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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.15

 記述理論はまた、「存在(existence)」の意味についても光を投じた。「ウェイバリーの著者は存在する(実在する)」が意味しているのは、「『x がウェイバリーを書いた」は『xはcである』と常に等値であるという命題関数を真とするような c の値が一つ存在する」,である (訳注:真偽を言えるのはあくまでも変数に値を入れてできあがる個々の命題であり、命題関数自体については真偽を言えない。従って、みすず書房版の次の野田訳は不適切な訳と言える。また、always は equivalent にかかっており、true にはかかっていない!! 「・・・に等値であるという命題函数が、常に真となるなるような、c の一つの値が存在する」を意味する)。 この意味における存在は、一つの記述についてのみ主張しうるのであり、分析すれば、一つの命題関数がその変項の少なくとも一つの値について真であるということの一つの事例であることがわかる。我々は「ウェイバリーの著者は存在する」と言ってよいし、また、「スコットはウェイバリーの著者である」と言ってよいが、「スコットは存在する」というのは悪しき文法である(文法上間違っている)。これは、せいぜい(at best よくても)「『スコット』という名前の人物が存在する」を意味すると解釈可能であるが、「『スコット』という名前の人(人物)」は(一つの)記述であって固有名ではない。固有名が固有名として適切に用いられる時は常に「それ(=固有名で表されるもの)は存在する」ということは文法連反なのである。い  記述理論の中心的な要点は、一つの句は、その句は分離するとまったく意味を持たなくても、一つの文章の意味に寄与するかも知れない(可能性がある)ということである。このことについて、記述の場合においては、正確な証明が存在している。(即ち)もし「ウェイバリーの著者」が「スコット」以外の何ものかを意味するとすれば「スコットはウェイバリーの著者である」(訳注:「スコット」という名前の別人)は偽となるが、これはそうではない。またもし「ウェイバリーの著者」が「スコット」を意味するとすれば、「スコットはウェイバリーの著者である」はトートロジー(訳注:「スコットはスコット」つまり、A = A で常に正しいため=恒真命題)となるが、これもそうではない。それゆえ、「ウェイバリーの著者」は、「スコット」をもまた他の何ものをも意味しない、つまり、「ウェイバリー著者」は何ものも意味しない。証明終り。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.15 The theory also threw light upon what is meant by ‘existence’. ‘The author of Waverley exists’ means ‘there is a value of c for which the propositional function “x wrote Waverley” is always equivalent to “x is c” is true’. Existence in this sense can only be asserted of a description and, when analysed, is found to be a case of a propositional function being true of at least one value of the variable. We can say ‘the author of Waverley exists’ and we can say ‘Scott is the author of Waverley’, but ‘Scott exists’ is bad grammar. It can, at best, be interpreted as meaning, ‘the person named “Scott” exists’, but ‘the person named “Scott” ‘ is a description, not a name. Whenever a name is properly used as a name it is bad grammar to say ‘that exists’. The central point of the theory of descriptions was that a phrase may contribute to the meaning of a sentence without having any meaning at all in isolation. Of this, in the case of descriptions, there is precise proof: If ‘the author of Waverley’ meant anything other than ‘Scott’, ‘Scott is the author of Waverley’ would be false, which it is not. If ‘the author of Waverley’ meant ‘Scott’, ‘Scott is the author of Waverley’ would be a tautology, which it is not. Therefore, ‘the author of Waverley’ means neither ‘Scott’ nor anything else – i.e. ‘the author of Waverley’ means nothing, Q.E.D.  Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_07-150.HTM

バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.14

 固有名と記述との間にあるもうひとつの重要な区別は、固有名はそれが名指す(名づける)何ものかが存在しなければ、一つの命題において有意義なものたりえない(意味を持たない)のに対し、記述はそういう制限にしばられないということである。マイノング(Alexius Meinong Ritter von Handschuchsheim、1853-1920) - 私はマイノングの仕事(研究)にとても敬意を抱いていたが - この区別に気づくことができなかった。「黄金の山」といったものは(現実には)存在しないけれども、「黄金の山」を論理的主語とする命題(statesment)をつくることができる、と彼は指摘した(訳注:いかなる文もつくることはできるが、ここでは真偽を決めることができる命題のことを言っている)。(そうして)彼は、我々が「黄金の山は存在しない」、と言うとき、我々が存在しないと言っている何ものかが、すなわち、「黄金の山」が、やはり何らかの意味で、存在することは明らかである、と論じた。従って、「黄金の山」は、何か影のような、プラトン的存在界に存立(subsist)しているのでなければならない。というのは、もしそうでないとすると、「黄金の山は存在しない」という我々の陳述は何の意味をももたなくなるであろうからである、とマイノングは論じたのである。実を言うと私も、記述理論に気づくまでは、このマイノングの議論(論拠)は説得力がある(convincing)と思っていた。記述理論の要点は、「黄金の山」は文法的には有意義な命題の主語でありうるにしても、そういう命題を正しく分析すれば、それはもはやそのような主語をもたない(ものになる)ということである。「黄金の山は存在しない」という命題は、(正確に分析すると/正しく分析すると)「『xは『黄金で出来ており、かつ山である』という命題関数は x のあらゆる値に対して偽である」となる。また、「スコットはウェイヴァリーの著者である」は、(正しく分析すると)「xのあらゆる値に対して、『xはウェイヴァリーを書いた』は、『xスコットである』と等値である」となる。ここには、「ウェイバリーの著者」といい句はもはや現われていない。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.14 Another important distinction between names and descriptions is that a name cannot occur significantly in a proposition unless there is something that it names, whereas a description is not subject to this limitation. Meinong, for whose work I had had a great respect, had failed to note this difference. He pointed out that one can make statements in which the logical subject is ‘the golden mountain’ although no golden mountain exists. He argued, if you say that the golden mountain does not exist, it is obvious that there is something that you are saying does not exist – namely, the golden mountain; therefore the golden mountain must subsist in some shadowy Platonic world of being, for otherwise your statement that the golden mountain does not exist would have no meaning. I confess that, until I hit upon the theory of descriptions, this argument seemed to me convincing. The essential point of the theory was that, although ‘the golden mountain’ may be grammatically the subject of a significant proposition, such a proposition when rightly analysed no longer has such a subject. The proposition ‘the golden mountain does not exist’ becomes ‘the propositional function “x is golden and a mountain” is false for all values of x.’ The statement ‘Scott is the author of Waverley’ becomes ‘for all values of x, “x wrote Waverley” is equivalent to “x is Scott”.’ Here, the phrase ‘the author of Waverley” no longer occurs.
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理-その哲学的側面」 n.13

 私は私の論拠(argument)として、「スコット」(注:Walter Scott)という名前(固有名)と、「ウェイヴァリーの著者」(注:”Waverley”はスコットの書いた小説のタイトル〕という記述との対比をとりあげた。「スコットはウェイブァリーの著者である」という陳述は、同一性を言いあらわすものであって、トートロジー(注:恒真命題/同義語反復)を言い表してはいない。国王ジョージ四世は「スコット(という名前の人物)がウェイブァリー(という小説)の著者である」かどうかを知りたいと思ったが、しかし、「スコットはスコットである」(注:恒真命題/同義語反復)かどうかを知ろうと欲したのではない(注:「AはAである」は常に正しい恒真命題)。これは(このことは)論理学を研究したことのないいかなる人もよく理解できるが、それは(そのことは)論理学者に対し一つの謎を提示する。論理学者(というもの)は、二つの句(phrase)が同じ対象を指示する場合、その一方の句を含む命題は、もう一方の句を含む命題によって常に置き換え可能であり、しかも一方の命題が真であれば、もう一方の命題も真である、と考える(あるいはこれまで考えてきた)。しかし、今我々が見たように(理解したように)、「ウェイヴァリーの著者(or日本の総理大臣)」の代わりに「スコット(安or倍晋三)」を代入することによって、真なる命題を偽なる命題に変えることが可能である。このことは、「固有名」と「記述」とを区別する必要があることを示している。(即ち)「スコット(or安倍晋三)」は「固有名」であるが、「ウェイブァリーの著者(日本の元総理大臣)」は「記述」 なのである。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.13
I took for my argument the contrast between the name, ‘Scott’, and the description, ‘the author of Waverley’. The statement ‘Scott is the author of Waverley’ expresses an identity and not a tautology. George IV wished to know whether Scott was the author of Waverley, but he did not wish to know whether Scott was Scott. Although this is perfectly intelligible to everybody who has not studied logic, it presents a puzzle to the logician. Logicians think (or used to think) that, if two phrases denote the same object, a proposition containing the one may always be replaced by a proposition containing the other without ceasing to be true, if it was true, or false, if it was false. But, as we have just seen, you may turn a true proposition into a false one by substituting ‘Scott’ for ‘the author of Waverley’. This shows that it is necessary to distinguish between a name and a description: ‘Scott’ is a name, but ‘the author of Waverley’ is a description. 
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理-その哲学的側面」 n.12

