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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.5

(ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) 
<1888年4月9日 月曜>
  ・・・私は(人間の)生命が永遠であったらと(強く)願う。(I do wish I believed in the life eternal.仮定法「if I believed」の「if」が省略された形か?) というのは、人間は単なる一種の機械であり、(しかも)自分自身にとって不幸なことに(unhappily for himself),意識を与えられている(機械である)と考えることは、私をまことにみじめな気持にさせるからである(訳注:意識がなければ不幸に感じることはない)。しかし,(人間機械説以外の)他のいかなる理論神の全知全能(説)(the complete omnipotence 完全な全能) -これは科学が十分に明らかにしていると私は考える- と両立しない。こうして,私は,無神論者となるか,不死を信じない者となるか、どちらかをとるより他ない(のである)。第一のもの(無神論者)を私が採ることは不可能であるので、不死の否定を私は受けいれ、そうして私は誰にもそのことを知らせずにおく。こういった人間観は失望を与えるものであるかもしれないけれども、神が(世界の)始めに,単なる星雲状物質の塊- 恐らく宇宙のその部分に拡がっているエーテルにすぎないもの- に働きかけることによって、我々自身のような生物を、即ち,自らの存在を意識するだけでなく,ある程度まで神の神秘を推測する生物を生みだすことのできる法則を創り出すことができると考えることは、神の偉大さについての素晴らしい観念を我々人間に与える(のである)。(そうして)これら全てのことは神が(更に)まったく手を加えることなしになのである! さて,この自由意志の否定説(不存在説)がそれほど不合理か(馬鹿げているか)どうか考えてみよう。もし我々が誰かにその説(自由意志不存在説)を語れば、聞かれた人々は自分の足を蹴るか、他の何かそういったようなことをして、応えるであろう(訳:「このように、私には自由意志があります」と)。しかし,この場合も(自由に蹴っているのではなく)そうせざるをえないからである。なぜならばこの場合その人はそれをせざるを得ないことを証明するものを持っており、従ってそれがその人が足で蹴るということの動機を与えているからである。このようにして,我々が何をなす場合においても,我々は常に何らかの動機を持っており、その動機が我々を決定しているのである。ここでもまた、シェイクスビアやハーバート・スペンサーやパプアニューギニア人(パプア人/土人)との間に明確な境界線はないのである。しかし(我々の眼には)二人(=シェイクスビア及びハーバート・スペンサー)とパプア人との間の相違(差)はパプア人と猿との相違(差)ほど大きいように見える。

Chapter 3: First Efforts, n.5

(From Russell’s Diaries] Eighteen eighty-eight. Apr. 9th Monday, . … I do wish I believed in the life eternal, for it makes me quite miserable to think man is merely a kind of machine endowed, unhappily for himself, with consciousness. But no other theory is consistent with the complete omnipotence of God of which science I think gives ample manifestations. Thus, I must either be an atheist or disbeliever in immortality. Finding the first impossible, I accept the second and let no one know. I think, however disappointing may be this view of man, it does give us a wonderful idea of God’s greatness to think that he can, in the beginning, create laws which, by acting on a mere mass of nebulous matter, perhaps merely ether diffused through this part of the universe, will produce creatures like ourselves, conscious not only of our existence but even able to fathom to a certain extent God’s mysteries! All this with no more intervention on his part! Now let us think whether this doctrine of want of free will is so absurd. If we talk about it to anyone they kick their legs or something of that sort. But perhaps they cannot help it, for they have something to prove and therefore that supplies a motive to them to do it. Thus, in anything we do we always have motives which determine us. Also, there is no line of demarcation between Shakespeare or Herbert Spencer and a Papuan. But between them and a Papuan there seems as much difference as between a Papuan and a monkey.
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
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ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.4

[ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から 1888年4月2日]
 今や私は、我々哀れな人間にとって,多分,他の何よりも強い個人的関心事である問題に至っている(やってきている)。それは人間の不死の問題である。これは,それについて考えることによって私が最も失望し,最も苦痛を感じた問題である。その問題について探求する方法には2つのやり方がある。第一は、進化(論)により,人間を動物と比較する方法である(comparing man to animals)。第二は、人間を神と比較する方法である(comparing man with God)(注:「”compare to” と “compare with” との違い」:たとえば、人生を巡礼の旅やドラマ、戦いといったものと比べる(対照する)際は “compare to” を、アメリカの議会をイギリスの議会と比べる時は “compare with” を使う;パリと古代アテネを比べる時は “compare to” だが、パリとロンドンを比べる時は “compare with” を使う,とのこと/つまり,同じ種類や性質のもの同士の比較の場合は with を使う。/ちなみに、みすず書房刊の野田訳では、”compare to”の部分は「第一は、進化論により人間を動物に近いものと考えることによってである」となっている)。 第一の方法は第二の方法よりも科学的である。というのは、我々は動物についてはあらゆることを知っているが、神についてはそうではないからである。さて,まず自由意志をとりあげてみると、人間と原生動物(protozoon)との間には明確な境界線を引くことはできない,と私は考える。それゆえ、人間に自意意志を認めるなら、原生動物にもそれを(自由意志があることを)認めなければならない。これはかなり認めがたいことである。従って、もし我々が原生動物に自由意志を認めたくないならば、人間に対してもそれを認めることはできない。人間に(だけ)自由意志を認めることは可能かも知れないが、もし原形質(細胞の微細構造が知られていなかった時代に作られた言葉で、細胞の中にある「生きている」と考えられていた物質のこと)が、神の特別な摂理(導き)なしに、ただ自然の普通の過程によって(進化論が言うように)ともにやってきた -私には多分そうだと思われる- のであるならば、そう想像することは困難である。その場合,我々人間及び他の全ての生物は、ただ化学的なカによってのみ動かされ続けているものであり、樹木 -これが自由意志を持つなどとは誰も偽って主張しない- 以上の素晴らしい存在ではなく,同様の存在であり,また,もし我々がある時刻(時間)にある人に働く様々な力を、また賛否の動機(motives pro and con 肯定的な動機及び否定的な動機?)を、またある時刻におけるその人の脳(内)の状態を、十分によく知ることができるならば、我々はその人が(これから)何をするだろうかを正確に予測することができるであろう。再びまた、宗教的見地から言えば、自由意志を我々が持っていると主張することは非常な倣慢である。というのは、もちろん自由意志(の行使)は、当然のこと,神の法則を中断することだからであり.神の通常の法則によって,我々の全ての行為は、星の運行同様に、決まってしまっているからである。我々は、決して破られることなく万人の行為を決定するような法則を、神が最初に確立したと認めなければならない(leave to 任せる)、と私は考える。そうして,我々人間は自由意志を持っていないので,我々は不死ではありえないのである。

Chapter : First Efforts, n.4 (From Russell’s diary)
Eighteen eighty-eight. Apr. 2nd. I now come to the subject which personally interests us poor mortals more, perhaps, than any other. I mean the question of immortality. This is the one in which I have been most disappointed and pained by thought. There are two ways of looking at it. First, by evolution and comparing man to animals. Second, by comparing man with God. The first is the more scientific, for we know all about the animals but not about God. Well, I hold that, taking free will first to consider, there is no clear dividing line between man and the protozoon. Therefore, if we give free will to man, we must give it also to the protozoon. This is rather hard to do. Therefore, unless we are willing to give free will to the protozoon, we cannot give it to man. This, however, is possible, but it is difficult to imagine if, as seems to me probable, protoplasm only came together in the ordinary course of nature without any special providence from God. Then we and all living things are simply kept going by chemical forces and are nothing more wonderful than a tree, which no one pretends has free will, and, even if we had a good enough knowledge of the forces acting on anyone at any time, the motives pro and con, the constitution of his brain, at any time, then we could tell exactly what he will do. Again, from the religious point of view, free will is a very arrogant thing for us to claim, for of course it is an interruption of God’s laws, for by his ordinary laws all our actions would be fixed as the stars. I think we must leave to God the primary establishment of laws which are never broken and determine everybody’s doings. And not having free will we cannot have immortality.
 Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-040.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.3

 (ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年3月22日日>  この前の課題検討(exercise 課題.練習問題)では、私は、神の存在自然の斉一説(さいいつせい)及び,自然の全ての面においてある一定の法則が貫徹していることによって、証明した。そこで,この推論(推理)の妥当性(reasonableness )について探求(吟味 look into)してみよう。我々が今見ている宇宙が、一部の人たちが言うように,単なる偶然によって成長してきたと想定(仮定)してみよう。その場合、すべての個々の原子が、ある一定の条件下では、他の原子と全く同じように振る舞うと(act),我々は予想(expect 期待)すべきだろうか? もし原子が生命をもたないならば、それらが外からの統制力なしに何ごとかをなすと期待(予想)する理由はまったくない,と私は考える。他方,もし原子自由意志が備わっていると想定(仮定)するなら、我々は、宇宙にある全ての原子が結合して(いわば)一つの連邦国家のもとに結合し、しかもどのひとつの原子も決して犯すことのない理想的な法律(law 法則)を作った、という結論にいたらざるをえない。これは明らかに馬鹿げた仮説である。従って,我々は神の存在を信じざるをえない。しかし,こういう神の存在の証明法は、同時に、奇蹟やその他のいわゆる神的なカの顕現(manifestation 現れ)なるものの存在を反証する(誤りであることを証明する)ことになる。けれども,それらの可能性を反証することはない。と言うのは,法を作った者は、もちろん,法を破棄することもまた可能だからである。(また)我々は別のやり方で奇蹟の存在の反証(否認)にたどりつけるかも知れない。と言うのは、もし神が法(法則)を作ったのだとするとその法(法則)が時々改訂(変更)されねばならないのであれば、間違いなく(surely 確実に)、その法(法則)には不完全な点があるということを意味し、また、聖書には神は(世界)創造の仕事について自ら後悔した(注:「創世記」六の七:「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。」)とあるように、不完全性を神的な存在者のせいにすることは決してできないからである。

