「知的戯言」カテゴリーアーカイブ

“All you need is love.”の「愛こそはすべて」は大誤訳!!

本日は、佐藤ヒロシ『関係詞の底力』の「はしがき」から少し引用しておきます
 p.2: “All you need is love.”の「愛こそはすべて」は大誤訳!!

2つの間違いがありそうです。”All”と”you”の間に関係詞が省略されていることに気づかない場合と、気づいているのに意味を取り違える場合です。私も長い間早トチリで「思い込んで」いましたが、ビートルズのこの英文の正しい日本語訳は、
君(あるいは、あなたたち)に足りないのは愛だけだ!( ← 君に必要な全ては愛だ)」となります。

佐藤氏は代々木ゼミ予備校を代表する英語講師の一人です。ラッセル関連で、一度だけお会いしたことがあります。(とても身長の高い方です。)プレイス社から『ラッセルと20世紀の名文に学ぶ(英文味 読の真相39』という本も出されているので、ご存じの方もおられると思います。

本書の裏表紙には、「All the people in Iraq want is peace and
security.」という例文が掲載されています。この場合も、「すべてのイラクの人々が欲しているのは、平和と安定だ」というのは誤訳であり、正しくは、「(現在の)イラクの人々が望んでいるのは、平和と安定だけだ!」ということになります。(したがって、平和が回復すれば、もっといろいろな欲求がでてきます。)

残念ながら、この2つの例文について、ラッセルの用例を見つけられませんでした。

最後に、佐藤先生の「はしがき」から少し言葉を引用しておきます。

p.2: まさに、「関係詞がわからないとビートルズも聴けない」のです。
p.3:  英語に「受験英語」とか「実用英語」といった2種類のものが存在するわけでもなく、ましてや「英会話」に「英文法」は必要ないなどとう俗説は誤りであるというのが、かねてからの私の持論です。批判されるとすれば、それは「受験英語」ではなく「英語指導法」であり、また「文法」ではなく、「どうでもいい文法用語による無意味な分類」であると私は考えます。//

ラッセル「人類に害を与えてきた思想(8)」

 誤った信念を産む最も強力な源泉の一つは,妬み(ねたみ)である。いかなる小さい町においても,もし比較的裕福な人々に尋ねてみれば,彼等はみな隣人の収入を誇張して考えており,そのことから隣人をケチ(meanness)だと非難することを正当化しているのがわかる(正当化しているのを見いだす)だろう。女性の嫉妬は男たちのあいだではよく知られている。しかし,大規模な事務所ならどこにおいても,まさに男性職員の間に同様の種類の嫉妬を見いだすであろう。(その職場の)男性職員の一人が昇進すると,他の男たちは次のように言うだろう。「ふん,あいつはお偉方に取り入る術を心得ているよ。もし私が自分を堕落させて,あいつが恥知らずにやったようなへつらい術を使っていたら,私もあいつとまったく同じように早く出世できたはずだ。たしかにあいつの仕事ぶりには線香花火のような才気(a flashy brilliance,)はあるが,堅実さに欠けている。それゆえ,遅かれ早かれ(←早かれ遅かれ),お偉がたは自分らの判断(昇進させたこと)の間違いに気づくだろう」。凡庸な男性はみな,もし(たとえ)本当にできる男がその才能に値する程度に早く昇格を認められたとしてもそのようにいうだろう。(注:ラッセル『人類の将来ー反俗評論集』の中の市井三郎訳では,「このように凡庸なすべての人々は、本当にできる男がその才能の値する程度に早く昇格できるようになればよい,というだろう」となっている。all the mediocre men will say so が倒置されて ‘So’ が先頭に来ているわけだが、’if’ は ここでは ‘even if’ の意味であることを捉え損なっていると思われる。) そしてこの理由から,年功序列制度を採用する傾向があるわけであり,それは功績とはなんの関係ももたないので,同様の妬みによる不満を生じさせないからである。

