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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展(松下彰良 訳) 第2章 - My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell

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第2章 私の現在の世界観 n.12 - 感覚→知覚→記憶--因果の線


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 我々はもう一つ別のルートを通って同じ結果に接近することが可能である。我々が星空の一部を写真に映す写真乾板について考察していた時、それには写真乾板上において,非常に多数の出来事(a great multiplicity of occurrences)が伴っている(含まれている)のを見た。即ち最小限に見積もっても、その写真乾板が映しうる対象の一つに対して一つの出来事(が存在している)。(そこで)私はこう推論する。「時空」のあらゆる小さな領域において、互いに(部分的に)重なりあっている膨大な数の事象(群)が存在し、その事象(群)の各々は因果の線(causal line)によってそれより以前の時点 -通常はほんの少し前の時点であるけれども- に生じた一つの源(origin 発生源の出来事)と結ばれている(と)。写真乾板のような感知装置(a sensitive instrument)は,それがどこに置かれていようとも、それらの因果の線を発出する多種多様な対象を -ある意味で- 「知覚する」と言ってよいだろう。通常,我々は当の装置(instrument in question 問題となっている装置)が、生きている脳でなければ「知覚する」という語を用いないが、それは(それを「知覚する」というのは)、生きている脳によって占められている領域の中に起る(諸)事象の間に、ある一定の特別な関係が存在するからである(注:観測装置がとらえたものを人間が覗くと脳のなかでそれに対応した事象が起こる,つまり生きた脳とのつながりができる)。この特殊な関係の中で最重要なもの記憶である。このような特別な関係が存在するあらゆる場所に「知覚者(a percipient)が存在する」と我々は言う。我々は「精神(こころ)」を記憶の連鎖によって前後両方向に互いに結合されている事象群(事象の集合)であると定義してもよいであろう。我々(人間)はそういう事象群のひとつ -即ち,私自身(ourself 自分自身)を形成しているもの- について、世界の他の何ものについてよりも、内的にかつ直接的に知っている(注:たとえば、他人が何を考えているかわからないが、自分が今何を考えているかは自分はよく知っている,と思っている/なお,ourselves ではなく ourself 私自身となっていることに注意)。自分自身(の身に)起こることに関しては、我々は(その出来事の)抽象的な論理的構造だけでなく、それらの特質(qualities 特別な性質)も知っている。ここで(諸)特質の意味するものは、たとえば「色」に対して「音」を特徴づけるものであり、あるいは,「緑」に対して「赤」を特徴づけるものである(注:たとえば、「肌ざおり」のようなものや「なまあたたかさ」のような質感は他人にはわからない)。これは物理的世界においては我々の知りえない種類のものである。

 上述の理論には3つの要点がある。第一は、数学的物理学(数理物理学)において現われる実体(entities)は、この世界の素材(stuff)の一部ではなく、事象から成るものでありかつ数学者が便宜上の単位として取り扱われる(ところの)論理的構成物である(ということである)。第二は、我々が推論なしに知覚するものの全ては我々の私的世界に属する(ということである)。この点に関しては、私はバークリ(の説に)に賛成する。(バークリーも言うように)視覚において我々知るところの星空は、我々の内部(注:脳内)にある。我々がその存在を信ずるところの外部の星空は推論された(推論によって得られる)ものである。第三は、我々に様々な対象(の存在)を気づかせる因果(原因-結果)の線は、いくらかはいたるところに存在するけれども、砂上を流れる川のように,次第に衰えて消えて行きがちである(ということである)。それが我々がいつも全てのものを知覚してはいないという理由である。

 私は右(上述)の理論が証明できるふりをするつもりはない。私の力説したいことは、この理論は -物理学の諸理論と同様に- 反証(誤っているという証拠)をあげることができないものであり、以前の理論家たちが不可解と認めた多くの問題に答を与えるものであるということである。分別ある人ならば、いかなる理論に対しても、この理論以上であると主張するとは思わない(主張しないだろうと思う)。

Chapter 2: My present view of the world, n.12

We can approach the same result by another route. When we were considering the photographic plate which photographs a portion of the starry heavens, we saw that this involves a great multiplicity of occurrences at the photographic plate: namely, at the very least, one for each object that it can photograph. I infer that, in every small region of space-time, there is an immense multiplicity of overlapping events each connected by a causal line to an origin at some earlier time - though, usually, at a very slightly earlier time. A sensitive instrument, such as a photographic plate, placed anywhere, may be said in a sense to 'perceive' the various objects from which these causal lines emanate. We do not use the word 'perceive' unless the instrument in question is a living brain, but that is because those regions which are inhabited by living brains have certain peculiar relations among the events occurring there. The most important of these is memory. Wherever these peculiar relations exist, we say that there is a percipient. We may define a 'mind' as a collection of events connected with each other by memory-chains backwards and forwards. We know about one such collection of events - namely, that constituting ourself - more intimately and directly than we know about anything else in the world. In regard to what happens to ourself, we know not only abstract logical structure, but also qualities - by which I mean what characterizes sounds as opposed to colours, or red as opposed to green. This is the sort of thing that we cannot know where the physical world is concerned.

There are three key points in the above theory. The first is that the entities that occur in mathematical physics are not part of the stuff' of the world, but are constructions composed of events and taken as units for the convenience of the mathematician. The second is that the whole of what we perceive without inference belongs to our private world. In this respect, I agree with Berkeley. The starry heaven that we know in visual sensation is inside us. The external starry heaven that we believe in is inferred. The third point is that the causal lines which enable us to be aware of a diversity of objects, though there are some such lines everywhere, are apt to peter out like rivers in the sand. That is why we do not at all times perceive everything.

I do not pretend that the above theory can be proved. What I contend is that, like the theories of physics, it cannot be disproved, and gives an answer to many problems which older theorists have found puzzling. I do not think that any prudent person will claim more than this for any theory.
(掲載日:2019.05.08/更新日: )