするため,「魂」という言葉は「精神」という言葉に代えられた。それから,「精神」(=その言葉)は「主観」という言葉に代えられ(代替され),この(主観という)言葉は,特に「主観的」「客観的」と(想定される)対照のなかで(in the supposed contrast of),今日でもなお残っている。従って,「主観」(という言葉)について少しふれておかなくてはならない。
Chapter V Soul and Body, n.6 Take first the body. So long as the conception of substance was retained, the resurrection of the body meant the reassembling of the actual substance which had composed it when alive on earth. The substance might have passed through many transformations, but had retained its identity. If, however, a piece of matter is nothing but the assemblage of its attributes, its identity is lost when the attributes change, and there will be no sense in saying that the heavenly body, after the resurrection, is the same “thing” that was once an earthly body. This difficulty, oddly enough, is exactly paralleled in modern physics. An atom, with its attendant electrons, is liable to sudden transformations, and the electrons which appear after a transformation cannot be identified with those that had appeared before. Each is only a way of grouping observable phenomena, and has not the sort of “reality” required for the preservation of identity through change. The results of the abandonment of “substance” were even more serious as regards the soul than as regards the body. They showed themselves, however, very gradually, because various attenuated forms of the old doctrine were, for a time, thought to be still defensible. First the word “ mind ” was substituted for the word “soul,” in order to seem to avoid theological implications. Then the word “subject” was substituted, and this word still survives, particularly in the supposed contrast of “subjective” and “objective.” A few words must, therefore, be said about the “subject.”
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.5
このようにして,啓示(訳注:人知ではわからないような事を神が現し示すこと)によらなければ,我々は,ある時見られた事物や人物(人格)が別の時に見られた似通ったものと同一であるか否か,決して確信することはできないと思われた。(訳注:この前の段落と同じく It appeared that の「appeared」は辞書の2番目に出てくる意味の「思われた」。荒地出版社半の津田訳では「明らかである」と訳している。無神論者のラッセルがキリスト教の言っているように「啓示によらなければ~確かめ得ないことは明らかである」などと言うはずがないことに気づくべきであろう。)実際,我々(人間)は絶えず間違いの喜劇の(間違いの喜劇を引き起こす)危険にさらされている(のである)(訳注:『間違いの喜劇(The Comedy of Errors)』はシェイクスピア作の5幕ものの喜劇で,離れ離れになってしまった双子の兄弟とその2人に仕える双子の召使いが巻き起こす騒動を描いている)。ジョン・ロックの影響の下,彼の弟子たち(followers 信奉者たち)は,ロックがあえてやろうとしなかった一歩を踏んだ。即ち,彼らは実体という観念(概念)の効用を全否定したのである。彼らはこう言っている。(即ち)ソクラテス(という人物)は我々が彼について知りうる限りにおいて,その諸属性によって知られる(我々は知る)。ソクラテスは何時何処で暮らしていたか,彼はどんな外見・容貌をしていたか,彼は何をしたか等々について言えば,彼について語るべきことを全て尽したことになる。(つまり彼らによれば)ピンがピン刺し(=ピンを刺しておくクッション)に刺してあるように(帰属するように),ソクラテスの諸属性が内在する(帰属するところの)全く知ることができない核(となるもの)を想定する必要はまったくない(と主張する)。絶対的にかつ本質的に不可知なものは,存在することさえ知ることができず,それが存在すると想定することに意味はない(注:there is no point 無駄である/何にもならない)(と彼らは主張する)。 実体概念(観念) -いろいろな属性を持っているがそれらの属性とも,また,その全ての属性(が合わさったもの)とも異なったあるものとしての(実体概念)- は,デカルト,スピノザ,及びライプニッツによって保持された。また,その強調度合いはかなり減じられているけれども,ロックによっても保持された。けれども,それはヒュームによって斥けられ,次第に心理学や物理学の領域から押し出された(extruded)。このようなことが起った事態についてはまもなく(presently)述べる。(しかし)今のところは,実体概念説(学説)の神学的意味及びそれを斥けることによって生ずるいろいろな困難は我々に興味を感じさせるに違いない(注:its rejection must concern us. 我々の関心を引くに違いない/我々にとって重要であるに違いない)。