One of the most powerful sources of false belief is envy. In any small town you will find, if you question the comparatively well-to-do, that they all exaggerate their neighbors’ incomes, which gives them an opportunity to justify an accusation of meanness. The jealousies of women are proverbial among men, but in any large office you will find exactly the same kind of jealousy among male officials. When one of them secures promotion the others will say: ‘Humph! So-and so knows how to make up to the big men. I could have riser quite as fast as he has if I had chosen to debase myself by using the sycophantic arts of which he is not ashamed. No doubt his work has a flashy brilliance, but it lacks solidly, and sooner or later the authorities will find out their mistake.’ So all the mediocre men will say if a really able man is allowed to rise as fast as his abilities deserve, and that is why there is a tendency to adopt the rule of seniority, which, since it has nothing to do with merit, does not give rise to the same envious discontent.

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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(7)」

 我々の各々が,自分自身に重要性を付与していることによって生じる奇妙な結果の一つは,我々がみずからの幸運や非運を,他の人々の行為の目的であるかのように想像しがちである,ということである。もしあなたが,草をはんでいる(食べている)雌牛(めうし)がいる牧草地(field)を,汽車(注:現在なら「電車」や自動車)に乗車して通りすぎると,時としてその雌牛たちは汽車が通り過ぎる時に恐怖を感じて逃げ去ることがあるかもしれない。もし仮にその雌牛が形而上学者であるとすれば,次のように論じるであろう。「私自身の欲望や希望や恐怖におけるすべてのものは,私自身に関連がある。従って,帰納的推論により,宇宙のすべてのものが私自身に関連をもっている,と私は結論する。それゆえ,このやかましい汽車は,私に良きことあるいは悪しきことのいずれかをなそうとしている(に違いない)。汽車はあのように恐ろしいかっこうでやってくるのだから,それが私に良いことをするつもりだとは考えられない。従って,慎重な雌牛として,私はそれから逃れる努力をするだろう,」と。たとえ諸君が,この形而上学的な反すう動物にむかって,汽車はレールから逸脱する(脱線する)つもりはないこと,また汽車は雌牛の運命にまったく無関心であることなどを説明しても,そのあわれな動物は,そのように不自然ないかなるものにも当惑を感じるであろう。自分に善意も悪意をももっていない汽車なるものは,自分に悪意をもつ汽車よりも,もっと冷淡かつもっと底深く恐るべきものと映るであろう。
まさにこのことが,人間の場合に起ってきている,自然の経過は,人間たちに時として幸運を,時として非運をもたらす。人間は,それが偶然に起るとは信じられないのである。前述の雌牛は,仲間の一匹が線路の上に留まり,汽車にひき殺されたことを知っており,もしも大部分の人間を特徴づけるような適度の知性をもっているならば,(その雌牛は)哲学的内省をおし進めて次のような結論を下すであろう。即ち,(汽車にひき殺された)あの不運な牛は,彼女の罪の故に,鉄道の神によって罰せられたのだ,と。司祭たちが線路にそって柵(さく)を設置すればその雌牛は喜び,若くて動き回る牛たちに,この柵にたまたま開いているところがあったとしても,それをけっして通ってはならない,(それを破った)罪の報い(wages 報酬)は死だ,と警告するであろう。人間たちはこれと類似の神話を創作することによって,自分たち人間がさらされている災難(不運)の多くを,自尊心を犠牲にすることなく,説明することに成功してきたのである。しかし時には,まったく有徳な人々にも災難がふりかかるが,その場合,我々は,どのように説明すべきだろうか? 我々は,いまだ,自分たち人間が宇宙の中心であるに違いないという感情から,災難はそれを誰も意図していないのに単に偶然にこれまで起ってきたのだということを認めることを妨げられる。そして自分たちは仮定によって邪悪ではないのであるから,自分たちの災難は誰かの悪意 -すなわち自分自身になんらかの便益を望んでではなく,ただ単に憎しみから我々に害を加えよぅとする誰か-に帰因するに違いない(と考える)。
悪魔学及び妖術や魔術への信仰を生じさせたものは,まさにこのような心の状態であった。魔女とは,利益のためではなく,まったくの憎しみから隣人たちに害を与える者である。魔女の妖術(魔法)を信じることは,17世紀の中頃まで,みずからを正義として残忍な行為をする心地よい情緒に,もっとも満足すべき吐け口を提供した。そのような信仰には,聖書による保証があった。というのは聖書は次のように言っているからである。「汝,魔女をして生かすべからず(魔女を生かしておいてはならない)」。そしてこの理由から,宗教裁判所(異端審問所)は魔女だけでなく,魔女の妖術が可能だと信じない人々をも,それが異端であるということで,罰したのである。科学は,自然の因果(作用)へ若干の洞察を与えることによって,魔術への信念(信仰)を蹴散らしたが,その信念を生じさせた恐怖や不安感をすっかり払拭することはできなかった。現代においては,同様の感情が外国を恐れるという形で吐け口を見出したのであり,この吐け口には,迷信による支えという方法は,それほど必要としない,ということを告白しなければならない。