Chapter : First Efforts, n.3
Eighteen eighty-eight. March 22nd. In my last exercise I proved the existence of God by the uniformity of nature and the persistence of certain laws in all her ways. Now let us look into the reasonableness of the reasoning. Let us suppose that the universe we now see has, as some suppose, grown by mere chance. Should we then expect every atom to act in any given conditions precisely similarly to another atom? I think, if atoms be lifeless, there is no reason to expect them to do anything without a controlling power. If, on the other hand, they be endowed with free will, we are forced to the conclusion that all atoms in the universe have combined in the commonwealth and have made laws which none of them ever break. This is clearly an absurd hypothesis, and therefore we are forced to believe in God. But this way of proving his existence at the same time disproves miracles and other supposed manifestations of divine power. It does not, however, disprove their possibility, for, of course, the maker of laws can also unmake them. We may arrive in another way at a disbelief in miracles, for, if God is the maker of the laws, surely it would imply an imperfection in the law if it had to be altered occasionally, and such imperfection we can never impute to the divine nature, as in the Bible God repented him of the work.  
 Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-030.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.2

ラッセルの15歳の時の鍵付き日記帳から) <1888年3月19日>  今日は私が神の存在を信ずる理由(根拠)を書き下ろすつもりである(mean to)。まず,私は神の存在を信じており、もし自分の信条に名前をつけなければならないとすれば、私は自分を有神論者(a theist)と名乗るべきである、と言ってよいであろう。さて(Now ここで)神を信ずる理由(根拠)を見つけるに際し,私はただ科学的な議論のみを考慮に入れることにする。これは、私の立てた誓いであり、これを守り(保ち)かつあらゆる感情を退けることには大変な犠牲を私に払わせる(私に大きな負荷をかける)。神(の存在)を信ずる科学的根拠を発見するためには、我々(人間)は全ての物事の始めに戻らなければならない。もし現在の自然法則が常に働いてきたとするなら(効力を持ってきたとするなら)、現在宇宙にある(のとまったく同じ)量の物質とエネルギーが常に存在してきたことになるということを,我々は(科学的知識として)知っている。しかし、星雲仮説(the nebular hypothesis 星雲説:太陽の周囲を回る星間物質が固まって惑星ができたという説。紆余曲折があったが、結局、現在でも「新しい」星雲説が標準仮説となっている。)によると、全宇宙が未分化の星雲状の物質(注:宇宙塵のようなもの)で満たされていた時期は、遠くない過去の一時点である(注:ビッグバン理論が認められたのは,1929年のエドウィン・ハッブによる宇宙の膨張を示す観測結果の報告であり,それまでは定常宇宙が定説であった/従ってこの辺の記述はあくまでも当時の科学理論を元にした考え)。従って現在存在する物質や(様々な)カがある時に明らかに神的な力によってのみ可能な(世界の)創造(行為)があったという可能性は十分にある(quite possible)(注:キリスト教では世界は神によって創造されたとされる)。しかし,物質や力が常に存在してきたと仮に認めるとしても、物質に対するカの作用(action)を規則づけている原因はどこから来ているのだろうか? 私は、それら(物質と力)は力を統御する神的なものにみに起因しており,私は従ってそれをと呼ぶ(名付ける)。

Chapter : First Efforts, n.2 (From Russell’s Diary] Eighteen eighty-eight. March 19th. I mean today to put down my grounds for belief in God. I may say to begin with that I do believe in God, and that I should call myself a theist if I had to give my creed a name. Now in finding reasons for believing in God I shall only take account of scientific arguments. This is a vow I have made, which costs me much to keep, and to reject all sentiment. To find the scientific grounds for a belief in God we must go back to the beginning of all things. We know that, if the present laws of nature have always been in force, the exact quantity of matter and energy now in the universe must always have been in existence, but the nebular hypothesis points to no distant date for the time when the whole universe was filled with undifferentiated nebulous matter. Hence it is quite possible that the matter and force now in existence may have had a creation which clearly could be only by divine power. But even granting that they have always been in existence, yet whence comes the cause which regulates the action of force on matter? I think they are only attributable to a divine controlling power which I accordingly call God.
 Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_03-020.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第3章 最初の努力 n.1