 先に言及した「記述の理論(記述理論)」は、1905年に、雑誌「マインド」掲載の私の論文「指示について(On Denoting)」のなかで初めて述べられた(ものである)。この説(理論/学説)は、当時の「マインド」の編集者にはとても馬鹿げたものと映ったため、彼は私に再考を求め、そのままで(as it stood)発表することを要求しないようにと懇願してきた。けれども、私はその説(理論)が妥当であること(soundness)を確信していたので、折れること(give way 申し出に従うこと)を断った。この説(理論)は後に一般に受けいれられ、論理学に対する私の最も重要な貢献であると考えられるようになった。確かに、現在では、固有名とそれ以外の語との区別の存在を信じない人々の側に、この理論(記述理論)に対する反発(reaction 反動)が存在している。しかし、この反発は、数学的論理学をまったく研究したことのない人々の間にのみ存在していると考えている。ともかく(いずれにせよ)、私はそういう人々の批判に、これまでまったく妥当な点を見出すことができなかった(できていない)。けれども、私は固有名についての私の理論が、一時期私が考えていたよりも、多分、少し、より困難な点をもつかもしれない、ということは認めよう。しかし、当面、そういう困難(問題)を無視し、普通に使われている日常の言語を取り扱うことにしよう。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.12 The theory of descriptions, mentioned above, was first set forth in my article ‘On Denoting’ in Mind, 1905 . This doctrine struck the then editor as so preposterous that he begged me to reconsider it and not to demand its publication as it stood. I, however, was persuaded of its soundness and refused to give way. It was afterwards generally accepted, and came to be thought my most important contribution to logic. It is true that there is now a reaction against it on the part of those who do not believe in the distinction between names and other words. But I think that this reaction exists only among those who have never attempted mathematical logic. At any rate, I have been unable to see any validity in their criticisms. I will admit, however, that perhaps the doctrine of names is a little more difficult than I thought at one time. For the moment, however, I will ignore these difficulties and deal with ordinary language as commonly employed.
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.11