One of the odd effects of the importance which each of us attaches to himself, is that we tend to imagine our own good or evil fortune to be the purpose of other people’s actions. If you pass in a train a field containing grazing cows, you may sometimes see them running away in terror as the train passes. The cow, if it were a metaphysician, would argue: ‘Everything in my own desires and hopes and fears has reference to myself; hence by induction I conclude that everything in the universe has reference to myself. This noisy train, therefore, intends to do me either good or evil. I cannot suppose that it intends to do me good, since it comes in such a terrifying form, and therefore, as a prudent cow, I shall endeavor to escape from it.’ If you were to explain to this metaphysical ruminant that the train has no intention of leaving the rails, and is totally indifferent to the fate of the cow, the poor beast would be bewildered by anything so unnatural. The train that wishes her neither well nor ill would seem more cold and more abysmally horrifying than a train that wished her ill. Just this has happened with human beings. The course of nature brings them sometimes good fortune, sometimes evil. They cannot believe that this happens by accident. The cow, having known of a companion which had strayed on to the railway line and been killed by a train, would pursue her philosophical reflections, if she were endowed with that moderate degree of intelligence that characterizes most human beings, to the point of concluding that the unfortunate cow had been punished for sin by the god of the railway. She would be glad when his priests put fences along the line, and would warn younger and friskier cows never to avail themselves of accidental openings in the fence, since the wages of sin is death. By similar myths men have succeeded, without sacrificing their self-importance, in explaining many of the misfortunes to which they are subject. But sometimes misfortune befalls the wholly virtuous, and what are we to say in this case? We shall still be prevented by our feeling that we must be the centre of the universe from admitting that misfortune has merely happened to us without anybody’s intending it, and since we are not wicked by hypothesis, our misfortune must be due to somebody’s malevolence, that is to say, to somebody wishing to injure us from mere hatred and not from the hope of any advantage to himself. It was this state of mind that gave rise to demonology, and the belief in witchcraft and black magic. The witch is a person who injures her neighbors from sheer hatred, not from any hope of gain. The belief in witchcraft, until about the middle of the seventeenth century, afforded a most satisfying outlet for the delicious emotion of self-righteous cruelty. There was Biblical warrant for the belief, since the Bible says: ‘Thou shalt not suffer a witch to live.’ And on this ground the Inquisition punished not only witches, but those who did not believe in the possibility of witchcraft, since to disbelieve it was heresy. Science, by giving some insight into natural causation, dissipated the belief in magic, but could not wholly dispel the fear and sense of insecurity that had given rise to it. In modem times, these same emotions find an outlet in fear of foreign nations, an outlet which, it must be confessed, requires not much in the way of superstitious support.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(6)」

“If you can’t take it with you, this must be Hell.”