Chapter V Soul and Body, n.5 It thus appeared that, apart from revelation, we never could be sure whether a thing or person seen at one time was, or was not, identical with a similar thing or person seen at another time ; we were, in fact, exposed to the risk of a perpetual comedy of errors. Under Locke’s influence, his followers took a step upon which he did not venture : they denied the whole utility of the notion of substance. Socrates, they said, in so far as we can know anything about him, is known by his attributes. When you have said where and when he lived, what he looked like, what he did, and so on, you have said all that there is no say about him ; there is no need to suppose an entirely unknowable core, in which his attributes inhere like pins in a pin-cushion. What is absolutely and essentially unknowable cannot even be known to exist, and there is no point in supposing that it does. The conception of substance, as something having attributes, but distinct from any and all of them, was retained by Descartes, Spinoza, and Leibnitz ; also, though with greatly diminished emphasis, by Locke. It was, however, rejected by Hume, and has gradually been extruded both from psychology and from physics. As to the way in which this has happened, more will be said presently ; for the moment, the theological implications of the doctrine and the difficulties resulting from its rejection must concern us.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.4
魂と肉体は,スコラ哲学 -それはいまだ力トリック教会の哲学であるが- においてはともに「実体(substances)」である。「実体」(substance)は統語論(syntax 統語論,構文論)に由来する観念(概念)であり,また,統語論(構文論)は,我々の言語構造を決定した(決定づけた)原始民族の多少とも無意識的な形而上学に由来している(導き出されている)。文は主語と述語に分析され(分けられ),また,主語あるいは述語として出てくる(使用される)語がある一方,-あまり明確でない理由で- 主語としてしか出てこない(使用されない)語が存在している。これらの言葉は - 固有名詞がその最もよい例であるが ー 「実体」を指し示すと想定される。それ(実体)と同一の観念を表わす普通の(よく使われる)言葉は「事物」-人間(存在)に適用される場合には「人格(person)」である。実体という形而上学的概念は,ものやひと(という言葉)によって常識が意味することに,正確さを与えようとする試みにすぎない。 例をあげてみよう。我々は「ソクラテスは賢明である」「ソクラテスはギリシア人である」「ソクラテスはプラトンを教えた」等々と言う。これらの全ての陳述(文)において,我々は(それぞれ)異なった属性をソクラテスに帰属させる(与える)。「ソクラテス」という言葉は,これら全ての陳述(文章)において厳密に同一の意味を持っている。そうして,ソクラテスという人間は彼の(諸)属性とは異なったあるもの,(また)それらの属性が「具わっている(inhere)」と言われるあるものである(ということになる)。自然に関する知識(natural knowledge)は,我々が事物をその属性によって認識できるようするのみである。(即ち)もしソクラテスが厳密に同じ属性を持った双児(の子供)を持っていたなら,我々は両者を区別できないであろう。にもかかわらず,(一つの)実体とは,その実体が有している諸属性を合計したものではないあるものである(訳注:/属性の総体=そのものの実体、ではないということ/どういうわけか,荒地出版社刊の津田訳にはこの一文が訳出されていない! 次の一文を理解するのに重要な一文なのに・・・?)。このことは, 聖餐(せいさん)(注:Eucharist 「聖体の秘跡」とも言われる。イエス・キリストの最後の晩餐(イエスはパンを取り「これが私の体である」といい、杯をとり「これが私の血である」といって弟子たちに与えた)に由来するキリスト教の儀式)をみれば最も明らかである。聖変化(注:transubstantiation カトリック教会のミサや正教会の聖体礼儀においてパンとぶどう酒がイエス・キリストの体に変化すること)において,パンの属性は残るが,その実体はキリストの肉体となる(注:つまり属性=実体ではない,ということ)。近世哲学の勃興期(初期),デカルトからライブッツに至る革新者は全て(スピノザを除いて),彼らの学説が(キリスト教の)聖変化と両立することを証明するために大きな努力を払った。教会当局(キリスト教会の権威者たち)は長い間躊躇したが,ついに,スコラ哲学のみが健全であることを決定した。
Chapter V Soul and Body, n.4 Soul and body, in the scholastic philosophy (which is still that of Rome), are both substances. “Substance” is a notion derived from syntax, and syntax is derived from the more or less unconscious metaphysic of the primitive races who determined the structure of our languages. Sentences are analysed into subject and predicate, and it is thought that, while some words may occur either as subject or as predicate, there are others which (in some not very obvious sense) can only occur as subjects ; these words – of which proper names are the best example – are supposed to denote “substances.” The popular word for the same idea is “thing” – or “person,” when applied to human beings. The metaphysical conception of substance is only an attempt to give precision to what