(論理的矛盾の)解決策が満たすべき上記の三つの条件の第三のものに関して、私はある理論を展開したが、他の論理学者達は気に入らなかったように思われる(commend oneself ~に気に入る)。しかし、私は、その理論は今でも(理論として)正しい(sound)と思われる。その理論は以下の如くであった。私がある関数 fx の全ての値を主張する時、私の主張するところが明確(definite 確定的)であるならば、x がとりうる値もまた明確(確定的)でなければならない。即ち(that is to say 還元すれば)、x のとりうる値のある種の全体(注:totality 可能な値の全体が定まること)が存在せねばならない。もし私が今進んでその全体によって定義される新たな値をつくり出すならば、その全体はそれによって拡張されるように思われ、従って、全体に言及するその新たな値は、その拡大された全体に(も)言及するであろう。しかし、それらの値はやはりその全体に含まれなければならないので、決してその全体に追いつくことはできない。この過程は我々が自分の頭の影に飛びつこうと試みることに似ている。このことを極めて容易に、あの嘘つきのパラドクスによって例示することができる。(即ち)その嘘つきは「私の主張することは全て偽である(間違っている)」と言う。これは実際、彼のなす主張の一つであるが、しかしそれは、彼の主張(群)の全体に言及している。パラドクスが(結果として)生ずるのは、そういう(全体に関する)主張を、その主張の全体の中に含めることによってのみなのである。(そこで)パラドクスを回避するためには、我々は何らかの命題の全体に言及する命題と、そういうもの(全体)に言及しない命題とを区別しなければならないであろう。そして命題の何らかの全体について言及する命題は、決してその全体のなかの要素ではありえないのである。我々は命題の全体に言及することのない命題を、第一階の命題と呼び、第一階の命題の全体に言及する命題を第二階の命題と呼び、そのようにして無限に(ad infinitum)進むことができる(訳注:第二階の命題の全体に言及する命題は第三階の命題/型の説=タイプ理論という名称はここから来ている)。そこで今やこの嘘つきは「私は、偽である第一階の命題を主張しており、その主張は偽である」と言わなければならないであろう。しかし彼(この嘘つき)が言っている命題そのものは第二階の命題である。従って彼は決して第一階の命題を主張しているのではない。従って,彼の言っていることは単純に偽であり、従って、それがまた真でもあるという論拠(議論)は消滅する、これと全く同様の論法が、より高次のいかなる命題にもあてはまる。  あらゆる論理的パラドクスの中に、同じ理由で非難されるべき(斥けられるべき)一種の反射的な自己言及(注:reflexive self-reference/みすず書房刊の野田訳では、”refer to” 及び”self-reference”はそれぞれ「指示する」「自己指示」と訳されているが、現在ではそれぞれ「言及する」「自己言及」と訳すのが通常。「指示」よりも「言及」のほうがわかりやすい。)があるということが見出されるであろう。つまり(viz.)、ある全体のなかの要素(成員)としての、自己言及は、もし全体が既に確定されれば、その時のみ確定した意味をもつような全体に言及するなんらかのもの、を含んでいるのである。  私はこの「型の学説」(タイプ理論)が、広くうけいれられていないと告白しなければならない。しかし、それに対するいかなる反論も、私には、カあるものとは思われれなかった(今も思っていない)。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.11 As regards the third of the above three requisites which a solution should fulfil, I advanced a theory which does not seem to have commended itself to other logicians, but which still seems to me sound. This theory was as follows: When I assert all values of a function fx, the values that x can take must be definite if what I am asserting is to be definite. There must be, that is to say, some totality of possible values of x. If I now proceed to create new values defined in terms of that totality, the totality appears to be thereby enlarged and therefore the new values referring to it will refer to that enlarged totality. But, since they must be included in the totality, it can never catch up with them. The process is like trying to jump on to the shadow of your head. We can illustrate this most simply by the paradox of the liar. The liar says, ‘everything that I assert is false’. This is, in fact, an assertion which he makes, but it refers to the totality of his assertions and it is only by including it in that totality that a paradox results. We shall have to distinguish between propositions that refer to some totality of propositions and propositions that do not. Those that refer to some totality of propositions can never be members of that totality. We may define first-order propositions as those referring to no totality of propositions; second-order propositions, as those referring to totalities of first-order propositions; and so on, ad infinitum. Thus our liar will now have to say, ‘I am asserting a false proposition of the first order which is false’. But this is itself a proposition of the second order. He is thus not asserting any proposition of the first order. What he says is, thus, simply false, and the argument that it is also true collapses. Exactly the same argument applies to any proposition of higher order. It will be found that in all the logical paradoxes there is a kind of reflexive self-reference which is to be condemned on the same ground: viz. that it includes, as a member of a totality, something referring to that totality which can only have a definite meaning if the totality is already fixed. I must confess that this doctrine has not won wide acceptance, but I have seen no argument against it which seemed to me cogent.
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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 バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.10

 今なら私は(今の私なら)、問題をいくらか違った言い方をするであろう(phrase the matter)。(即ち)何らかの命題関数 -たとえばfx- が与えられるならば、この関数を「有意義」ならしめる -即ち、真あるいは偽ならしめる- xの一定の範囲の値が存在する。もしaがこの範囲の値の中にあるならば、fa は真あるいは偽である一つの命題である。ところでこのように変項xに定数 a を代入することのほかに、命題関数についてなされうるもう二つのことがある。びとつは、その命題関数が常に真であると主張することであり、もう一つは、その命題関数が時に真であると主張することである。(たとえば)「もし x が人間ならば、x は死ぬものである(死ぬべき運命を有するものである)」という命題関数は常に真である。「x は人間である」という命題函数は、時に真である(注:人間でない場合もあるため)このようにして命題関数についてなされうることは三つあることになる第一変項に定数を代入することであり、第二関数の全ての値を主張することであり(注;全て真あるいは全て偽、という主張)、第三いくつかの値、あるいは少なくとも一つの値、を(真あるいは偽であると)主張することである。命題関数そのものは、びとつの表現(expression 式)にすぎない。命題関数そのものは何も主張したり否定したりしない。同様に、ひとつの集合もひとつの表現にすぎない。それは、関数を真ならしめるような変項の値について語るための便利な方法にすぎないのである。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.10
I should now phrase the matter somewhat differently. I should say that, given any propositional function, say fx, there is a certain range of values of x for which this function is ‘significant’ – i.e. either true or false. If a is in this range, then fa is a proposition which is either true or false. In addition to substituting a constant for the variable x, there are two other things that may be done with a propositional function: one is to assert that it is always true; and the other, that it is sometimes true. The propositional function, ‘if x is human, x is mortal’ is always true; the propositional function, ‘x is human’ is sometimes true. There are thus three things that can be done with a propositional function: the first is to substitute a constant for the variable; the second is to assert all values of the function; and the third is to assert some values or at least one value. The propositional function itself is only an expression. It does not assert or deny anything. A class, equally, is only an expression. It is only a convenient way of talking about the values of the variable for which the function is true.
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.9