 私は15歳の時に哲学的問題について考え始めた。その時から、3年後にケンブリッジ大学に行くまでの間、私はただひとりで(孤独に),全く素人風に考え続けた。というのは、トリニティ学寮(注:ケンブリッジ大学の学寮の一つ/「学」寮は単なる「寮」施設ではなく,住み込みで勉強するところ)に入る前の最後の数ケ月間にJ. S. ミルの『論理学』を読むまでは、哲学書をまったく読まなかったからである。私の時間の大部分は数学に費やされ、そうして数学が私の哲学的思索の試みを大いに支配したが,私の思索(思考)を駆動した(駆り立てた)情的推進力は主として宗教の根本的なドグマ(教義/教理)についての疑問であった。私が自分の神学上の(いろいろな)疑問(疑い)に注意を払ったのは、それまで宗教に慰め(comfort 精神的心地よさ)を見出していたためだけでなく、それらの疑問(疑い)を人に打ち明けたら(if I revealed them)、(それを聞いた)人々に苦痛を与え、またそれらの人々の嘲笑を招くであろうと感じたためであった。そうして,それゆえに,私はとても孤立し、孤独になった。私は自分の16歳の誕生日の直前及び直後に、人に知られないようにギリシャ文字と表音式綴り法(phonetic spelling)とを使って、自分が信ずることと信じないこと書き記した。以下は,そういった内省(reflections 熟考,省察)のなかからいくつか抜粋したものである。 <1888年3月3日>  私は(これから/今から)私の興味を引くいくつかの主題(subjects テーマ)、特に宗教に関する主題について書くことにする。私は,(私をとりまく)様々な環境(事情)の結果として、自分がその中で育てられてきた宗教のまさにその基礎について吟味しようとするに至った(至っている) 私は今私の興味をひく或る種の問題、特に宗教の問題について書くことにする。さまざまな事情の結果、私は自分がその中で育てられてきた宗教の基礎そのものを吟味しようとするにいたった。ある点においては、私の達した結論は以前の自分の信条を確証する結果となったが、他の点については、家族にショックを与えると思われるだけでなく、自分自身に多くの苦痛を与えたところの結論に、抗しがたいほどに(irresistibly)導かれた。私はごくわずかの事柄においてしか確実な結論に達しなかったが、私の意見は、確信がない場合でさえも、いくらかのことに関してはほとんど確信に近いものである。私は自分がほとんど不死を信じないことを家族に語る勇気を持っていない

Chapter 3: First Efforts, n.11 I began thinking about philosophical questions at the age of fifteen. From then until I went to Cambridge, three years later, my thinking was solitary and completely amateurish, since I read no philosophical books, until I read Mill’s Logic in the last months before going to Trinity. Most of my time was taken up by mathematics, and mathematics largely dominated my attempts at philosophical thinking, but the emotional drive which caused my thinking was mainly doubt as to the fundamental dogmas of religion. I minded my theological doubts, not only because I had found comfort in religion, but also because I felt that these doubts, if I revealed them, would cause pain and bring ridicule, and I therefore became very isolated and solitary. Just before and just after my sixteenth birthday, I wrote down my beliefs and unbeliefs, using Greek letters and phonetic spelling for purposes of concealment. The following are some extracts from these reflections. Eighteen eighty-eight. March three I shall write about some subjects, especially religious ones, which now interest me. I have, in consequence of a variety of circumstances, come to look into the very foundations of the religion in which I have been brought up. On some points my conclusions have been to confirm my former creed, while on others I have been irresistibly led to such conclusions as would not only shock my people, but have given me much pain. I have arrived at certainty in few things, but my opinions, even where not convictions, are on some things nearly such. I have not the courage to tell my people that I scarcely believe in immortality.
  Source: My Philosophical Development, chap. 3,1959.  
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ラッセル『私の哲学の発展』第2章 私の現在の世界観 n.13

 上述の理論には3つの要点がある。第一は、数学的物理学(数理物理学)において現われる実体(entities)は、この世界の素材(stuff)の一部ではなく、事象から成るものであり、かつ、数学者が便宜上の単位として取り扱われる(ところの)論理的構成物である(ということである)。第二は、我々が推論なしに知覚するものの全ては我々の私的世界に属する(ということである)。この点に関しては、私はバークリ(の説に)に賛成する。(バークリーも言うように)視覚において我々知るところの星空は、我々の内部(注:脳内)にある。我々がその存在を信ずるところの外部の星空は推論された(推論によって得られる)ものである。第三は、我々に様々な対象(の存在)を気づかせる因果(原因-結果)の線は、いくらかはいたるところに存在するけれども、砂上を流れる川のように,次第に衰えて消えて行きがちである(ということである)。それが我々がいつも全てのものを知覚してはいないという理由である。  私は右(上述)の理論が証明できるふりをするつもりはない。私の力説したいことは、この理論は -物理学の諸理論と同様に- 反証(誤っているという証拠)をあげることができないものであり、以前の理論家たちが不可解と認めた多くの問題に答を与えるものであるということである。分別ある人ならば、いかなる理論に対しても、この理論以上であると主張するとは思わない(主張しないだろうと思う)。

There are three key points in the above theory.
The first is that the entities that occur in mathematical physics are not part of the stuff’ of the world, but are constructions composed of events and taken as units for the convenience of the mathematician. The second is that the whole of what we perceive without inference belongs to our private world. In this respect, I agree with Berkeley. The starry heaven that we know in visual sensation is inside us. The external starry heaven that we believe in is inferred. The third point is that the causal lines which enable us to be aware of a diversity of objects, though there are some such lines everywhere, are apt to peter out like rivers in the sand. That is why we do not at all times perceive everything. I do not pretend that the above theory can be proved. What I contend is that, like the theories of physics, it cannot be disproved, and gives an answer to many problems which older theorists have found puzzling. I do not think that any prudent person will claim more than this for any theory.
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_02-120.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第2章 私の現在の世界観 n.12