この心理様式(注:人間を正しい人間と罪人とに分けて、罪人に罰を与えようとする心性など)は,非常に持続性があり,またまったく新しい教義の装いをまとうことができると思われることから,その根源はいくらか人間性の深いところにあるに違いない。これは,精神分析学者(精神分析家)たちによって研究されている性質の事柄(問題)である。私は彼等の主張のすべてに賛意を表するといった立場からははるかに遠い立場にあるが,悪の源泉を我々人間のもっとも深い部分に求めたいと思うならば,精神分析学者たちの一般的方法は重要である,と考える。罪と報復的な罰という一対の概念は,宗教および政治の(世界の)双方において,最も精力的な多くのものの根源にあるように思われる。私は,罪悪感情は,幼少期のごく初期に形成されるものだと信じるが,精神分析学者の何人かが言うように,その感情が生得的なものであるとは信じない。もし仮に,その感情を根絶することができるならば,世界中の残酷さの分量は劇的に減少するだろう,と私は考える。我々人間全ては罪人(原罪を負っている者)であり,我々は全て処罰に値する,と(仮定)すれば,処罰が自分(たち)以外の人々に下されるような組織を弁護することが,明らかに容易となる。カルヴァン主義者たち(or カルヴィン主義者たち)は,自ら値しない慈悲を受けて,天国へゆくことになろうが,その場合,罪が罰に値する彼等(カルヴァン主義者たち)の感情は,ただ単に代償的な満足を得るだけである。共産主義者たちも,同様な考え方をもっている。我々は生まれるときに,資本家あるいはプロレタリアの家に生まれるべきか否かの選択を行うわけではない(選択できない)が,もし後者であれば,(共産主義の思想においては)我々は選ばれた者(集団)に属し,前者であればそうではない(ということになる)。我々の側での選択がまったくなしに,経済的決定論の働きによって,我々は一方の場合には正義の側にあり,他方の場合には間違っている側に立つ運命にあるのである。マルクスの父は,マルクスが幼児であったころにキリスト教徒となっており,そのときに受け容れたに違いない教義の少なくともいくらかは,その息子(マルクス)の心理の中で実を結んだように思われる。

As this psychological pattern seems so persistent and so capable of clothing itself in completely new mantles of dogma, it must have its roots somewhat deep in human nature. This is the kind of matter that is studied by psycho-analysts, and while I am very far from subscribing to all their doctrines, I think that their general methods are important if we wish to seek out the source of evil in our innermost depths. The twin conceptions of sin and vindictive punishment seem to be at the root of much that is most vigorous, both in religion and politics. I cannot believe, as some psycho-analysts do, that the feeling of sin is innate, though I believe it to be a product of very early infancy. I think that, if this feeling could be eradicated, the amount of cruelty in the world would be very greatly diminished. Given that we are all sinners and that we all deserve punishment, there is evidently much to be said for a system that causes the punishment to fall upon others than ourselves. Calvinists, by the fiat of undeserved mercy, would go to heaven, and their feelings that sin deserved punishment would receive a merely vicarious satisfaction. Communists have a similar outlook. When we are born we do not choose whether we are to be born capitalists or proletarians, but if the latter we are among the elect, and if the former we are not. Without any choice on our own parts, by the working of economic determinism, we are fated to be on the right side in the one case, and on the wrong side in the other. Marx’s father became a Christian when Marx was a little boy, and some, at least, of the dogmas he must have then accepted seem to have borne fruit in his son’s psychology.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想(5)」

 残忍性の禁欲主義的な形態は,不幸にもキリスト教の教義のより激しい(狂暴な)形態に限定されておらず,そのようなキリスト教教義の激しい(狂暴な)形態は,現在では,以前のような狂暴さで信じられることはめったになくなっている。(そうして)世界は,同じ心理的様式の新しくまた威嚇的な形態をうみだしてきている。ナチズムの信奉者たちは,権力を掌握する前の時代においては,苦労の多い生活を送っており,精力的であることをよしとする信念や,「人間はみずからを鍛えるべきだ 」(注:One should make oneself hard/ニーチェの超人思想)というニーチェの格言への信念,に服従して,安楽や目前の快楽の多くを犠牲にしていた。彼等が権力を獲得した後においても,「バターよりも大砲を」というスローガンは,なおも将来の勝利という精神的快楽 -- のために,感覚の快楽を犠牲にすることを含んでいた(意味していた/伴っていた)。そのような精神的快楽は,まさに,ミルトンの(『失楽園』の)悪魔が地獄の炎で苦しめられたときにみずからを慰めたものである。同じ心性(メンタリティ)は,熱心な共産主義者の間にも見出しうるもので,彼等にとって,贅沢は悪であり,はげしい労働が主要な義務であり,また,貧困が普遍的に存在することは至福千年(millennium)への手段なのである。禁欲主義と残忍性との結合は,キリスト教教義が柔軟化するにつれて消えさったわけではなく,キリスト教に敵対する新らしい形態をとるようになったのである。今もなお,同様な心性は強く存在する。(即ち)人間は聖者と罪人とにわけられ,聖者は、ナチスあるいは共産主義者の天国で祝福を受けることになっており、一方,罪人たちは粛清されてしまうか,強制収容所で人間が加えることができるような苦痛にさらされなければならない(といった心性である。)。もちろん,それは,全能なる神が地獄で課される(罪人に加えられる)と考えられた苦痛(責め苦)と比較すればまだましであるが,限りある力をもつ人間になしうることができる,最悪の苦痛(責め苦)である。また,聖者たちには,厳しい試練の期間があり,そのあとに,キリスト教の賛美歌が天上の歓喜について描写して言っているように,「勝利の叫び声,楽しき歌声・・・」が続くのである。