 技術的な詳細に立ち入ることなく、型の理論(タイプ理論)の大まかな原理(the broad principles)について説明することは可能である(注:ちなみに、みすず書房刊の野田氏の訳書では「主要原理」と訳されている。「主要」なら”main”であろう”)。タイプ理論に近づく(アプローチする)最もよい方法は、多分、「集合(class)」が何を意味するかを調査(吟味)することによってであろう。ありふれた例(homely illustration)から始めよう。(即ち)食事の終りに主人(食事に招いてくれたホスト)が、三つの異なるお菓子のなかから選ぶように言い、どれか一つまたは二つまたは三つ(全部)と、好きなように選んでくださいと促したとしよう。このとき何種類のやり方(courses of conduct 行為のコース=選択の種類)があなたに許されているか?(可能か?) あなたは三つともいらないと言うかも知れない。これは一つの選択(肢)である。あなたは(三つの中から)一つをとるかも知れない。これは三つの異なる仕方で可能である。従って、さらに三つの選択肢をあなたに与える(注:1+3でここままで計4通り)。次に二つを選ぶかも知れない。これもまた三つの仕方で可能である(注:三つの中から二つ選ぶやり方は三通りあるということ)。あるいはあなたは、三つとも選ぶことが可能である。これは最後の一つの(選択の)可能性である。このようにして、選択可能なやりかたの合計は8、即ち、23(2の3乗、以下お同様)となる(注:1+3+3+1 = 8)。この手続き(手順)を一般化することは容易である。あなたの眼の前に n個の対象物(もの)があり、この中から、ひとつも取らない、何個かとる、全てを取るというやり方(選び方)が全部でいくつあるかを知りたいと思っていると仮定しよう。あなたはその方法の数が23あることを知るであろう。論理的な言葉を使おう。(即ち)n個の要素(項目)からなる集合は、23個の部分集合を持つ。この命題は、n が無限大であってもやはり(still)真である。カントールが証明したことは、この場合においても(訳注:n が無限大であっても”) 2n(2のn乗)は、n より大であるということであった。私がやったように、これを宇宙に存在する全てのもの(things)に適用すると、(宇宙に存在する)「もの(things)」よりもより多くの「ものの集合()classes of things」がある、という結論に達する(訳注:宇宙に存在するものの総数よりも、それらの物の部分集合の数の方が多い=大きい、ということ)。従って「集合」は「もの」ではないことになる(訳注:「もの」の数なら同数にならないといけないはず)。しかし、この陳述において、「もの(thing)」という語が何を意味するかは誰も十分に知らないので、一体何が証明されたのかを正確に述べることはそう簡単ではない。私の達した結論は、集合は言語使用上の便宜にすぎないということであった。『数学の諸原理』(The Principles of Mathematics)を書いた時代に、すでに私は、集合の問題についていくらか困難を感じていた。けれども、私は、当時、今適切だと考えるよりももっと実在論的な(スコラ哲学の意味において)言葉で自分の考えを述べていた。私はその本の序文で次のように言っている。 「定義不可能なものについての論議 -それが哲学的論理学の主要部分をなす- は、問題となっている存在(entities)を、明瞭に見、かつ他人に明瞭に見させようとする努力であり、精神が赤さとかパイナップルの味とかに対してもつような種類の『直接知(直知)』(acquaintance)を、それらの存在者(注:現在のところよくわからないもの)に対しても持つにいたらしめようとすることである。しかし今の場合のように、定義不可能なものが、主として分析の過程を通じて得られる必然的な残存物である場合には、そういう存在がなければならぬと知ることの方が、そういう存在を現実に知覚することよりも、多くの場合容易である。ここには、かの海王星の発見を生んだものと似た過程がある。ただ異なる点は、最後の段階-推理された存在者を精神の望遠鏡によって探すことが、多くの場合、仕事の最もむずかしい部分であるということだ。集合の場合には、私は、集合という概念の要求する諸条件を満足するような何らかの観念を知覚することができなかった、と告白せざるを得ない。そして第十章で論じた矛盾は、何かがまちがっているということを示すが、それが何であるかを私は今までに発見できなかった。」