common sense means by a thing or a person. Let us take an example. We may say “Socrates was wise,” “Socrates was Greek,” “Socrates taught Plato,” and so on ; in all these statements, we attribute different attributes to Socrates, The word “Socrates” has exactly the same meaning in all these sentences ; the man Socrates is thus something different from his attributes, something in which the attributes are said to “inhere.” Natural knowledge only enables us to recognize a thing by its attributes ; if Socrates had a twin with exactly the same attributes, we should not be able to tell them apart. Nevertheless a substance is something other than the sum of its attributes. This appears most clearly from the doctrine of the Eucharist. In transubstantiation, the attributes of the bread remain, but the substance becomes that of the Body of Christ. In the period of the rise of modern philosophy, all the innovators from Descartes to Leibnitz (except Spinoza) took great pains to prove that their doctrines were consistent with transubstantiation ; the authorities hesitated for a long time, but finally decided that safety was only to be found in scholasticism.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.3
古代世界においてはプラトン的(なもの)だったキリスト教哲学者たちの説も,11世紀以後は,主としてアリストテレス的(なもの)になった。最高のスコラ哲学者(scholastics)として公認されているトマス・アクィナス(1225-1274)は,今日に至るまでローマン・カトリック教会における哲学的正統説の基準とされている。バチカン(=ローマ教皇庁)の統制を受けている教育機関の教師たちは,歴史的関心の問題として,デカルト,ロック,カントあるいはヘーゲルの体系について詳しく説明する一方,唯一の「真実なる」体系は「熾天使博士」(注:the “seraphic doctor : 中世最大のスコラ哲学者の一人であるイタリアの神学者ボナベントゥラ(Bonaventure)の尊称)の体系であることを明白にしなければならない。そこで許される限度は,ボナベントゥラの解釈者がやっているように,ボナベントゥラが,両親が人食いである人食いが復活する(再生する)時に何が起こるかということを論じている時,冗談を言っているのだということを指摘すること位である。(即ち)その人食いとその両親に食べられた人々は,その人食いに対して,自分たちの肉体を新たに構築する優先権があるのは明らかであるので,(関係者の)各々の人が自分の肉体の再構成を求めている場合(には),人食いは欠けた部分があるまま残されるでろう(注:わかりにくいかも知れないがこういことであろう。人食いよりも食べられた人たちの方が良い人達なので,悔い改めた人食いを復活させるよりも前に,まず食べられた人々の肉体を復活(=再生)させてあげなければならない。その場合,人食いの子供は人食いの両親が人食いでない人々を食べることによって成長したのであるから,それらの人食いでない人々をまず復活=再生させたら,そういった人たちを食べて成長した人食いを復活させる場合には「欠けた部分」が出てくるのは必然ということになる,という冗談)。これは使徒信条(Apostles’ Creed)によってお墨付きを与えられている,肉体の再生(蘇り/復活)を信じている人々にとって本当に難しい問題である(注:使徒信条の一節に「われは聖霊、 聖なる公教会、諸聖人の通功、罪の赦し、肉体(肉身)のよみがえり、終りなき命を信じ奉る」とある)。(キリスト教の)正統信仰がそのドグマ(肉体の蘇りの教義)を保持する一方,そのドグマと結びついたぎこちない(下手な)疑問(問題)についての重大な議論を単なる冗談(pleasantry)として扱うことは,現代における(キリスト教)正統信仰の知的衰弱の一つの印(現れ)である。この信仰が今日でも生きていることは,その信仰に由来する火葬への反対においても見られるであろし,火葬に対する反対は,プロテスタント諸国の多くの人々によって抱かれており,またカトリック諸国においてはフランスのように解放されている人々の場合でさえ(も含めて),ほとんど全ての人たちによって抱かれている。私の兄がマルセイユで火葬にふされた時,葬儀屋は,神学的偏見のためにそれまで火葬はほとんどされたことはなかったと私に告げた。人間の肉体の諸部分が教会の庭(の墓地)に虫(ミミズなどの地中の虫)(に食べられてとりこまれたもの)や粘土(=土にかえったもの)の形で残っている場合より,(火葬によって)ガス(気体)として発散してしまった場合の方が,神(Omnipotence 全能者)がそれを再び集めるのが余計に困難であるらしい(注:津田訳では「apparently」を「あきらかである」と訳出しているが、ここでは辞書の2番目にあがっている意味で「神様も難しいらしい」と皮肉が込められている)。このような考え方を私が表明すれば,異端(者)の印(現れ)になるだろう。けれども,それは,実際,最も疑いもない正統信仰の人々の間で支配的なものの見方である。
Chapter V Soul and Body, n.3