The ascetic form of cruelty is, unfortunately, not confined to the fiercer forms of Christian dogma, which are now seldom believed with their former ferocity. The world has produced new and menacing forms of the same psychological pattern. The Nazis in the days before they achieved power lived laborious lives, involving much sacrifice of ease and present pleasure in obedience to the belief in strenuousness and Nietzsche’s maxim that one should make oneself hard. Even after they achieved power, the slogan ‘guns rather than butter’ still involved a sacrifice of the pleasures of sense for the mental pleasures of prospective victory – the very pleasures, in fact, with which Milton’s Satan consoles himself while tortured by the fires of hell. The same mentality is to be found among earnest Communists, to whom luxury is an evil, hard work the principal duty, and universal poverty the means to the millennium. The combination of asceticism and cruelty has not disappeared with the softening of Christian dogma, but has taken on new forms hostile to Christianity. There is still much of the same mentality: mankind are divided into saints and sinners; the saints are to achieve bliss in the Nazi or Communists heaven, while the sinners are to be liquidated, or to suffer such pains as human beings can inflict in concentration camps – inferior, of course, to those which Omnipotence was thought to inflict in hell, but the worst that human beings with their limited powers are able to achieve. There is still, for the saints, a hard period of probation followed by ‘the shout of them that triumph, the song of them that feast’, as the Christian hymn says in describing the joys of heaven.
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ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(3)

残酷な行為を正当化する意見は残酷な衝動によって吹き込まれる(引き起こされる),という主張(thesis 命題)を支持する事例を(さらに)たくさんあげることは容易であろう。現在では馬鹿げていると認識されている昔のいろいろな見解を再考してみると,十中八,九,それらが,苦しみを加えることを正当化するような見解であることがわかるであろう。たとえば,医療行為(診療行為)の例をとってみよう(注:安藤訳では medical practice を「医師の慣行」と訳している。これは「医師の行為」即ち,医療行為(診療行為)が適訳であろう)。麻酔剤(anethetics)が発明された時,それは神の意向を妨害する試みなので邪悪である,と考えられた。また狂気は悪魔がとりついたせいだと考えられ,狂人の心に住みついた悪魔は,狂人に苦痛を加えて悪魔の居心地を悪くさせることによって追い出すことができる,と信じられていた。このような見解が追求され,狂人たちは長い間引き続き(on end),組織的かつ’良心的な’残忍さをもって扱われたのである。誤った医学的治療(法)で,患者にとって不快であるよりむしろ快適だった,というような事例を,私は一つとして考えつくことができない。あるいはまた,道徳教育の例をとってみよう。次の詩によって,これまでどれだけ多くの残忍な行為が正当化されてきたかを考えてみよう。
犬や女房やクルミの樹は,
打てば打つほど良くなる