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.9

Without going into difficult technical details, it is possible to explain the broad principles of the theory of types. Perhaps the best way of approaching the theory is by examination of what is meant by a ‘class’. Let us start with a homely illustration. Suppose, at the end of dinner, your host offers you a choice of three different sweets, urging you to have any one or two or all three, as you may wish. How many courses of conduct are open to you? You may refuse all of them. That is one choice. You may take one of them. This is possible in three different ways and therefore gives you three more choices. You may choose two of them. This again is possible in three ways. Or you may choose all three, which gives you one final possibility. The total number of possibilities is thus eight, i.e. 23. It is easy to generalize this procedure. Suppose you have n objects before you and you wish to know how many ways there are of choosing none or some or all of the n. You will find that the number of ways is 23. To put it in logical language: a class of n terms has 23 sub-classes. This proposition is still true when n is infinite. What Cantor proved was that, even in this case, 2n is greater than n. Applying this, as I did, to all the things in the universe, one arrives at the conclusion that there are more classes of things than there are things. It follows that classes are not ‘things’. But, as no one quite knows what the word ‘thing’ means in this statement, it is not very easy to state at all exactly what it is that has been proved. The conclusion to which I was led was that classes are merely a convenience in discourse. I was already somewhat bewildered on the subject of classes at the time when I wrote The Principles of Mathematics. I expressed myself, however, in those days, in language which was more realistic (in the scholastic sense) than I should now think suitable. I said in the preface to that work: ‘The discussion of indefinables – which forms the chief part of philosophical logic – is the endeavour to see clearly, and to make others see clearly, the entities concerned, in order that the mind may have that kind of acquaintance with them which it has with redness or the taste of a pineapple. Where, as in the present case, the indefinables are obtained primarily as the necessary residue in a process of analysis, it is often easier to know that there must be such entities than actually to perceive them; there is a process analogous to that which resulted in the discovery of Neptune, with the difference that the final stage – the search with a mental telescope for the entity which has been inferred – is often the most difficult part of the undertaking. In the case of classes, I must confess, I have failed to perceive any concept fulfilling the conditions requisite for the notion of class. And the contradiction discussed in Chapter X proves that something is amiss, but what this is I have hitherto failed to discover.’  
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.8

 私が解決(法/策)を探し求めていたとき、解決(法/策)が完全に満足すべきものであるべきなら、三つの条件が満たされなければならないと思った。その第一は、絶対的に必要な条件であり、矛盾が消滅しなければならないということであった。第二は、論理的に強制的なものでないがきわめて望ましい条件であり、解決(法/策)が数学のできる限り無傷(intact)のままに残すぺきだということであった。第三は、正確に述べることは難しいが、解決(法/策)は、熟考によって、「論理的常識」といってよいものに訴えるぺきであるということであった。つまり、解決(法/策)は、最後には(最終的には)、人々が当然期待すべきであった通りのものであると思われるものであるべきであるということであった。これら三つの条件のうち、第一(の条件)は当然のことあまねく認められている。けれども、第二の条件は、今のままの(as they stand)解析学(analysis)の大きな部分が妥当と考えられないと考える大きな学派によってしりぞけられている。第三の条件は、論理的技巧(logical dexterity)に満足している人達によって重要だと見られていないたとえばクワイン教授は、その(論理的)技術(の巧妙さ)のゆえに私も大いにも感心する体系を生み出したが、それらは私には満足すべきものとは感ぜられない。なぜなら、それらは、特にこの問題のためにつくり出されたものに見え、最も賢い論理学者でも、もし当該矛盾(ラッセルのパラドクス)のことを(事前に)知っていなかったのなら考えつかなかっただろうようなものに思われるからである。けれども、この問題については莫大かつ難解な幾多の文献(論文)が現われており、私はその細かな点( its finer points.)についてはこれ以上述べないことにしよう。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.8