The doctrine of Christian philosophers, which was mainly Platonic in the ancient world, became mainly Aristotelian after the eleventh century. Thomas Aquinas (1225- 1274), who is officially considered the best of the scholastics, remains to this day the standard of philosophical orthodoxy in the Roman Catholic Church. Teachers in educational institutions controlled by the Vatican, while they may expound, as matters of historical interest, the systems of Descartes or Locke, Kant or Hegel, must make it clear that the only true system is that of the “seraphic doctor.” The utmost permissible licence is to suggest, as his translator does, that he is joking when he discusses what happens at the resurrection of the body to a cannibal whose father and mother were cannibals. Clearly the people whom he and his parents ate have a prior right to the flesh composing his body, so that he will be left destitute when each claims his own. This is a real difficulty for those who believe in the resurrection of the body, which is affirmed by the Apostles’ Creed. It is a mark of the intellectual enfeeblement of orthodoxy in our age that it should retain the dogma while treating as a mere pleasantry a grave discussion of awkward problems connected with it. How real the belief still is may be seen in the objection to cremation derived from it, which is held by many in Protestant countries and by almost all in Catholic countries, even when they are as emancipated as France. When my brother was cremated at Marseilles, the undertaker informed me that he had had hardly any previous cases of cremation, because of the theological prejudice. It is apparently thought more difficult for Omnipotence to reassemble the parts of a human body when they have become diffused as gases than when they remain in the churchyard in the form of worms and clay. Such a view, if I were to express it, would be a mark of heresy ; it is in fact, however, the prevailing opinion among the most indubitably orthodox.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.2
プラトンの著作から(を読んで判断すると),キリスト教によって後に説かれたのとかなり似通った説が,プラトンが生きた時代には、哲学者たちの間よりも一般民衆の間に広く抱かれていたように思われる(It appearss that ~のように思われる/因みに,荒地出版社刊の津田訳では「~ことがわかる)。プラトン(著)「国家」(Republic 共和国=国家)の中のある登場人物は次のように言っている。「ソクラテスよ,こう思ってください。人は自分が死につつある(死が迫っている)とほぼ確信すると,それまではその人に決して影響を与えなかったような事に恐れを感じたり案じたりする(feels alarmed and concerned)。その時までは,その人はこの世(here)で悪いことをした者はあの世(the other world)で苦しまなければならないというあの世に旅立つ者のお話(those stories about the departed)を嘲笑してきた。しかし,その時(死に際)になると、そのような話は多分真実に違いないという恐怖に苦しむ(ことになる)」。(同書の)他の一節にも次のようなものがある。「ムーゼウスとその息子エウモルプスは,(ギリシアの)神々が正しき者たちに与えると言い表している祝福はこれらのもの(即ち,この地上における富)よりもさらにもっと喜ばしいものである,と説明している」。「なぜなら,彼らは,正しい者たちをハデス(ギリシア神話の冥界の神)の住処に連れて行き,そうして,信心深い者たちの饗宴で長椅子(couches)に寄りかかり,頭に花冠(garlands)をかぶって永遠に酒を飲んで暮すと描いているからである」。 ムーゼウスとオルフェウスは,次のことに成功したように思われる。(即ち)「(二人は)単に個々の人々だけでなく,都市国家全体を,生きている間も死んだ後でも,ある種の生贄や彼ら(都市国家の市民たち)がミステリーと呼ぶ楽しい娯楽によって,人々は罪を免れかつ浄化されるだろう,と説得した(注 Mysteries:ギリシア語の「ミューステリオン」を語源としており、古代ギリシアや古代ローマの秘密の儀式)。ミステリーは我々をあの世の苦しみから救うが,ミステリーを疎かにすると,恐ろしい審判(doom 最後の審判)によって罰せられる」。「(プラトンの)「国家」の中で,ソクラテス自身は,戦いにおける士気(valor, valour 武勇)を鼓舞するため,次の生(あの世の生)を楽しいものとして描くべきだと考えている。しかし,彼(ソクラテス)はそれを真実だと信じているかどうかについては何も述べていない。
Chapter V Soul and Body, n.1
It appears from Plato that doctrines very similar to those subsequently taught by Christianity were widely held in his day by the general public rather than by philosophers. “Be assured, Socrates,” says a character in the Republic, “that when a man is nearly persuaded that he is going to die, he feels alarmed and concerned about things which never affected him before. Till then he has laughed at those stories about the departed, which tell us that he who has done wrong here must suffer for it in the other world ; but now his mind is tormented with a fear that those stories may possibly be true.” In another