 我々はもう一つ別のルートを通って同じ結果に接近することが可能である。我々が星空の一部を写真に映す写真乾板について考察していた時、それには写真乾板上において,非常に多数の出来事(a great multiplicity of occurrences)が伴っている(含まれている)のを見た。即ち最小限に見積もっても、その写真乾板が映しうる対象の一つに対して一つの出来事(が存在している)。(そこで)私はこう推論する。「時空」のあらゆる小さな領域において、互いに(部分的に)重なりあっている膨大な数の事象(群)が存在し、その事象(群)の各々は因果の線(causal line)によってそれより以前の時点 -通常はほんの少し前の時点であるけれども- に生じた一つの源(origin 発生源の出来事)と結ばれている(と)。写真乾板のような感知装置(a sensitive instrument)は,それがどこに置かれていようとも、それらの因果の線を発出する多種多様な対象を -ある意味で- 「知覚する」と言ってよいだろう。通常,我々は当の装置(instrument in question 問題となっている装置)が、生きている脳でなければ「知覚する」という語を用いないが、それは(それを「知覚する」というのは)、生きている脳によって占められている領域の中に起る(諸)事象の間に、ある一定の特別な関係が存在するからである(注:観測装置がとらえたものを人間が覗くと脳のなかでそれに対応した事象が起こる,つまり生きた脳とのつながりができる)。この特殊な関係の中で最重要なものは記憶である。このような特別な関係が存在するあらゆる場所に「知覚者(a percipient)が存在する」と我々は言う。我々は「精神(こころ)」を記憶の連鎖によって前後両方向に互いに結合されている事象群(事象の集合)であると定義してもよいであろう。我々(人間)はそういう事象群のひとつ -即ち,自分自身(ourself)を形成しているもの- について、世界の他の何ものについてよりも、内的にかつ直接的に知っている(注:たとえば、他人が何を考えているかわからないが、自分が今何を考えているかは自分はよく知っている,と思っている/なお,ourselves ではなく ourself 私自身=自分自身となっていることに注意)。自分自身(の身に)起こることに関しては、我々は(その出来事の)抽象的な論理的構造だけでなく、それらの特質(qualities 特別な性質)も知っている。ここで(諸)特質の意味するものは、たとえば「色」に対して「音」を特徴づけるものであり、あるいは,「緑」に対して「赤」を特徴づけるものである(注:たとえば、「肌ざわり」のようなものや「なまあたたかさ」のような質感は他人にはわからない)。これは物理的世界においては我々の知りえない種類のものである

Chapter 2: My present view of the world, n.12 We can approach the same result by another route. When we were considering the photographic plate which photographs a portion of the starry heavens, we saw that this involves a great multiplicity of occurrences at the photographic plate: namely, at the very least, one for each object that it can photograph. I infer that, in every small region of space-time, there is an immense multiplicity of overlapping events each connected by a causal line to an origin at some earlier time – though, usually, at a very slightly earlier time. A sensitive instrument, such as a photographic plate, placed anywhere, may be said in a sense to ‘perceive’ the various objects from which these causal lines emanate. We do not use the word ‘perceive’ unless the instrument in question is a living brain, but that is because those regions which are inhabited by living brains have certain peculiar relations among the events occurring there. The most important of these is memory. Wherever these peculiar relations exist, we say that there is a percipient. We may define a ‘mind’ as a collection of events connected with each other by memory-chains backwards and forwards. We know about one such collection of events – namely, that constituting ourself – more intimately and directly than we know about anything else in the world. In regard to what happens to ourself, we know not only abstract logical structure, but also qualities – by which I mean what characterizes sounds as opposed to colours, or red as opposed to green. This is the sort of thing that we cannot know where the physical world is concerned.
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
 More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_02-120.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第2章 私の現在の世界観 n.11