クルミの樹を鞭打つことによる道徳的効果について,私はまったく経験したことはない。しかし,文明人であるならば,この詩の妻に関するところを正当化する人は一人もいないであろう。罰による改善効果は,なかなか消えてなくならない信念であるが、その主な理由は,罰することがわれわれのサディズム的衝動を非常に満足させる,ということにある,と私は考える。
しかし,信念よりは情熱の方が,人間生活における不都合なものに,より多くの関連をもっているけれども,それでもなお,信念は,特に古代からのもので,体系化され,いろいろな組織の中に具体化されたものである場合には,意見の望ましい変化を遅らせるか,さもなければ,いずれの方向にも強い感情を持たないような人々に誤まった方向へと影響を及ぼす,大きな力をもっている。「人類に害を与えてきた思想」というのが私の(ここでの)主題であるので,特に有害な信念の諸体系について考察することにしよう。
It would be easy to multiply instances in support of the thesis that opinions which justify cruelty are inspired by cruel impulses. When we pass in review the opinions of former times which are now recognized as absurd, it will be found that nine times out of ten they were such as to justify the infliction of suffering. Take, for instance, medical practice. When anesthetics were invented they were thought to be wicked as being an attempt to thwart God’s will. Insanity was thought to be due to diabolic possession, and it was believed that demons inhabiting a madman could be driven out by inflicting pain upon him, and so making them uncomfortable. In pursuit of this opinion, lunatics were treated for years on end with systematic and conscientious brutality. I cannot think of any instance of an erroneous medical treatment that was agreeable rather than disagreeable to the patient. Or again, take moral education. Consider how much brutality has been justified by the rhyme:
A dog, a wife, and a walnut tree,
The more you beat them the better they be.
I have no experience of the moral effect of flagellation on walnut trees, but no civilized person would now justify the rhyme as regards wives. The reformative effect of punishment is a belief that dies hard, chiefly I think, because it is so satisfying to our sadistic impulses.

But although passions have had more to do than beliefs with what is amiss in human life, yet beliefs, especially where they are ancient and systematic and embodied in organizations, have a great power of delaying desirable changes of opinion and of influencing in the wrong direction people who otherwise would have no strong feelings either way. Since my subject is ‘Ideas that have Harmed Mankind,’ it is especially harmful systems of beliefs that I shall consider.
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バートランド・ラッセル「人類に害を与えてきた思想」(2)

 人間が相互に加える害悪,そしてそれがはね返ることによって,自分自身に加える害悪の,主要な源泉は,思想あるいは信念にあるというよりは,むしろいろいろな悪しき情熱にある,と私は考える。しかし,害をなす(有害であるような)思想や原理は,常にではないが,概して,悪しき情熱の仮面(口実)である。異端者たちが公衆の面前で焼かれた(火あぶりの刑に処せられた)頃のリスボンでは,時々,異端者のうちで,特に人を啓発するような変説(異端信仰撤回)をしたものには,炎の中に入れられる前に絞め殺すという恩恵が認められる事態が起こった。しかしこのことは,観衆を非常に激怒させ,そのため当局者たちは,懺悔した者(異端者)に観衆が私刑(リンチ)を加えるのを妨止し,当局者側で(規定通りの)焚刑(ふんけい)をおこなうのに非常に苦労したのである。犠牲者がもだえ苦しむのを眺めることが,事実,民衆の主な楽しみの一つだったのであり,それによって,彼等はいくらか単調な暮らしを活気づけることを期待したのである。こういった楽しみが,異端者を焚殺の刑に処するのは正しい行為であるという一般的な信念に,多大の寄与をしたことを,私は疑うことができない。同じようなことが,戦争についても当てはまる。精力にあふれた残忍な人々は,しばしば戦争を楽しめるものだと考える。ただし,それは,勝利した戦争であり,レイプ(婦女暴行)や掠奪にあまり邪魔が入らないという条件付きである。戦争は正しい(正義のためだ),ということを人々に納得させるに当って,このことは多大の助けとなっている。『トム・ブラウンの学校時代』の主人公であり,(英国の)パブリック・スクールの改革者だと賞讃されたアーノルド博士は,少年(生徒)を鞭で打つ罰は誤まっているという意見を持つ変人(cranks)に出あうが,その意見に対して)怒りを爆発させているアーノルド博士のとこを読めば,誰もが,博士は鞭打ちの刑を楽しんでいたのであり,その楽しみを奪われたくないと考えていたのだ,と結論を下さざるえないであろう。
I think that the evils that men inflict on each other, and by reflection upon themselves, have their main source in evil passions rather than in ideas or beliefs. But ideas and principles that do harm are, as a rule, though not always, cloaks for evil passions. In Lisbon when heretics were publicly burnt, it sometimes happened that one of them, by a particularly edifying recantation, would be granted the boon of being strangled before being put into the flames. This would make the spectators so furious that the authorities had great difficulty in preventing them from lynching the penitent and burning him on their own account. The spectacle of the writhing torments of the victims was, in fact, one of the principal pleasures to which the populace looked forward to enliven a somewhat drab existence. I cannot doubt that this pleasure greatly contributed to the general belief that the burning of heretics was a righteous act. The same sort of thing applies to war. People who are vigorous and brutal often find war enjoyable, provided that it is a victorious war and that there is not too much interference with rape and plunder. This is a great help in persuading people that wars are righteous. Dr Arnold, the hero of Tom Brown’s Schooldays, and the admired reformer of Public Schools, came across some cranks who thought it a mistake to flog boys. Anyone reading his outburst of furious indignation against this opinion will be forced to the conclusion that he enjoyed inflicting floggings, and did not wish to be deprived of this pleasure.
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知的戯言の概要(1943) n.61(完)