passage, we learn that “the blessings which Musæus and his son Eumolpus represent the gods as bestowing upon the just, are still more delectable than these “[i.e., riches here on earth] ; “for they bring them to the abode of Hades, and describe them as reclining on couches at a banquet of the pious, and with garlands on their heads spending all eternity in wine-bibbing.” It appears that Musseus and Orpheus succeeded in “persuading not individuals merely, but whole cities also, that men may be absolved and purified from crimes, both while they are still alive and even after their decease, by means of certain sacrifices and pleasurable amusements which they call Mysteries ; which deliver us from the torments of the other world, while the neglect of them is punished by an awful doom.” Socrates himself, in the Republic, holds that the next life should be represented as pleasant, in order to encourage valour in battle ; but he does not say whether he believes this to be the truth.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_05-020.HTM
ラッセル『宗教と科学』第5章 魂と肉体 n.1
科学的知識の重要な部門の中で,最も発達の遅れている部門は心理学である。その語源(derivation 起源,由来)からみると,「心理学」は「魂の理論」を意味する。しかし,魂は神学者にはなじみ深いものではあるが,科学的な概念とは見なされない。心理学者は誰も自分の研究主題は魂であるとは言わないだろうが,研究主題は何かと問われたら,簡単には答えられないと気づくであろう。心理学は心的現象(精神現象)に関心を持つと言う者もいるだろうが,「心的」現象(精神現象)が物理学にデータを与える現象と -もし異なる点があるとしたら(if any)- いかなる点において異なっているか述べよと要求されたら困惑してしまうだろう。(そう言った)心理学の根本問題(根本的な心理学上の問題)は,ただちに哲学的な不確定性の領域に我々を連れて行き,そうして(心理学においては)厳密な経験的知識が不足しているために,根本的疑問(問題))を回避することは他の諸科学よりもいっそう困難である。にもかかわらず,これまでそこそこのこと(something 無視できない量のことがら)がなしとげられてきており,古くからある多くの誤り(誤謬)が捨てられてきている。こういった古い時代の誤り(誤謬)の多くは,原因としてあるいは結果として,神学と結びついていた。しかし,その結びつきは -我々がこれまで論じてきた問題においてそうであったように(ではなく)- 聖書の特定の章句や,事実問題に関する聖書の誤謬とではなかった。(即ち)それは,むしろ,何らかの理由で,キリスト教の正統信仰の教義体系(dogma 教義;独断的考え・意見)に不可欠であると考えられてきた形而上学上の教理(doctrine 教え;原理)との結びつきであった。 「魂Jは,ギリシア人の思考(思惟)ののなかに最初に現われたとき,キリスト教ではないが,宗教的な起源を持っていた。ギリシア人に関する限り,それはピタゴラス学派の人たちに起源をもっていたように思われる。彼らは,輪廻(transmigration)を信じ,究極的な救い -魂が肉体につながれている限り脱れることの出来ない物質への繋縛から脱れること- を求めていた(注:荒地出版社刊の津田訳では Pythagoreans 「ピタゴラス学派(の人々)」を「ピタゴラス」と訳出)。ピタゴラス派(の人々)はプラトンに影響を与え,プラトンは(キリスト教の)教父たちに影響を与えた(注:主語は同一なのに、津田氏は、この一文では「ピタゴラス学派」と訳出)。このようにして,魂を肉体と別ものと考える教理(教え)はキリスト教の教理(教え)の一部になった。その他の影響が(後に)加わったが,特にアリストテレス及びストア派の影響が顕著であった。しかし,プラトン主義は,特にその後期の形態は,教父哲学に於ける最も重要な異教的要素であった。
Chapter 5: Soul and body, n.1 Of all the more important departments of scientific knowledge, the least advanced is psychology. According to its derivation, “psychology” should mean “the theory of the soul,” but the soul, though familiar to theologians, can hardly be regarded as a scientific concept. No psychologist would say that the subject-matter of his study is the soul, but when asked to say what it is he would not find it easy to give an answer. Some would say that psychology is concerned with mental phenomena, but they would be puzzled if they were required to state in what respect, if any, “mental” phenomena differ from those which provide the data of physics. Fundamental psychological questions quickly take us into regions of philosophical uncertainty, and it is more difficult than in other sciences to avoid fundamental questions, because of the paucity of exact experimental knowledge. Nevertheless, something has been achieved, and much ancient error has been discarded. Much of this ancient error was associated with theology, either as cause or as