 このことの大部分は、ほとんど修正(変更)なしに、私が擁護したい理論(説)の実例として応用可能である。(即ち)私の知覚の世界における空間があり、また物理学における空間(の2種類)がある。私の知覚における空間の全体は、ライプニッツにとってと同様私にとっても、物理的空間の極くちっぽけな領域を占めるにすぎない。けれども,私の理論(説)とライプニッツの理論(説)との間には重要な相違があり、それは(その相違は)因果律(causality 因果説:全てのことには原因があるとする考え方)のについての異なる概念(考え方の違い)及び、相対性理論の導く諸帰結、に関係がある。私の考えでは,物理的世界の時空(space-time 相互に影響しあう一体としての時間+空間)の秩序は因果関係(causation)と密接な関係があり(is bound up with)、その因果関係はまた、物理的過程の非可逆性(irreversibility)と密接な関係がある。古典物理学においては全てのものは可逆的(注:一度起きた変化がまた元に戻ることができる性質)であった。もし(この宇宙の)物質の全ての断片を、以前と同じ速度で、(今の進行方向とは)逆向きに動かし始めたなら、宇宙の全歴史は、逆向きに(逆方向に)展開して行くであろう(注:ビッグバンにより宇宙は拡大しているが、逆向きにすればビッグクランチして最後には点となるはず)。(だが)現代物理学は熱力学の第二法則(the Second Law of Thermodynamics)を出発点として、この見方を熱力学においてだけでなく他のいかなる場合においても捨て去った(注:不可逆だということ)。放射性原子(注:radioactive atoms 放射能をもった原子/放射性同位元素:原子核が崩壊して何らかの放射線を放出する同位元素のこと)は崩壊し(disintegrate)、再結合すること(注: put themselves together again 再び元のように集まってひとつになること)はない。一般的に言って、物理的世界における諸過程(プロセス)は全て,原因と結果とを区別するような(一つ))方向(性)をもっており、この原因と結果との区別は古典物理学においては存在していなかったものである。物理的世界の時空の順序にはこの方向(性)のある因果律が含まれている(伴っている),と私は考える。あらゆる哲学者がぞっとする(find shocking 衝撃だと思う)ある意見(見解)を私が主張するのは、まさにこの理由に基づいている。即ち,その意見(見解)とは,人々の思考・思想は人々の頭の中(脳内)にあるというものである。星からの光は介在する空間を通り、視神経において撹乱を生じさせ,脳内の(一つの)出来事で終わる。私が主張するのは、脳内のその出来事が(一つの)視覚(a visual sensation)であるということである。私は,実際、-デカルトが用いたような,最も広義の意味で- 脳は思考から成っている,と主張する。これに対し,人々は次のように返答するだろう。「馬鹿を言うな! 私は顕微鏡(注:今なら電子顕微鏡)を通して脳(内)を見ることができ,また(しかも)脳が思考から成っておらず、ちょうど机や椅子と同じ物質から成っていることを見ることができる」。これは全くの誤まりである。あなたが顕微鏡を通して脳(内)を眺める時、あなたの目に見えるもの,はあなた自身の私的世界の一部である。 それ(あなたの私的世界の一部)は,自分が眺めている(注目している)とあなたが言う(ところの/対象の)脳から始まる長い因果の過程があなたのうちに生み出した結果(effect 影響/効果)であるあなたが眺めているとあなたが言う脳は、疑いもなく、物理的世界の一部分である。しかしそれ(物理的世界の一部)はあなたの経験における一所与(与件/データ)であるところの脳ではない(注:要するに、物理的世界と私的世界を混同するなかれ)。その私的世界の脳は物理的脳の生んだ一つの遠隔効果(a remote effect)である。そして、もし私が主張するように、物理的「時空」における事象の位置(location あり場所)が、因果関係によって影響される(運命にある)とするならば、(その場合には)あなたの知覚内容 -、それは眼や脳に向かう視神経における事象が起こった後に生ずるもの(である)- は,あなたの脳内にそのあり場所を位置づけられなければならない。私の見解(意見)が大多数の哲学者といかに異なるかは、ハドソン(H.Hudson)氏が「マインド」誌の1956年4月号に掲載した論文の表題を引用することによって例証できるかも知れない。彼の論文の表題は「何故我々は『我々の頭の中』に起る事柄を目撃したり観察したりできないのか」というものである。私が主張しているのは,我々は我々の頭の中で起こる事柄を目撃したり観察したりできるとともに,我々はそれ以外他の何ものをも決して目撃したり観察したりできない,ということである。

Chapter 2: My present view of the world, n.11 Most of this can be applied with little change to exemplify the theory that I wish to advocate. There is space in the world of my perceptions and there is space in physics. The whole of the space in my perceptions, for me as for Leibniz, occupies only a tiny region in physical space. There is, however, an important difference between my theory and that of Leibniz, which has to do with a different conception of causality and with consequences of the theory of relativity. I think that space-time order in the physical world is bound up with causation, and this, in turn, with the irreversibility of physical processes. In classical physics, everything was reversible. If you were to start every bit of matter moving backwards with the same velocity as before, the whole history of the universe would unroll itself backwards. Modern physics, starting from the Second Law of Thermo-dynamics, has abandoned this view not only in thermodynamics but also elsewhere. Radioactive atoms disintegrate and do not put themselves together again. Speaking generally, processes in the physical world all have a certain direction which makes a distinction between cause and effect that was absent in classical dynamics. I think that the space-time order of the physical world involves this directed causality. It is on this ground that I maintain an opinion which all other philosophers find shocking: namely, that people’s thoughts are in their heads. The light from a star travels over intervening space and causes a disturbance in the optic nerve ending in an occurrence in the brain. What I maintain is that the occurrence in the brain is a visual sensation. I maintain, in fact, that the brain consists of thoughts – using ‘thought’ in its widest sense, as it is used by Descartes. To this people will reply ‘Nonsense! I can see a brain through a microscope, and I can see that it does not consist of thoughts but of matter just as tables and chairs do.’ This is a sheer mistake. What you see when you look at a brain through a microscope is part of your private world. It is the effect in you of a long causal process starting from the brain that you say you are looking at. The brain that you say you are looking at is, no doubt, part of the physical world ; but this is not the brain which is a datum in your experience. That brain is a remote effect of the physical brain. And, if the location of events in physical space-time is to be effected, as I maintain, by causal relations, then your percept, which comes after events in the eye and optic nerve leading into the brain, must be located in your brain. I may illustrate how I differ from most philosophers by quoting the title of an article by Mr H. Hudson in Mind of April 1956. His article is entitled, ‘Why we cannot witness or observe what goes on “in our heads”.’ What I maintain is that we can witness or observe what goes on in our heads, and that we cannot witness or observe anything else at all.
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
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ラッセル『私の哲学の発展』第2章 私の現在の世界観 n.10