 そういった信仰が、冷徹な科学によってすっかり置き換えられてしまえば、恐らく世界は、その興味のいくつかと多様性を失うことであろう(Pehaps + would)。もしかすると(Pehaps)、私達は、アブセダリアンズ(Abecedarians)のことを喜ぶことを自分自身に許してしまうかも知れない。彼らは、あらゆる冒涜的な(profane 神聖を汚す)学習を拒否し、ABCを学ぶのは邪悪であると考えたために、そう呼ばれたのである。そうして、私達は、ナマケモノがノアの洪水以後どうやってアララト山からペルーまでの旅 -大洪水以降、旅行は、移動の極度の遅延によってほとんど信じられないほどになった(はずである)- ができたのか疑問に思ったイエズス会士の当惑を楽しむかも知れない。
賢明な人間は、豊富に供給される財貨(goods)を享受するだろうし、知的なゴミのようなもの(財貨)からも、 他の時代と同様、現代においても、豊富な食事(味わうもの)を見つけるだろう。
(参考:助動詞のmayの意味を使い分ける!知っておくべきポイントとは?
→ https://kimino-school.com/study/post-2660/)

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.61
Perhaps the world would lose some of its interest and variety if such beliefs were wholly replaced by cold science. Perhaps we may allow ourselves to be glad of the Abecedarians, who were so called because, having rejected all profane learning, they thought it wicked to learn the ABC. And we may enjoy the perplexity of the South American Jesuit who wondered how the sloth could have traveled, since the Flood, all the way from Mount Ararat to Peru — a journey which its extreme tardiness of locomotion rendered almost incredible. A wise man will enjoy the goods of which there is a plentiful supply, and of intellectual rubbish he will find an abundant diet, in our own age as in every other.

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知的戯言の概要(1943) n.60

私は特に1820年頃、ニューヨーク州北部の湖畔に住んでいたある女予言者を称賛している。彼女は無数の信者達に向かって、自分は水の上を歩く力をもっていると宣言し、そうして、ある朝の11時に水の上を歩くことにしようと提案した(proposed to)。決められた時刻になると、信者達が何千人も湖畔に集まった。女予言者は信者達に話しかけ、次のように言った。「皆さんは、私が水の上を歩くことができると、本当に信じていますか?」。彼らは一斉に「はい、信じています」と答えた。「それなら」・・・「私が水の上を歩く必要はありません」と彼女は宣言した。そうして、彼らは皆大いに啓発されて帰宅した(とのことである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.60
I admire especially a certain prophetess who lived beside a lake in Northern New York State about the year 1820. She announced to her numerous followers that she possessed the power of walking on water, and that she proposed to do so at 11 o’clock on a certain morning. At the stated time, the faithful assembled in their thousands beside the lake. She spoke to them, saying: “Are you all entirely persuaded that I can walk on water?” With one voice they replied: “We are.” “In that case,” she announced, “there is not need for me to do so.” And they all went home much edified.