effect. But the connection was not, as in the matters we have hitherto discussed, with particular texts or Biblical errors as to matters of fact ; it was rather with metaphysical doctrines which, for one reason or another, had come to be thought essential to the body of orthodox dogma. The “soul,” as it first appeared in Greek thought, had a religious though not a Christian origin. It seems, so far as Greece was concerned, to have originated in the teaching of the Pythagoreans, who believed in transmigration, and aimed at an ultimate salvation which was to consist of liberation from the bondage to matter which the soul must suffer so long as it is attached to a body. The Pythagoreans influenced Plato, and Plato influenced the Fathers of the Church ; in this way the doctrine of the soul as something distinct from the body became part of Christian doctrine. Other influences entered in, notably that of Aristotle and that of the Stoics ; but Platonism, particularly in its later forms, was the most important pagan element in patristic philosophy.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 5:
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ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.21
注:一段落が長いので2つに分けましたが,次の文章は前の段落の最後の部分です。)
このようにして,聖書のテキスト(本文/章句)に由来するカトリック教会の教義だけでなく,聖書のテキスト(本文/章句)そのものも,成長(発達)の最も初期にある人間の胎児にも適用できるとと考えられた。また,この後者の意見(= 人間の胎児にも適用可能という意見)の根拠(理由)は,明らかに,胎児が神学上「魂」と呼ばれるものを持っているという信念に由来している。(原注:かつて神学者たちは,男の胎児は14日目に魂を得,女の胎児は18日目に得るという考えを抱いた。今日では,男女とも14日目に(魂を)得ると言うのが最上の見解である。(J.ニーダム(著)『発生学(胎生学)の歴史』p.参照) (訳注:どういうわけか,荒地出版社の津田訳では,次の2行分が訳出されていない。) そのような前提から引き出される結論は,正しいかも知れないし,間違っているかも知れない。しかし,(正誤)いずれの場合においても,その論拠は科学が受容できるものではない。教皇(=ピオ11世)が論じている事例において,医者によって予測された,母親の死(妊婦が亡くなること)は,殺人ではない(殺人にはならない)。なぜなら,医者は(予測はしても)必ずその母親が死亡するとは確信を持つことは決してできないからである。即ち,その母親は奇蹟によって救われる可能性がある(のである)。 しかし,今見てきたように(今さっき考察したように),今日でも神学は,道徳的な問題が特に含まれていると思われる場合には医学に干渉しようとしているけれども,ほとんどすべての領域において,医学の科学的独立のための戦いは勝利してきた。今日では,衛生施設や衛生学(sanitation and hygiene)により悪疫や伝染病を避けることを不敬(不信心)だと考える者はいない。また,依然として病は神によって与えられると主張する者もいるが,だからといって,それを避けようとするのは不信心だと論じたりする者はいない。健康の改善と長寿(longevity)の増進は,現代の最も注目すべきかつ驚嘆に値する特質である。科学が人類の幸福のためそれ以外何もしなかったとしても,それら(健康と長寿の増進)の理由だけで,我々の感謝に値するであろう。神学的教義の効用を信ずる者も,それらの神学的教義が人類に与えてきたもので(医学や衛生学に)比肩できる何らかの利益を指摘することに困難を感ずるであろう。
Chapter 4: Demonology and Medicine, n.21
Thus not only is the doctrine of the Catholic Church derived from a text, but the text is considered applicable to a human embryo at even the earliest stage of development, and the reason for this latter opinion is obviously derived from belief that the embryo possesses what theology calls a “soul.”(note: It was formerly held by theologians that the male embryo acquired a soul at the fortieth day, and the female at the eightieth. Now the best opinion is that it is the fortieth day for both sexes. See Needham, History of Embryology, p. 58.) The conclusions drawn from such premisses may be right or wrong, but in either case the argument is not one which science can accept. The death of the mother, foreseen by the doctor in the cases which the Pope is discussing, is not murder, because the doctor can never be certain that it will occur ; she might be saved by a miracle. But although, as we have just seen, theology still tries to interfere in medicine where moral issues are supposed to be specially involved, yet over most of the