 (私自身の見解を)ライプニッツの見解と比較することによって、多分,私の見解を最も明確にできるだろうと思う。ライプニッツは,宇宙は(多数の)単子(モナド)から成っており、各単子のいずれも一つの小さな精神であって、それぞれの単子はこの宇宙を映し出している、と考えた。各単子は様々な程度の不正確さで宇宙を映す。最上の単子(注:複数)は(単子が映す)宇宙像において混乱が最も少ない。ライプニッツは、アリストテレスの主語述語論理(学)によって誤り導かれ、単子は相互に作用し合わないとともに、単子が同一の宇宙を映し続けるという事実は予定調和(pre-established harmony)によって説明されるべきである、と考えた。彼の学説のこの部分は全く受けいれられない。我々がこの世界を映す限りにおいて(in so far as),我々がこの世界を映すのは,外界(外部世界)が我々に及ぼす因果作用(causal action)を通してのみである(可能である)(訳注:”action”は人間の場合は「行為」だが,物が働く場合は「作用」)。しかし,彼の学説には別のいくつかの側面があり、それは私が擁護したい理論(説)とより一致している。それらの側面のなかで最も重要なもののひとつは空間に関するものである。ライプニッツにとって空間には2種類あった。(ただし,この点について、彼は決して明確ではなかった。)(即ち)各単子の持つ私的世界における空間があり、それは(それぞれの単子に与えられる)所与(与件/データ)以上の何ものをも仮定(想定)することなしに、それらの所与(与件)を分析し配列することによって知ることができる(ところの)空間である。しかし,またもうひとつの種類の空間も存在する(とライプニッツは考える)。ライプニッツは,各単子は各自の観点(視点)から世界を映しており,観点の相違は視野の相違に相似している,と言う。多くの観点を集めたものを整理したもの(arrangement)は,我々に各単子の私的世界における空間とは異なるもうびとつの種類の空間を与える。この公的空間(public space 公共空間)において、各単子は一つの点、あるいは,ともかくも,非常に小さな領域を占める。私的世界にも私的空間があってそれはその私的な観点(視点)から見ると無限であるけれども、この(私的には)無限な(空間の)全体は、その単子が他の多くの単子の間に置かれる時にはとても小さな一点に収縮する。我々は各単子の所与(与件)の世界における空間を「私的」空間と呼び、多種多様な単子の多種多様な観点の集まりからなる空間を「物理的」空間と呼んでもよいだろう。(各)単子が世界を正しく映すかぎり、「私的」空間の幾何学的諸特性は、物理的空間の幾何学的諸特性と相似するであろう。

Chapter 2: My present view of the world, n.10
I think perhaps I can best make my own views clear by comparing them with those of Leibniz. Leibniz thought that the universe consisted of monads, each of which was a little mind and each of which mirrored the universe. They did this mirroring with varying degrees of inexactness. The best monads had the least confusion in their picture of the universe. Misled by the Aristotelian subject-predicate logic, Leibniz held that monads do not interact, and that the fact of their continuing to mirror the same universe is to be explained by a preestablished harmony. This part of his doctrine is totally unacceptable. It is only through the causal action of the outer world upon us that we reflect the world in so far as we do reflect it. But there are other aspects of his doctrine which are more in agreement with the theory that I wish to advocate. One of the most important of these is as to space. There are for Leibniz (though he was never quite clear on this point) two kinds of space. There is the space in the private world of each monad, which is the space that the monad can come to know by analysing and arranging data without assuming anything beyond data. But there is also another kind of space. The monads, Leibniz tells us, reflect the world each from its own point of view, the differences of points of view being analogous to differences of perspective. The arrangement of the whole assemblage of points of view gives us another kind of space, different from that in the private world of each monad. In this public space, each monad occupies a point or, at any rate, a very small region. Although in its private world there is a private space which from its private point of view is immense, the whole of this immensity shrinks into a tiny pin-point when the monad is placed among other monads. We may call the space in each monad’s world of data ‘private’ space, and the space consisting of the diverse points of view of diverse monads ‘physical’ space. In so far as monads correctly mirror the world, the geometrical properties of private space will be analogous to those of physical space.
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
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ラッセル『私の哲学の発展』第2章 私の現在の世界観 n.9