While I was looking for a solution, it seemed to me that there were three requisites if the solution was to be wholly satisfying. The first of these, which was absolutely imperative, was that the contradictions should disappear. The second, which was highly desirable, though not logically compulsive, was that the solution should leave intact as much of mathematics as possible. The third, which is difficult to state precisely, was that the solution should, on reflection, appeal to what may be called ‘logical common sense’ – i.e. that it should seem, in the end, just what one ought to have expected all along. Of these three conditions, the first is of course universally acknowledged. The second, however, is rejected by a large school which holds that great portions of analysis are not valid as they stand. The third condition is not regarded as essential by those who are content with logical dexterity. Professor Quine, for example, has produced systems which I admire greatly on account of their skill, but which I cannot feel to be satisfactory because they seem to be created ad hoc and not to be such as even the cleverest logician would have thought of if he had not known of the contradictions. On this subject, however, an immense and very abstruse literature has grown up, and I will say no more about its finer points.
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.7

 『数学の諸原理』(1903年出版)を終えると、私は、これらのパラドクス(ラッセルのパラドクス)の解決策を見つけ出す断固とした試みに腰を落ち着けて取り組んだ(settle down)。私はこれをほとんど私(一人)に対する挑戦であり、必要とあれば、それに答える仕事に私の残りの生涯の全てを費やしてもよいだろう、と感じた。しかし、この仕事は二つの理由によりきわめて不愉快なものであることに私は気づいた。第一に、その問題全体がつまらないものであるという印象を私に与え(struck me as)、本質的に興味をひくとは思われないことに注意を集中しなければならないのは嫌であった。第二に、取り組んだが、前進(進歩)がまったくなかった(ことである)。1903年と1904年の間ずっと、私の研究(仕事)はほとんど全てこの問題に傾注されたが、成功の痕跡はまったくなかった。最初の成功は1905年の春における記述の理論(の発見)であった。これについては間もなく(presently)述べるであろう。これは一見したところ、(取り組んでいる)(論理的)矛盾とは関係ないように思われたが、やがて(in time)予想されなかったつながりが現われて来た(わかってきた)。(そして)ついに、何らかの形のタイプ理論が(問題解決に)必須である(不可欠である)ということが、私に、全面的に明らかになった。私は『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)』で採用した特殊な形のタイプ理論を強調することはまったくしないが、何らかの形のタイプ理論なしにはパラドクスは解決できないと今でも全面的に確信している。

Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.7 When The Principles of Mathematics was finished, I settled down to a resolute attempt to find a solution of the paradoxes. I felt this as almost a personal challenge and I would, if necessary, have spent the whole of the rest of my life in an attempt to meet it. But for two reasons I found this exceedingly disagreeable. In the first place, the whole problem struck me as trivial and I hated having to concentrate attention upon something that did not seem intrinsically interesting. In the second place, try as I would, I could make no progress. Throughout 1903 and 1904, my work was almost wholly devoted to this matter, but without any vestige of success. My first success was the theory of descriptions, in the spring of 1905, of which I will speak presently. This was, apparently, not connected with the contradictions, but in time an unsuspected connection emerged. In the end, it became entirely clear to me that some form of the doctrine of types is essential. I lay no stress upon the particular form of that doctrine which is embodied in Principia Mathematica, but I remain wholly convinced that without some form of the doctrine the paradoxes cannot be resolved.  
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.
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バートランド・ラッセル『私の哲学の発展』第7章 「数学原理ーその哲学的側面」 n.6