field the battle for the scientific independence of medicine has been won. No one now thinks it impious to avoid pestilences and epidemics by sanitation and hygiene ; and though some still maintain that diseases are sent by God, they do not argue that it is therefore impious to try to avoid them. The consequent improvement in health and increase of longevity is one of the most remarkable and admirable characteristics of our age. Even if science had done nothing else for human happiness, it would deserve our gratitude on this account. Those who believe in the utility of theological creeds would have difficulty in pointing to any comparable advantage that they have conferred upon the human race. (掲載日:2018.10.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_04-210.HTM
ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.20
医学上の問題に対する神学の介入はまだ終っていない。(即ち,)産児制限のような問題に関する意見や一定の場合における流産の法的許可は,今日でも聖書の章句や(キリスト)教会の布告(ecclesiastical decrees)に影響されている。例えば,数年前教皇ピオ11世によって出された結婚に関する回勅(the encyclical 回勅とは,ローマ教皇から全世界のカトリック教会の司教へあてた公文書で,道徳や教えの問題についての教皇の立場を示すもの)を見よ。彼は,産児制限を行なう者は「自然に対して罪を犯し,恥ずべきまた本質的に不道徳な行いをすることになる。従って,主(the divine Majesty 神,主)がこの恐るべき犯罪を最大限の憎悪をもって注視し(regards with greatest detestation),時には死をもって罰したことを聖書(Holy Writ)が証言している(が聖書に書かれている)(bear witness 証言する)のも驚くべきことではない(small wonder)」と述べている。教皇は,さらにアウグスティヌスの創世記に関する著作(注:アウグスティヌス著作集(第16巻) :創世記注解)第38節の第8~10項までを引用する。産児制限を非難する理由はそれ以上必要ないと不要だと考えられている(教皇はそれ以上の理由は必要ないと考えている/いた)。経済上の理由に関しては,(教皇は)「極度の貧困で子供を養うのに大きな困難を経験している親たちの苦しみには深く心を動かさえる」が,「本質的に不道徳なあらゆる行為を禁じている神の綻を脇に置くことを正当化するほどの困難は生じ得ない」と述べている。「医学上あるいは治療上の」理由による妊娠中絶(the interruption of pregnancy),即ち,女性(妊婦)の生命を救うため中絶が必要と考えられる時も,それらは(妊娠中絶の)正当な理由にならないと彼(教皇)は考える。「形はどうであれ(in any way 多少なりとも)無実の者(嬰児)を直接殺害することを許すような(弁解を与えるような)充分な理由が存在するであろう? 母親(妊婦)を害しようと子供(嬰児)を害しようと,それは『汝殺すなかれ』と言う神の教えと自然の法(則)に反するものである」。教皇は,さらにすぐに続けて,この(聖書の)章句は戦争や死刑(capital punishment)を非難しているのではないと説朋し,次のように結論づけている。 「公正でありかつ熟達した医者は,母親と子供の両方の生命を守るため,極めて称賛に値する努力をする。反対に,医術(医療)を行なうという口実のもと,あるいは,誤った同情という動機のもと,(母と子の)どちらかの命を失くさせる者(who encompass the death 死を引き起こす者)は,気高い医療職(医者の仕事)に最も値しない者であることを示す(show oneself 証明する)」。
Chapter 4: Demonology and Medicine, n.20 The intervention of theology in medical questions is not yet at an end ; opinions on such subjects as birth control, and the legal permission of abortion in certain cases, are still influenced by Bible texts and ecclesiastical decrees. See, for instance, the encyclical on marriage issued a few years ago by Pope Pius XL. Those who practise birth control, he says, “sin against nature and commit a deed which is shameful and intrinsically vicious. Small wonder, therefore, if Holy Writ bears witness that the divine Majesty regards with greatest detestation this horrible crime and at times has punished it with death.” He goes on to quote St. Augustine on Genesis xxxviii. 8-10. No further reasons for the condemnation of birth control are thought necessary. As for economic arguments, “we are deeply touched by the sufferings of those parents who, in extreme want, experience great difficulty in rearing their children,” but “no difficulty can arise that justifies the putting aside of the law of God which forbids all acts intrinsically evil.” As regards the interruption of pregnancy for “medical or therapeutic” reasons, i.e., when it is considered necessary in order to save the woman’s life, he considers that this affords no justification. “What could ever be a sufficient reason for excusing in any way the direct murder of the innocent? Whether inflicted upon the mother or upon the child, it is against the precept of God and the law of nature : ‘Thou shalt not kill.’ “He goes on at once to explain that this text does not condemn war or capital punishment, and concludes : “Upright and skilful doctors strive most praiseworthily to guard and preserve the lives of both mother and child ; on the contrary, those show themselves most unworthy of the noble medical profession who encompass the death of one or the other, through a pretence of practising medicine or through motives of misguided pity.” (掲載日:2018.10.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
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ラッセル『宗教と科学』第4章 悪魔研究と医学 n.19
人類(人間)の苦しみを和らげることを阻止するための神学的干渉のもう一つの機会(場合)は,麻酔の発見であった。シンプソン(Sir James Young Simpson,1811-1870:スコットランドの産科医でクロホルムの医学への応用を初めて実施)は,1847年,それを出産に用いることを勧めた(因みに、華岡青洲(はなおか せいしゅう, 1760-1835)は,1804年に,世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌手術)に成功)が,牧師たちは神がイブに言ったこと,即ち,「汝は苦しみて子を産まん」(という言葉)を思い出した(『創世記』第3章第16項)。しかし(← and そうして),クロロフォルムの影響下において(注:昏睡状態にあって),イブはいかにして苦しむことが出来たであろうか? 神は(イブを誕生させるために)アダムの肋骨を抜く時に彼を深い眠りに陥れたという理由で,シンプソンは男性は麻酔(薬)を用いても害がないことを証明することに成功した。だが,男性の聖職者たちは,女性の苦しみに関しては,少なくともそれが出産の際のものである時には,依然(麻酔を使用することを)納得しないままであった。創世紀の権威が認められていない日本においては,いかなる人工的な軽減措置もなされずに,女性は依然として陣痛の苦しみに堪えることが期待されていることに注目してよいかも知れない(注:「endure the pains of labour」を津田氏は「労働の苦しみ」と訳出しているが陣痛のことを「labour pain」と言うことから,ここは「陣痛の苦しみ」と訳すべきであろう)。(こういったことから)多くの男性にとって,女性の苦しみは楽しみであり,従って,苦しみを避ける正当な理由がある時にも(←避けない正統な理由がまったくない時でも),忍耐強く苦しみを甘受することを義務づける何らかの神学的あるいは倫理的行動規範に固執する傾向があるという結論に反対することは困難である。神学が(これまで)与えてきた害悪は,残酷な衝動を生み出したことではなく,そうした衝動に高尚(高貴)な倫理という裁可(認可/是認)を与え,無知で野蛮な時代から伝わってきた諸習慣(行為)に外見上において神聖な性格を与えたことにある。
Chapter 4: Demonology and Medicine, n.19 Another occasion for theological intervention to prevent the mitigation of human suffering was the discovery of anaesthetics (= anethetics). Simpson, in 1847, recommended their use in childbirth, and was immediately reminded by the clergy that God said to Eve ; “In sorrow shalt thou bring forth children” (Gen. hi. 16). And how could she sorrow if she was under the influence of chloroform? Simpson succeeded in proving that there was no harm in giving anaesthetics to men, because God put Adam into a deep sleep when He extracted his rib. But male ecclesiastics remained unconvinced as regards the sufferings of women, at any rate in childbirth. It may be noted that in Japan, where the authority of Genesis is not recognized, women are still expected to endure the pains of labour without any artificial alleviation. It is difficult to resist the conclusion that, to many men, there is something enjoyable in the sufferings of women, and therefore a propensity to cling to any theological or ethical code which makes it their duty to suffer patiently, even when there is no valid reason for not avoiding pain. The harm that theology has done is not to create cruel impulses, but to give them the sanction of what professes to be a lofty ethic, and to confer an apparently sacred character upon practices which have come down from more ignorant and barbarous ages.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 4:
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