 しかし、我々のこの世界は,全てが推論の問題(a matter of inference)であるわけではない。科学者の意見を聞かなくても,我々が知っている物事はある。(たとえば)もし,我々が暑すぎたり,寒すぎたりすれば、暑さや寒さは何からなっているかについて物理学者に尋ねなくても、我々はその事実(暑い寒い)に完璧に気づくことができる。他人の顔を見る時、我々(you)は全く疑う余地のない経験をする。しかし,その経験は理論物理学者が語るようなものを見ることからなっていない。我々は他人の眼を見る。そうして,他人もまた我々の眼を見ていると信じる。視対象(visual objects 視覚上の対象)としての我々自身の眼は、(この)世界の中の推論された部分に属しているただし,この推論は,鏡や写真やあなたの友人の証言によって,かなり疑うことのできないものになっている。(訳注:鏡で自分の眼を見ていろいろ思い巡らすような状況を考えるとよい?)視対象(視覚対象)としての自分自身の眼に対する推論は、物理学者が電子等に対して行う推論と,本質的に同種のものである。だから,もし物理学者の推論の妥当性を否定しようとするならば、我々は自分が視覚の対象としての眼を持っているという知識をもまた否定しなければならない(訳注:つまり,物理学者があなたの眼を科学的に観察することと、自分が鏡の向こうに見える自分の眼を観察することは同種の推論だということ)。ユークリッドが(よく)言っているように,これは馬鹿げている(不合理である)。(注:野田氏は、「ユークリッドの言い方をまねれば、これは背理である」と訳しているが、absurd を「背理(パラドクス)」と訳すのは感心しない。)  我々が推論なしで気づく全てのものに「所与(与件)」(data:与えられたもの,与えられたデータ)という名を与えてよいであろう。「所与(与件)」には,我々が観察したあらゆる感覚(されたもの) -視覚、聴覚、触覚等-が含まれている。(我々の)常識は、我々(人間)の感覚の多くは、我々の身体の外部にある原因のせいだとする理由があると理解する(sees reason)。常識は,常識(を持った自分)の座っている部屋が、常識(を持った自分)が眼を閉じたり眠ったりすると存在しなくなるとは信じない(注:単数形の “it”は,前後関係から,「常識(Common sense)」としか解釈できない。しかし,「常識」だけでは変な訳文になってしまうので,長いですが「常識(を持った個人)と訳しています)。常識(を持った自分)は,自分の妻や子供は自分の想像の単なる作り物(figments 虚構)に過ぎないなどとは信じない。これらすべての点で我々は(自分たちの)常識に同意するかもしれない。しかし,(我々の)常識が間違うのは、無生物の対象が、その本質において、それが(原因となって)引き起こす知覚に似ていると想定すること(場合)においてである。そのように信ずることは、蓄音機のレコードがそれの生み出す音楽と似ていると考えるのと同様に根拠のないことである。しかしながら私が主として強調したいことは、物理的世界と所与の世界との相違なのではない。けれども,私が主として強調したいのは、物理学の世界と所与(与件)の世界の間にある「相違」ではない。それどころか逆に,私が明らかにすることが重要だと考えているのは、物理学が一見そう思わせるよりもずっと多くの密接な相似が両者の間にある可能性があるということである。
Chapter 2: My present view of the world, n.9
But our world is not wholly a matter of inference. There are things that we know without asking the opinion of men of science. If you are too hot or too cold, you can be perfectly aware of this fact without asking the physicist what heat and cold consist of. When you see other people’s faces, you have an experience which is completely indubitable, but which does not consist of seeing the things which theoretical physicists speak of. You see other people’s eyes and you believe that they see yours. Your own eyes as visual objects belong to the inferred part of the world, though the inference is rendered fairly indubitable by mirrors, photographs and the testimony of your friends. The inference to your own eyes as visual objects is essentially of the same sort as the physicist’s inference to electrons, etc.; and, if you are going to deny validity to the physicist’s inferences, you ought also to deny that you know you have visible eyes – which is absurd, as Euclid would say. We may give the name ‘data’ to all the things of which we are aware without inference. They include all our observed sensations – visual, auditory, tactile, etc. Common sense sees reason to attribute many of our sensations to causes outside our own bodies. It does not believe that the room in which it is sitting ceases to exist when it shuts its eyes or goes to sleep. It does not believe that its wife and children are mere figments of its imagination. In all this we may agree with common sense; but where it goes wrong is in supposing that inanimate objects resemble, in their intrinsic qualities, the perceptions which they cause. To believe this is as groundless as it would be to suppose that a gramophone record resembles the music that it causes. It is not, however, the difference between the physical world and the world of data that I chiefly wish to emphasize. On the contrary, it is the possibility of much closer resemblances than physics at first sight suggests that I consider it important to bring to light.  
 Source: My Philosophical Development, chap. 2,1959.  
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