数学の諸原理』(The Principles of Mathematics, 1903/『プリンキピア・マテマティカ(数学原理)ではないことに注意』)において,私はこのパラドクスの解答(解決策)を発見したとは言わなかった。この本の序文の中で、私は次のように言った。「非常に多くの未解決の問題(難問)を含んでいる書物を出版することに対する私の弁解は、いろいろ調べた結果、本書の第十章で論じた論理的矛盾(パラドクス)を十分に解決することや集合の本性についてよりよい洞察を得ることが、近い将来にはまったく期待できないことを明らかにしたということである。しばらくの間私に満足を与えた解決策に繰り返し誤まりを発見すること(経験)によって、私は、これらの問題は、もう少し長く考えれば生みす可能性がある,一見満足な理論に見えるいかなるものによっても(これまで)隠されてきただけのもの(問題)である,と私に思わせた。それゆえ、間違っていることがほとんど確かな何らかの学説を真であると確信するまで待つよりも、単に困難(な問題)について述べるだけにしてほうがよりよい(まし)だと思われた」。そして論理的矛盾(パラドクス)を論じたこの章の終りで私はこう言っている。「上記の論理的矛盾(パラドクス)の中には何ら特別な哲学は含まれておらず(関係しておらず)、これらの論理的矛盾は常識から直接生じており、常識のもつ何らかの仮定を捨てることによってのみ解決可能である。矛盾の上に反映する(矛盾を糧とする)ヘーゲル哲学のみが、(論理的矛盾に)無関心でいられる。なぜなら、ヘーゲル哲学は、同様な問題をいたるところに見出すからである(注:ヘーゲリアンにとって、矛盾の存在は気にならない当たり前のこと、と言ったニュアンス)。(ヘーゲル哲学以外の)他の全てに学説においては、このような直接的な挑戦は、解答を要求するが、それには、無力を告白するという痛みが伴う。けれども、幸いにも、『数学の諸原理』の他のどの部分においても、私の知る限り、上と同様な他の矛盾は生じていない」(と)。この本の巻末付録の一つにおいて私は、「型の学説(タイプ理論)」(the doctrine of types)を一つの可能な解決策として提示した。結局私は、解決がこの説によって見出されうることを確信するにいたったが、当時『数学の諸原理』を書いた時には,私はこの説を粗雑な形で展開したのみであり、その形式ではその説は不完全なものであった。当時私が達した結論は同書の最後の節に述べられている。「要するに、第十章の特殊な矛盾は型の学説(タイプ理論)によって解決されると思われるが、この学説によってはおそらく解けないと思われるところの、きわめて似通った論理的矛盾が、少なくとも一つ存在している。すなわち、あらゆる論理的対象の全体、あるいはあらゆる命題の全体が、根本的な論理的困難を含んでいる(伴っている)、と思われる。この困難の完全な解決策がいかなるものであるかを、私は(いままでのところ)発見していない。しかし、それは(人間の)推理の基礎そのものを左右する難問であるので、論理学の研究者の全てがこの間題の研究に注意を払われることを、私は心から推奨するしだいである。」
Chapter 7: Principia Mathematica: Philosophical Aspects, n.6 In The Principles of Mathematics I did not profess to have found a solution. I said in the preface to that work: ‘For publishing a work containing so many unsolved difficulties, my apology is, that investigation revealed no near prospect of adequately resolving the contradiction discussed in Chapter X, or of acquiring a better insight into the nature of classes. The repeated discovery of errors in solutions which for a time had satisfied me caused these problems to appear such as would have been only concealed by any seemingly satisfactory theories which a slightly longer reflection might have produced; it seemed better, therefore, merely to state the difficulties, than to wait until I had become persuaded of the truth of some almost certainly erroneous doctrine.’ And at the end of the chapter discussing the contradiction, I say: ‘No peculiar philosophy is involved in the above contradiction, which springs directly from common sense, and can only be solved by abandoning some common-sense assumption. Only the Hegelian philosophy, which nourishes itself on contradictions, can remain indifferent, because it finds similar problems everywhere. In any other doctrine, so direct a challenge demands an answer, on pain of a confession of impotence. Fortunately, no other similar difficulty, so far as I know, occurs in any other portion of The Principles of Mathematics. In an appendix at the end of the book I suggested the doctrine of types as affording a possible solution. I ultimately became convinced that the solution is to be found by this doctrine, but at the time when I wrote The Principle of Mathematics I had developed only a crude form of the doctrine, and in this form it was inadequate. The conclusion I came to at that time is expressed in the last paragraph of the book: ‘To sum up: it appears that the special contradiction of Chapter X is solved by the doctrine of types, but that there is at least one closely analogous contradiction which is probably not soluble by this doctrine. The totality of all logical objects, or of all propositions, involves, it would seem, a fundamental logical difficulty. What the complete solution of the difficulty may be, I have not succeeded in discovering ; but as it affects the very foundations of reasoning, I earnestly commend the study of it to the attention of all students of logic.’
 Source: My Philosophical Development, chap. 7:1959.  
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