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知的戯言の概要(1943) n.59

 しかし、(話が)真面目になり過ぎつつある(ようである)。 迷信は、常に暗くて残忍なものであるわけではない。 迷信はしばしばが人生に陽気さをつけ加える(add to)。 私はかつて、(自称)オシリス神(注:the god Osiris 古代エジプトの死と復活の神で冥界の支配者)から連絡(a communication)を受けたことがあり、彼の電話番号が書かれていた。彼は当時ボストンの郊外に住んでいた。私は彼の崇拝者仲間に加わらなかったが(enroll myself)、彼の手紙は私に喜びを与えてくれた。私はしばしば自分はメシア(救世主)だと名乗る人達から手紙を受け取ってきているが、彼らはこの重要な事実(救世主であること)を私の講演のなかで言い忘れないようにと促していた。(米国で)禁酒法が施行されていた期間、聖餐式(the communion service)はブドウ酒(ワイン)ではなくウィスキーで祝福されるべきだと主張する一派(セクト)があった。この教義(tenet)は彼らに強い酒をふるまう法的権利を与え(注:信仰の自由!!)、この宗派は急速に成長した。イングランド(英国のイングランド)には英国人は(イスラエルの)失われた十支族だと主張する一派があり、またそれよりももっと厳格な宗派があり、彼らは英国人(の源流)はエフライム族とマナセ族にすぎないと主張する。これらのどちらかの派に属する人に出会うたびに、私は他方の信奉者のふりをする(profess myself)。すると、多くの面白い議論が生まれる。私はまた、大ピラミッドの神秘的な伝承を解読しようとして(deciphering its mystical lore)、大ピラミッドを研究する人達も好きである。この問題については 大著が多数執筆され、そのうちの何冊かは著者から私に贈呈されている(贈呈していただいている)。当該書籍は、大ピラミッドが常にその本が出版された日までの世界の歴史を正確に予言しているが、その本の出版以後(の世界の歴史)について)信頼性が低くなるというのは、特異な事実( a singular fact)である(訳注:著者は、その本の出版日までに起こったことは大ピラミッドの伝承とつじつまのある解釈を施すが、出版以後はそれがかなわなくなるという皮肉か?)。以後は信頼度が低くなる。 一般的に言って、(大ピラミッド本の)著者は、(大ピラミッドが建設されて)すぐに、エジプトに戦争が起こり、それに続いてアルマゲドン(注:新約聖書「ヨハネの黙示録」16章16節に記述された、終末に行われる善と悪の最終決戦)と反キリストの到来が続くと予想するが、この頃までに非常に多くの人々が反キリスト者として認識されてしまっているため、読者は不本意ながら懐疑主義に駆り立てられる(のである)。

Outline of Intellectual Rubbish (1943), n.59

But we have been getting too solemn. Superstitions are not always dark and cruel; often they add to the gaiety of life. I received once a communication from the god Osiris, giving me his telephone number; he lived, at that time, in a suburb of Boston. Although I did not enroll myself among his worshipers, his letter gave me pleasure. I have frequently received letters from men announcing themselves as the Messiah, and urging me not to omit to mention this important fact in my lectures. During prohibition, there was a sect which maintained that the communion service ought to be celebrated in whiskey, not in wine; this tenet gave them a legal right to a supply of hard liquor, and the sect grew rapidly. There is in England a sect which maintains that the English are the lost ten tribes; there is a stricter sect, which maintains that they are only the tribes of Ephraim and Manasseh. Whenever I encounter a member of either of these sects, I profess myself an adherent of the other, and much pleasant argumentation results. I like also the men who study the Great Pyramid, with a view to deciphering its mystical lore. Many great books have been written on this subject, some of which have been presented to me by their authors. It is a singular fact that the Great Pyramid always predicts the history of the world accurately up to the date of publication of the book in question, but after that date it becomes less reliable. Generally the author expects, very soon, wars in Egypt, followed by Armageddon and the coming of Antichrist, but by this time so many people have been recognized as Antichrist that the reader is reluctantly driven to skepticism.

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